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虚飾のアリス ‐不死の少年と白黒の吸血鬼‐  作者: 竜馬
第3章 誘蛾灯に魅入られし少女
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第3章:35 『理解不能の拳』

 ――怖い。


 肉体という概念を貫き、魂の根幹を凍えさせるこの冷たい感覚。

 皮膚を抉り、肉を削ぎ、骨を砕いて、剥き出しになった神経にスタンガンを直接ぶち込まれるような、果てしなく無慈悲な衝撃。


 ――怖い。


 数百――いや、千にも上る人間が、キサラギ・シンゴという存在に対して悪意の熱視線を向けてくる。

 それら全てが剥き出しの神経に突き刺さり、脳が沸騰しそうなほどの恐怖を、魂が歪みそうなほどの戦慄を与えてくる。


 ――怖い。


 地獄のような熱波に煽られながらも、しかし、それだけなら何とか意識を保っていられたはずだった。

 それが、再び闇の中へと逃げ込まなければならなかったのは、まるで煮え滾る溶岩を直接キサラギ・シンゴという存在に浴びせられたかと思ったからだ。


 ――怖い。


 闇の中で震えながら膝を抱え、魂を苛む恐怖を必死に忘れようと試みる。

 しかし、忘れようとすればするほど、あの恐怖は――人間の物差しでは推し量れない狂気を孕んだあの視線は、魂の奥底に焼き付き、シンゴを絶望の頂へと導こうとする。


 ――怖い。


 今までの恐怖という概念は、粉々に打ち砕かれた。

 これが本当の恐怖なのだとしたら、今までキサラギ・シンゴが味わってきたものは甘い砂糖菓子と同列だ。


 ――怖い。


 本当の恐怖を知ってしまった今となっては、もう二度と立ち上がる事は出来ない。

 そう思っていたのに――どうして、己は未だに存在しているのか。

 歪んで、捻じれて、砕け散ってしまった方がどれほど楽だったろうか。むしろ、そうなって欲しかった。


 それなのに現実は、キサラギ・シンゴは――呆れるほど強かった。


 本物の恐怖という矢を幾つも受け、その色をドス黒く変色させ、挙句の果てには幾重もの傷を付けられようとも、その心の真ん中にある芯は、決して折れる事がない。

 悪意という名の膨大な闇が流れ込んできても、その器は一滴残さず綺麗に受け止めてしまう。


 まだ傷付けと、苦しめと、慟哭しろと、表面が狂っていたとしても、根底は正常な心で全てを受け止めろと、そう言われた気がした。

 それは絶望と称さずして、何と呼べばいいのだろうか。


 ――死にたい。


 そんなささやかな願いさえ、無情にも否定される。

 ほら、聞こえる。現実を見ろと、もっと苦しめと囁く、悪意のない善意の声が聞こえる。

 逃げる事は許されない。背けた顔は、無理やりにでも向け直させられる。




 ――キサラギ・シンゴの意識は拒絶を振り回すも、その手は優しく掴み取られ、現実へと引き戻された。



――――――――――――――――――――



「――おい、起きろ!」


「っああああああああああああ!?」


 覚醒と同時に頭上から降ってきた渋みのある声に、キサラギ・シンゴは絶叫と共に跳ね起きた。

 視界がぐらつき、心魂を揺さぶられた残滓を引きずる状態では、現実へと焦点を合わせるのにかなりの苦労を要する。


「落ち付け! おいッ!」


「ぁ……は?」


 肩を揺さぶられ、力強い声によって強引に意識を現実へと引き下ろされた。

 シンゴは疑問符を浮かべながら、目の前にあった見知らぬ男の顔に首を傾げる。


「だ、誰だ……あんた?」


「俺か? 俺は龍我りゅうが。――賀茂龍我かものりゅうがだ」


「かもの……りゅう、が?」


「そうだ」


 掠れた声で問い返すシンゴに、白いロングコートを纏い、黒い髪をオールバックにした男が静かに頷く。

 それを受け、シンゴはしばし龍我の顔を呆然と見上げていたが、直後に気を失う前に受けたおぞましい記憶を思い出し、顔を青くして口を押さえた。


「ぶ……おぇぇ」


 一度蘇った恐怖は、胃をぎりぎりと万力のように締め上げ、せり上がってくる不快感にシンゴは堪らず激しく嘔吐した。

 黄色い胃液だけとなった吐瀉物を吐き出し続けるシンゴの背中に大きな手が添えられ、胃の収縮が収まるまでさすってくれる。


「おい……大丈夫か?」


「あ、ありがどうございまず……もう、大丈夫でず」


 口の中で胃液と混じり合った酸っぱい唾液を吐き出し、シンゴは口元を拭いながら青い顔を上げた。

 そんなシンゴの様子を受け、龍我は腰を上げると、シンゴに向かって手を差し出してきた。


「立てるか?」


「……は、はい」


 一瞬の躊躇の後、シンゴがその手を掴むと、力強く引き上げられた。

 踏鞴を踏みながら、膝に両手を着いて転ばないように踏ん張り、シンゴは荒い呼吸を深呼吸で無理やり落ち着ける。


「俺は……たしか」


 混濁する記憶の泥を掻き分けるように、己の身に何が起きたのかを思い出そうと記憶の奥底へと意識を潜らせる。

 そうして潜水する内に目当ての記憶に行き当たり、シンゴは目を限界まで見開いた。


「ぁ、ああ……っ!」


 シンゴを庇ったいがみが炎弾に吹き飛ばされ、その直後にテラによってシンゴも蹴り飛ばされ、そのまま気を失ったのだ。

 それと、今しがた龍我に起こされる前に一度目覚めたのも覚えている。あの時は、イレナを助けようと必死だったため、何が起きたのかはあまりよく覚えていない。


 だが、一つだけ鮮明に覚えている事がある。

 あの時の感覚を言葉にするのは難しい。しかし強引に述べるのなら、シンゴは悪意を感知した。それもかなりの高感度で、だ。


 全方位からキサラギ・シンゴという存在へと向けられる悪意を、シンゴはあの時はっきりと意識した。あれは、『死』とはまた違った苦しみ――そう、別種の地獄だった。

 だが、問題はそこではない。あれだけなら、シンゴはまだ正常な意識を保っていられたはずだったのだ。


 一つだけ、果てしなく禍々しく、どこまでも純粋な悪意を感じた。

 あれほどの悪意を人間が他人に対して抱けるなど、考えただけでおぞましい。いや、あれは本当に人間だったのだろうか。


「テラとシアが……そうだ、みんなは!?」


 あの時に感じた恐怖を再び思い出しそうになり、シンゴは強引に思考を中断。すると、真っ先に確認しなければならない、仲間の安否を忘れていた事を思い出した。

 視線を忙しなく辺りへと巡らせ、ふと壁際に紅色と藍色を見付けて視線が止まった。


「どう……なって?」


 壁際で寄り添うように肩を寄せて倒れるのは、紛れもなくテラとシアの双子だ。

 二人はボロボロで、今は完全に沈黙している。見たところ、どうやら生きてはいるようだが――。


「――あいつらは、俺がやった」


「り、龍我さんが……?」


 シンゴの横に立ちながら、龍我はどこか感情の読めない顔でテラとシアを見据えて、自分が二人を倒したと告げた。

 ここで初めてシンゴは、この男は一体何者なのだろうかと疑問を抱く。だが、その確認の優先順位は低い。なぜなら、シンゴにはまだ確認しなければならない事があるからだ。


「龍我さん! イレナとモプラ……えっと、茶髪のツインテールの子と、あと――」


 あの二人を倒したのが本当なら、彼女らがどうなったのかも知っているはずだ。そう考えたシンゴが、焦りで上手く回らない頭と舌を懸命に動かし、身体的特徴を伝えようとした。

 しかし、シンゴの配慮は不要だった。


「落ちつけ。イレナ・バレンシールとモプラ・テン・ストンプなら……あそこだ」


 そう言って龍我が指差したのは、テラとシアがいる場所とは反対側だ。

 シンゴが慌てて振り返ると、半ば倒壊した家屋――その崩れていない部分の壁にもたれかかる、イレナとモプラの姿を見付けた。


「イレナ! モプラ!」


 咄嗟に走り出したシンゴは、滑り込むようにして二人の傍で屈み込む。

 逸る鼓動と湧き上がる嫌な予感に再び吐き気を覚えつつも、二人の胸がしっかり上下しているのを見て、シンゴは安堵と共に脱力した。


「二人とも、今は眠っているだけだ」


「そうですか……よかった」


 背後の龍我の声に、シンゴはホッと胸を撫で下ろす。

 しかし、その安堵も束の間だ。シンゴはハッと顔を上げると、二人の隣を確認し、望んでいた姿が見当たらず、今度は立ち上がって周囲をぐるっと見渡した。


 戦いの傷跡が生々しく残る地面。最初に見た時とは全くの別物になった景観。そして、重なるようにして倒れ伏している人々の姿。

 その倒れ伏している人々の顔ぶれを血眼になって巡りながら、シンゴは徐々に荒くなる心臓の痛みを堪えるように胸を引っ掻くと、やがて小さく呟くように問いを発した。


「……いがみは?」


「……いがみ?」


 シンゴの口からこぼれ落ちたもう一人の仲間の名に、龍我が首を傾げた。

 そんな龍我の反応を受け、シンゴは全身から血の気が引いていくのを感じた。

 その首がゆっくりと、彼が吹き飛ばされた家屋の方へと向く。


「まさか……」


「ああ、そういう事か」


「――!?」


 シンゴの視線の先を追いかけた龍我が何やら納得を示すのを受け、シンゴはハッと振り返る。

 そして龍我の元へ駆け寄ると、その腰にしがみ付くようにして巨漢を見上げた。


いがみは……捏迷歪ねつまいいがみはどうなったんですか!?」


 捏迷歪――この場で唯一その姿を見ていない男の名だ。

 縋るような視線を向けてくるシンゴを見下ろしながら、龍我はしばしの沈黙を選ぶ。

 その居心地の悪い沈黙が嫌で、シンゴは再び口を開こうと――、


「事情は知らんが……そいつは助からなかったみたいだ」


「――は?」


 痛みを堪えるかのような表情で告げられたその一言に、シンゴの脳は理解不能を示す。

 助からなかったとはどういう意味だ。イレナとモプラしかこの場におらず、しかも二人はなぜか眠っている。そしてこの場にいがみの姿はない。

 この状況と、助からなかったという言葉が示す意味は――。


「ああ……そっか」


「どうした?」


 不意に苦笑したシンゴを見て、龍我が不審げに眉を寄せる。

 縋り付いていた龍我の腰から身体を離すと、シンゴは「いえ」と首を振り、


「たぶん、すぐに動かすと駄目だからとかで、あいつはまだあの家の中で寝かされてるんですよ」


「…………」


「たぶん傷はモプラが治したんでしょうけど、あいつはもう『フィラ』が切れてるから、足手まといにしかなりませんし。それも込みで、戦闘は終わった事にも気付かず、まだ中で隠れてて――」


「…………」


「な、何ですか、その目? 俺、何か変な事でも言いましたか?」


 無言で、どこか哀しげな目で見詰めてくる龍我に、シンゴは笑顔を引き攣らせながら問いかけた。

 そんなシンゴの問いかけに、龍我は静かに目を瞑ると、


「確かに、俺は捏迷歪ねつまいいがみを実際に見た訳じゃない。だから、そうだと断言できるような立場にはない」


「だったら……」


「――モプラ・テン・ストンプが、泣いてた」


「――っ」


 ――その一言だけで、十分だった。


 シンゴの顔がくしゃりと歪み、ゆっくりと、緩慢な動作で倒壊した家屋へと再び向き直る。

 そして足が一歩、二歩と進み、やがて駆け足で倒壊した家屋へと走り出す。


 踏み出す足が重い。吸い込む空気が重い。駆ける心臓が重い。心も、頭も、腹の中も、何もかもが重い。

 まるで泥水の中を懸命に走っているみたいだった。


「はぁ……はぁ……っ」


 倒壊した家屋の前に立ち、シンゴは荒い息を吐きながらその奥を見据える。

 この先に踏み込めば、決定的な証拠を目にすれば、きっと痛い。とてつもなく、痛い。

 そうと分かっていながらも、シンゴの足は前へと進んで――


「――あれ? もう終わっちゃった感じ?」


「――は?」


 倒壊した玄関口――その傾いた玄関扉の影から、あの飄々とした顔がひょっこりとこちらを覗き込んだ。

 絶句して固まるシンゴの前で、その男――捏迷歪ねつまいいがみは、シンゴから貰った黒い制服の汚れを払いながら、何事も無かったかのように歩み出てきた。


 そして固まるシンゴの前で立ち止まると、目の上で日傘を作って辺りを見渡し、


「うわー、こりゃ派手な事に。どんな人外バトルが繰り広げられたんだか。想像しただけで失禁ものだぜ。――な、あいぼ」


 ――次の瞬間、いがみの側頭部に巨拳が突き刺さった。


「――え?」


 頭蓋がひしゃげる音、まき散らされる脳漿と、真っ赤な鮮血。

 シンゴの眼前、空中に折れた歯を置き去りに、捏迷歪ねつまいいがみ賀茂龍我かものりゅうがの手加減なしの拳により、頭部をトマトのように破壊されて吹き飛ばされた。


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