第3章:22 『終わりに抗う者達』
赤い絨毯の上にぶちまけられた、かつてキサラギ・シンゴと呼ばれていた肉片は、本来その身に宿っている吸血鬼の再生能力を発揮する事無く、完全に沈黙していた。
その肉片の前で、この惨状を生み出した張本人である、藍色の髪を揺らして吐息をこぼすシアが、静かに告げた。
「一体何の『大罪』を身に宿していたかは知らないが、なんとも呆気ない結末だったな。――愚物としては相応しい死に様だ」
「そんな……相棒」
目の前で行われた惨殺に、捏迷歪は右腕の痛みも忘れて呆然と呟いた。
その後ろでは、モプラ・テン・ストンプが嗚咽を漏らしてすすり泣く音が聞こえる。
「シア、彼はどうやら、吸血鬼でもあったようですよ〜」
「ノーミ様……本当ですか?」
「ええ、右目だけでしたが、確かに吸血鬼特有の紅い目をしていましたので〜」
「なるほど……という事は、テラの剣を受けて生き延びたのも、その吸血鬼の力のおかげ、という事ですか」
「片目だけが深紅に染まっていた事から、彼は何かしらイレギュラーな存在だったのかもしれませんね~。その仮定通りなら、普通の吸血鬼であれば死んでいたような負傷から再生できたのも、強引ではありますが納得できますしね〜。なにより、この都市内に三人も『罪人』が存在しているという信じ難い奇跡よりも、その方がまだ現実味があるというものですよ〜」
「つまり……あの男の言っていた、己が『罪人』だというのも、おそらく嘘だと?」
「推測するに、あの魔女の入れ知恵でしょうね〜」
さも、事は終わったとばかりに、呑気に会話を始めるシアとノーミ・エコ。
実際、状況は終局へと向かっていた。そもそもイレナが『ゼロ・シフト』を不発させた時点で、こうなる事は決まってしまっていたようなものだ。
その、イレナ・バレンシールはというと――。
「うそ……でしょ?」
すぐそこに、今まで交戦していた敵がいるにもかかわらず、彼女は散らばった肉片を見詰めながら、その碧い目から涙をこぼして立ち竦んでいた。
彼女の中では今、さまざまな感情が渦巻き、複雑に混ざり合っている。
悲しみ、動揺、驚愕、後悔、そして――罪悪感。
激しい自責の念に囚われながら、イレナ・バレンシールは嗚咽を噛み殺すようにぎゅっと唇を引き結び、静かに俯いた。
イレナは知っている。何度も死にそうな負傷を負っても、シンゴは心に深い傷を刻みながら、その都度再生してきた事を。
それが吸血鬼の力なのか、はたまた『怠惰』という権威の力なのかイレナには分からない。だが、一つだけ分かる事があるとすれば、一欠片数センチほどしかないただの肉片に変えられたシンゴは、一向に復活する気配を見せないという、厳然たる事実がそこにあるという事だ。
淡い期待を抱いてはいたが、時間が経過するにつれて、それも薄れていく。
そもそも、あれだけ細かく切り刻まれた状態から再生するなど、いくらなんでも不可能ではないだろうか。
命の終わりとは、本来覆せる類のものではない。それを無視するという事は、世界の理を捻じ曲げ、均衡を崩すにも等しい行いなのではないだろうか。
――終わりとは、森羅万象に等しく訪れ、終わりから先が存在しないという意味では、等しく平等なのだ。
「…………」
やがてイレナは、固く握り締めていた拳から力を抜き、完全に沈黙した。
「――シア」
「分かってる、テラ」
姉であるテラの声に応じ、シアがイレナを姉と二人で挟み込むように移動した。
これから、残った“仕事”を片付ける算段なのだろう。
絶体絶命。だがそれも、元はと言えばイレナが『ゼロ・シフト』を失敗したのが原因であり、自分の招いた結果で、一つの終焉だ。
そしてその終焉を認めるという事は、キサラギ・シンゴを殺したのがイレナ・バレンシールだと認める事に等しい。
どうして『ゼロ・シフト』が発動しなかったのか、今になってもさっぱり分からない。『フィラ』も体力も十分にあったし、精神状態も緊張していた以外は良好だった。
何か他の要因があったとしても、今となってはもう過ぎ去った過去の話でしかいない。
「…………!」
ふとイレナは、泣き声に気付き、顔を上げる。
見れば、モプラが横倒しになったまま、見ている方がつらくなるような、悲しげな泣き声を上げていた。
顔は長い桃色の髪で隠れてイレナの立ち位置からは窺えないが、その顔がひどい有様となっているのは想像に難くない。
「…………」
次に視線を、倒れ伏す歪に向ける。
彼は失った右腕の傷口を抑え、今にも死にそうなほど憔悴しきっていた。それでも、未だ意識を保っていられる事から、彼が強靭な精神力を有しているが窺える。
――不意に、歪がイレナに顔を向けた。
彼は青くなった顔を苦痛に歪ませながら、震える唇を懸命に動かして、何事かイレナに伝えようとした。
イレナはその消え入りそうな声を拾うために耳をすませ、小さく動く唇から彼の言おうとしている事を読み取ろうとした。
「――――ッ!」
苦労して読み取った捏迷歪の言葉を理解し、イレナの涙が滲んだ双眸が大きく押し開かれた。
微かに聞き取れた声と、口の動きから読み取ったその言葉を要約すると、歪はイレナにこう言ったのだ。
『諦めるな』――と。
イレナは、鈍器で殴られるに等しい衝撃を受けた。
今この場で生きている者の中では最も弱く、そして苦しんでいる歪がまだ諦めていないのだ。そんな彼を差し置いて、唯一まともに戦う力を有している自分がなぜ簡単に諦めているのか。
歪の言葉は、シンゴの言葉だ。
彼もモプラに言っていたではないか。諦めるなと、足掻けと、抗えと。
それを、この作戦の失敗の原因を生んだ自分が真っ先に諦めてどうする。自分が諦めれば、一体誰がモプラを救うというのか。
「――『アイス・ズ・メイク』」
イレナの手に、ただの氷の棒が生まれた。
なぜこの形を選んだかと問われれば、これが一番臨機応変に戦えるからだとイレナは答える。
イレナはぐっと涙を拭うと、強い決意を瞳に宿しながら顔を上げた。
そして氷の棒を回すと、脇に挟んで腰を落とす。足を開いたこの状態からなら、攻撃にも防御にも即座に移れる。それに二人を相手取るには、この半身を開いた状態の方がやりやすい。
「すー……は―……」
イレナは深呼吸すると、カッと目を見開き、テラとシアに睨みを利かせた。
それを受け、テラが深々と嘆息する。
「諦めが悪いですね……」
「うん……絶対に諦めない!」
「……その心構えは尊敬に値しますが、それは彼我の実力差をちゃんと理解できていればの話です。開きすぎた実力差の前では、勇気は蛮勇に成り下がる」
憐れむような目をイレナに向け、テラが剣を構えた。
テラに意識を向ければ、今度はもう一人――シアが声を発する。
「テラの言う通り、あの男よりはマシだね。だけど、所詮は悪足掻き。――テラ、すぐに終わらせよう」
そう言って、シアも剣を構えた。
双方共に臨戦態勢。張り詰めた緊張感が場を満たし始め、濃密な気迫の押し付け合いによる前哨戦が始まった――その瞬間、それは起こった。
「イイイイイイィィィィィィィッッ!!!!」
「!?」
突如、床が割れて、ピンク色の体表をした巨大なミミズの頭部が出現すると同時に、耳障りな咆哮が部屋の中に轟いた。
ほとんど密室という事もあり、部屋の中で無数に反響して増幅されたその奇声に、誰もが思わず耳を抑えて蹲る。
「あれ……は……ッ」
耳を押さえながら、咆哮する気色の悪いミミズの化け物を見やり、イレナはその化け物の特徴が聞いた事のある情報と合致した事で息を呑んだ。
ピンク色の体表。頭部にぽっかりと開いた口。口腔に並ぶ無数の牙。そして、人一人容易く丸呑みに出来るだろうその巨大な体躯。
間違いない――あれが『シャミール』だ。
「もぷ……ら……っ!」
ノーミ・エコが何やらテラとシアに向かって叫んでいるが、『シャミール』の咆哮で声がかき消されて指示が通らない。
それを横目に、イレナは『シャミール』を呼び出した人物――モプラに視線を向けた。
「ひぐっ……うぇ……」
ようやく咆哮が止むと同時に、モプラが嗚咽を漏らす音がジンジンとする耳に届いてくる。
モプラは変わらず椅子に鎖で縛られたまま横倒しとなっており、前髪で顔が隠れていて表情は見えない。
「くっ……テラ、シア……『シャミール』を足止めしてくださ〜いッ」
苦悶に顔を歪ませながらも立ち上がった双子は、ノーミ・エコの指示に頷く事で応じると、『シャミール』に剣を構えた。
その間に、ノーミ・エコはモプラの元までふらふらと歩いていくと、髪を強引に引っ張って顔を覗き込んだ。
「貴女……やってくれましたね〜。権威を操れないと言っておきながら、これでは――ひゃ!?」
ノーミ・エコが悲鳴を上げたのは、テラが彼女を乱暴に抱え上げて跳躍したからだ。
そして二人がその場から退くと同時に、先ほどまでノーミ・エコがいた場所に『シャミール』の口が突き刺さった。
「ノーミ様、怪我は?」
「だ、大丈夫です……それよりも〜」
テラに床へ下ろされたノーミ・エコは、怒りに顔を歪ませて振り返る――が、すぐに不審げな表情を浮かべて眉を寄せた。
理由は――、
「な、きゃあ――!?」
『シャミール』が、イレナに向かって攻撃を仕掛けたからだ。
全身をバネのように伸縮させる事で生まれる運動エネルギーは、莫大だ。
大口を開けた『シャミール』が突っ込んでくるのを間一髪で躱すが、イレナの顔には激しい動揺と困惑が浮かべられている。
「まさか〜……」
ノーミ・エコは目を細めると、イレナが襲われているにもかかわらず、制止の声をかけるどころか、興味さえ抱かず、ただ泣き続けるモプラを見た。
そうしている間にも、『シャミール』はシアに、そしてイレナにも襲い掛かる。
「なんであたしを襲ってくるの!? モプラ! やめさせて!」
「えぅ……ひぐっ」
「モプラ……ッ」
イレナの呼びかけに対し、モプラは泣くばかりで一向に反応してくれない。
焦燥感に顔を歪ませるイレナ。すると、そんなイレナに向かって、『シャミール』が口から酸を吐き出してきた。
「『アイス・ズ・ウォール』……ッ!!」
イレナの正面に、分厚い氷の障壁が生じる。
しかし、飛んできた酸に触れた途端、じゅう――と音を立てて氷の障壁は一瞬で溶け落ちてしまった。
その様子を横目に、ノーミ・エコはただ泣くだけのモプラをジッと見やり、やがて何かを察したように目を見開くと、小さな舌打ちをこぼした。
「権威を操れないというのは嘘ではなく……これは〜」
ノーミ・エコは、吐き捨てるように言った。
「暴走、ですか〜」
「暴走ですって……!?」
ノーミ・エコの言葉に、イレナが驚愕に目を見開く。
そうしている間にも、『シャミール』の無差別な攻撃は続いており、イレナは苦渋に顔を歪ませる。
「く……ッ!」
バネを伸縮させるように飛んでくる『シャミール』に対し、イレナは氷の棒を巧みに利用する事で、どうにか紙一重で回避していく。
だが、全力の回避行動が続いている所為か、その顔は疲労の色が濃い。
――『シャミール』の攻撃速度が速く、また攻撃頻度が多すぎるのだ。
何度目とも知れぬ攻撃を、氷の棒を足場にして上に跳躍して躱したイレナは、着地と同時に『シャミール』を見て目を見開いた。
『シャミール』が頭部を向けている先に、倒れている歪の姿があったのだ。
まさか――という嫌な想像がイレナの脳裏を過った。
現状この距離では、いくら全力で駆けようとも、あの化け物の攻撃が届くよりも先に歪の元まで辿り着くのはかなり厳しい。可能性があるとするなら、”アレ”しかないだろう。
そこまで一瞬で思考したイレナは、お願い――と心の中で念じつつ、祈るように詠唱した。
「『ゼロ・シフト』――ッ!!!!」
――またしても、イレナの奥の手は発動しなかった。
「どうしてなのよぉ……っ」
くしゃりと顔を歪ませたイレナの目の前で、『シャミール』が体をぐっと後ろに逸らすようにして、床から体を更に引きずり出した。
頭部が天井にこすれ、石材がガラガラとこぼれ落ちてくるのを剣で防ぎながら、テラはノーミ・エコを守っている。
傍らにはシアも駆け付けており、腰を落として、何やら抜き身の刀身を指で弾いている。
「イイイィィィィァァァァァッッ!!!!」
『シャミール』が咆哮と同時に、倒れ伏す歪を押し潰さんと体を前に揺らした。
イレナは全力で駆けながらつららを放つが、『シャミール』は横腹に突き刺さるつららなど全く以て意に反さないし、とてもではないが間に合わない。
イレナの奮戦虚しく、『シャミール』の巨体が倒れていき、そして――、
「だ……だめぇぇえええええええええッッ!!!!」
――イレナの絶叫と同時に、『シャミール』の巨体が歪を押し潰した。
「あっ……」
虚脱感に見舞われ、足がもつれて転倒したイレナの口から、小さな喘ぎがこぼれた。
間に合わなかった。またしても自分の所為で、仲間が死んだ。どうして『ゼロ・シフト』が発動しないのか。こんな不測の事態さえなければ、この作戦は成功していた。シンゴも、歪も、命を落とさなかった。なのに、なのに――。
イレナは喉を震わせながら、絶望に目元を濡らした顔を上げ、目の前の惨状に絶叫――
「…………え?」
涙で霞む視界に、不可解なものが映り込んだ。
歪に向かってその巨体を振り下ろした『シャミール』。しかしその長い体の一部分――歪が下敷きになっているはずの箇所が、不自然に盛り上がっていた。
イレナは涙で霞む目を、『シャミール』の不自然に反った体の一部分――その下腹部に向けた。
――誰かが、『シャミール』の巨体を腕一本で支えていた。
イレナは慌てて目元を拭うと、クリアになった視界に集中し、その人影にピントを合わせようとした。
しかし、ピントが合う寸前、突如その人影の像が激しくブレる。
次の瞬間――、
――バヅンッッ!!!!
空気を弾くような音が鳴り響くと同時に、『シャミール』の巨体が半ばで弾け飛んだ。
体液を辺りにまき散らしながら悶えるように分断された体を跳ねさせ、『シャミール』が激しく痙攣する。やがてその痙攣も収まり、完全に沈黙すると同時に、『シャミール』の体が光の粒となって弾けた。
――その光の粒子に包まれながら、一人の男が悠然と佇んでいた。
「…………シンゴ、なの?」
ふと口を衝いて出たその言葉は、ほとんど無意識のものだった。
しかし、その男はイレナの声にぴくりと反応し、こちらをゆっくりと振り向くと、優しく微笑み――、
「うん――“僕”だよ」
――紫紺に染まった両目を細めながら、そう答えた。




