第3章:14 『再会の激情』
「――――っ」
苦鳴をこぼし、ゆっくりと意識の覚醒に合わせて瞼を持ち上げる。
頬にはひんやりとして硬い感触が押し付けられており、シンゴはその冷たさを惜しみながら顔を上げた。
「ここは……」
目覚めてすぐでぼんやりとする目をこすっていると、徐々に意識が明瞭になってきた。
完全に眠気が吹き飛ぶまでぼーっとしながら、チョークの消し残しがまったくない黒光りする綺麗な黒板を眺める。
「――――ッ」
ようやく思考する余裕が出てきたシンゴは、自分の置かれた状況にハッと目を見開いた。
同時に、目覚める前の記憶が津波のように押し寄せてきて、脳内でコマ送りのようにフラッシュバックする。
そうした経緯を辿り、シンゴはやっとの事で自分がどうなったのかを明確に理解した。
「そうか……俺は、また……」
その先を口に出そうとして、寸でのところで呑み込む。それをなんの心の準備もせずに思い出すには、あまりにも精神的に負担が大きいからだ。
シンゴは一度ゆっくりと深呼吸して気持ちを落ち着けてから、情報の整理に取りかかった。
まず、なぜここ――シンゴの通い慣れた校舎の、己以外は誰一人として生徒のいないこの教室で目を覚ますはめになったのか。
ここがどういった場所で、なんのために存在するのかは分からない。だが一つ分かっている事は、ここに来る方法はたった一つしかない、という事だ。
つまり、シンゴは――、
「死んだ、のか……」
――とは言ったものの、シンゴは死なない。だから厳密には、死んだ、という表現は適切ではない可能性がある。死ぬ前に再生されるのか、一度死んでから蘇っているのか。
どちらが正解なのかは分からないが、その辺りの曖昧さに答えを求めるのは無駄、というより無意味なのかもしれない。
結局のところ、シンゴは死に至る負傷を負っても、この校舎を経由してから元通りに再生してしまうのだから。
「えっと……」
死んでから蘇るのか、ぎりぎりのところで踏ん張って、そこから一気に再生するのか、という一人議論会にはさっさと見切りをつけ、シンゴは苦痛を伴う回想に踏み切った。
意識が途切れる寸前、もっとも新しい記憶は、喉に生じた灼熱。本来なら感じるはずのない頭蓋の中に感じた涼しさと、喋ろうとして、口からではなくもっと下の方から音が“二つ”聞こえた事。
そして――、
――二つに分かたれた世界の中で剣を振り上げて佇む、まったく同じ二人の少女。
「…………」
おそらくだが、喉に生まれた灼熱は剣を突き立てられたのだろう。
喉に刃物が突き立つ、それだけでも背筋が寒くなるのに、さらに先がある。しかも、およそ想像もしたくない事が、だ。
だが、それでもちゃんと何があったか確認しなければならない。シンゴは意を決し、止めていた思考を動かした。
喉に剣を突き立てられた状態から、頭蓋の中が涼しく、そして世界が二つに割れるような事態になる状況――あまり考えなくても答えは出た。
「頭、割られたのか……」
口にして理解した瞬間、言いようのない怖気と共に吐き気が喉元までせり上がってくるのを感じた。
そしてシンゴを殺害したのは、紅髪に藍色の服を身に着けた少女だった。
間違いない。シアの双子の姉である――、
「テラ……ッ」
完全に失念していた。油断していた。弟であるシアが襲撃してきた時点で、どうして姉であるテラの存在にも気を配らなかったのか。
思い返すだけで、あの場での数々の失態に激しい憤りを感じた。
しかも、たとえ気を配っていたとしても、無力なシンゴでは死期がほんの数十秒――いや、数秒ほど伸びるだけだと簡単に像像出来てしまう事実に、否応なく怒りが掻き立てられた。
「…………ッ」
奥歯を噛み締め、己の不甲斐なさと役立たずぶりに心底呆れる。同時に、先ほどから募っていく怒りにさらに拍車がかかり、シンゴは机に向かって乱暴に拳を振り下ろした。
ガンッ――という音が静かな教室に響き、シンゴは机の木目を親の仇かというほど睨み付けた。
「――はぁ」
やがて、シンゴは吐息と共に脱力した。怒りの炎はまだ胸の内で弱まることなく揺らめいているが、机に当たったところで状況が好転する訳でもない。
ふと、自分が倒れた後はどうなったのだろうという今更過ぎる疑問が脳裏を過る。
ウルトの実力は正直未知数だ。だが、明らかに只者ではないテラとシアの双子とたった一人で相対するとなれば、やはり不安があった。
とはいえ、やはりシンゴがあの場にいたところで大した戦力にもならない事は先ほど考えた通りであり、これ以上は胸の内で揺らめく怒りの炎に無駄な燃料を投下するだけだとシンゴは思考を中断する。
なら、今自分に出来る事を考えようと、シンゴは気持ちを切り替えた。
ここに来られたのは、何も悲観すべき事ではないとシンゴは考える。これはむしろ絶好の機会なのだ。
なぜなら――、
「ベルフに話を聞けるしな」
そう、紅蓮の炎で形を成す、半身のみの巨鳥。
彼ならきっと、アルファベットの『M』からローマ数字の『ⅧⅤ』に変化した痣の事について何か知っているかもしれない。
しかしその当人――いや、当鳥は、カワード・レッジ・ノウとの一件以来、音沙汰なしときた。
しかもシンゴは、おそらくベルフのものであろう悲鳴のような声を聞いている。
ベルフの安否と痣について尋ねられる機会が得られたという意味では、ここに来られた事はむしろ幸運だったのかもしれない。
「まずは、ベルフがどこにいるのか探さねえとならねえな。……やっぱ、屋上か?」
――顎に手を当てて思案を始めた時だった。その声は、前触れなく隣から発せられた。
「さっきからぶつぶつと独り言を呟いてますけど……大丈夫ですか?」
「――――!?」
心配をするような声が隣からかけられ、シンゴはぎょっとして声のした方へ振り向く。
そして次には、驚愕のあまり眼球がこぼれ落ちんばかりに目を見開いた。
「お、まえ……」
「ああ、急に話しかけてしまって失礼しました。それと、まずは名前ですよね」
さらさらとした綺麗な金髪を揺らしながら謝罪するその男は、白を基調とした貴族風の服に身を包み、大海のように澄んだ碧い目をシンゴに向けながら微笑んだ。
「僕はカワード。――カワード・レッジ・ノウです」
――死んだはずの男が、隣の席に座っていた。
――――――――――――――――――――
あまりの衝撃に、シンゴは口を開けたまま凝然と目の前の男を見ながら固まった。
信じられるだろうか。固まるシンゴを見て首を傾げている優男風の美青年は、自分の事をカワード・レッジ・ノウだと言った。
しかしそれはありえない。なぜならあの男は、シンゴの目の前で首を刎ねられて死んだのだ。
死体は騎士団が回収したとは聞いたが、その後どうなったのかまではシンゴの知るところではないし、別に知りたいとも思わない。
だが、事はそれ以上に深刻だった。カワードが実は生きていたとしよう。だとしても、“ここ”にいるというのは信じられない。
実は吸血鬼だった、もしくは『罪人』の力――『激情』の権威に隠された能力があって、死の縁から蘇った、という方がまだ納得の余地があるくらいだ。
直感ではあるが、シンゴはこの校舎を自分の精神世界的な何かだと考えている。この場所がシンゴの通っていた校舎を模している事も、その裏付けの理由となっていた。
だから、ありえないのだ。他人の精神世界に我が物顔で居座り、あまつさえ接触してくるなど。
――いや、待て。
シンゴは目の前の仇敵を油断なく見据えながら、心の内で首を振った。
ウルトの件で再確認させられたばかりではないか。シンゴの常識はこの世界でほとんど意味を成さないと。
であれば、他人の精神に侵入するという魔法などがあっても、なんら不思議ではない。
他人の空似だと一笑に付すには、目の前の男はシンゴの記憶の中のカワード・レッジ・ノウその人と、あまりにも合致しすぎている。
命のやり取りをした相手の顔などそう簡単に忘れられるものではなく、シンゴの記憶の方が間違っているという事も考えられない。
ぐるぐると頭の中を飛び交う疑問に翻弄されながらも、最初の衝撃がようやく抜けてきたシンゴは、なら――と、分からない事は素直に聞くスタンスを、ここでも貫く事にした。
「なんで、お前がここにいんだよ……?」
「なんで、と言われても……」
困ったように眉を寄せてシラを切る自称カワードに、シンゴの中で留め置かれていた怒りの炎が再び勢いを増し始めた。
本当に目の前の男がカワードなら、自分のした行いを忘れたのだろうか。修道院を燃やし、さらにはリドルを、そしてアルネを連れ去ったという許し難い悪事を。
しかも、アルネは未だ行方不明だ。もしこの男がカワード本人ならば、アルネの所在を聞き出すチャンスとも言えるだろう。
体が、カワードに死に至る負傷を負わされた恐怖を覚えているのか、小刻みに震えていた。こんな状態ではまともな会話など出来ようもない。
そう考えたシンゴは、湧き上がってくる怒りを抑え込むのを止め、感情的になってでも強気に出ようと考えた。
――シンゴは怒りの手綱をそっと放すと、第一声を吐き出した。
「なんでお前が生きてんだって聞いてんだよッ!!」
「――――ッ」
気が付けば、シンゴは立ち上がり、カワードの胸ぐらを掴み上げていた。
自分でもまさかここまでしてしまうとは思っておらず、シンゴは自分の行いに一瞬だけ驚いた表情を覗かせる。しかしそれも、目を白黒させるカワードの素知らぬ態度を見ているうちに霧散し、代わりに泉のように溢れてきた怒りに塗り潰された。
「アルネをどこやった!? 何を企んでんだ、あァ!? お前に聞いてんだよおい、お前にぃ――!!」
「……め」
「ああ?」
がくがくと首を揺さぶられるカワードが何かポツリと呟いたのを拾い、シンゴは青筋を浮かべながら顔を近づけた。
そんなシンゴに、カワードはゆっくりと顔を上げ――、
「これ……いじめだよね?」
「――――ッ!?」
ぞわり――と、カワードの碧い瞳の奥に渦巻く昏い何かを見て、シンゴは全身が粟立つのを感じ、転がるようにしてカワードから離れた。
体中の汗腺が開き、じっとりと手汗が滲むのをどこか他人事のように感じながら、シンゴは雰囲気が変容したカワードを見据えた。
「アルネ? 何を企んでいる? そんなもの知らないし、お前に答える義理もない」
冷めた口調で吐き捨てるようにそう言い、首をコキリと鳴らしたカワードは、どこか軽蔑に似た感情を瞳に宿らせながら見下ろしてくる。
そんなカワードの態度に、シンゴは今しがた散らされた怒りがさらに燃え滾るのを感じ、キッと睨み返しながら立ち上がった。
「――――」
互いの間で緊張の糸がピンと張られるのを幻視しながら、シンゴは殴り掛かりそうになる自分を必死に制御するように熱い吐息をゆっくりと吐き出す。
そして瞳の奥に激情の炎を揺らめかせながら、なるべく静かに、ゆっくりと問いかけた。
「お前に、一つ、聞きたい事がある」
「…………」
無言のまま反応しないカワードに、シンゴは湧き上がる感情に必死に抗うように奥歯を噛み締め、続けた。
「お前、ベルフを……炎の鳥を、知ってるか?」
怒りで脳が沸騰し、冷静な思考が妨げられているのも手伝い、シンゴは目の前の男は“ここ”にいるのなら知っているはず、というあまりにも杜撰な考えでベルフについて問うた。
冷静に考えてみれば、カワードは明らかにシンゴに対して好意的な感情は抱いていない。
目の前の男が本当にカワード本人なのかは謎だが、もし本人であれば、彼から見てシンゴは自分を死地に追いやった敵だ。
そんな奴に質問され、快く答える訳がない――はずだった。
「……彼は、イブリースの所ですよ」
「は……え?」
はぁ――と吐息したカワードが、あっさりと質問に回答した。
シンゴとしても本当に答えが返ってくるとは思っておらず、すんなりとベルフの所在が判明した事に驚きを隠せない。
ただ、聞き慣れない単語が出てきた。
「いぶ……りーす?」
首を傾げながら、カワードが告げた『イブリース』という単語を復唱するシンゴ。
そんなシンゴをどこか無感情な瞳で見やりながら、カワードはまるで見る価値もないと言わんばかりにそっと目を閉じて、
「ええ、そうです。でも、今のあなたは会わない方がいいですよ。――とは言っても、そもそも会おうと思っても会えないでしょうけど」
「……その、イブリースって奴のとこに、ベルフはいるんだな?」
「ええ」
「イブリースってのは……誰の事だ?」
その質問に対し、カワードは閉じていた目を開けると、なんとか胸の内で渦巻く感情を制御しようと奥歯を噛み締めているシンゴをジッと観察した。
やがてカワードはさらさらと金髪を揺らしながら首を横に振ると、
「今のあなたに教えても無意味の一言ですよ。いずれイブリースとは会えます。ですので、彼の事はその時にでも話すか、当人に直接聞いてください」
「な――!?」
まるで突き放すようなカワードの物言いに、とうとう堪えきれないほどの激情が弾け、視界が真っ赤に染まった。
「お、まえぇぇ――ッ!!」
近くにあった机を思い切り蹴飛ばす。蹴られた机が派手に転倒し、近くにあった他の机を巻き込んで横倒しになった。
しかし、シンゴはそんな事など微塵も気にした風ではなく、肩で息をしながら、血走った目でカワードを睨み付けた。
「ぶっ殺すぞテメェ!! いいからさっさと答えろつってんだよボケがぁ――!!」
「……はぁ。だいぶ注がれていますね」
「あぁ!?」
不可解な事を呟くカワードに、シンゴが唾を飛ばして吠える。
そんなシンゴを、カワードはいっそ憐れむような目で見詰めながら、小さくため息をついた。
「訂正します。これはいじめというよりは、ただの子供の癇癪ですね」
「――――ッ!」
その一言で、辛うじて繋ぎ止めていた理性の糸が完全に弾け飛んだ。
シンゴは煮え滾るような真っ赤な衝動に身を任せ、何も考えず、ただ本能に従った。
「死ねクソがぁ――!!」
唾を飛ばし、振りかぶった拳を一切の躊躇なくカワードの顔面へ目がけて降り下ろした。
しかし拳は空を切り、感情に任せた大振りの反動で、シンゴは机の群れに頭から派手に突っ込んだ。
「――あなたのその悪意は、もう寝ていても避けられる」
「――ぁああッ!!」
すぐ後ろから聞こえてくる侮蔑の声に、シンゴは吠えながら立ち上がると、振り向くと同時に殴りかかった。
しかしカワードは、まるで散歩でもするかのような気楽さで、振るわれる拳を最小限の動きで優雅に躱していく。
「謁見の資格も持たない状態の空っぽの器。だからそこまで注がれるんですよ」
「うるせぇ――!!」
殴り合いでは勝てないと判断し、シンゴは自分が薙ぎ倒して転がっていた椅子を片手で掴むと、遠心力を利用して声のした方へ思い切りぶん投げた。
しかしカワードの姿は既にそこにはなく、外れた椅子が教卓を巻き込んで大きな音を立てる。
「もうやめませんか? これじゃまるで、僕がいじめてるみたいですよ」
「――――ッ!!」
背後から投げかけられるカワードの上から目線の発言に、シンゴは荒々しく舌打ちして立ち上がる。先ほどの転倒で額が割れていたのか、何かドロッとした鉄臭い液体が頬を伝い、顎から滴り落ちた。
それを拭いもせず、ふらふらとした危うい足取りで、涼しい顔で佇んでいるカワードの方――ではなく、シンゴは教室の出口へと向かった。
「廊下には出ない方が――」
「てめぇにゃ関係ねえだろぉが――ッ!」
背中にかけられたカワードの忠告を途中で遮り、教室の扉を乱暴に開けると、シンゴは真っ暗な廊下を大股で歩き出した。
廊下には苛立たしげな足音のみが反響し、それが耳に返ってくる度にシンゴは乱暴な舌打ちをこぼす。
「ああ、クソぁッ!! 死ね、死ねボケ、消え失せろ――クズがッ!!」
口汚く罵り続けるも、蓄積した鬱憤は一向に解消される気配はない。どころか、教室にいた時よりも大きく、強い憤激が意識を赤黒く血のように染め上げていく。
やがて、やり場を見失った感情に突き動かされるように、シンゴの足は早足に、そして徐々に速度を上げ、ついには駆け足に変わる。
もはやそこには、冷静の“れ”の字も存在しない。ただひたすら持て余した激情に支配されながら、シンゴは暗い廊下を荒々しく進んだ。
走る間も血走った目はぎょろぎょろと動き、感情のはけ口を本能的に探す。
ふとシンゴは、本来の目的――ベルフを探さなければならない事を思い出した。同時に、行き場を失った激情の矛先がそこに向いた。
「おいベルフッ! どこだぁッ!? 出てこいこの役立たずがぁ――!!」
荒い息を吐き、怒声を張り上げながら走る速度を上げる。
虚しく反響する自分の声ですら、今は燃え滾る怒りを増す要因になってしまう。
自分を含んだ全ての事象が、未だかつて感じた事のないほどの怒り――その対象だ。
やまぬ憤怒に身を焼かれるシンゴの頭の中には、もはやカワードの存在などどこにもない。認識する全てに怒りを抱き、口汚く罵る事でなんとかその溜飲を下げようと本能的に試みているが、微塵も望んだ結果は得られない。そしてその事実がまた、怒りを更に掻き立てる原因となる。
だが、無駄だと分かっていても、大声で怒鳴り散らすのはやめられない。――いや、やめてはならない。
そうしていなければすぐにでも発狂してしまい、自傷行為に及んでしまいそうだったからだ。
「おいこらクソリースッ! お前も返事しろやぁ! 聞いてんのか、ああ!? いい加減にし――っ!?」
今度はイブリースとやらにも怒りの矛先を向けようとした、その瞬間だ。おぞましい何かに首裏を撫でられ、シンゴはその場に転がるようにして強引に倒れ込んだ。
バッと背後へ首だけで振り返ると、廊下の暗闇の奥に怪しく輝く眼が一対、それも複数シンゴの事を見詰めていた。
「ぅ……ぁああッ」
この舐めるように獲物を品定めするような不快な視線。食欲というシンプルにして強欲な衝動をただ解放したくて堪らないといった、重く粘ついた感情の渦。
そしてその衝動を向けるべき相手を見付けた事に対する、この上ない歓喜の哄笑。
それらが複雑に絡み合い、全て余す事なく向けられる、この息が詰まるような重圧感。
――『影』だ。
「っざけんなよクソぉぁあ――!?」
シンゴが弾かれるように駆け出すのと同時に、『影』が耳障りな唸り声を上げて走り出した。
「なんでこんなとこにまで出てきやがんだよクソ犬どもがぁ――!?」
恐怖で盛大に顔を引き攣らせ、大声で喚きながら全力疾走する。
この廊下はただの廊下ではない。未だに果てを見た事はなく、さらに教室は一つも見当たらないといった、まったくもって意味不明な構造をしている。
つまり、ずっと直線なのに加え、逃げ込める教室は皆無。『影』に追われるのに、これほど悪条件な場所はそうないだろう。
そしてその絶望すら、今は怒りへと変換される。そこに疑問を感じる余裕すらシンゴにはなく、ただがむしゃらに走り続ける。
皮肉な事だが、怒りは原動力になり、恐怖を塗り潰してくれた。
しかし『影』に追いつかれるのは時間の問題であるのに変わりなく、何か手を打たなければ十秒も持たない事は明白だ。
「ああああああっ!! クソがぁ!! クソがぁ――ッ!!!!」
しかし、今のシンゴにそんな当然の状況判断を下せるだけの思考力は残っておらず、減る事なく募り続けるマグマのような激情を足にぶち込み続けるだけだった。
このままでは確実に追いつかれる。しかし、珍しく天はシンゴに味方をした。
「――ッ!」
左前方に、下へと続く階段を見付けた。
階段のすぐ近くに設置された非常ベル。その上にある赤ランプの血のように真っ赤な光が、まるで暗い廊下の中で存在を際立たせるように階段を照らしていた。
シンゴは迷わず階段へと足を向けた。
体中がみしみしと音を立てていると錯覚するほどに重い空気。階段に近付くにつれ呼吸は苦しくなり、今まで募らせてきた怒気が膨れ上がり、内側から弾け飛びそうな苦痛がシンゴを襲う。
「ぐっ……お、ぉぁああああ――!!」
重くなって動きが鈍る体を吠えて鼓舞し、シンゴは階段まで辿り着いた。
「ぉ……あ?」
途端、強い眩暈と猛烈な吐き気に襲われ、シンゴは壁に手を着く。
こんな事をしている場合ではない。早く階段を降りなければ、『影』どもに追いつかれてしまう。
そう感じながらも、体はまるで重力が数十倍にまで跳ね上がったかのように重く、思うように動かせない。
さらに、胸の内で暴れ狂う激情はここに来て最高潮を迎えていた。
もはや正常な思考など出来ず、どころか、自己が強すぎる感情に押し潰されて、意識が白濁し始めた。
それは、言いようのない恐怖心を抱くには十分だった。
「あああああああああああああああああああああああああああああ!!??」
ここはどこで、自分は何をしているのかすら分からない――という疑問を抱く事さえ出来ない状態。
出来るのは、破裂してしまわないように叫び続け、少しでも圧を減らそうとする自己防衛のみだ。
絶叫するシンゴの顔は大量に上った血で赤を通り越して赤黒い。毛細血管が破裂したのか、目からはおびただしい量の血涙が流れ、鼻血が顔の下半分を真っ赤に染めていた。
それでも叫ぶのを止められない。というより、もう全てが曖昧で、意味不明だった。
まるで自分の身体を見知らぬ誰かが動かしているような感じだ――と、そんな感慨が芽吹く前に荒々しい激情に押し潰されていく。
「あぎぃッ!?」
突如、頭部を万力で押し潰すような激痛に襲われ、シンゴは両手で頭を抱え込んだ。
「ぁ、ごぁッ……がっ……いぎッ!?」
錐で貫かれるような想像を絶する痛みが継続的に頭蓋の中を蹂躙し、シンゴは堪らず爪を立てながら頭部を掻き毟った。
頭皮が抉れ、頭髪が爪の間に入り込む。捲れた頭皮の下からは鮮やかなピンクと、頭蓋骨の白が覗く。
シンゴは知る由もないが、現在彼の脳内ではあらゆる箇所で血管が血圧に耐え切れず弾け、脳内出血を引き起こしていた。
それほどまでに大量の血が頭に上ってしまう、嵐のような激情。そして、未だに怒りは溜まり続けていた。
とうとうシンゴの身体が揺らぎ、そのまま滑り落ちるようにして階段から転げ落ちた。
全身を激しく打ちながら、階段の中腹――踊り場で止まる。既に手遅れのこの状況で言うのはおかしいとは思うが、階段の下に落ちたのは最大の過ちであった。
なぜなら――、
「おがぁッ!? ぎ、がっ……いっ、づっぃ!?」
――本来なら意識を手放して感じる事のないはずの激痛を、存分に味わうはめになるからだ。
死ぬほど痛いとは、まさにこの事だろう。しかしその死に至るほどの痛みすら凌駕する、もはや黒いと言っていいほどの激情が内側で爆発する。
その感情の爆発は意識を現世に繋ぎ止めるための意図せぬ力となり、生みの親を絶望の淵に叩き込んだ。
「ごぶっ……ごッ、ふぶっ」
白目を剥き、痙攣しながら吐瀉物に喉を塞がれ、溺れる。
それでも尚、募る激情。それでも尚、意識を手放せないという絶望。
もはや救いは――『死』だけだ。
「――だから言ったんですよ。資格も持たないでイブリースに近付こうとするから、そうなる」
「お……ごッ」
痙攣し、もはや死を待つだけのシンゴに、呆れた声が投げかけられた。
ゆっくりと足音を鳴らしながら、平然とした様子で階段を下ってくる男。
彼――カワード・レッジ・ノウは美しい金髪を掻き上げると、まるで物を見るかのような目で泡を吹くシンゴを見下ろした。
「まさか、資格もない状態でここまで辿り着くなんて。……やはり、イブリースが見初めただけの事はあるのかな」
「ぉ……ぁ」
「まだ不完全? 僕とは五分五分といったところ……なぜ、イブリースはそこまであなたに固執するんでしょうか。やはり、『大罪の獣』にしか分からない何かがある、という事なのか……」
「…………」
「ああ」
顎に手を当て、何やら独り言をぶつぶつと呟いていたカワードは、忘れていた、といった表情で背後――階段の上を振り仰ぎ、
「いいですよ。――後はお好きに」
そう言ってカワードが退いた瞬間、階段上でまだかまだかと待機していた『影』達が一斉にシンゴへ向かって飛びかかった。
肉を引き割き、内臓を貪る湿った音。骨を噛み砕く固い音を後ろに、カワードはゆっくりと階段を上がっていく。
「あなたはイブリースのお気に入りです。今度はちゃんと資格を持ってきてくださいよ。――キサラギ・シンゴさん」
薄暗い廊下に、命を貪る音と、静かな靴音が無数に反響する。
その音を聞きながら、世界はゆっくりと、反転した――。




