第1章:7 『望まぬ再会』
『起きろ』
唐突に、闇に閉ざされた意識の中に『声』が響いた。
その『声』に意識を揺さぶられ、キサラギ・シンゴはゆっくりと覚醒する。
くっ付いてしまったかのように重い瞼を苦労して持ち上げる。
「…………?」
ぼやけた視界が徐々に像を結ぶ。
すると、目の前に何かいるのが分かった。
小さなリス。そう表現するのが妥当だろうか。
その小動物は首を傾げながらシンゴを見上げ、鼻をひくひくさせている。
シンゴが無言でその小動物を眺めていると、突然その小動物はぴたりと動きを止め、次いで首を横に向ける。
その時間、僅かに一瞬。しかし、その短い間に何かを感じ取ったのだろうか。小動物は脱兎の如く身を翻すと、その場から逃げるように駆け出す。
呆然とその後ろ姿を見送る。小動物に視線を固定していたせいもあり、小動物を追って視野が広がる。
首を動かすのが億劫だったこともあり、視線だけを動かせる範囲で辺りにさまよわせる。
「こ……こ、は……」
見知らぬ森の中だった。
掠れた疑問の声を零しながら、シンゴは体を動かそうとし、それができないことに気付いた。
徐々に明瞭になりつつある意識を己の体へと向ける。
腕に力を入れようとして、何かに邪魔された。
見れば、シンゴの体は縄でぐるぐる巻きにされており、背中には円柱型の堅い感触がある。場所を考慮すれば、シンゴは木に巻き付けられているのだろう。
「…………ッ」
捕まっている。
そう認識した瞬間、シンゴの意識は冷や水を浴びせられたように数段飛ばしで覚醒した。
そして、不可解な現状に疑問の声を零す。
「なん、だよ……これ?」
何故、己は縛られているのか。何故、己はこんな所にいるのだろか。
次々と湧き上がってくる疑問に、シンゴは気を失う前の記憶を掘り返そうと苦心する。
やがて、一つの取っ掛かりに指が触れた瞬間、記憶が濁流のように湧き出た。
「そうだ……たしか、水浴びをしに川に行って……」
そう、川に行ったのだ。
そしてカズと会い、川で心身の汚れを流した。そして茂みから現れたユリカに――
「――ッ! ユリカ!?」
背後からかけられた男の声。後頭部に走る衝撃。真っ赤に染まった視界の中に倒れ込む少女の姿。
――全て、思い出した。
「ぐっ……く、そ……ッ!!」
己を縛り付ける縄から逃れようと身をよじって暴れるが、縄はシンゴの体に喰い込み痛みをもたらすだけで、一向に抜け出せる気配はない。
それでも暴れ続けるシンゴだったが、ふと隣から小さな呻き声が聞こえ、跳ね上げるように顔をその声のした方に向ける。
そこには――、
「ユリカッ!!」
シンゴが縛られた木のすぐ近く。そこに生える木の根元に、シンゴと同様に縛られ身動きを封じられたユリカ・フレイズの姿があった。
思わず安堵の吐息と笑みが零れるが、それはすぐに霧散した。
「……ユリカ? おい……ユリカ!!」
ユリカの頬は赤く上気し、苦しそうに浅い呼吸を繰り返している。額には玉のような汗が浮かび、歯の根が合っていないのか、その小さな唇からはカチカチと歯を打ち鳴らす音が聞こえてくる。
どうやら生きてはいる様子。その事実に安堵するが、やはりユリカの苦しそうなその状態が気がかりだ。
シンゴは再度ユリカに呼びかける。
「ユリカ! しっかりしろ! 俺の声が聞こえるか!? ユリカ!!」
「ぅ……し、んご……?」
「――――!!」
シンゴの必死の呼びかけのかいがあったのか、ユリカの瞼が震え、ゆっくりと開かれる。
そして、ユリカは視線だけを隣のシンゴに向け、安堵するようにほにゃりと相好を崩した。
そんな彼女の様子に思わず笑みが零れるが、すぐに真剣な表情で上書きする。
「ユリカ……お前、大丈夫か? すげえ辛そうだぞ。一体、何があったんだ?」
シンゴの呼びかけに、ユリカは薄く開いていた瞼を閉じ、消え入りそうな声で答える。
「わか……んない。ユリカ……も、目がさめたら……こんなだった」
たったこれだけのやり取りでさえ、ユリカは苦しそうだった。
無茶をさせてはいけないと考え、シンゴはユリカを安心させるように声音を少し明るいものに変え、
「そっか……無理させて悪かった。あとのことは俺に任せて、ユリカは少し休んでろ!」
シンゴの声にユリカはこくりと小さく頷くと、先ほどから頑張って持ち上げようとしていた瞼からふっと力を抜き、すぐに規則正しい寝息を立て始めた。
その様子を見届け、シンゴは改めて自分たちのいる場所に視線を巡らせる。
――何故、こんな状況になっているのだろうか。
「落ち着け……こういうときは、まず状況の整理からだ」
シンゴたちがいる場所は、おそらくどこかの森の中。当然シンゴはこの場所に見覚えはない。もしかしたらユリカなら知っているかもしれないが、さっきの今で彼女をすぐに起こすのは忍びない。
故にシンゴは、この場所を知っているかというユリカへの確認は後回しにする。そして同時に、そのユリカの状態へと意識を向ける。
パッと見では、風邪の症状に近いだろうか。しかし、安易に判断するのはよくない。
以前テレビで見たことがあるが、風邪は一般的にウイルスが原因となっている。
だとすれば、ユリカのこの症状をシンゴの知っている風邪と同一に捉えるのは早計だ。
何故なら、存在するのかどうかまだ分からないが、この世界のウイルスがシンゴの居た世界のウイルスと同様のものだとは限らない。いや、むしろ違うと判断した方がいいだろう。
この世界のウイルスは、この世界の環境に適応した進化をしている。元の世界とこの世界とでは、当然のことながら環境の差異が少なからずあるだろう。なら、ウイルス自体も全くの別物であると考えるのが妥当である。
となれば、その症状にも違いが出てくるのは必然である。
一刻も早く適切な治療を施さなければ、命に関わる可能性だって十分に有り得るのだ。
「なら……」
シンゴは己の中で、ユリカのこの症状を改善させることを最優先事項に設定する。
そうなると、次に気がかりなのがタイムリミットだ。
現在時刻は夕時。辺りは燃えるような紅色に染められている。
平素なら感動の一つでも覚えただろうが、現状この光景はシンゴに焦燥感を与えてくる。
記憶が途切れているのは早朝。そして現在の時間帯から見て、最低で半日。最悪で一日以上が経過していることになる。
「どっちにしても、あんま悠長に構えてらんねえってことは確かだな……」
声に出して確認し、シンゴは顔を歪めて歯ぎしりする。八方塞がりもいいとこだった。
それに、シンゴたちをここまで連れ去り、そして縛り付けた“誰か”がいるはずだ。
今は姿が見当たらないが、いつ戻ってくるか分からない。誰もいない今のうちに、なんとしても脱出したい。
どうする、どうする、どうする、どうする、どうする、どうする――。
目を閉じ、必死に脳を回転させる。
制限時間の分からないタイムリミット。いつシンゴたちをここに連れてきた“誰か”が戻ってくるのかという、これも明確な期限が分からないプレッシャー。
自然と思案するシンゴの足が、焦りと重圧から貧乏ゆすりを始める。
「考えろ……何か……何でもいい……あるはずだ……考えろ、俺……考えろ……ッ」
未だかつてないほどに脳を酷使する。しかし、その成果は一向に上がらない。
ゆする足のリズムが増し、その振れ幅も増す。いわばこれは、シンゴの心を映す鏡だ。
シンゴの口からぎりぎりと歯ぎしりする音が漏れ出す。しかし、本人はそれに気付けていない。
思考の海に沈むシンゴの耳に、不意に自分の名を呼ぶ声が滑り込んだ。
「し……ん、ご……」
「――――!?」
その弱々しい声の主――ユリカの方へと慌てて振り向く。ユリカは目を閉じたまま、呻くように呟いた。
「あ、せっちゃ……だめ」
「――――ッ」
そう一言だけ伝えると、ユリカは力尽きたようにうなだれ、再び静かな寝息を立て始める。
今しがたユリカからかけられた言葉が、頭の中でぐるぐる回る。気付けば、いつの間にか顔が嫌な汗でびっしょりになっていた。
「俺は……どこまで馬鹿なんだ……ッ!!」
自分の愚かさに本当に嫌気が差す。一体何度この少女に助けて貰えば、何度心を支えて貰えば気が済むのだろう。
本来なら、シンゴが支えなければならない状況なのにだ。
シンゴは深く空気を吸い、長く吐き出す。そして――、
「ああッ!!」
思い切り頭を後ろに振り、もたれかかる木に後頭部をぶつけた。
じんじんとした痛みが後頭部で爆発する。シンゴは目尻に涙を浮かべながら、その痛みで強引に意識を切り替える。
「と、とにかく、今は俺にできることを……」
こんな木に殴られても嬉しくない。殴られるなら、隣の少女にやって貰わなければならない。約束したのだ。スタートの合図を貰うと。一方的な要求だったが、今はそれを道しるべにし、足掻く。
「……そういや俺、後頭部を殴られて気を失ったような――ってか、あれ? もう痛くない……」
気を失う寸前の記憶。確か己は、後頭部を何者かに強打されたはずだ。
生半可な威力ではなかった。頭蓋にヒビが入っていてもおかしくないほどだった。それなのに、同じ部位をぶつけても痛みは今の衝撃のみ。そしてその痛みも、気付けば既に消えていた。
「いや、そんなことは後回しだ……」
シンゴはかぶりを振ると、意識を現状打破の案を絞り出すための思考に回す。
だが、タイムリミットだった――。
「よお、起きたか?」
「――――ッ!?」
ぞくりと、背筋に冷たい何かが駆け抜ける。
知っている。この声は、シンゴに『死』の恐怖を植え付けた“あいつ”の声だ。
そして、実際に聞いて思い出した。あの川で背後からかけられた声。あれも、同一のものだった。
呼吸が浅くなる。動悸がうるさい。気持ち悪い汗が顎を伝い、地面に落ちる。
シンゴはゆっくりと顔を上げ、眼前に佇む人物を見上げた。その男は――、
「……ヒィース」
一度、シンゴを死の淵に突き落とした男だった。
――――――――――――――――――――
ヒィースがこちらに向かってゆっくり歩いてくる。
「お前……かよ……ッ!」
「ああ」
なんてことない――といった様子で答えるヒィースに、シンゴは自分の置かれた立場も忘れて吠える。
「何でこんなことしやがんだ!? 俺たちが――いや、少なくともユリカは関係ねえだろうがッ!!」
歯を剥き出しにして眼前の男を睨み付ける。しかしヒィースは、そんなシンゴの威圧をどこ吹く風と受け流し、
「何故、そう決め付ける?」
「…………ッ」
ニヤリと口の端を吊り上げ、ヒィースが楽しそうに言い放つ。
シンゴが奥歯を噛み締めるのを眺め、くつくつと楽しそうに喉を鳴らす。――が、ヒィースは突然その笑みを引っ込めると、ぞっとするような無表情を纏い、
「お前には聞きたいことがある。そこのガキは一緒にいたから連れてきた。どっかの変態にでも売れば金になるからな」
「……ッ!! この、クズ野郎がッ」
シンゴの絞り出すような罵倒。しかしヒィースはシンゴの罵倒を聞き流すと、見るものが見たら失神するような恐ろしい笑みを浮かべた。
ヒィースはその巨体を折り曲げ、シンゴの眼前にずいっと顔を近付ける。そして、ぎらぎらした目で楽しそうに告げた。
「お前は……人のことを心配してる場合か? これから楽しい、それはもう脳髄が震えるほど楽しい夜が……待ってんだぞ?」
「ひ……」
思わず、シンゴの口から情けない声が漏れる。
理解してしまったから。これから己の身に起こる、想像することさえ忌避してしまう、そんな絶望が――。
血の気が引き、体が『死』の恐怖を思い出して小刻みに震え出す。
顔を真っ青にするシンゴを見て、ヒィースは「お?」と眉を上げると、次いで吹き出した。
「分かり易い反応しやがる! いい面だぜ、クソガキぃ。お前にはその負け犬面がよぉく似合ってる。……だが、まだここは“底”じゃねえぜ?」
日が山の向こうに沈み始め、辺りが薄い闇に覆われる。同時に、木の影がヒィースの顔を暗く染める。
まるで、シンゴが感じているヒィースへの印象を、律儀にも世界が現実にしてくれたかのようだった。
「さて……」
そう呟き、ヒィースは腰に下げている剣の柄を握り、わざとシンゴに見せ付けるようにゆっくりと抜き始める。
夕日の残り火を浴び、刀身が血のように赤く染まる。まるで、“あの時”の光景を焼き直しているかのようだった。
カチカチと鳴る音が、自分の口から漏れ出ていることだと気付いたときには、既に飲まれていた。
脳裏によぎるのは、自分の腹から伸びる剣。地面を濡らす大量の血。神経を焼く耐え難い激痛と熱。そして、徐々に体を蝕んでくる、『死』の冷たさ――。
「――ぅぶ、おえぇ……」
「……ちっ、吐きやがった。根性なしめ」
ヒィースは、足元に嘔吐したシンゴに舌打ちする。
ヒィースはシンゴの嘔吐が収まるのを待ち、その髪を掴んで無理やり顔を上げさせる。そして顔をずいっと近付け、抑え難い激情を宿した目でシンゴを睨み付けた。
「答えろ。お前があの村に来るときに見たっていう死体……ヨークを誰が殺した?」
『ヨーク』という知らぬ名を持ち出してきたヒィース。その名を口にした際、眼前の男から発せられる憎悪に似た黒い激情が勢いを増したのを感じた。
シンゴは憔悴した顔で、酸っぱい味のする唾を吐き出して答える。
「知ら、ねえよ……俺は、偶然見ただけで、誰が殺したとかそんな――あ?」
言葉が途中で疑問に変わる。理由は簡単だ。ヒィースが手に持っていた剣で、シンゴの肩を突き刺したのだ。
「ぎ、がぁぁああああああああああッッ!?」
体に縄が食い込むのも厭わず、暴れる。
――痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛いぃぃ!!!!
許容することのできない痛みが熱と電流となり、肩を中心にシンゴの体を駆け巡った。
悶えるように浅く速い呼吸を繰り返す。頭の中が真っ赤に染まり、神経が絶叫する。
「嘘はいけねえ……そう、親に教わらなったか?」
告げると同時に、ヒィースは剣を引き抜いた。
――再び激痛。
シンゴは頭を振り乱し、涎と涙を撒き散らしながら苦しむ。
神経をやすりでなぞられたような激痛が、体の中で暴れ回る。
無理だ。これは、駄目だ。
とても人が耐えられるようなものではない。
許容できない。受け止めきれない。抗えない。
これは最早そういう段階にない。
――“それ”は、シンゴが意識を手放そうとした直前に起こった。
「――なに?」
悶え苦しむシンゴの様子をニヤニヤした顔で眺めていたヒィースが、目を見開く。
「あ……ぎぃ……が……あ?」
落ちかけていた意識が不意に浮上し、シンゴは疑問の声を上げる。
シンゴは生気の抜けた青い顔で己の肩を見下ろす。――そんな動作さえ、今は可能となっていた。
視線の先――肩の傷口から何やら煙が立ち上っており、それはものの数秒で消えた。
同時に気付く。あの狂ってしまいそうなほどの激痛が、熱が、苦しさが、いつの間にか消えていた。
改めて肩に視線を落とすと、そこにあったはずの傷口は服の穴のみを残し、綺麗に消えていた。
突然の現象に困惑して固まるシンゴ。そんな彼の眼前で、ヒィースがたじろぎながら立ち上がる。
そして、細めた目でシンゴの“目”を見やり、忌々しげに呟いた。
「その、右目……やっぱりそうか。頭かち割ったはずが、こうして普通に話してられる時点で何か怪しいとは思っていたが……てめえも、あの女と同類か」
「……同、類……?」
自分の目を自分で見るなどできるはずもなく、シンゴは憔悴して掠れた小さな声で疑問を零す。
「――――?」
不意に、違和感に気付いた。
既に夕日は完全に沈み、辺りは闇の帳が降りている――はずだった。
だが、どういう訳か、シンゴには“見えた”。
暗いのは分かる。認識できる。しかし、そのうえで“見える”のだ。それも、木々の細部に至るまで、“鮮明”に。
それに、違和感はそれだけではない。“見える”のは“右目”だけで、左目は普通に闇に塞がれて何も映していない。
一体、自分の目はどうなってしまったのだろうか。
そんな疑問が頭の中に浮かぶが、すぐに吹き飛んだ。何故なら――、
「い゛っ――あ゛あ゛ぁぁあああああああああッッ!?」
先ほどと同じ部位に鋭い激痛。
涙を流しながら、ひたすら絶叫する。
自分の声がどこか遠くに聞こえるような感覚の中、シンゴは不揃いな視界で肩の先に伸びる剣――その柄を握るヒィースを見やる。
その顔は、まるで最高のおもちゃを買って貰えた子供のように、歓喜の色に歪んでいた。
口の端を裂きながら、ヒィースは興奮した声で吠える。
「おいおい……おいおいおい!! 死なねえようにする手間が省けたじゃねえかぁ! 『吸血鬼』なら早々にくたばるこたぁねえだろ? なあ!? さっさとさっきの質問に答えてくれぇ。俺もこんなことするのは心苦しいんだって……」
「だ、から……知ら――ぎぃッ!?」
シンゴの言葉を最後まで聞くことなく、ヒィースは剣を引き抜いた。
そして、煙を上げて蒸発する、剣に付着したシンゴの血液を舌で舐め取ると、そのままだらんと見せ付けるように垂らす。涎と共に蒸発するシンゴの血液をだらだらと垂らしながら、くしゃっと微笑む。
「ここはぁ誰も人が寄り付かねぇぇ。時間も、たぁっぷりある。俺は待つのは嫌いじゃねぇぇ。ゆぅっくり……吐かせてやるよぉ。なぁ……おぉぉいッ!?」
完全に日が沈み、闇に閉ざされた森の中に、狂笑と絶叫が響き渡る。
本格的な夜が始まろうとしていた――。