第3章:33 『遅れて来たヒーローの末路』
イレナの顔面を狙ったテラの渾身の刺突は、突如乱入した男の手によって止められた。
裾の長い白のロングコートに身を包み、黒髪をオールバックに纏め上げた巨漢だ。その服の上からでも分かる引き締まった肉体は、見る者に純粋な圧迫感を与えてくる。
「――ッ!」
――ぎろり、と。
男の鋭い瞳に睨み付けられた瞬間、テラは確実に見た。男の背後で長い身体をくねらせる、龍の姿を。
直後、龍が睨み下ろすようにテラを見た。龍の瞳に射竦められたテラの背筋に、計り知れぬほどの怖気が一気に駆け抜けたのは、ほとんど同時だ。
そこからの判断は速かった。テラは男が掴んでいる己の剣を自ら手放すと、全力で後方へ飛んだ。
「――っぁ!」
そうして距離を取ったテラを、知らぬ間に滞っていた生理現象が津波のように襲う。
肺が思い出したかのように酸素を要求し、眼球は渇きを訴えて瞬きを望む。そして心臓は遅れを取り戻すように脈打つ速度を上げ、全身の汗腺が今更のように開いて汗が噴き出した。
「はぁ……はぁ……今の、は?」
喘ぐように空気を吸いながら、テラは顎を伝う滝のような汗を拭って顔を上げた。
こちらを鋭く見据えている男の背後を見ても、もうあの龍の姿は見えない。
「でも、確かに……」
先ほどの龍に睨まれるという光景は、テラの脳裏に完全に焼き付いて離れない。
ふと、これと似たような戦慄を『バベルの塔』で味わった事を思い出した。
その既視感に導かれ、テラは精神を削り取られて憔悴が覗く顔を、遠くで倒れ伏す少年へと向けた。
テラが蹴り飛ばして以来、打ち所が悪かったのか、一向に起き上がってこないあの少年。単純に殺しても死なず、不思議な紫紺の瞳と異常な反応速度。そしてお世辞にも逞しいとは言えないその細い身体ながらも、人間二人を容易く吹き飛ばしたその膂力。
『罪人』を自称してはいたが、テラは最初、それがただの出任せだと内心で切り捨てていた。
弟であるシアの嘘を見抜く特技も、百発百中という訳ではない。中には例外もあれば、失敗する事だってある。
しかし、あの圧倒的な力を目にし、そして実際に身を以て体験した今となっては、あれが決して妄言の類ではなかったのだと信じられる。
あの少年がどんな権威を操るのかまでは判然としないが、あの紫紺の瞳に一瞥された際にテラを襲った恐怖の奔流は、これから先、決して忘れる事が出来ないだろう。
龍に睨み殺されるのでは、という強迫観念にも似た錯覚と共に、身体が不自然に硬直したあの感覚と、今しがたあの男に見た龍の圧倒的存在感。この二つを身に受けたテラは、二つがどこか似ていると感じて、少年――キサラギ・シンゴへと視線を向けたのだ。
「いいえ、これは……」
改めて振り返って気付いた違和感に、テラは首を振って否定の言葉をこぼす。
そう、あの二種類の龍達は、一見して近いようにも感じるが、その実は限りなく遠い。
表現するなら、あの男のものは静かな大海――その圧倒的大自然の存在感を目の当たりにしたような、己よりも果てしなく強大なものに対して抱く戦慄だ。
それに対してキサラギ・シンゴのものは、暴れ狂うように乱舞する紅蓮の炎をガラス越しに見てしまったかのような、根源的な恐怖に起因した戦慄だった。
双方共に色合いも形も全く違うが、どちらも共通するのが、決して心地よいものではないという事実だ。
そんな不快感を瞳に揺らしていると、ふと気付きを得て、テラの肩がピクリと震えた。
「――! あれは……」
倒れ伏すシンゴを見詰めていたテラの目が――『ディテクション・サイト』が何かを捉え、鋭く細められた。
乱入してきた男の存在など忘れ、テラは見付けてしまったその不吉なものから目が離せなくなる。
それは本能に近いものだ。命を脅かすモノに一度結ばれた焦点を振り解くのは、並大抵の精神力では不可能である。
つまりテラの本能は、あの白いコートを着こんだ男よりも、倒れ伏す少年の奥底に垣間見た得体の知れない何かの方が、格段に危険だと判断したのだ。
「…………」
細められたテラの目に浮かぶ幾何学的な模様が、注ぎ込まれた『フィラ』に呼応して模様を幾重にも変えていく。
深く、深く、もっと深くへと――。
そうして意識を少年の奥底へとフォーカスしていくと、やがてテラの眉尻がピクリと震えた。
そして表情を険しく、その顔に浮かぶ嫌悪感を隠そうともせずに呟く。
「禍々しくて黒いモノが……二つも。これが権威の本流ですか? だとしたら、これほどまでに不快な存在はそう――え?」
少年の中に見えた得体の知れないモノにテラが顔をしかめた、次の瞬間だった。
他人の深部を覗き込むという超凡を成したその目が、驚愕に見開かれた。そしてその口は呆けたように開き、テラは絶句する。
――数秒後、その顔が恐怖で引き攣った。
「なん、ですか……その、黒い穴みたいなものは……?」
顔面を蒼白に塗り上げ、掠れた声で戦慄を言葉にする。
いつの間にかその身体は震え、怖気を感じてテラは己の肩に両手を回した。
「分からない……でも、分かる。それは……人が踏み入ってはいけない領域……っ」
「――何なんだ、お前?」
「――!?」
不意に響いた地を這うような渋みのある声に、テラはハッと我に返って振り向く。
その先では、顎を引いて睨み上げるような角度でテラに鋭い視線を飛ばす、先ほどの男の姿があった。
男は背後のイレナ、次に倒れ伏すシンゴ、倒壊した家屋、そして真っ二つに抉れた地面を順に見やり、最後にテラへと視線を戻した。
男の目に宿るのは、純粋なまでの義憤の炎だ。
「――もう一度だけ聞くぞ? お前は何だ」
「あ、貴方こそ何ですか? 急に割って入って来て、その言い草……ッ」
未だに驚愕の抜け切らないテラは、その動揺を引きずったままでいる所為か、それとも先ほどの龍の姿が脳裏にちらつくのか、対応する声は及び腰だ。
男は、そんなテラを静かに睨み付けていた目をゆっくり閉じると、
「俺は、王……いや、賀茂龍我だ」
「――ッ!」
「賀茂龍我……聞いた事もない名ですね」
男――賀茂龍我の名乗りを聞き、しかしその名に覚えがなく首を傾げるテラだったが、加茂龍我の後ろでイレナが息を呑むのを視界の端に捉えた。
どうやら知り合いらしい。それならば、この男が乱入して来たのも頷ける。
しかし――、
「貴方は、自分が一体何をしているのか分かっているのですか? それとも、先ほどの『声』を聞いていなかったと……?」
「…………」
「だんまりですか。いいでしょう、説明して差し上げます。貴方が背後に庇っているそこの女は、あちらでのびている『罪人』の協力者です。そんな彼女を庇うと言うのであれば、貴方も――」
「――気にいらねぇ」
「……は?」
眉を寄せるテラに対し、賀茂龍我はゆっくりと目を開けると、元より良くはなかった目つきをより悪化させた。
「気にいらねぇつってんだ。こんな女子供相手に、同じように女子供ぶつけて……恥ずかしくねぇのかァッ!!」
「――ッ!?」
その怒りは、決してテラへと向けられたものではなかった。そうと分かっていても、テラは後ずさる足を止められなかった。
それほどまでに賀茂龍我から迸った憤怒の圧力は分厚く、そして重い。意図せず身体が恐怖で竦んでしまうほどに、だ。
「こんなクソみてぇな事……あの人に頼まれねぇでも、俺が進んで潰してやらァ――ッ!」
指の骨を鳴らし、鬼の形相で吠えると、賀茂龍我は前へと足を踏み出した――。
――――――――――――――――――――
「……あれが、賀茂龍我」
手に握っていた剣を横に投げ捨てながら、その持ち主であるテラへとゆっくり歩み寄って行く大きな背中を見ながら、イレナはポツリと呟いた。
彼の肩書きが騎士団の副団長であるという事は、名前を聞いて初めて分かった。
賀茂龍我――『トランセル』で長く暮らす者であれば、その名は聞いた事のある者も少なからずいるだろう。
ただし、分かるのは名前だけだ。辛うじてその名から男性だと分かるが、それ以外は何の情報も存在しない、謎の人物なのだ。
それは、あまり表に出たがらず、基本的に任務で国外に身を置く事が多いためだと言われているが、その実情すら一般市民の間では曖昧だ。
しかし、それだけなら他の副団長にも当てはまる部分がいくつかある。一般的に顔も名前も知られているのは、五人いる副団長の中でもグリストア・ジャイルとシャルナ・バレンシールくらいのものだ。
あとの三人は、素性も名前も全く不明の者が二人と、名前だけが一人歩きしている者が一人といった具合だ。
そしてその名前だけが一人歩きしているという副団長こそが、賀茂龍我――団長であるあの『無刀の鬼』に勝ったという伝説的噂を持つ男の名だ。
――その伝説の男が今、イレナの目の前にいる。
「恨みはねぇ……ねぇが、どうやら引く気はないみたいだな」
「当たり前です。貴方こそ、私達の邪魔をしなければ死なずに済んだものを」
「ふっ、減らず口だな。女相手に手ぇ上げるなんざ男として最悪だが……今回は仕方ねぇ。せめてその意識……一瞬で刈り取って楽にしてやらァ!!」
龍我が吠えると同時に拳を構えるのに対し、テラが手をだらんと下げて無防備な体勢で応じた瞬間――それは響き渡った。
悲痛な嗚咽交じりの声が、倒壊した家屋から飛び出してきた少女の口から迸ったのだ。
「い、歪さんがぁ――っ!!」
その声の主へと視線が集まる。そんな視線に少女――モプラは「ひぅ」と喉を鳴らすが、その目がイレナの方へ向くと、どこか複雑そうな表情で俯いた。
やがて、その目からこぼれ落ちる涙を追うように、強く噛み締められた下唇の端から一筋の赤い線が流れた。
「ま、さか……」
モプラのその様子を見て、イレナは全てを察した。
――捏迷歪は、助からなかったのだと。
胸の奥から湧き上がってきた悲しみに、イレナは顔を伏せようとした寸前――ふと後ろへ振り返った。
そこに明確な根拠はなく、あったのは、ただ漠然とした不安と寒気だけだった。
「――え?」
イレナの真後ろ。そこには、血まみれで満身創痍のシアが、今まさにイレナへと剣を振り下ろさんとしていた。
空白に思考が染まり、イレナは死の刃が振り下ろされるのをただ呆然と見ている事しか出来なかった。
自衛は間に合わず、先ほど助けてくれた賀茂龍我は、鋭く細められた目で泣きじゃくるモプラを凝視しており、イレナの危機には気付いていない。
副団長ともあろう者が――とも思うかもしれないが、これは様々な不幸が重なった結果だったのだ。
まず、龍我は一目見ただけでモプラの抱える異質な業を見抜き、同時に少なくない動揺を受けていた。なぜなら、龍我が看破したあの業は、あそこまで肥大するには相当な地獄を見て、尚且つ狂いそうなほど激しい後悔がなければ、決して到達し得ない領域にあったからだ。
――つまり、意識が全てモプラへと向いていた。
そしてもう一つの不幸。それは、シアの用いた巧妙な気配の消し方だ。
まず、不可視の斬撃で脱出経路を作って、静かに脱出。この時シアに協力したのが、姉のテラだ。
その目の力でシアの無事を既に知っていた彼女は、なるべく己へと意識が集まるように立ち振る舞っていた。途中でイレナを倒し切り、シアの奇襲の下準備が無駄に終わるかと思われたが、残念な事に乱入者によってそれは成されなかった。
ともあれ、テラは当初の計画通り、自然体を装いながら己へと意識を集め続けた。
そしてここからがミソだ。これは初めての試みだったのだが、シアは『バイブレード・グラスプ』の効力を反転させてみるという、新たな可能性に手を付けていた。
反転するとどうなるか。シアが外部へと発する振動――つまり、音が消えるのである。
厳密には小さくしただけなのだが、それでもほとんど無音だ。この距離では、さすがにモプラの聴覚でも捉え切るのは不可能だった。
――そうした賭けをも乗り越え、シアは姉以外には気取られず、イレナの後ろを取る事が出来たのだ。
「ぁ――」
イレナの口から小さな声が漏れた。そしてその声を掻き消すほどの死の無音が、イレナの身体を真っ二つにせんと振り下ろされ――
「――ッ!?」
その寸前、シアが慌てたようにその場から飛び退いた。
遠ざかる死の気配と入れ替わるように、生の風切り音を響かせながら、それは飛来した。
そして、イレナが蹲る石畳のすぐ目の前、本当にギリギリの位置――今しがたまでシアがいた場所に、拳大の石片が轟音と共に突き刺さった。
水面に石を斜めから叩き付けた際に弾ける波のように、そのイレナを生かそうとする想いが込もった石片は石畳を爆ぜさせ、巨大な石の波を放射状に刻んだ。
とんでもない威力を誇っていた事が容易に窺えるその石片――そこに込められた、生きろという力強いメッセージを感じ、イレナはハッとして投擲元へと顔を向けた。
そんなイレナの顔に浮かぶのは希望の色だ。なぜならば、イレナの予想が正しければ、これを投じたのは彼以外考えられないからだ。
そんなイレナの視線に遅れ、全員の視線がそちらへと向けられた。
――視線が交差する位置で、今まで倒れ伏していた人影が立ち上がっていた。
ゆらゆらとふら付きながら、投擲の余韻を見せるその立ち姿。そう、彼が――キサラギ・シンゴがイレナを助けてくれたのだ。
そして今しがたの砲弾のような投擲から察するに、またあの男の力を発現させた様子。しかし、この状況下で個人的な感情で嫌悪を示すほど、イレナも子供ではない。
むしろ今は、希望の方が強く感じられる。
自然とイレナの口元には笑みが浮かび――次にこぼされた一言に、笑顔が氷付いた。
「――怖い」
「――え?」
「あ……嫌だ……怖い! 何だこれ……こわ……怖い怖い怖いィ!?」
「シンゴ――!?」
突然「怖い」と呟いたかと思えば、頭を抱えてその場に膝を着き、狂乱したように頭を振り乱し始めたシンゴ。
その奇行に、立ち上がったイレナが思わず駆け寄ろうとするが――、
「ひっ!? こわ……お前……お前来るなぁッ!! 来るぁ怖ぁぁ――ッ!?」
イレナが走り始めると同時に、シンゴは左目だけが紫紺に染まった血走った目を見開き、その場から後ずさりながら絶叫した。
その怒声を受けたイレナは驚いたように立ち止まると、困惑と不安に瞳を揺らし、届かないと知っていながらもその手を伸ばした。
「あ……あたし――」
「来るなつってんだろぉ!? お前が一番怖いんだよぉぉ!!」
イレナを指差し、唾を飛ばしながら吠えるシンゴ。そのまま怯える子供のように二の腕をさすり、やがて奇声を迸らせながら頭髪を毟り出す。
次には嘔吐し、額を地面に打ち付け、やがてこちらに背を向けると、這うようにして逃げ出し始めた。
「怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖いこわ――――」
延々と恐怖を言葉として吐き出し続け、やがてキサラギ・シンゴは電源でも落ちたかのように頭を地に落とした。
「――――」
――イレナを救った、遅れて来たヒーロー。彼は直後に狂乱に呑まれ、やがてその活動を停止させたのだった。




