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虚飾のアリス ‐不死の少年と白黒の吸血鬼‐  作者: 竜馬
第3章 誘蛾灯に魅入られし少女
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第3章:12 『誘蛾灯』

 キサラギ・シンゴは、モプラ・テン・ストンプと、おそらくその後を追っているマルス、その二人が上って行った階段の前に立っていた。

 階段は薄暗く、どうやら螺旋階段になっているようだ。


「んー……」


 その螺旋階段の手前でシンゴは腕を組んで唸り声を上げた。

 理由は、このままあの二人を追いかけてもよいのだろうか、という疑問が不意に頭裏を過ったからだ。


 他の誰か――いがみは状況をややこしくしそうなので必然的に除外。すると残るはイレナしかいないのだが、ここで一つ問題が浮かび上がってきた。


「帰り道、分かんねえ……」


 『影』に追われ、シンゴは無我夢中でここまで走って来た。その所為で、自分が一体どの辺りにいるのかがさっぱり分からなくなってしまっているのだ。

 かといって、『ディスティニー・スティック』を頼りに元の道を探そうにも、全ての分かれ道でいちいち靴を投げていては時間がかかるし、試行回数に比例して外れの道を引き当てる確率も上がってしまう。


 一度でも道を間違えれば、後は運に任せるしかなくなる。

 そうなってしまえば、不幸に定評のあるシンゴでは些か分が悪い。


 それにこれは直感なのだが、ここであの二人の後を追わないという選択肢には、何か嫌な予感が付きまとった。

 ここが何かしら重大な分岐点なのだと、シンゴはそう感じていた。

 以上の事から、眉根のしわの数を増やしつつ、唸るように喉を鳴らした末にシンゴが出した決断は――、


「行く、か……」


 二人の後を追う――だった。


 そうと決まれば、即行動だ。

 シンゴは紅くしたままにしてあった右目に意識を集中する。さすがに階段は遠近感が狂って危ないので、片目を閉じて上る事はしない。


 一段目に足をかけ、そのまま時計回りにどんどん上っていく。

 階段には等間隔で『陽石』が備え付けられていたが、螺旋階段という構造上その光はあまり広範囲に及ばない。


 しかし、シンゴには右目の暗視能力があるため、さほど苦労する事も無く順調に階段を踏破していった。

 そして上る道すがら、シンゴは先にここを上って行ったであろう二人の事を考えた。


 マルスはここに住んでいて慣れているはずなので大丈夫だろうが、モプラはフードを目深に被っているので心配だ。しかし、途中で彼女が転ぶ音やそれに伴う悲鳴は一度も聞こえなかったので、どうやら無事に上まで辿り着いたらしい。

 その事に内心ホッとなるが、すぐに別の疑問が浮かんでくる。


「どうして、モプラは外に出ようとしたんだ? トイレの場所はちゃんと聞いてただろうし、一応旅には慣れてるっぽいから、そう簡単に迷子にはならないはずだよな……?」


 顎に手を当て、自分の声が狭い螺旋階段の中に反響するのを聞きながら、シンゴは首を傾げる。


「そもそも、イレナは何してんだ? 一緒じゃねえって事は、モプラが一人で部屋の外に出てくのを見送ったって事になるけど、あの子供に過保護なイレナの事だし、絶対に一人でうろつかせるような真似はしねえと思うんだけど……」


 と、そこまで考えながら、シンゴは何か嫌な予感がふつふつと込み上げてくるのを感じていた。

 ここからもう一段階深く踏み込めば、自ずとその嫌な予感の正体は判明するだろう。

 しかしこれは、本当に踏み込んでもよい類のものなのだろうか。結果的に踏み込んで、その嫌な予感の解決に繋がればよいが、踏み込んでしまったが故に状況が悪化してしまい、『嫌な』の部分がより助長されてしまうといった場合も、十分に有り得るのだ。


 そこまで考えたシンゴは立ち止まり、瞑目して思考に一旦ブレーキをかける。

 しかし数秒の沈黙を経たのちに、その躊躇を振り払って「ふう」と息を吐くと、開眼。ブレーキから足をどけると同時に、歩みを再開させた。


「となると、残る可能性は……モプラが、寝ているイレナに黙って部屋をこっそり抜け出した……とかか?」


 ――それは、なぜだ?


「トイレに行くのなら、それを誰かに知られるのは恥ずかしいってお年頃で、しかも女の子だし、尚の事……」


 ――違う。目を逸らそうとしてはいけない。


「いや、そうじゃない」


 かぶりを振り、シンゴは一つ前の考えを否定。


「トイレに行くなら、わざわざ階段を上る必要なんてねえ……なら」


 話しをするためにイレナを呼び出した際、モプラの見せたどこか引っかかるような態度が思い起こされる。

 何か思い詰めたような雰囲気。そしてそこに、モプラのどこか自罰的な性格が加われば、いよいよ嫌な予感は加速する。


「まさか……」


 シンゴは弾かれたように顔を上げた。

 もしかして、モプラは誰にも告げず、一人ここから立ち去ろうとしているのではないだろうか。

 テラとシアの双子に狙われているから、シンゴ達には迷惑をかけないためにここから黙って立ち去ろう、といった辺りが妥当な動機か。


「――くそッ!」


 シンゴは短く毒づくと、一段飛ばしで階段を駆け上がり始めた。

 今の推測が正しいかどうかは問題ではない。間違っていればそれに越した事はないが、もしも今の推測が正しかったとなれば、こんな呑気に階段を上がっている場合ではない。


「そうか、もしかしてマルスは――!」


 振り返ってみれば、マルスはモプラに好意のようなものを示し、よく彼女の事を見ていた。

 傍から見ていれば微笑ましい限りだったが、それが今回、モプラの様子がどこかおかしいと気付くための一助になったのであれば――。


 部屋からそっと抜け出したモプラを、偶然マルスが見かけたと仮定する。そして彼女の様子がどこかおかしいと感じた彼は、その後をつけた。――事の経緯は、おそらくこんな感じだろう。


「――――!」


 不意に上る螺旋階段の先に、『陽石』の光とはまた違った光が差し込んだ。

 その光は徐々に強く、そして広範囲に及び始める。おそらく、外の光が入り込んできているのだ。

 その光の強さが、もうすぐ出口に到達するという事をシンゴに伝えてくれる。


「お、ぁああ――ッ!」


 先ほどの全力疾走の影響で体が訴えてくる疲労を、喉から迸らせた咆哮で吹き飛ばす。

 そして、光がみるみる強くなり、やがて――、


「――出たぁ!!」


 膝に手を着き、はぁはぁと荒い息を吐いて呼吸を整えながら、シンゴは顎を伝う汗を乱暴に拭って辺りに視線を走らせた。

 シンゴが出てきた階段の入り口、もしくは出口は、床が持ち上がって開閉する形となっており、最初にシンゴ達がマルスに誘われたあの床下の穴と構造は一緒だ。


 それが今は開きっぱなしとなっていて、それ故に外の光が螺旋階段に差し込んできたのだろう。

 そして螺旋階段が繋がっていたのは、どこかしらの民家の中――その台所のような場所だった。

 当然のように台所は石材で作られており、人の営みが忘れられたという証拠がヒビとなってあちこちに現れている。それに剥がれ、崩れ落ちた石片以外に物は何も見当たらない。


 おそらくではあるが、調理器具など使える物は元々の持ち主が持って行ったか、それとも誰かが盗っていたのだろう。

 いや、今はそんなどうでもいい考察をしている暇はない。


 あまり広くない台所から進めるのは二方向のみで、片方はリビングのような場所へと続いている。

 もう片方は綺麗な長方形に切り抜かれた、無理をすれば人が二人は通り抜けられそうな穴がぽっかりと開いている。そしてどうやらそこは、外へと通じているようだ。


「こっちか――!」


 おそらくそこには本来扉があり、勝手口のような役割を担っていたのだろう。しかし今は、常に解放されている状態だ。

 シンゴはその旧勝手口から外へ飛び出すと、ぐるっと辺りを見渡した。


「……夕方、か」


 シンゴが出た場所は、人に見捨てられたゴーストタウン、そのどこかしらの通りだった。

 そして、通りに立ち並ぶ半ば崩壊した家々は、沈む夕日によって茜色一色に染め上げられており、どこか哀愁と寂寥感が感じられた。

 まるで時間の流れから置いて行かれたかのようなその街並みを前に、言い知れぬ感情が込み上げてくるのを感じて、思わず呆然とその場に立ち竦んでいた時だった。


「――――ぇ!!」


「――――!」


 どこか聞き覚えのある少女の悲鳴じみた声が、硬直していたシンゴの意識を無理やり現実へと引き戻した。


「今のは……!」


 一瞬のタイムラグを乗り越え、シンゴは今しがたの悲鳴がモプラのもので間違いないと判断。

声が聞こえた方へ弾かれたように振り返ると、その先にあった路地が視界内に飛び込んできた。


「あそこか――!」


 建物と建物の隙間、幻想的な夕日の朱色が暗い影に塗りつぶされて、どこかひんやりと冷たく薄暗い路地中に駆け込む。

 細く、複雑に入り組んだ路地にシンゴは舌打ちを一つ零す。なにかとシンゴはこういった迷路じみた道に縁があるようだ。いや、そもそもこの世界にはこんな場所が多いのだろうか。


 そうであればこれほど、呼吸をするように迷子になるシンゴと悪い意味で相性のいい世界はそうないだろう。


「そ……じょ……メぇ――!!」


「――! モプラ!!」


 虫食い状態のモプラの叫び声を頼りに、複雑な通路を右へ左へと走り抜けていく。

 確実に近付いている感じはある。だが、それと同時に腹の奥底からじわじわと侵食するように湧き上がってくるこれは、一体何だ。


 心臓を冷気で撫でられるような、この嫌な感覚。それはモプラ達に近付いていると確信すると共に、どんどん大きくなっていく。


「――クソがぁ!!」


 痛む肺の奥、心臓を殴りつけるように握った拳を胸に叩き付け、同時に口汚く咆哮する事で嫌なイメージを振り払うと、シンゴは一段とギアを上げて加速した。


「こっちに来ちゃダメぇ――!!」


「らぁ――!」


 はっきりと聞こえたモプラの拒絶の声に、シンゴは体を斜めに倒してドリフトするように足を滑らせ、最後の角を曲がった。

 そこで二つの人影が視界に入り込み、その場でたたらを踏むようにして急ブレーキ。

 慣性で前傾する上体を腹筋と背筋で引き戻し、顔を上げた。


 光の届かない薄暗いそこは、今しがたシンゴが走り抜けてきた路地よりも建物間の幅が倍以上に広く、スペースにかなりの余裕がある。そして路地はこの直線を最後に終わり、表通りへと繋がっていた。


 さらに奥へと目をやれば、燃えるような朱に染まる崩壊した街並み――その一部が見て取れた。

 まるでトンネルの中から見た外の景色のような真っ赤な世界。その紅の世界とシンゴに挟まれた空間、暗い路地の真ん中にモプラとマルスはいた。


「おい、大丈夫――」


 声をかけようとしたシンゴは、二人の様子に何か違和感を感じ取り、途中で口を噤んだ。

 右目を再び深紅に染め上げると、その違和感の正体を確かめるべく鮮明度の上がった視界で、改めて二人の様子を観察する。

 その観察の結果を受け、シンゴは不審げに眉を寄せた。


 まず、目に見えておかしいと分かるのが、モプラだ。

 彼女は己の体を掻き抱くような格好で、その場にぺたりとお尻を着けて座り込み、「出て……こない、でぇ……」と、不可解な呟きを零している。

 そして、普段なら目深に被っているはずのフードは、今は完全に取り払われてしまっており、桃色の頭髪と、その下にある痣と兎耳を隠すためのバンダナが露出していた。


「――――」


 シンゴは無言のまま、次にマルスへと紅い目を向ける。

 マルスはモプラとは違ってちゃんと二本の足で立っており、今はゆっくりとモプラに向かって歩みを進めていた。

 見たところ特に目立った外傷もなく、モプラと比べてなんら問題は――


「――おい」


 シンゴは目を細めると、マルスに向かって鋭く声を投げかけた。

 しかしマルスからの反応はなく、しかもよく見れば、マルスの足取りはふらふらとして幽鬼めいており、顔はここからではちゃんと見えないが、モプラを一心不乱に見詰めているらしいのが分かった。


「おい、マルス」


「…………」


 今度は名指しで呼びかけるが、それでもマルスからの反応はない。

 ざわり――と、何か胸騒ぎに似た感覚が胸の奥で渦巻いた。


「マルスッ!!」


「…………」


「一体どうし……ぁ」


 大声で呼びかけても一向に反応を示さず、マルスはゆっくりと一定のペースを保って、モプラとの距離を詰めていく。

 その様子に疑問の声を上げようとして、シンゴは一つの可能性に思い至り、目を大きく見開いた。


「まさか……」


 まるでモプラ以外が見えていないかのような、マルスの不可解な態度。

 そんな彼と似た症状を、シンゴは知っていた。というより、実体験した事があった。

 そこまで思考のプロセスが達した時、シンゴは全身が粟立つのを感じた。


 震える唇は渇き切っており、口を開こうとした瞬間にピキッと割れ、針で刺すような痛みが神経を焼いた。

 その傷が吸血鬼の力ですぐさま塞がっていくのを感じながら、シンゴは舌で唇を湿らせてから、質問を投げかけた。


「見たのか? ――モプラの『目』を」


「…………」


 返事はない。

 だが、それがもはや答えみたいなものだった。


「おね、がい……と、めて! じゃない、と……もう、抑え……られないっ」


「――――ッ」


 何かを堪えるように、途切れ途切れで発せられるモプラの悲痛な懇願。

 シンゴはそれを受け、モプラの言葉の意味を考えるよりも先に走り出していた。

 どうしてかは分からないが、このままだとなにか取り返しのつかない事が起こると本能が告げていた。


 ここにきて、先ほどから感じていた冷気はその温度を一気に下げ、なおかつ巨大なまでに膨れ上がっていた。

 もはや心臓を撫でるなどといった生易しいものではなく、冷気はさらに範囲を拡大し、臓腑を、そして首筋を辿って脳までを優しく凍てつかせていく。


 同時に、頭の中では最大音量で警鐘が鳴り響き、そのあまりのうるささに思わず耳を塞いでしまいたい衝動に駆られる。

 しかし今は、そんなものに構っていられる余裕はない。本能はひっきりなしに逃げろと警告してくるが、それらを全て無視して、シンゴは無限にも感じられる距離をひた走った。


 まるで時間が高密度に圧縮されたかのように、世界がスローモーションに見え始める。

 そんな中ゆっくりと、しかし確実に動けないモプラに向かって歩み寄るマルスを見て、シンゴは場違いだなと感じながらも、とある風景を幻視していた。


 月も星も雲に隠れ、真っ暗な闇に支配される夜。その暗闇の中でぼんやりと輝く光源を天辺に頂く、一本の棒。

 その光を目指し、一心不乱に飛んでいく虫。

 そう、つまり――、


 ――『誘蛾灯』に吸い寄せられる虫みたいだな、と。


 そしてシンゴは知っている。誘蛾灯が虫を誘き寄せるのは、決してそれが目的などではないという事を。誘蛾灯にとって虫を誘き寄せる事は、ただの過程にすぎない。

 なら、誘蛾灯の目的とは、その存在理由とはなんだろうか。

 答えは簡単だ。誰にでも分かる。そう、誘蛾灯に与えられた使命とは――、



 虫を誘き寄せて――殺す事だ。



「ダメぇ――――ッッッ!!!!」


 モプラの絶叫を合図にしたかのように、彼女の背後の地面が、ぼごっ――と隆起した。

 そしてその隆起が収まる気配は一向になく、徐々に盛り上がり、地面に無数の亀裂を生んでいく。

 やがて、その隆起がある一定まで達した瞬間、不意に隆起が止まった。

 次の瞬間――、


「――――あ?」


 ズルルルルルルルルルルルルルルルルルルルル。


 ――と、聞いた者に生理的嫌悪感を否応なく呼び起こさせる湿った音を立てながら、『それ』は地面の下から姿を現した。


 口を開けて固まるシンゴの目の前、体をうねうねとくねらせながら這い出てきた『それ』は、その場でいったんぶるりと身体を震わせると、茜色に陰りが見え始めた空を仰いだ。

 まるで、地上に出てこられた事、そして自らに課せられた使命を全うできる事に歓喜するように。


 知らの間にシンゴの足は止まっており、その異様な生物の全貌を前に絶句して立ち竦む。

 いや、全貌という表現は間違っていた。なぜなら、『それ』の身体はまだ地中に埋もれたままだからだ。


 『それ』は、ざっと成人男性三人分ほどの太さをほこり、地上に飛び出ている部分だけでも目測で、軽く二十メートルはくだらない長さだ。

 それだけでもう十分だというのに、『それ』の体色はその威容に反してピンク色というコミカルな色をしており、体の表面はぬらぬらとしていて体毛の類は皆無。

 まるで他者に嫌悪感を抱かせるためだけにその色形をしているのでは、と思わせるその容貌は、その期待に沿うようで癪だが、醜悪の一言以外の感想が出てこない。


「――――」


「ひっ――」


 不意に『それ』は、シンゴの視線に気付いたかのように首をもたげ、滑らかな動きで見下ろしてきた。いや、首をもたげるという表現も、眼前の『それ』には適切ではない。なぜなら、そもそも首が存在していないからだ。


 より正しく言えば、その体は根元から頭部に至るまで一直線。足、手、腰や胸、首といった区切りを付ける事が不可能な構造をしている。

 そして頭部に関しては、耳も鼻も目も、当然だが頭髪も存在していない。あるのは、真ん丸な穴という表現がしっくりくる、口だけだ。


 その口は『それ』の天辺部分にぽっかりと開いており、そこからダラダラと粘着質な唾液が滴り落ちている。そして唾液が落ちた石畳が、じゅう――と煙を上げながら溶解するのを、シンゴは視界の端で見て取った。

 しかし、シンゴの意識が向けられているのは、その異様な容貌でも、口から滴り落ちる唾液でも、ぐずぐずと溶けていく石畳でもなかった。


 なら、一体どこを見ているのか。――答えは口だ。いや、もっと具体的に言えば、丸い口腔の縁にずらっと並ぶ、逆三角形の鋭利な牙だ。しかもその牙はぐるりと円形に並ぶだけでは飽き足らず、喉の奥へと向かって何列も何列も無数に並び立っていた。


 あの口の大きさならば、人が一人簡単に収まるだろう。そしてあの牙で肉を削がれながら胃に運ばれ、終わらぬ苦痛に喘ぎながらゆっくりと消化液で溶かされていく。きっと、骨すら残らないだろう。


 見下ろしてくる『それ』の特徴をざっとそこまで確認し終え、シンゴはようやく『それ』を言い表すに相応しい名に至る。『それ』の正体、もしくは最も姿形が近しい生物の名を上げるなら、それはまさしく――、


「ミミズ――」


「イィィィィィィィィッッッ!!!!」


「――――ッッ」


 シンゴがピンクの巨大生物を『ミミズ』と評した瞬間、まるでそのタイミングを見計らったかのように、醜悪な怪物が唾液をまき散らしながら耳障りな咆哮を迸らせた。

 耳をつんざくような、どこか悲鳴じみたその絶叫に大気が震え、地鳴りにも似た振動が足元を伝ってくる。


「が……ぁ……ッ」


 シンゴは思わず耳を塞ぎ、その場にうずくまる。

 耳を塞いでも尚、その指の間からすり抜けて鼓膜を蹂躙してくる怪物の咆哮。それに必死に抗いながら、シンゴはきつく閉じていた瞼を右目だけ持ち上げた。


 深紅の瞳に映ったのは、頭を抱えて力なく項垂れるモプラの姿だ。

 そんな彼女の目元から、ぽたぽたと滴が零れ落ちているのが見えた。そしてその滴を通して夕日の残り火が見え、零れ落ちる水滴はまるで血のようだ。

 やがて、大気を震わす『ミミズ』の絶叫が遠ざかるにつれ、小さな呟きが聞こえてきた。


「――なさい……殺さ、ないで……。お願い……もういや……いやだよぉ。もう……殺さないでぇ……」


 ――聞こえた。


「誰か……助けてぇ」


 モプラ・テン・ストンプの嘆きが――助けを求める声が聞こえた。


「…………」


 シンゴは無言で、再び立ち上がる。

 相変わらず状況は呑み込めず、目の前にはミミズの化け物。シンゴが挑んだとしても、餌になりに行くようなものだ。

 だが、それでも、シンゴは死なない。だから、目の前で震えている小さな少女を救うためなら、どれほど痛い思いをしようが構わない。


 恐怖はある。だが、それを受け入れる覚悟はもう決まっている。

 一体何をすれば、この絶望的な状況からモプラを、そしてマルスを救い出せるのか。

 キサラギ・シンゴは強くない。魔法も、吸血鬼が持つはずの怪力も使えない。


 しかし、そんな悪条件など今更だ。無いなら、無いなりの戦い方をすればいい。

 使える物を全て使い、己という命さえ使い捨ての駒にするのだ。

 大丈夫。キサラギ・シンゴという駒は、何度でも補充が効く。だから、後は醜く足掻くだけだ。


 勝利条件も分からず、最適な解法すら不明。それらに辿り着くための取っ掛かりすら、一つも見当たらない。

 しかしそれは、目の前の現実を諦める理由には、決してならない。


 笑う膝に力を込め、拳を握り締め、無理やり笑みを作る。

 絶望上等。不条理も理不尽も上等。これ以上、ただ成すがままに振り回されるのは、もう御免だ。

 ここからは、全力で抗わせてもらおう。


「……おいこら、そこの気色わりぃミミズ。今からそっち行くから、動くんじゃねえぞ?」


 シンゴは不敵に笑いながらそう告げ、ありったけの勇気をかき集めて足を一歩、確実に一歩、前に踏み出した。そして間を置かずに二歩目、三歩目と足が回る。

 行ける。足は前に出た。竦み上がって動けなくなるという醜態を晒し、呆気なく終わるなどといった最悪の結果だけは回避できた。


 ここからさらに一歩ずつ、確実にトンネルを抜けるための歩みを続ければ、可能性を未来に繋げ続ければ、まだまだ何が起こるか分からない。

 消えてしまいそうなほど小さな光を見て取ったシンゴは、同時に足りない頭も使い、視線は何か使える物がないか周囲を探る。


 ――だが、世界はそんなシンゴのちっぽけな勇気も、悪足掻きも、僅かに見えた光明さえも、絶望という名の闇で呆気なく覆い尽くした。


「――! マルス!?」


「ぁ……ぅぅ」


 『ミミズ』の咆哮で尻もちを着いていたマルスが、再び起き上がり、モプラに向かって前進を再開したのだ。

 彼の開いた口からはぼたぼたと唾液が流れ落ち、腕をだらんと下げながら、まるで目の前の怪物すら眼中にない様子でモプラに向かって歩いていく。


「――は」


 ――『ミミズ』が、笑ったような気がした。


「おい……待て」


 『ミミズ』の顔の向きが、マルスに向く。

 その『ミミズ』の傍では、まるで次に訪れるであろう瞬間から目を逸らすように、モプラが地に額を押し付けながらひたすら涙を流し、懺悔の言葉を吐き出している。

 そして、そんな彼女を目指すように、マルスが一歩一歩、確実に近付いていく。


「待てって……おい、やめろ」


 嫌な予感がすぐ喉元までせり上がってくるのを感じながら、シンゴは青い顔を横に振る。しかし誰も、誰一人として、シンゴの言葉に耳を貸そうとしない。

 そしてシンゴは、『ミミズ』が何やらマルスを見下ろしながら体をたわめ、その凶悪な口腔を大きく広げたのを見て――


「や、やめろぉぉぉ――――ッッ!!??」


 瞬間、シンゴは全力で地を蹴った。

 同時に、『ミミズ』のたわめられた胴体がバネのように伸縮し、大口を開けた頭部がマルスに向かって砲弾のように射出された。


 再びシンゴを襲う、高密度に圧縮された時間。スローモーションに見える世界で、シンゴは見た。

 外界からの情報を全て断つために耳も塞いで、目の前の現実を諦めたモプラ。そんなモプラに向かって、恍惚な笑みを浮かべて歩み寄るマルス。そして、ふらふらと歩くマルス目がけて降り注ぐ――『ミミズ』の咢。


 ――間に合わない。


 彼我の距離はおよそ十メートルにも満たないが、それをあの『ミミズ』より速く走破してマルスを救うだけの走力はシンゴにない。

 手を伸ばせばすぐの距離が、今は途方もなく遠く感じる。まるで水の中を――いや、コールタールの中を進んでいるようだ。


「――――」


 シンゴを絶望へと追いやるために存在する、この空間が邪魔だ。いっそ憎いと言っていいほどに、このたかが空気の塊如きが、心の底から鬱陶しい。

 もしこの空間を取り払い、シンゴをマルスの元にまで運んでくれる方法があるのなら、シンゴはどんな代償を払う事も厭わない。


 どぐん――と、何かが胸の奥で脈打つのを感じた。

 その鼓動は徐々に大きくなり、明確に輪郭を形作っていく。

 もし、この得体の知れない何かに全てを委ねてしまえば、目の前の絶望のベールを取り払う事が可能だろうか。


 答えは、実行してみない事には分からない。

 これが一体なんなのか、そんな事など今はどうでもいい。

 シンゴは一瞬の躊躇をかなぐり捨て、湧き上がってくる得体の知れない力に身を委ね――


「あがぁ――!?」


 ズガァッ――と目の前の石畳が爆ぜ、衝撃波でシンゴは後方へ吹き飛ばされた。

 何度も地面をバウンドし、幾度も転がってようやく制止する。


「ぉ……あっ……ああああ……ッ」


 額を切ったのか、流れ落ちる血が右の視界を真っ赤に染める。しかしそれもすぐに蒸発し、白い煙を上げ始めた。

 煙によって塞がれる右目に対し、無事な左目を上げたシンゴは、目の前に広がる絶望の光景に悲痛な声を漏らした。


 まるで小さな隕石が衝突したかのようにめくれ上がった石畳。そのクレーターの中心で、体をぐるぐると右に左に小刻みに回す、『ミミズ』の怪物の影があった。

 その様子はさながら、肉片を一つ残さず口内に収めるために、地面に口を擦りつけているようにも見えた。


 そしてその肉片とは、一体誰のものなのか――。

 それを認識した瞬間、シンゴは腹の奥底から血の気が引いて、急激に全身が冷たくなっていくのを感じた。


「ま、るす……」


 自分の口から出た言葉は、信じられないほどかすれていた。

 間に合わなかった。あの一瞬の躊躇が、得体の知れない何かに頼る事への恐怖が、マルスの生存への道を閉ざす結果になった。それはつまり、マルスを殺したのは――、


「お、れ……」


 そう認識した瞬間、シンゴは自分の心がどこまでも沈んでいくような錯覚に襲われた。

 知らず口からは渇いた笑みが漏れ出し、『ミミズ』が地面から鳴らすゴリゴリという石臼を擦るような音と、モプラの泣き声のみが、完全に日の落ちた路地に響き渡る。


 どぐん――と、今度は先ほどのものとは違う何かが、己の中で脈打つのを感じた。

 ドス黒く、コールタールのように粘付いた感情が湧き上がってきては、それに共鳴するように脈動は速く、そして強くなっていく。


「…………」


 ゆらりと立ち上がったシンゴは、ジッと目の前の害虫を見据える。

 そのシンゴの異様な雰囲気に気付いたのか、『ミミズ』が体の回転をピタリと止める。

 動きを止めた『ミミズ』を細めた目で見ながら、シンゴは足を一歩前に踏み出して、


「ころ――」


「これ、早まるな」


「――――!?」


 不意に真横から声がかけられ、シンゴはぎょっとして隣を見た。

 いつの間にそこに居たのか、シンゴの隣には、ローブで全身を包んだ謎の人物が立っていた。

 声のトーンと、ローブの上からでも分かるその豊満な体つきから女性だと判断できるが、その素性は不明だ。しかし、シンゴの意識はまったく別のものへと向けられていた。


「あ……」


 驚愕に目を押し開いたシンゴが凝視するのは、そのローブの女性の腕の中で眠る一人の少年だ。

 シンゴの見ているものが幻覚などではなければ、その少年は今しがた『ミミズ』に捕食され、壮絶な死を迎えたはずだ。


 しかし、少年の胸は微かに上下し、穏やかな寝息を立てている。

 これが幻覚でないのなら――と、シンゴは徐々に湧き上がってくる安心感に相好を崩した。

 そして大きな声で、


「マル――」


「黙れ。大きな声を出さんでも、マルスは無事じゃ」


「スぅ――……」


 シンゴが大声を上げて駆け寄ろうとした瞬間、ローブの女性が小さくも鋭い、覇気のこもった一喝を飛ばしてきた。

 出鼻を挫かれたシンゴは思わず鼻白むが、すぐにローブの女性の言う意味が理解でき、ハッと口を手で塞いだ。


 謎の女性もシンゴが気付いたと見て取ったのか、「それでよい」と一つ頷く。そして顎で前方をしゃくって示すと、静かな声音で言った。


「あまり、アレを刺激するでない」


「…………」


 シンゴは、先ほどから頭を地面に突き刺したまま微動だにしない『ミミズ』の化け物に、チラリと視線だけを向ける。

 動きがないのを確認すると、次に女性の腕の中で眠るマルスに視線を移す。

 マルスの無事を改めてちゃんと確認でき、シンゴはようやく肩の力を少しだけ抜いた。


「――ふふ」


「…………」


 フードの隙間から覗く口の端を釣り上げた女性が、シンゴのそんな反応を見てか、不意に妖艶な笑みを漏らした。

 シンゴは『ミミズ』の化け物に油断なく意識を向けながら、隣の素性不明の女性に内心で首をひねった。




 一体この人は何者で、シンゴの味方なのだろうか――と。


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