第3章:13 『断たれた世界』
「まったく……間一髪。持たせておいて本当に正解じゃったわ」
声の若々しさに反した年寄りくさい口調。そして深々とため息を吐くのは、頭の上から足元までを紫紺のローブで覆い隠した謎の女性だ。
ローブの上からでもはっきりと分かる起伏に富んだ肢体。しかし決して過剰ではなく、見事な黄金比に留められた完璧なプロポーションだ。
不意に、顔を覆うローブから覗く、毒々しくも瑞々しい紫の唇が緩められる。同時に漂ってくる濃密な色香に、シンゴは思わず息を呑んだ。
男なら誰もが屈してしまいそうになるその色香にシンゴが耐え切れたのは、ひとえにこれ以上の情欲に溺れかけた経験があったからだ。
皮肉な事だが、『色欲』の権威による体を張った予習がなければ、今頃シンゴの思考力は完全に停止していたに違いない。
それに、体のほとんどをローブで覆い隠していてこの色香だ。そのローブの下を見てみたい気もするが、同時に躊躇もしてしまう。
目の前の女性に隠しきれない困惑を覗かせていると、ふと何か視界の端に紫紺の輝きを見付け、シンゴは女性に向けていた視線をその輝きへと移した。
「それは……」
「ん?」
シンゴの視線に気付いたらしい女性が、その視線を追って腕の中で眠る少年――マルスを見下ろした。
そのマルスの胸元が、何やら淡い紫紺の輝きに包まれている。そしてすぐに気付いた。光源は、シンゴも一度見た事があるあの十字架だ。
女性もシンゴが見ているものが発光する十字架だと気付くと、「ああ」と納得したような声を零した。
「これは、『警鐘の十字架』じゃよ」
「警鐘の……十字架?」
ローブの女はシンゴの呟きに首を縦に振ると、眠るマルスを見下ろしながら、ふっと口元に笑みを浮かべた。
そして何やらローブの懐に手を突っ込むと、マルスの下げている十字架と同一の形状をした十字架を取り出した。
しかもその十字架をよく見てみれば、マルスの物と同じように紫紺の輝きを発している。
「それは……」
「『警鐘の十字架』は二つで一つの魔具での。片方の持ち主に危険が近付くと、もう片方も同じように発光して知らせてくれるのよ」
魔具、とは聞き慣れない単語だが、聞く限りではなかなか便利な道具のようだ。元の世界で言うところの防犯ブザー、その高性能な上位版くらいの認識でいいだろうか。
確かに『警鐘の十字架』の便利性には驚かされた。しかしそれとは別に、シンゴは眼前の女性の口調に妙な引っ掛かり覚えて眉を寄せる。
「のよ……って」
シンゴのその指摘にローブの女もハッとなり、そして口元に苦笑を浮かべると、
「どうもあっちの姿でいる時間が長かったせいかのぉ。ちょっと混ざってしもうたわ。――ちょっと待っておれ」
そう言うと、ローブの女は喉の調子を確かめるように「ん、んん、あー」と声を出し、やがて満足したように頷いた。
「――ん。気を抜くとお年寄り口調に戻りそうだけど、切り替えは完了かしら」
「……あんた、一体誰だ?」
完全に年寄り口調が相応の女性っぽい口調になり、シンゴは訝しげに眉を寄せながら疑問の声を発した。
そんなシンゴの反応に「ふふっ」と楽しげな苦笑を漏らした女は、顔を覆っていたフードを取り払った。
「――――ッ」
フードの下から絹糸のように艶やかな薄紫色の長髪が零れ落ち、シンゴはその幻想的な光景に一瞬目を奪われる。
女性は軽く首を振ってその長髪を後ろに流すと、呆けた顔で立ち竦むシンゴに顔を向けた。
顕になったその尊顔は息を呑むほど美しく、アメジストをはめ込んだかのような紫紺の双眸が、まるで心の奥底を見透かすかのようにシンゴを真っ直ぐ見詰めている。
目を見開いて絶句するシンゴに、女性は面白いものが見れたと言わんばかりに、その紫色の唇を楽しげに歪ませる。
そしてその艶やかな唇が開かれ、衝撃の事実が告げられた。
「わたしは魔女――『時読みの魔女』よ」
「…………」
ストレートに明かされた謎の女性の正体。だが、シンゴは衝撃のあまり理解がすぐには追いつかなかった。
しかし理解が徐々に追いついてくると、シンゴは驚愕に目を押し開き――、
「は――」
「おっと」
「――――ッ」
思わず大声で驚きそうになったシンゴの唇に、時読みの魔女は人差し指をそっと当てて塞ぎ、「それはダメ」とウインクしながら静かな声音で優しく注意を促してきた。
目を白黒させて口を噤むシンゴに、女性は「いい子ね」と優しく微笑みかけるダメ押しで完全に黙らせ、指を離した。
未だ衝撃から立ち直れずにいるシンゴの顔を見て、女性は悪戯な笑みを浮かべると、今しがたシンゴの口を封じた方の人差し指――その横腹で自分の口元を隠すと、クスリと笑みを零した。
「やっぱり、この姿を見せた時の相手の反応はいつ見ても滑稽で癖になるわね。……その分、喋り方が変に混ざるのがアレだけれど」
「……本当に、ウルトさん……なのか?」
動揺の抜け切らないまま問いかけるシンゴに、魔女は小首を傾げながら、
「んー……いいリアクションを見られてお姉さんはとっても満足なんだけど、衝撃が強すぎるのも考え物かしら」
「いや……俺の質問に」
「ふふっ。そう、わたしはあなたが連呼していた、あのババアで間違いないわ」
「あ、いや……その件は」
激しく狼狽するシンゴだったが、魔女――ウルトが「冗談よ」と笑うのを見て、どっと疲労のようなものが込み上げてくるのを感じた。
目の前のこの妖艶な美女があの枯れ枝のような老婆だと言われても、即座に「そうなんですか」と頷くのは難しい。
どういった原理なのかは分からない。ただ、この世界にシンゴの常識は通用しないのだと、改めて痛感させられた気分だ。
問題は、どちらが本当の姿なのか、という点なのだが――。
難しい顔でシンゴが考え込んでいると、ウルトが瞑目して「さて、と――」と呟き、再び開けた目を細めて横に向けた。
釣られてシンゴもその方向を見て、己のあまりの迂闊さと馬鹿さ加減に自分を殴りつけたい衝動に駆られた。
二人の視線が向けられる先にいるのは、沈黙をずっと守っている『ミミズ』の化け物だ。
化け物は変わらず地面に顔を埋めたままの体勢で、一向に動きを見せる気配がない。しかし、すぐそこにある脅威を完全に失念し、隣の美女――もとい、ウルトと呑気に会話していたとは、自分のあまりの浅はかさに心底呆れる。
しかしそれも、死んだと思っていたマルスが生きていて、さらにマルスを救出した美女の正体に衝撃を受けたからだ、とシンゴは己の腑抜けの原因を推察してみる。
さらに、『ミミズ』の化け物が不自然なほどに静かだったのも、シンゴがウルトと呑気にお喋りに興じていられた理由の一つとして付け加えていいかもしれない。
そして今更ではあるが、まるで眠っているかのように静止し、こちらには何の反応も示さないのは奇妙だ。
ともすれば、死んでいるのではと疑ってしまうほど、『ミミズ』の化け物は完全に沈黙していた。
「キサラギと話している間も油断はしていないつもりだったけれど、こうも無防備を晒していて何の反応も示してこないというのは、逆に気味が悪いわね。それとも、何か動けない理由でもあるのか……どう思うかしら、モプラちゃん?」
どうやらシンゴとは違って喋っている間も油断を怠っていなかったらしいウルトだが、さすがに何のアクションも示してこなかったのは予想外だったらしい。
ウルトは鋭く目を細めると、この場にいるもう一人の渦中の人間――モプラ・テン・ストンプへと向けた。
ウルトは自分の視線を辿ってモプラを見ようとするシンゴに、「目を見てはダメよ」と鋭く釘を刺しつつ、
「見たところ、その怪物はあなたが呼び出した……いえ、呼び出したという風には見えなかったわね。どちらかといえばむしろ、出てこないよう懸命に堪えていた、といった感じかしら」
そしてウルトは、優しげな――と言うにはあまりに艶美すぎる笑みを浮かべながら、その紫紺の瞳を未だ沈黙したままな『ミミズ』の怪物へチラリと向けた。
「その怪物はあなたの力……『色欲』の権威と何か関係があると見て間違いないようね。無防備なわたし達を完全に無視、どころか微動だにしない。何かしらルールに縛られて……いえ、課せられた使命以上の事は何か命令でもないと動けないのかしら? そしてあなたが望んでその怪物を呼び出していない様子から推測するに、先ほどマルスを襲ったのは、自動的にそうなるようになっているからか……」
すらすらと出てくるウルトによる現状考察に、シンゴは口を開けて唖然となる。
自分がまだ一般人の範疇だと思っているシンゴは、この世界の明確な判断基準は持ち合わせていないが、これだけ情報量が少ない中でここまで推論を組み立てられるのは、おそらく驚愕すべき事なのだろうと思った。
固まるシンゴの隣でウルトは、流れる涙を拭き取りもせずにこちらを呆然と眺めているモプラに向かって首を傾げると、
「隙を見て逃げ出した、という点にずっと引っかかっていたけれど、その怪物を見て納得したわ。……さしずめ、あなたが権威を最初に授かった際に襲ってきた暴漢も、それが食ったってとこかしら」
「――――ッ」
まるで相手の心を見透かしたかのようなウルトの言葉に、モプラが初めて反応を――動揺らしきものを見せた。
そんなモプラに、ウルトは少しだけ哀れむような色を瞳に過らせながら告げる。
「――どう? わたしの推論、間違っているかしら」
――しかし、ウルトの質問に対する返答は、問いかけた相手とは別の所から上がった。
「ィィィィィィィイイイイイイ――――ッ!!!!」
「――――!?」
今まで沈黙していた『ミミズ』の化け物が突然咆哮を上げ、その巨体を震わせた。
ぎょっとなるシンゴだったが、隣のウルトはいつ取り出したのか、その手に紫紺の刀身を持つ短剣を逆手に握って、すぐさま応戦できるよう臨戦態勢に入っていた。
そしてシンゴがその短剣の存在を認識した瞬間、パキッ――という音が二つなり、マルスの胸元とウルトの懐から粉々になった『警鐘の十字架』の破片が零れ落ちた。
その破片が地に落ちる様子にシンゴが一瞬だけ目を奪われた次の瞬間、それは起きた。
「イイィィィィ――……」
そんな切なげな鳴き声を最後に、耳をつんざくような叫び声は遠ざかり、やがて『ミミズ』の化け物は光の粒子となって霧散した。
完全に日が落ちる寸前の血のように赤黒い景色の中に、化け物の残滓が星のように散らばり、ゆっくりと溶けるようにして消えていった。
「きゃ!」
「――――!?」
どこか儚げなその光景にしばし見入ってしまっていたシンゴは、モプラの上げた短い悲鳴を受けて我に返った。
咄嗟にモプラの悲鳴を追って顔を向けると、先ほどまでモプラがいた場所には何者かが立っており、モプラはそいつの脇に片手で抱えられるようにして捕まっていた。
「お前……!」
「その藍色の髪に、紅の装い……あなた、シアで合ってるかしら?」
シンゴが突然の乱入者の正体を看破するよりも先に、ウルトがその正体を見破った。
チラリと隣に視線だけをやれば、ウルトの目は鋭く細められ、足元には眠るマルスが横たえられていた。
一方、ウルトにその名を呼ばれた乱入者――シアは、髪と同じ色の目をシンゴに向け、次にウルトへ向けると、静かに目礼した。
「あなた様の噂はかねがね」
「……なら、わたしの顔に免じて、その子の身柄を返して欲しいのだけれど?」
不敵に微笑みながらウルトの発した強気な要求に、しかしシアは静かに首を振り、
「いえ、残念ですがそれは無理です。――『肉欲』は貰って行く」
「――――ッ」
シアの鋭い眼光に射竦められ、シンゴが身体を強張らせる横で、ウルトは「そう」と瞑目すると、再び開いた目にシアの眼光に劣らぬ鋭い光を宿らせながら告げた。
「一つ、聞きたいのだけれど」
「……なにか?」
ウルトは静かに答えるシアから視線を、抱えられて身じろぎしているモプラへとずらした。
「今あなたの言った『肉欲』とは、一体なんの事かしら? その子の権威はたしか、『色欲』という名だったはずだけれど」
「……そこまで知っているとは、さすが魔女と言うべきか……」
「あら、わたしを褒めても何もでないわよ? ――それと、その舐めた態度はいただけないわね」
ざわり――と、ウルトから濃密なプレッシャーが放たれ、シンゴは自分に向けられている訳でもないのに、思わず喉を鳴らした。
しかしシアは、まるでそよ風でも浴びているかのように平然とした態度を保っている。そして小さく「いえ」と呟くと、
「そんなつもりは毛頭。それに、あなたは既に“結果”を見ている。それなら、その名を明かすくらいならいいでしょう。ここは、『時読みの魔女』に敬意を表して――」
そう呟くと、シアはチラリと暴れるモプラに視線を向けた。
「あれは名を、シャ――」
「そいつの目を見ろモプラぁ――!!」
「――――ッ!」
シアの言葉を遮り、シンゴがモプラに向かって大声で指示を飛ばした。
モプラはその意味を瞬時に理解したのか、首を強引にひねるようにして顔を上に向け、涙の跡が残る『色欲』の目でシアの目を見た。
――が。
「…………え?」
怪訝そうに眉を寄せたモプラの小さな声が、緊張に満たされた場にポツリと落とされた。
そしてそれはシンゴも同じで、隣のウルトも目の前の結果を受けて形のいい眉をひそめている。
「……はぁ」
モプラと目を合わせ、本来なら『色欲』の権威による狂いそうなほどの情欲に支配されるはずなのに、シアは眉一つ動かさず小さなため息を漏らしただけだった。
驚愕する面々の中、一番の驚愕を受けて表情を固まらせていたモプラが、何かに気付いたように目を見開いた。
「もしかして……その、目……」
「――チッ」
モプラの指摘に、シアは誤算だと言わんばかりに舌打ちを零した。
その様子を受け、未だに『色欲』不発の原因が分からないシンゴの隣で、ウルトが「なるほど……」と目を細めた。
「にわかには信じ難い事だけれど、あなた……盲目かしら?」
「え!?」
「…………」
ウルトの告げた事実にシンゴが驚愕を顕にする一方、当の本人は無言で佇んだままだ。
しかし、否定の言葉はいつまで待っても出てこなかった。――つまり、本当にシアは目が見えていないのだ。
「でも、そんな素振りは……」
「眼球の動かし方も常人のそれ。元は見えていたのならまだ分かるわ。でも、もし生まれつきの盲目なら、それは――」
――それは、きっと驚くべき事なのだろう。
目が見えていないという事実も驚きだが、盲目を感じさせないその演技力。そして、まるで目が見えているかのように目の前の事象を観測する、その術。それらを我が物とするために、彼は一体どれほどの苦悩と努力を重ねてきたのだろうか。
シンゴが触れたのは、シアという少年の人生――その表層の一部分にすぎない。だが、その一部分だけで分かる。きっと、シンゴには想像もつかない人生を彼は歩んできたのだ。
シンゴが状況も立場も忘れて、シアに微かな哀れみを抱いた時だった。シアが嫌悪感を隠そうともせず、激しい感情を剥き出しにしながらシンゴを睨み付けてきた。
「おい……お前如きが僕を推し量ろうとするな。僕はシアだ……シアの人生は僕だけのものだ! 知ったような顔で、そんな哀れみを僕に向けてくるなぁ――ッ!!」
「…………ッ」
鬼のような形相を浮かべ、激情を剥き出しにしたシアが浴びせてきた怒声に、シンゴは気圧されて思わず後ずさった。
しかし否定されても尚シンゴは、激しく感情を顕にしていてもまったく目が見えていないなどとは感じさせないシアの振る舞いに、尊敬に近い念を抱くのをやめられなかった。
あの男はモプラを連れ去ろうとしている敵だ。目的は分からないが、おそらく善ではないだろう。しかし彼の己の人生との向き合い方だけは、純粋に尊敬に値すると思えた。
そんな相反する感情に板挟みにされながら、シンゴはこの矛盾はきっと大事なものなのだと感じた。そもそも人とは、矛盾を内包する生き物なのだから――。
「後ろじゃ――!!」
「――――?」
――それは、意識の隙間に滑り込むようにして発せられた。
「お前のような下賤な者が私の弟を測るな」
気を回す余裕もなかったのか、年寄り口調になるウルトの叫び声。そしてシンゴのすぐ背後から聞こえた、底冷えするような怒りを孕んだ静かな声。
無防備に振り返ったシンゴが見たのは、腰を落としながら足を前後に開き、腰にある剣の柄に手を添えながら、凍り付くような鋭い眼光を紅の瞳に揺らめかせた紅髪の少女で――、
「私の名はテラ。――死に土産にくれてあげます」
「え――ごがぁッ!?」
一瞬、何かが閃いたかと思えば、シンゴは喉を焼く灼熱に限界まで双眸を押し開いた。
明滅する視界。ごぼごぼと溺れるような感覚。叫びたいのに、喉はまるで熱して溶かされた鉛を直接流し込まれたかのように熱く、完全に塞がってしまっていた。
「ごっ……ぶ……ッ」
「――? おかしいですね。確実に即死させたと思ったのですが、案外しぶとい様子で。――では」
目の前で誰かが何か喋っているような気がするが、沸騰するシンゴの脳はそれを正しく認識できずにいた。そして、シンゴは不意に頭蓋の中が涼しくなったのを感じた。
声を出そうとして、口ではなく、かなり下の方でボコッと音が鳴る。そしてなぜか、その音が二つ聞こえたような気がした。
まるで徐々に紙が火に食まれていくように、視界が闇にゆっくりと飲み込まれていく。
最後の意思を振り絞り、何があったのかを確認しようと目に意識を集中すると、そこには不可解な景色が広がっていた。
――世界が、二つに割れていた。
その二つの世界で、まったく同じ二人の少女が、天高く剣を振り上げて立っている。
その光景を最後に、シンゴは意識が深い闇の中に沈んでいくのを感じながら、耳元で何度も聞いた事のある声を聞いた。
気さくに肩に手を回し、優しく魂を絡め捕るような声音で、終わりを告げる無慈悲な宣告を聞いた。
死神が、『死』を囁く声を、聞いた――。




