第3章:11 『扉の向こう側』
「…………」
イレナ・バレンシールは割り当てられた部屋の中に入ると、後ろ手に石造りの扉を閉め、そのまま扉にもたれかかった。そして虚空を見詰めるように立ち竦む。
現在の彼女の様子は、一言でいえば心ここにあらずといった感じだった。
やがてイレナはおもむろに右手を持ち上げ、その掌に視線を落とす。先ほどまでそこにあった温もりが、まだほんの僅かであるが残っている気がした。
その温もりの残滓を確かめるように掌を開閉。やがてぐっと拳を握ると、大事そうに胸元に引き寄せて――、
「えへへ」
もう片方の手で後頭部をわしわししながら、照れ笑いのように相好をへにゃりと崩した。
第三者が今の彼女を見れば、その嬉しそうな様子から思わず釣られて笑みが零れてしまうような、そんな純粋な笑みだった。
そして、その嬉しそうなという評価はあながち間違ってはいなかった。というのも、つい先ほど悩みの種が解決されたのだ。――と言っても、厳密には解決と言い切るにはもどかしく、未だ問題の火種はくすぶってはいる。それでも、根本的な問題はどうにかなったのだという手応えがあった。故に、残り火が完全に消えてくれるのも時間の問題だとイレナは思う。
しかしそれが、今の彼女の嬉しそうな態度――実はその半分でしかないと、本人に自覚はない。
しかしそんな事実になどイレナは気付く様子もなく、再び開いた掌に視線を落としながらほっと息を吐いた。そしてまたしても「ふふ――」と笑みを零し、
「これできっと、もう大丈夫。そうよ、あたしが無理やりにでも荷物を持ってやればよかったのよ。でも、本人も預けてくれる気になってくれたし……というか、あたしには全部預ける気満々だったっけ」
苦笑に近い笑みを漏らして嬉しそうに頷くイレナだったが、ふとそこで何やら視線を感じて、掌に落としていた目線を部屋の奥にやった。
そこには――、
「…………」
「モプらぅいッ――!?」
完全に先人の存在を失念していたイレナは驚きのあまりぎょっとなるが、身を引いた瞬間、こちらも存在を失念していた背後の石扉に後頭部を強打する。
「いったぁ……」
その場で蹲り、後頭部を押さえながらしばし悶絶していると、いつまで経っても向こうからの反応が返ってこず、不審に思って顔を上げる。
じんじんと痛みを発する頭部をさすりながら、イレナはうっすらと涙の浮かぶ目を部屋の奥にいる少女――モプラ・テン・ストンプに向けた。
「……モプラ?」
先ほどの醜態を見られていたかもという羞恥が、不自然に沈黙するモプラに対する疑念で上書きされる。
モプラはここでも相変わらずフードを目深に被っており、その表情を窺い知る事は難しい。しかし、何かぼうっとしているというのは分かった。
「ねえ、モプラ!」
「――! はひぃ!?」
イレナは眉を寄せながら沈黙するモプラに近付くと、一瞬だけ躊躇するような素振りを見せたが、すぐに「そっか、あたし女だった」と聞いている側が心配になる呟きを零す。そしてその場で腰を落とすと、イレナは大きな声音でモプラに呼びかけた。
そんな大きな声での呼びかけを受けたモプラはというと、座ったままその場で垂直に飛び跳ねるといった器用な真似でようやく反応。そしてすぐ目の前にあるイレナの訝しげな顔を見て、初めてその存在に気付いた様子で――、
「あ……イレナさん。えっと、お話は……もう?」
「うん。たぶん、シンゴはもう大丈夫だと思う。――もし、シンゴが何かモプラに相談してきたら、聞いてあげるだけでもいいから、力になってあげて?」
「あ……はい」
快い返事を聞く事ができ、イレナは満面の笑みで「うんうん」と頷いた。が、すぐにその表情を訝しげなものへ再び戻し、「それにしても――」と首を傾げた。
「もしかしてだけど、モプラ。何か悩みが……ないって方が、おかしいわよね」
尋ねる形から、途中で察したようにイレナは言葉の内容を変えると、そっと形のいい眉を下げた。
そして慮るような表情で、その碧眼に気遣うような色を浮かべた。
「いっぱい……いっぱいあったのよね」
「…………」
イレナのその呟きに、モプラは肯定でも否定でもなく、ただ俯いた。
そんなモプラの様子を心配げに見ていたイレナだったが、何を考えたのか、突然モプラのフードを捲り上げた。
「え――ぁ!?」
「大丈夫。今ここには、あたししかいないわ。それに、モプラの力は女のあたしには効かないはずよ。――あたしの目を見て、モプラ」
イレナの自分の目を見るように促す言葉を受け、モプラは肩をびくりと跳ねさせると、首を横に振る。だが、イレナ・バレンシールはそんな事で引き下がるような少女ではない。
イレナは俯いて首を横に振るモプラの頬を両手で挟み込むようにして捕えると、そのまま引っ張り上げ、強引に顔を上げさせた。
「あ……」
「――ね? なんともないでしょ?」
桃色に怪しく輝くモプラの双眸が大きく見開かれ、すぐ目の前にある優しげな笑みを浮かべる少女の顔を映し出す。
イレナはその桃色の瞳に目を細め、「きれいじゃない」と笑みを深めた。
そんなイレナの評価を受け、モプラは口をぱくぱくさせて二の句が継げない様子。
そんなモプラの反応に、イレナはそっと目を伏せると、まるで姉が妹に語り聞かせるようにして言葉を紡ぎ始めた。
「ねえ、モプラ。さっきあたしね、シンゴにも言ったの。一人で抱え込むより、周りの人と一緒に頭を抱えた方がずっと楽よ、みたいな事を」
「わ、わたし……は」
瞳を震わせ、何かを逡巡するように視線を逸らすモプラに、イレナはそっと笑みを消すと、真剣な面持ちで語りかける。
「いい? モプラが悩んでいるのを見てると、あたしも辛いんだよ?」
「イレナ、さん……も?」
「そうよ。そしてそれは、シンゴだって同じ。歪……はちょっと分からないけど、たぶん一緒。――いいのよ。苦しかったら、苦しいって言えば。荷物が重ければ、半分でもいいから持つのを手伝って欲しいって、言えばいいの。あなたはまだ子供よ。もっと周りの大人をたよっていいの。もちろん、このイレナお姉さんもね!」
「――――ッ!」
ウインクと共に微笑みかけるイレナに、モプラはその双眸を大きく押し開いた。
そんなモプラの頭をバンダナ越しに優しく撫でて、イレナは包み込むような微笑を浮かべて言う。
「それが子供の特権よ。使える内に使っとかなきゃ、もったいないわ」
「……ぁ」
イレナのその一言に、モプラの小さな口からその心の奥底に押し込められた感情――その一端が溢れ、小さな喘ぎとなって零れ落ちた。
そう、子供の内は大人に頼って、甘えればよいのだ。モプラの場合、生い立ちの背景が原因でそれができていない。いや、そもそもそんな事は考えもしなかったのだろう。
なら、寄りかかり方を教えてあげるが大人の義務だ。そして教えられるのは、子供の権利だ――。
「その、心配をおかけして……ごめんなさい。今まで、たくさん……たくさんあって、わたし……きっと、疲れてるんだと思うんです」
「うん」
「頭の中も、いっぱいぐちゃぐちゃで……。それに、権威の事もあるし……ノーミ・エコって人の事もあって……」
「うん」
「凄く、凄く不安で……寂しくって。でも、じゃあどうすればいいだろうって……またぐちゃぐちゃになって……っ」
「うん」
「わたし……わたしは……あ、あの!」
「なに?」
胸の内に渦巻く複雑な感情に翻弄されながら、纏まりきらない思考の吐露が続いた。そしてモプラはその顔を不意に上げ、何か決意のこもった声を上げた。
上げた先では、イレナが首を傾げながらも、優しげな微笑みを湛えて次の言葉を待ってくれている。
そんな全てを受け入れてくれるような態度に後押しされ、モプラの口が開かれる。
「わた、しは……わたしの……権威で!」
まるで喉が何かで塞がれてしまっているかのような錯覚に、モプラは何度か喘ぐように苦心して言葉を吐き出す。そして最後の一線、それを乗り越えようとして顔を苦渋に歪める。
イレナはそれを手助けせず、ただ沈黙をもって見守る。ここは、自分の力で乗り越えなければならないのだから。
そして、額に汗を、目尻には涙を浮かべ、何度も開閉を繰り返したモプラの口は――ついぞ、その先を述べる事はなかった。
「ごめん……なさい」
モプラはがっくりと脱力するように肩を落とし、イレナのせっかくの想いを無駄にした事に対しての罪悪感と、そんな自分への不甲斐なさに唇を噛み締めた。
そうして俯くモプラに、イレナは――、
「あたし、待ってるから」
「……え?」
その一言に涙で濡れる瞳を上げた瞬間、モプラは包み込むような温もりに抱擁されるのを感じた。
数瞬遅れて、モプラは自分がイレナに抱き締められているのだという事に気付いた。
それは、モプラにとって生まれてこのかた経験した事のない温もりで――。
やがてイレナはそっと体を離すと、口を開こうとして、その口を噤んだ。理由は、どこか名残惜しそうな表情を覗かせるモプラの顔を見てしまったからだ。
そんなモプラを見て、イレナは胸の奥に込み上げる愛おしさに思わず笑みを零す。
そして、瞑目してその感慨をそっと心の奥に仕舞いこむと、次に目を開けた時のイレナ・バレンシールの顔は、見る者に勇気を与える、力強いもので――。
「――待ってるから。モプラがあたしにその背中の荷物を預けてくれるの……待ってるからね」
「…………考えて、おきます」
「うん!」
数秒の沈黙を経て頷くモプラに、イレナが笑みを弾けさせる。モプラはそんなイレナの笑みを見て、眩しそうに目を細めた。
やがてイレナは「よっこいしょ」と、およそ乙女が上げてはならない類の掛け声と共に立ち上がり、腰に手を当ててぐっと背を逸らしながら、
「ん〜〜! さて、そろそろ寝ましょうか! ちゃんと寝ておかないと、この後ある話し合いで、自分の意見を言う前に自分の処遇が勝手に決められちゃうわよ?」
「それは……困ります」
「いや……軽い冗談よ?」
真剣な表情で頷いて、そそくさと横になるモプラにイレナは苦笑。
こちらに向けられた背中に少しだけ悲しげな表情を覗かせるが、首を振ると自分も横になる。当然、体の正面はモプラに向けて、だ。
イレナは、その小さくてか弱い背中を黙って見詰める。そして、およそ数十秒の時間が流れた頃に、ぽつりと呟いた。
「イレナのお悩み相談教室は……いつでも、誰でも歓迎よ」
「――――」
「ん……寝ちゃったかぁ。うん、あたしも……ふぁ。――さっさと寝よぉ」
モプラから反応が返ってこないのを受け、相当疲れていたのだろうとイレナは判断。それも無理ない話か。聞いていただけでも、本当に色々あったみたいだから。
しかしそれはイレナにも言える事である。横になって目を閉じると、すぐさま猛烈な睡魔に襲われた。
「――それでも、わたしのした事は……決して、許されない」
イレナは意識が完全に睡魔に呑まれる寸前、何か小さな呟きを聞いた気がしたが、まどろむ意識がそれを正確に認識する事はなかった――。
―――――――――――――――――――――――――
「――んあ?」
――キサラギ・シンゴは、二つの要因で目を覚ました。
まず一つ目は、睡眠途中で目が覚める理由――その上位に食い込むであろうもの。即ち尿意だ。
下腹部が内部から圧迫され、気を抜けば大変な事になるのは目に見えている。――主に、ズボンとシンゴの名誉が。
しかしそれも、その尿意と並行してシンゴを襲っているもう一つの脅威と比べたら、実に些細な問題でしかなかった。
――何故ならそれは、尿意など意識から弾き出されてしまうほど壊滅的な破壊力を秘めていたからだ。
今まで経験してきた苦痛や絶望といったものとは、まったくの別ベクトル。第三者が観測すれば思わず吹き出すか、それともドン引きするかだろう。
また稀有な例だが、中には瞳を輝かせて拳を握る物好きな輩もいるかもしれない。
だが、目を覚ます――いや、覚まされた理由として述べるのであれば、これは斜め上もいいところ。
つまり、何が起きているかというと――、
「愛してるぜ、相棒――」
「ひぃいいいいいい!?」
クソ野郎が覆いかぶさるように抱き付き、シンゴの耳元で愛を囁いていた。
シンゴは血の気が引いた顔を思い切り逸らし、喉から悲痛な叫びを上げる。しかし何故かシンゴのそんな反応は逆効果を生んだようで、シンゴを抱き締める腕に込められる力が増した。
これには思わず――、
「きもいきもいきもいきもいきもいきもいぃぃぃ!!!!」
シンゴは青い顔を嫌々と振り回し、割とガチ目に涙を流しながら、背筋を駆け上ってくる怖気を舌に乗せ、そのままストレートに連呼。
これがもしアリスとか美少女なら諸手を上げて大歓迎なのだが、こんな腐腐腐な展開は断じてシンゴの望むものではない。というか、さっきから鼻息が耳に当たって物凄く気色悪い。何が好きで、野郎に耳元で愛を囁かれなければならないのか。
「つか、早くどけそして死ねボケぇ!!」
上にのしかかる害悪を手と足を使って全力で押し飛ばす。「おぐ」と苦鳴を漏らし、歪の体が数回転し、元のあるべき位置に帰る。
生理的嫌悪感に震えながらその場に四つん這いになって必死にえずいていると、何やら幸せそうな笑みを浮かべた歪が何かを呟いた。
嫌な予感を感じながらも好奇心には逆らえず、シンゴは恐る恐る耳をすませてみた。
――そして、すぐに後悔した。
「君との愛は……永久ぶっ」
忌むべき口が身の毛もよだつ言葉を吐き切る前に、シンゴは自分が下にしていた布を素早く丸め、歪の顔面に振り下ろすように叩き付けた。
そして軽蔑を宿した冷たい目で一言。
「お前は永久に寝てろ」
「――――」
変質者が完全に沈黙したのを見届け、シンゴは心の底からため息を吐く。
今ので完全に目は冴えてしまった。今から寝直すのはとてもではないが不可能だ。たとえ眠気が維持されていたとしても、こんな奴の隣で眠る事などできようものか。
それに、それら条件がクリアされたとしても、結局は尿意で寝付けないだろうし。
「しゃあないな……とりあえず便所に行くか」
とりあえずはトイレに行って、後は残りの休憩時間と相談して――と、シンゴは頭の中で予定を組み立てつつ、げんなりとした表情で立ち上がった。が、そこでふと重大な見落としに気付いてしまった。
「そういや、まずその時間を知る為の時計がねえ……」
元の世界と全く同じ構造である時を刻む機器――即ち時計。まず、それがこの部屋には存在していなかった。
女子部屋の隣――マルスのいる部屋にはあるだろうか。最初にウルトと会ったあの場所には確か、大きな古時計のような物があったはず。しかし生憎というか、ウルト初見時のインパクトが強すぎて、結局そのまま時計の存在は失念してここまで来てしまった。
当然、一度も時間の確認などしていない。
さらにこの場所が地下だという地理的条件も手伝って、一体今が何時なのかをおおよそですら推測もできず、完全に時間感覚がないというのが現状だった。
その今更すぎる事実にシンゴはがっくりと肩を落とすが、すぐに猛烈な尿意を感じて体を震わせた。
「しょうがねえ……まずはトイレに行って、その後にちょっくらマルスのとこに寄ってみるか……」
幸い、トイレの場所は既にマルスから聞き及んでいる。まずは思考の妨げになるこの尿意を解消し、次にマルスの部屋を訪ねようとシンゴは頭の中で行動方針を固める。
そうと決まれば――と、シンゴはそそくさと足音を立てないように石扉まで移動を開始した。
ここで奴を起こせば、「連れションしようぜ!」などと満面の笑みでのたまいかねない。
故にシンゴは、扉を開けるのにもたっぷり時間をかけ、細心の注意を払いながら部屋の外へ脱出。
そして奴が起きていない事を確認すると、詰めていた息をホッと吐き出した。
「はぁ……なんで部屋から出るのにこんなに疲れきゃなんねえんだよ……」
石扉もゆっくりと時間をかけて閉じ終え、シンゴはその場で心労の滲む恨み言を零す。
しかし、肩を落としたシンゴはその場で一瞬固まり、次に神妙な面持ちで隣を見やった。その視線の先には、女子部屋――つまり、イレナとモプラのいる一室がある。
当然シンゴが脳裏に思い描いたのは、イレナ・バレンシール方だ。
「…………」
シンゴは眠る前にイレナとした会話を思い返しながら、無言で己の掌に視線を落とす。
一度眠れば、このごちゃごちゃと複雑に絡む感情――そのほつれでも見付け出せるかもと思ったのだが、そう上手くはいかないようだ。
頭は仮眠でスッキリしたのか軽く、意識も明瞭で、体調も万全だ。それでも、この胸の隅で存在を主張する言葉にし難い感情は眠る前のまま――いや、むしろ意識がはっきりしていて思考のリソースが割ける分、その感情を強く認識できてしまい、より強調されてしまっているようにも感じられる。
そこまで考え、シンゴの脳裏に一つの可能性が浮上した。
「……もしかして」
――もしかして、本当に自分はどこか狂ってしまっているのではないだろうか。
そんな言葉が喉まで出かかり、シンゴは眉をひそめる。
今までシンゴは否定するしかしてこなかった。だが、もしもだ。もしも、シンゴが本当に狂っているとしたらどうだ。真剣に、誠実に向き合って、考えてみればどうだろうか。
これは人間関係と同じだ。たとえ第一印象が最悪でも、話してみれば案外普通な奴だった、という事はザラにある。
つまりはそれと一緒で、一度受け入れて、その上で吟味する。そうすれば、今まで見えてこなかった部分が見えてくるのではないだろうか。
まずは己が――キサラギ・シンゴが狂っているという事実を受け入れ、飲み干す。そうしてから、自分は狂っているという前提で自己を見つめ直すのだ。
「――――」
石壁に手を当て、瞑目する事――およそ一分。
シンゴは意図せず詰めていた息を吐き出し、顔を上げる。そして、新たな視点で見詰め直した己はどうだったのか、その結論を下した。
「やっぱ、心当たりなんてさっぱりだな……」
――キサラギ・シンゴは気付いていない。
「『影』が怪しいかなとは思ったけど、やっぱりアレは幻覚の一言で片付けるには無理があるし……それに、たかが幻覚にあんな“生々しい存在感”があるはずねえ……」
生々しい存在感――そう感じてしまうまでの領域に、既に片足を踏み入れてしまっているという事実に。
「つーか、こうやって独り言ぶつぶつ呟いてる事自体が、よくよく考えりゃ相当ヤバいんじゃねえか……?」
――キサラギ・シンゴは考えもしない。
「うぅ――と。やべ、漏れそう。独り言なんか呟いてないで、さっさとトイレに行かねえと……」
苦痛を、絶望を、理不尽を、そして『死』を重ねた果てに心は捻じれて、歪んでしまっている。それは常人なら廃人になっているはずの状態なのに、どうしてキサラギ・シンゴの『心』は、“崩壊”という決定的な二文字だけは拒み続ける事が出来ているのかを。
「――あ! そういや、モプラにもう一つ聞くの忘れてたな……」
――キサラギ・シンゴは知らない。
「あのテラとシアとかいう双子が言ってた、『肉欲』って呼び名。あれ、どういう意図が……」
木更木心護を――知らない。
――――――――――――――――――――
「ふぃー。すっきり、快適、御開帳――はしたらダメだな。……チャック、ちゃんと閉めたよな?」
用を足し終え、尿意から解放されたシンゴはホッとした顔で地下通路を歩いていた。
ふとチャックの閉め忘れが気になり、ちゃんと社会の窓が閉じているのを確認して、その時点でようやく急務の懸念事項はおおよそ片付いたはずだ。といっても、これからしなければならない事は沢山ある訳で、差し当たっての問題は現在時刻の確認だ。
「よし。それじゃ、マルスんとこに行きますかー」
口に出して処理すべき最初のタスクを確認。目的地はどこだったけ――と、マルスに教わった道順と自らの足でマッピングした道順を足した地図を、頭の中で開く。
その地図と現在地を照らし合わせながら歩いていると、目の前にさっそく分かれ道が現れた。
「……ほう」
シンゴは左右に伸びる通路を順に見ると、顎に手を当てて感嘆するようにそう呟く。
しばしそのままの姿勢でどちらの道に行くでもなく固まっていたシンゴだったが、よくよく見てみればその額には汗がびっしりと浮かんでいる。
改めて己の頭の中の地図と現在地を照らし合わせてみるが――おかしい。ここに分かれ道などあってはならない。
となれば、考え得る可能性は一つだ。
「ここ、定期的に構造が切り替わる仕組みか……」
一人戦慄するシンゴだったが、当然そのような機能などあるはずもなく、この状況は単にシンゴの持つ役立たずスキル――『迷子』が発動しただけ。
そしてその事実にシンゴは気付いた様子もなく、困ったように頭を掻くと、次には何か閃いたのかポンと手を打った。
「そうだ! こういう時は――と」
シンゴはおもむろに靴を片方脱ぎだすと、その場で軽く捻りを加えて投擲。靴は綺麗な回転を生み出しながら落下し、地面で数回のバウンドの後につま先を左向きにして止まった。
その結果を受け、シンゴは「よし」と頷いてから靴を回収。履き終えると、つま先が向いていた左の通路へと何の躊躇もなく歩を進めた。
棒に運命を委ねる、シンゴの十八番奥義その六――『ディスティニー・スティック』だ。
「まあ、今回は棒じゃなくて靴だけどな」
迷子になる事がなにかと多いシンゴが編み出した、迷子脱却術である。何かとその存在を創造主に忘れられるという悲しき業を背負ったこの奥義だが、今回はその存在を主に忘却される事無く、その効力を如何なく発揮した。ちなみにだが、その正解を引き当てる確率はなんと――、
「四割だ――!!」
ここにもしシンゴ以外の誰かがいれば、その微妙な結果に渋い顔をしたに違いない。しかし、もともと不幸に愛されているシンゴからしてみれば、この四割という数字は一笑に付す事のできない数字なのだ。
しかし裏を返せば、半分以上の確率で外れを引くと公言している事実に、シンゴは気付いていない。
「にしても……」
この通路が正しい道であると信じて疑わないシンゴだったが、不意に辺りをきょろきょろと見渡し始めた。
その顔に浮かぶのは、感嘆するような感情だ。
「ここ、めちゃくちゃ広いな。それにさっきからちらほらある階段って、ウルトさんが言ってた地上の入り口に繋がってるってやつだよな。となると、どの階段を使っても上に行けるのか。――便利」
この地下通路には、所々に上へと続く階段がいくつも存在している。今しがたシンゴが呟いた通り、おそらくこの階段はウルトの言っていた他の入り口――つまり、地上につくられた隠し通路的な場所と通じているのだろう。ならばこの階段を上がれば、必然的に地上――あのゴーストタウンの何処かに出られるはずだ。
秘密組織のアジトみたいなつくりでカッコいいな、などという少年なら誰しもが感じる感動に頬を緩めていた時だった。
シンゴは不意にその場で立ち止まる。
その顔には先ほどまでの気の抜けた笑みは既になく、固い表情に上塗りされている。そしてその目は、集中するように鋭く細められていた。
「――――」
息を潜め、全神経を尖らせる。知らず顔には汗が浮かび、一瞬の瞬きも己に許さない結果、眼球から徐々に水分が飛んで痛みが生じる。
しかしその痛みに構っていられる余裕などシンゴにはない。
何故か――答えは簡単だ。ここで五感のうち一つでも断てば、僅かではあるが拾える情報に限りができる。そしてそれは、致命的な隙になるとシンゴは本能的に悟っていたからだ。
だからこそ、この極限の集中状態は出来る限り長時間維持し続けなければならない。
「…………ッ」
瞬きを怠った結果、痛みと共に大量の涙が溢れ出し、瞼が痙攣を始める。瞬きをしたいという本能的な欲求に必死に抗いながらも、集中力は決して切らさない。ともすれば、今までの人生の中でかなり上位に食い込むレベルの没入度だった。
だが、やはり限界はやってくる。ここで一度瞬きを入れるべきか、一瞬の逡巡がシンゴの脳内で行われた――次の瞬間だった。
「――――ッ!?」
シンゴは弾かれるように振り向き、限界まで見開いた、乾いて血走ったその目を背後へと向けた。
「…………」
『陽石』が煌々と輝く、薄暗い通路。その奥の暗闇を凝視しながら、シンゴは自分の心臓が尋常ではない速さでリズムを刻むのを感じていた。
静寂に包まれる通路に反し、うるさいほどのリズムを刻む心音が嫌に鬱陶しく感じる。そんな他愛もない事に思考を割かなければ、この既視感に思わず絶叫してしまいそうだった。
――そう、既視感だ。
シンゴはこの感覚を、今までに何度も経験してきている。何を隠そうこれは、仮眠を取る前――イレナと一緒にいた際にも一度あった。
この前兆にも似た、ひりつくような空気。まるで飢えた獣に睨まれているような、このおぞましい熱視線。
胃がきりきりと絞り上げられ、口の中に唾が溜まる。
その唾を焦燥感と共に飲み下し、シンゴはどうするべきか思案するための余裕を得ようと深呼吸を――
「ぁ……あぁぁ」
目が見開かれ、意図せずに喉の奥からか細い悲鳴が零れ出た。しかし自分のそんな声すら、今はシンゴの耳には届かない。
何故なら、視認したからだ。――否、視認してしまったのだ。
胸中を占めるのは、ただひたすらに、またか――という絶望的な感慨だ。
またなのか。いや、もうなのか。あれからまだ一時間ほどしか経っていないというのに、もうその姿を現すのか。
前方からぎらぎらとした血走った眼が、ひたひたと冷たい足音を伴って近付いてくる。
数はざっと、五・六体か。いや、その奥にさらにもう何体かいるようにも感じられる。
粘つくような欲望――ただ純粋に食べたいという原始的な欲求を、奴らはシンゴへ無遠慮にぶつけてくる。
もう何度もそれを向けられているのに、一向に慣れる気配はない。むしろ邂逅を重ねるごとに、その残酷で無慈悲な欲望に対して抱く恐怖心が増幅されていっている気がする。
心の奥底に刻まれた傷が忌々しい記憶を伴って産声を上げる。
網膜の裏にチラつくのは、唾液の糸を引いた鋭い牙。体に蘇る感覚は、腹の奥から大事な何かを貪り取られていく喪失感。
それを刻んだ魔物――その取り巻きの姿を模す、シンゴを理由もなく付け狙う奴ら。
――『影』だ。
「ああぁぁあッッ!!!!」
認識した瞬間、シンゴは駆け出していた。
走る、といった表現が正しいのかも怪しい疾走。腕を無茶苦茶に振り回し、頭の位置も安定を欠き、足をもつれさせながらもなんとか転倒だけは堪えているといった、見るに堪えない走り様だった。
「なんで俺で……俺にしか俺なんで……ハァ……俺俺の俺腹にぃッッ!?」
息を切らしながら零す言葉は、ちゃんとした意味を成しているか怪しい。シンゴ自身、自分が何を口走っているのかちゃんと認識できていない。それでも何か呟いていなければ、背後に迫る『影』の恐怖に心が屈してしまいそうだった。
「なんっなんで、アイツら!? 考えないでも……はぁ……考える? ――考え!」
形の崩れた怪しい日本語を意味なく垂れ流していると、自分の吐き出した言葉の中に光明が見えた気がした。
それはこの状況から脱するための名案などではなく、ただこの恐怖から目を背けるためだけのものだ。
つまりシンゴは、よりによって今この状況で、あの『影』達について考察してみようというのだ。
「考えろかんがぐおかんがっかんが、考えぇ!!」
過去、あの『影』の事を打ち明けた際は、妄想の類だと笑われた。確かにシンゴも逆の立場なら同じ反応をしただろう。しかしこと当事者となれば、話は変わってくる。
振り返って確認する事すらおぞましい、背後から迫ってくる『影』。これほどまでにリアルなものが、たかが妄想の一言で片付けられていいはずがない。であれば、奴らの正体は、そして目的はなんなのか。
正体に関しては以前に考察した通り、何故かシンゴが授かった『怠惰』という力が原因に違いない。もう一つの可能性としては、吸血鬼化の影響が考えられる。しかし、それならばアリスが事前に何か言ってくるはずだ。――いや、そもそもアリスは他者を吸血鬼化させるのは初めてだと言っていたではないか。それに、彼女は他の事例を知らない。だから、そのデメリットについて知らなくても不思議ではない。
それでも、やはり可能性が高いのは『怠惰』の方だろう。
一言で言ってしまえば、吸血鬼化は体質。それに対し、『怠惰』は不可思議な力そのものだ。どちらの方があのような『影』を生み出す可能性が高いかと少し考えれば、自ずと後者が怪しいと判断できる。
なぜ、『影』がシンゴのトラウマに沿った姿形を象っているかまでは分からない。しかしそれも、何か理由があるはず――
「――ベルフ」
そこまで思考し、シンゴはあの『影』の正体を知っているかもしれない存在に行き当たった。
「ぁ……ぁぁあああ! ベルフ、ベルフぅ! 助け、助けて! アイツらを消せぇ――!!」
だが、この状況で『影』の正体と目的を知ったところでどうにもならない。今必要なのは、この状況から脱する方法だ。それに『影』の目的など考えなくても分かる。シンゴを食べる事、奴らの目的などそれ以外に考えられない。
捕まれば、どうなるか。そんな事、想像する事すら恐ろしい。
だからこそ、シンゴは全力疾走で暴れまくる己の心臓の上に手を当て、必死に内側に怒鳴りかけた。己の内にいるはずである半身のみの炎鳥に向かって、一縷の望みをかけて。
――しかし、反応は一向に返ってこない。
「なん、で――ッ!?」
馴染んだ――とは、ベルフが言った言葉だっただろうか。つまりそれは、『怠惰』とかいう得体の知れない『罪人』由来の力が、シンゴに馴染んだという認識で間違いないだろう。
なら、もはや考えるまでもなく分かる、『怠惰』とベルフの関連性。それなら、馴染んだのなら、わざわざあの校舎にまでシンゴが出向かずとも、会話くらいできても不思議ではないはずだ。
現に、これまでにも何度かベルフの『声』が聞こえた事はあった。なら、双方で意思疎通が出来てもおかしくないはずだ。
しかし、シンゴはカワードとの一件以来、死に至るような負傷は負っていない。つまり、あの校舎には行っていない。
それ故にカワードとの一件以降ベルフとは会っていない。だからといって向こうから話しかけてくるという事も一度もない。
シンゴはカワードとの一件以降、ベルフとは会話していない。
痣に変化があったのだ。その事について、ベルフがシンゴに何も言ってこないのは妙だ。
確かにベルフはシンゴを死に至らしめるような行動を取ってきた。しかし、それが決して敵意からくるものではないという事は、なんとなくではあるが察せている。
その証拠に、ベルフは何度かシンゴに助言をくれた事もあった。
なら、話せないのには何か理由があるのではないか。それとも、条件でも揃わないと話せないのか。
条件については皆目見当もつかないが、理由に関してはどうだろう。
話せない。口が開かない。口を開く力がない。いや、そもそも距離が離れているというのはどうだろうか。
原因は――何だ?
「はっはぁ、ひふっ……はぁ」
全力疾走を続けながら、シンゴはベルフとの会話が不可能な原因を考えるという現実逃避に勤しむ。
そして、貴重な酸素を存分に使い捨てた果てにシンゴが至った結論、それは――、
「カワード……ッ!」
そう、やはりそこに行き着くのだ。
ベルフの『声』が聞こえなくなったのは、カワードの一件以降だ。なら、そこに何か理由があるはずなのだ。何か、小さな変化が、そこに――。
「はぁ……あの、時……っ」
最後、イレナによって別空間へと飛ばされたカワードが再び這い出し、その首を唐突に現れたグリストア・ジャイルが一瞬で切り離した――その後だ。
シンゴの中に得体の知れない『何か』が、キサラギ・シンゴという存在を無理やり抉り掘るようにして、潜り込んできた感覚があった。
その時の記憶は想像を絶する激痛によって曖昧だが、意識が落ちる寸前、誰かの絶叫を狭窄していく意識の中で聞いた気がする。
当初は激痛やら存在を抉られるような不快感に隠れてしまい、後々振り返ってみた際にはなんとも思わなかったが、事ここに至り初めて意識してみると、どうだろう。あの絶叫は、どこかで聞いた事がないだろうか。
そう、あの絶叫を上げた主は、シンゴの記憶が確かなら――、
「ベル――!?」
そこまで思考が至った瞬間、シンゴは前方に部屋があるのに気が付いた。
体力もそろそろ限界に近い。背後から伝わってくる気配も、距離はある程度ある。
即座にそこまで確認すると、シンゴは躊躇わず部屋の中に飛び込み、震える手で扉を急いで閉じた。
「っ……はぁっ! はぁ、はぁ……っ、はぁ」
喘ぐように浅い呼吸をしながら、扉にもたれかかるようにして体で封鎖。
自分の荒い呼吸を脳の処理内から意識して除外し、部屋の外に聞き耳を立てる。
まるで時間を高密度に圧縮したようにどっしりと重く、そして分厚い一瞬。
「はぁ……ふぅ……ッ!?」
無限にも感じられるその時間感覚の中、己の呼吸音と心音以外で不意に割り込む異分子。一定間隔で近付いてくる柔らかい音。その音に、爪が擦れるような音が付随する。
獣がゆっくりと足を地面に擦らせるようにして歩けば、こんな音が出るに違いない。そしてそれは、本来の獣の習性とはどこかズレている。なぜなら、獣は本来、獲物に対して隠密でならなければいけないのだ。
それがわざわざ、獲物に対し自分の存在を示すかのように近付いてきている。
その行為の意味する事とは――、
「ぃ……ひ」
――遊んでいる。
『影』は紛れもなく、獲物をいたぶって遊ぶように、己らの存在をわざと獲物に伝えているのだ。
そしてここでの獲物とは、言うまでもなくキサラギ・シンゴの事だ。
徐々に、その荒い息遣いまでもが聞こえてきた。
その気配は一つ。複数体の中から、代表個体とでも言うべき存在が近付いてきているのだろうか。
「……っ」
口を両手で押さえ、恐怖で漏れ出そうになる呼気を出来得る限り小さくしようと試みる。
既に居場所が露見しているこの状況で、その行為が意味を成さないという考えなど、シンゴの頭の中には存在しない。
――がり、がり、がり、がり、がり、がり、がり、がり、がり、がり。
「〜〜〜〜ッッ!!!!」
すぐの後ろで、何かを爪で引っ掻くような音が上がり始める。
その振動が首裏に伝わってきて、シンゴは自分の手に思い切り噛み付く事でなんとか悲鳴を堪えた。
手の皮膚が破け、出血する。口の中に鉄の味が広がる中、不意に煙のようなものが上がって、シンゴは体を強張らせた。
しかしそれが、吸血鬼の再生能力による血液の蒸発だと分かり、ホッと体の強張りを解く。
未だにがりがりと爪で引っ掻く音は木霊しているが、どうやら壁などをすり抜けてくる事はないようだ。
その事実を認識すると同時、シンゴは幾分かの冷静さを取り戻せたような気がした。
決して危機が去ったわけではないが、自分は今、外よりは安全な場所にいる。その事実に安心感が込み上げてきて、もたれかかる石扉が救いの神にも感じられた。
だが、そんな感慨も一瞬で吹き飛ぶ事となった。
――がりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがり。
「――ッ!? あああああああああああああ!?」
引っ掻く音が重複し、その数と大きさが数倍以上に膨れ上がった。
恐怖のあまりシンゴは絶叫を上げ、部屋の奥に転がるようにし扉から距離を取ってしまう。
咄嗟に後悔するがもう遅い。引っ掻き音はまるでシンゴが扉の前から退いたのを察したように、ピタリと止んだ。
「……………………」
シンゴは、恐る恐る手の怪我の影響で紅く染まった右目を、扉へと向けた。
背後にはひんやりと冷たい石壁。つまり、これ以上は逃げられない。
そう認識した途端、恐怖で頬が引き攣り、唇は震え出し、歯の根が合わずにカチカチと音を鳴らし始めた。そして知らぬ間に涙が流れ、胸中を絶望の二文字が満たす。
やがて――、
ズズズズ――と、重々しい音を立てながら、石の扉が開いた。
「あ、ああ、あぁあぁあぁぁぁぁぁぁぁッッッッ」
呻くようにか細い悲鳴を漏らし、すぐ目前に迫った逃れられない絶望に頭を抱える。
今すぐ理性を手放し、狂い叫びたい衝動に駆られるが、視線はゆっくりと開かれていく扉から離す事ができない。それも当然だ。すぐ目の前に肉食獣が大口を開けているというのに、それから目を逸らせなどできようものか。
しかしそれで、飛びかける理性を辛うじて繋ぎ止めていられるのだから、これを皮肉以外の言葉でどう表現すればいいだろうか。
「ご……めんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんごめんごめんごめんごめん嫌だ嫌だ嫌だいあだいやぁだぁ……――」
呻き声は懺悔の言葉になり、まるでその変化を歓迎するように扉が完全に開いた。
次の瞬間、待ち構えていた『影』達がその空腹を満たさんと、シンゴに向かって我先に飛びかかって――
「――――え?」
訪れるはずの激痛が襲ってこず、シンゴは呆けた声を漏らし、恐る恐る顔を上げた。
その濡れた瞳が見たのは、開き切った石扉。そこから見える薄暗い通路には、何もいなかった。
しかしその事実に安堵する事も、呆然となる時間もなかった。何故なら、開いた扉の前を、誰かが小走りで通り過ぎたからだ。
それも明らかにシンゴの存在に気付いた上で、素通りした。
「い、まのは……」
目を見開き、空白に染まる脳でその人物の情報を処理し、今のが誰なのかを推測しようとシンゴは苦心するが、刻一刻と変化する状況がそれを許さない。
不意に新たな闖入者の顔が、部屋の中を覗き込んできたのだ。
「――――ッ!」
突然の事に、咄嗟に口に手を当てて息を押し殺す。
しかし、その闖入者の訝しげな顔が誰のものなのかを理解した途端、シンゴの体の強張りが氷解するように解かれた。
首を傾げながら部屋の中を覗き込んでいたのは、マルスだったからだ。
しかしホッとするのも束の間、マルスはハッと何かを思い出したように、先ほど部屋の前を通り抜けて行った人影が進んだ方向に首を向けた。そしてそのままこちらを一瞥する事なく、乱暴に扉を閉めてしまう。
「――――?」
遠ざかっていく足音を聞きながら、シンゴは疑問符を浮かべる。
今しがたのマルスの態度は、まるでシンゴが見えていないかのような振る舞いだったからだ。
「……あ」
と、そこでシンゴはマルスの態度に納得のいく答えに至った。
おそらくマルスは、部屋の中が暗すぎてシンゴの姿が見えなかったのだ。
通路から差し込む『陽石』の光は光源が部屋から遠いのか、入り口付近までしか届いていなかった。そしてシンゴは部屋の奥にいて、それに加えてこの部屋の中には『陽石』が一つもなく、暗闇に満たされていた。
しかし、シンゴには吸血鬼の目がある。暗闇の中でも、シンゴには昼間のように明るく視えていたのだ。
さらにシンゴが咄嗟に息を押し殺した事も、マルスがシンゴに気付かない原因、その手助けになってしまったのだろう。
と、そこまで先ほどのマルスの不可解な態度について考察したシンゴは、そもそもなぜ、マルスがこんな所にいたのかという今更すぎる疑問に至る。
「そういや、なんか焦ってたような……追いかけてた?」
マルスの先を急ぐような素振り、そしてマルスより先に部屋の前を通り過ぎた人影。
その人影の特徴をようやく落ち着いてきた脳でゆっくりと処理し、その人物の正体に理解が至ると同時に、シンゴは訝しげに首を傾げた。
なぜなら、その人物は――、
「モプラ……だったよな?」
逃げるように走り去って行った人影は、間違いなくモプラ・テン・ストンプだったからだ。
彼女はフードに覆われた顔を一瞬だけ部屋の中へと向け、シンゴの存在をはっきりと認識しておきながら素通りした。いや、もしかしたらその認識はシンゴの思い上がりで、ただ扉が開いていたから気になって見てしまった、という可能性の方が高いかもしれない。
そしておそらくマルスは、そんなモプラの後を追っていた。
「…………」
シンゴは深呼吸をしてから立ち上がると、ゆっくりと扉を開いて外の様子を窺った。
外に『影』の姿は見当たらず、その気配もまったく感じなかった。モプラ達が近くに来たから消えたのだろうか。
「いや、今は……」
かぶりを振って思考を中断すると、シンゴは外に出る。そして、ひとまず『影』の脅威から逃れた事にホッと安堵する。
そうして息を吐いたシンゴは、次にモプラとマルスが走り去って行った方向を、左目を閉じて深紅に輝く右目だけで見た。
薄暗い通路の真ん中に浮かび上がる紅い瞳が、光量が足りずに常人では見る事の叶わない通路の奥、その果てまでをなんの苦労もなく見通した。
通路は真っ直ぐ伸びており、途中には曲がり角はおろか、部屋も一つもなく、最後には行き止まりになっている。
いや、厳密には行き止まりではない。
なぜなら――、
「階段……か?」
薄暗い廊下、その突き当りで上へと伸びる階段の存在を、深紅の右目ははっきりと映し出したのだった――。
話を動かすとか活動報告で書いたような気がするんですが、結果、最後に動く兆しを見せるだけで終わってしまいました、ごめんなさい!
次回は確実に動きますので、どうかご容赦を!




