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虚飾のアリス ‐不死の少年と白黒の吸血鬼‐  作者: 竜馬
第1章 リジオンの村
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第1章:5 『悪夢』

 フレイズ一家の厚意に甘えさせてもらい、シンゴは先ほどまで自分が眠っていた部屋に、アリスはユリカの部屋に泊めてもらうこととなった。

 アリスとは、今後の予定の相談は明日改めてするとのことで別れた。


 部屋に戻りベッドに腰を下ろして一息つくと、シンゴはそのまま後ろに倒れ込む。

 ぼうっと天井を見上げる。そしてそっと目を閉じると、己の内に渦巻く様々な感情を自覚できた。

 

 複雑に絡み合う感情を一つ一つ列挙するのは難しい。しかし、その中でも二つの感情が異彩を放っている。


 ――まず、『死』への恐怖。


 こればかりは簡単に拭い去ることはできそうにない。

 あの生々しくて苦しい瞬間を思い出すだけで、体の奥から血の気が引いていくのが分かる。


「――――ッ」


 シンゴはかぶりを振って思い返すのを中断する。

 しかし、学ぶことはあった。それは、ここはシンゴが暮らしていた世界とは全く異なる世界であるということだ。


 言語や文化が一緒でも、その価値観は全く持って別物。

 シンゴが身を持って経験した通り、この世界にはいささか暴力的な一面を持っている者もいる。しかし誰もがそうではないということを、この家の人たちと会話し、その好意に触れたシンゴはちゃんと理解している。


「でも、少し気を引き締めねえとな……」


 そう締め括ると、シンゴは己の中で強い存在感を主張するもう一つの感情に触れる。

 シンゴがこの世界に来た理由――つまり、イチゴのことだ。

 今イチゴはどこで何をしているのか。この家の人たちのような優しい人と出会えているか。


 心配し出したらきりがない。だが、どうしても一つだけ気になることがある。

 それは――、


「沢谷……優子」


 イチゴと共に行方知れずとなっている、狂った女のことだ。

 先ほどふとシンゴが考察した中に、もしかしたら裂け目の先はランダムで決められるのではないかというものがあった。それも、そのランダム性は時間によって決められているのではないか、とも。


 その考察でいくと、イチゴが危険だ。

 あの女のことだ。もしかしたら、まだイチゴを殺すことを諦めていない可能性も十分に考えられる。


「くそ……ッ! なんでこんな目に……」


 シンゴは言い知れぬ理不尽にため息を吐くと、ふつふつと湧き上がってくる怒りと焦燥感を吐き出した。

 それでも、内でくすぶるその二つの黒い感情は消えてくれない。


 シンゴは「ふぅ」と吐息し目を閉じると、意識して頭の中を空っぽにする。

 すると、思っていたより疲労が残っていたのか、すぐに眠気がどっと押し寄せて来て、キサラギ・シンゴの意識は徐々に闇の中へ沈んでいった――。



――――――――――――――――――――



 ――夢を見た。


 イチゴが死ぬ夢。間に合わなかった夢。

 沢谷優子の凶刃によって命を散らし、イチゴが倒れ伏す光景が眼前に広がる。


「……ろ」


 倒れ伏すイチゴの亡骸を沢谷優子は必要以上に斬りつける。

 狂笑を上げ、幾度も刃を振り下ろす。その度に、イチゴの亡骸から鮮血が迸る。


「やめろ……」


 顔を両手で覆い、その場に膝を着く。

 何もできない。怖くて近付けない。“アレ”に近付けば、今度はシンゴが“ああ”なる。

 『死』の恐怖を実感する。実感すれば、自ずと足は竦み、視界が狭まる。


「やめて……くれ……」


 故に、キサラギ・シンゴはただ懇願するしかできない。

 こんな自分が情けなくて。そんな自分の臆病さに心底腹が立った。


「うそつき」


「――――ッ!?」


 不意に、しわがれた老婆のような呟きがシンゴの耳朶を打った。

 恐る恐る伏せていた顔を上げると、いつの間にか沢谷優子の姿はなかった。

 そこにあるのは、顔も分からないほどぐちゃぐちゃにされた妹の亡骸だけだ。


「うそつき」


「ひ……ッ」


 辛うじて形を留めていたイチゴの口が、別人のようなしわがれた声で呪詛を吐き出した。

 顔が恐怖で引き攣ったシンゴは、その場から距離を取ろうとして失敗する。理由は、自分の体を捕まえる複数の手だ。


「え……ぅ、ああああああああああああ!?」


 イチゴの亡骸が三人、シンゴの体にしがみ付いていた。

 その力は少女の力を逸脱しており、シンゴの体をその場に縫い付ける。


「うそつき」


「やめろぉ!!」


 その場に押さえつけられたシンゴの眼前、最初に倒れ伏していたイチゴの亡骸がずるり動き、シンゴに向かって這い出した。

 動くたびに鮮血が漏れ、動くたびに破れた腹から臓物が零れ落ちる。


「うそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつき」


 まるで合唱でもするかのように、シンゴに覆い被さるイチゴの死体たちが歌い始めた。


「うそつき」「一緒にいてくれるって言ったのに」「うそつき」「一緒に帰ろうって言ったのに」「うそつき」「なんで私だけ死んでるの?」「うそつき」「助けてよ……」「うそつき」


「「「「お兄ちゃん」」」」


「やめろぉぉぉぉぉぉぉおおおおおッッ!!!!」


 絶叫するシンゴは、恐怖に顔を引き攣らせながら涙を流す。

 決してこんな結末を望んでいた訳ではない。ただ、『死』に近付いたシンゴは、その『死』の恐ろしさを知っていて――。


 やがて、這うように進んできたイチゴの亡骸が、押さえつけられたシンゴの眼前にやってくる。

 ぐじゅりと潰れた片目。そしてもう片方は眼球が抉り取られていており、その暗い眼窩がシンゴをじっと見詰めていた。


「あ……あぁ……」


 歯の根が合わないシンゴの脳裏に、あのとき見た死体の虚ろな目と、眼前の妹だったものの虚ろな空洞が重なる。

 たまらず、その場で激しく嘔吐する。


 その間にも、イチゴの亡骸はシンゴの体に纏わり付いてきて、嘔吐する兄の耳元で優しく囁いた。


「お兄ちゃんは、何で生き残っているの?」


 次の瞬間、体中に纏わり付いていたイチゴの亡骸たちが、シンゴの体を信じられない力で捻り始めた。


「いぃ!? あがっ、やめ……や、ぎゃあああああああああッ!!!!」


 手足があらぬ方向に折り曲げられる。

 絶叫し、意識が朦朧とするシンゴに、這って来た最初で最後のイチゴの亡骸が、骨と青い血管が剥き出しになった両手をそっと差し出す。


 その原型を留め切れていない手は、愛おしい物に触れるようにシンゴの頬へ触れ――


「ぉぶ――――」


 兄の首を捩じ切った。

 複数のイチゴの亡骸がシンゴの首を愛おしそうに囲む。


 そして――、


「これで、ずっと一緒だね……お兄ちゃん」



――――――――――――――――――――



「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめ――」


「シンゴ!!」


 肩を激しく揺さぶられ、名前を呼ばれたことではっとなる。

 眼前に飛び込んでくるのは、心配そうに己の顔を覗き込むアリスだ。


「ア……リス? あれ……俺、何して……」


 何か恐ろしい夢を見た気がするが、思い出そうとすると猛烈な不快感が込み上げて来て、シンゴは思わず口を押さえる。

 そんなシンゴの背を気遣わしげにさすりながら、アリスが状況を説明する。


「君を起こしに部屋の前まで来たら、中から叫び声が聞こえたんだ。……一体、何があったんだい?」


「……分か、らない……思い出せない。何か、すっげえ怖い夢を見た気がするのは、確かなんだけど……」


 ――最悪の目覚めだった。


 背中は気持ち悪い汗でびっしょりになり、心臓は早鐘のように胸骨を打ち付けている。

 シンゴは荒い息を吐きながら、深い深呼吸をして心を落ち着ける。そして、アリスに礼と謝罪を告げた。


「それはいいんだけど……」


 心配そうに見詰めてくるアリスに、シンゴは気丈に笑って見せる。

 しかし、頭の片隅では先ほど見た夢について考察する。


 夢とは、基本的には覚えていないことの方が多い。その大半は目覚めと同時に忘却される。覚えている方が稀なのだ。

 故に、キサラギ・シンゴは無理して夢の内容を思い出そうとするのはやめた。

 夢は忘れてしまうものだと割り切ったのもあるが、何か、思い出してはいけないような気がしたから。


「…………」


「シンゴ?」


 黙り込んだまま固まってしまったシンゴに、アリスが心配そうな声音で呼びかけてくる。


「ああ……ごめん。ちょっと夢の内容を思い出そうとしたんだけど、無理っぽい。――でも、夢ってそんなもんだしな!」


「シンゴ……」


「そんな顔すんなよ、アリス。俺なら大丈夫だって! というか、悪夢でうなされて女の子に心配されてる現状の方がキツイって!」


「…………」


 そう言ってサムズアップするシンゴだったが、その頬は引き攣り、目は充血し、瞳はギラギラと危うい光を宿していたことに、当人は最後まで気付けないのであった――。



――――――――――――――――――――



 ケイナが縫ってくれたのか、綺麗に穴の塞がった制服に袖を通すと、シンゴは昨日教えてもらった場所――シンゴたちがこの村に来る際に寄った川で水浴びをするため、外に出る。


 ふと、先ほどの一幕――ボクも一緒に行くと言い出したアリスを全力で説得するという一波瀾を回想し、シンゴは疲れたため息を吐いてから、ぐるっと辺りを見渡す。


 山の影から半分だけ顔を覗かせる太陽。その光を弾いて輝く朝靄が、どこか神秘的だ。

 そして次に、その朝靄にうっすらと包まれる村の様子に視線を移す。


 シンゴがお世話になっていた村長の家は、この『リジオン』というらしい村の北側に位置する。

 さすが村長の家というべきか、辺りに見える家より幾分か大きい。


「さて……行きますか」


 川はここから南に向かって進み、あの広場のようなところを右折した先にある。

 やがて広場に到着したシンゴだったが、その眉は寄せられ、何やら難しい顔だ。

 理由は、ここに来るまでに挨拶を交わした村人たちにある。


 何故かは分からないが、皆一様にシンゴのことを「鳥のにいちゃん」だの「鳥の坊や」と呼び、挙句の果てには「鳥」と呼ばれたのだ。


「まさか、人間否定されるとは思わなかった……」


 そう呟くシンゴの体は、ところどころが薄汚れている。

 というのも、あまりに「鳥、鳥――」と言われ、シンゴはこの世界の鳥はもしや自分に似ているのではと思い、空を仰いだ。


 ――しかしここで、キサラギ・シンゴの不運が発動。


 地面に埋まるように顔を出していた石に足を引っ掛け、盛大に転倒したのだ。


 確実に手から血が出たと思ったが、不幸中の幸い。手の平は砂利が付着していただけで、特に目立った傷は見受けられなかった。


「転んだ後にそんな幸運発揮されてもなあ……」


 シンゴはため息を吐くと、ふと広場を見渡した。

 そしてその視線が、とある一点で止まる。


「確か、あの辺……だったよな」


 見覚えのある広場に、シンゴ手は無意識のうちに腹部へと当てられる。

 一体自分がどうやって助かったのか。水浴びを終えたら、この世界の発展した治療法を聞いておかなければと思いながら、歩みを再開させる。


 道は木に囲まれた林道へと続いており、シンゴは霧に包まれる道を歩きながら水浴びの決まりを思い出す。

 この村には風呂はなく、川での水浴びがその代わりらしい。


 その水浴びだが、当然のことながら男女で時間が割り振られている。

 ちなみに今日の午前中は男の水浴び時間とのこと。

 補足ではあるが、覗きが発覚した場合、それはもう恐ろしいことが待っているらしい。具体的な内容は伏せられたが、その話題になった際の怯えたカズの顔が忘れられない。


「一体なにがあったんだよ……」


 げんなりして呟くシンゴだったが、実はこの決まりに救われた場面もあった。

 というのも、先ほどのアリスが言い出した水浴びの同行の件なのだが、何故かアリスは鬼気迫る勢いでシンゴに付いていくと言い、顔を真っ赤にしながらも一歩も引かなかったのだ。


 しかし、先ほどの男女の時間別割り当てのことを持ち出され、さらにケイナに優しく諭されたアリスは、しぶしぶながら引き下がってくれた。

 この決まりがなければ、アリスの説得にはもう少し時間がかかっただろう。


「――にしても……」


 顔を真っ赤にしながらも懸命に食い下がるアリスを思い出し、シンゴは首を傾げる。


「どこでフラグ立ったかなあ……」


 アリスみたいな美少女に気に入られるのは正直に嬉しいが、どこかで立てたはずのフラグが見当たらず、シンゴは頭を悩ませる。それも、出会ってそう時間も経っていないのにも関わらずである。


 一目惚れですと言われてしまえばそれで終わりだが、初対面時のアリスからはそんな気配は微塵も感じなかった。


「う~ん……」


 難しい顔で首を捻るシンゴだったが、今朝の自分がどんな顔をしていたか気付けていたなら、彼はこんな考えには至らなかっただろう。


「――お、着いたか」


 考えごとをしているうちに、シンゴは川辺へと辿り着いていた。

 さらさらと流れる川は、山から顔を覗かせる太陽光を浴びてきらきらと輝いている。

 そしてその水は驚くほど澄んでいて、川の底まで鮮明に見通せるほどだった。


 その美しさに感動していると、不意に横から声がかけられた。


「よぉ、シンゴじゃねぇか」


 声の主は上半身裸でこちらに歩いて来ると、水が滴る短い髪を掻き上げる。そしてシンゴを見据え、にやりと笑った。

 シンゴはしばし呆然としていたが、その髪の色――オレンジの髪を見て、理解する。


「カズ!」


「ご名答。んで、お前も水浴びに来たのか?」


「ああ、ちょっと汗かいてな」


 そう告げながら、シンゴはちらりとカズを見る。どうやら彼は既に水浴びを終わらせた様子で、この後は帰って――、


「……なあカズ、この村って学校はあんの?」


 ふと気になり、シンゴは問いかける。

 分からないことは素直に聞く。これがシンゴのモットーだ。

 残念ながら、学校では先生に聞いても何一つ理解できないことの方が多かったが。


 そんなシンゴの問いかけに、カズは水を散らしながら首を横に振ると、


「いや、この村に学校はねぇよ。トランセルとか、もっとでけぇとこならあるって聞いたぜ」


「そっか……じゃあ、カズは帰ったら何やんの?」


「畑の世話だな。草むしりとか」


「……ああ、それで」


 シンゴは一人納得する。

 眼前のカズの上半身はがっちりしており、当然のことながら腹筋は見事に割れていた。

 力仕事をしているというのなら、それも当然のことだろう。


「……シンゴ、今日には発つんだろ?」


 シンゴがカズの腹筋に羨望の眼差しを送っていたときだった。

 不意にカズが、そんなことを聞いてきた。

 その質問に対し、シンゴは視線を川に移すと、


「そう……させてもらう、つもりだけど……」


「――ん?」


 何やら煮え切らない様子のシンゴに、カズは眉を片方だけ上げる。

 そんなカズに、シンゴはしばらく迷うような素振りを見せるが、やがてその顔を川からカズへ向けると、


「あのさ……なんか、お礼ってできないか?」


「お礼?」


 カズのオウム返しに、シンゴは真剣な面持ちで頷く。

 シンゴは、これほどまでに良くして貰っておいて、はいさよなら――では、さすがに申し訳ないと思ったのだ。


 だが、所詮シンゴにできることなど少ない。それに時間もあまりない。しかし、もしできることがあるのならやりたいというのが、シンゴの偽りない本心である

 そんなシンゴの考えを察したのか、カズは腕を組むと、


「なるほどな。確かにこのままじゃ、ちょっと気持ちわりぃかもしんねぇな。……なら、こんなのはどうだ?」


「――! 何かあんの!?」


 一歩前に踏み出したシンゴに、カズはにやりと口の端を吊り上げると、


「ユリカと遊んでやってくれねぇか?」


「……え? そんなことでいいのか?」


 カズの表情からもっと凄い要求が来ると身構えていたシンゴだったが、提示された緩い要求に、思わず確認の言葉を返してしまう。

 しかしカズは、「いやな……」と言って濡れた髪を掻くと、


「この村にはユリカの歳に近い奴がいなくてな。アイツは退屈しないって言ってけど、かといって森の奥とかに一人で行っちまうってのもな……」


「ああ……」


 何となくだが、どろんこになって森から出てくるユリカの無邪気な笑顔が想像できて、シンゴは苦笑いでカズに同情する。

 そんなシンゴに、カズは顔の前で両手を合わせると、


「そんなに長くなくてもいいんだ! アイツが心の底から楽しかったって笑ってくれさえすりゃあ……!」


「…………」


 シンゴは無言でカズを見詰める。

 妹のことを第一に考える兄。その姿に、シンゴは何か心の奥からこみ上げる熱いものを感じた。


 やがて、シンゴはにやりと笑うと、カズに向かってサムズアップを突き出した。


「分かった! 全力で遊んでやるよ!」


「おお……! あんがとな……頼んだぜ?」


 二人はお互いにやりと笑うと、どちらからともなく握手を交わした。

 シンゴは、この青年とは絶対に仲良くなれると思った。理由は妹を持つ兄という共通する立場だというのもあるが、何よりその性格が非情に好ましかった。


 ぜひとも友達になりたいと思うシンゴだったが、その表情は暗い。何故なら、シンゴはいずれ元の世界に帰ることを目的としている。つまりそれは、再開のない別れが必ず待っているということだ。


 ――キサラギ・シンゴは、別れが苦手だ。


 故に、必要以上に親しくなるのは避けたかった。そんなの、帰りづらくなるに決まっているのだから。

 やがて、カズは上着を拾い、シンゴが歩いてきた道へ歩を進めながら片手を挙げると、


「そんじゃ、オレは帰るぞ。ごゆっくりなぁ」


「おう」


 カズの後ろ姿が林道に消えていくのを見送り、シンゴは手早く服を脱ぐと、川に飛び込んだ。


「はぁ……」


 程よく冷たい川の水がシンゴの体の汚れと共に、精神的な疲れも洗い流してくれる気がした。

 しばらく泳いだり、ぷかぷか浮いていたりすると、近くの茂みから何やらガサガサと物音が聞こえた。


「――ん?」


 シンゴは水面から顔を上げ茂みの方を見る。ふと、もしかして何か野生の動物かもしれないと考える。

 異世界の動物に興味が沸いたシンゴは、しばらく息をひそめてじっと待った。そしてそれが仇となった。


「――あれ? カルにぃは……あ、とりのおにいちゃんだ」


 茂みの中から姿を現したのは動物ではなく、片手にタオルを持った少女――ユリカ・フレイズだった。

 ユリカは固まるシンゴを発見すると指を差して、あの理解不能な「とり」を含めた呼称を口にする。


 そんなユリカの突然の登場に固まるシンゴ。そんな彼をユリカはじーっと眺め、眉を下げながら言った。


「シンゴ……きんにく、ないな」


「お前の兄貴と比べんな!」


 あんな毎日畑仕事してるムキムキと比べられても困る。シンゴは帰宅部だ。


「――つうか、服着るから、ちょっとあっち行っててくんね?」


「ほーい!」


 手を挙げて返事をしたユリカが走って離れるのを確認し、シンゴは川から上がる。しかし、ここではっとなる。


「タオル……忘れた……」


 がっくり項垂れるシンゴは、仕方なくある程度の水滴を手で払い落としてから、制服に身を包む。

 その間、シンゴの言った通りに離れた所にいたユリカだったが、しっかりシンゴの着替えを最後まで見届けた。

 もう文句を言うのも疲れたので、シンゴが放置した結果だ。


「もういいかー?」


「ああ、いいぞー。離れた意味皆無だったけどな……」


 シンゴの了承が取れたユリカがこちらに向かって走ってくる。そのユリカの弾む胸を見て改めて戦慄すると同時に、心の中でアリスに合掌する。

 そして先程から気なっている、ユリカがこの時間帯にこの場所にいる理由を聞くことにする。


「なあユリカ、今って水浴びは男の時間だろ? 間違えたのか?」


「ちがうよ? ユリカは、カルにぃにこれをとどけにきたの!」


 ユリカはそう言うと、手に持っていたタオルを掲げる。

 そういえば――と、シンゴは先ほどカズが髪を濡らしたままの状態で帰って行った姿を思い出し、納得する。

 しかしここで、ふと気付いたことがあった。


「なあユリカ……そのタオル」


「ん? これかー?」


 ユリカの持っているタオルは、シンゴの記憶が正しければ、この川の下流で拾ったタオルだ。

 そういえば、シンゴが持っていたはずのタオルは見当たらなかった。つまり、このタオルが――、


「このまえユリカが使ってたら、ながれちゃったんだー」


「やっぱそうか……」


 疑問が腑に落ち、シンゴは一人頷く。

 すると、ふとユリカがシンゴの顔をじーっと見ていることに気が付いた。


「ど、どうした?」


「むー……」


 眉を寄せて難しい顔で凝視してくるユリカに、シンゴは訝しげに首を傾げる。

 そんなシンゴの前でユリカは嘆息すると、今までの彼女の子供っぽい一面を排した顔で告げた。


「イチゴは、そんなシンゴ見たくないと思うぞ?」


「――――ッ!?」


 予想だにしない一言だった。しかしその一言は、シンゴの心を激しく揺さぶった。

 シンゴは動揺を悟らせまいと笑おうとして、失敗する。己の口からは言葉と呼べるものは出て来ず、引き攣った声が漏れるだけだった。


「シンゴ、なんかあせってる。そんなんじゃ、ぜったいに失敗するよ? イチゴも助けられない。ううん、イチゴはそんなシンゴに助けてほしくないとおもう」


「何……言って……」


 全く身に覚えのないことを言われているはずなのに、ユリカの言葉はシンゴの心を的確に揺さぶってくる。

 それに加え、シンゴの脳裏にふとあの夢の断片が浮かぶ。


 悪夢の欠片が脳裏にフラッシュバックし、シンゴはかぶりを振ってユリカから距離を取ろうと後退した。

 しかし、ユリカはシンゴのそんな逃げを許さない。シンゴが下がった分だけ距離を詰めてくる。


 まるでシンゴの心を見透かすような、澄んだ目を伴って――。


「……だよ」


 限界だった。


「なんなんだよ……」


 心が平穏を失い――やがて、決壊した。


「お前に俺たち兄妹の何が分かるってんだよッ!?」


「――――」


 これは最も最低で、醜い行為だ。

 しかし、既にそう判断するだけの理性すら、腹の底から湧き上がる激しい感情の余波に押し流されてしまっている。


 一方、シンゴの怒声を浴びたユリカは、表情一つ動かさずシンゴを見詰め返している。

 それが、余計にシンゴの心をざわつかせた。


「あいつは――」


 歯を食いしばる。


「イチゴは……誕生日だったんだぞ!?」


 溢れ出る激情に身を任せ、何の関係もない少女に叩き付ける。

 これはひどく醜く、そして傲慢な行為だ。だが、溢れ出る感情にシンゴは抗えなかった。

 次々に口を突いて出る不満を、眼前の少女に全てぶつける。


「普通誕生日つったら、楽しいもんだろ!? そんな日に、なんでこんな目に合わなきゃなんねんだよ!? ふざけんな! 狂った女の次は異世界だ? 意味分かんねえよ!! 一体、俺たち兄妹が何をしたってんだよ!! 俺たちは、何も……」


 シンゴは俯くと、肩を震わせる。

 言葉を紡ごうと口を開くが、喉の奥が熱くなり言葉が出てこない。

 その事実さえ、今のシンゴからしたら苛立たしく感じて――。


「…………ッ!」


 ぎろりと、知ったような口を叩く眼前の少女を睨み付ける。

 少女は相変わらず微動だにせず、シンゴを見据えている。

 そんな少女の態度に歯ぎしりし、シンゴは改めて言い放つ。


「お前なんかに、俺らの何が分かんだよッ!!!!」


 知らぬ間に、頬を涙が伝っていた。

 シンゴはその涙を乱暴に拭うと、少女からしたら謂れの無い怒りを込めた瞳で、鋭く睨み付ける。


 ユリカは、シンゴのそんな不満の全てを黙って受け止め、やがて一言だけ呟いた。


「ユリカも、妹だもん」


「――――ッ!!」


 ――その一言で、十分だった。


 まるで冷や水を浴びせられたように、シンゴは先ほどまでの激情を霧散させ、呆然の目の前の少女を見やる。


「ユリカにも――」


 少女の言葉は終わらない。まるで今度は自分が言う番だとでもいうように、強い意志を宿した目でシンゴを見据えた。

 思わず鼻白むシンゴだが、少女の言葉は先ほどと同じように、シンゴが逃げることを許さない。


「ユリカにもカルにぃがいるもん! カルにぃがシンゴみたいな顔してたら、そんなのいや! だから、イチゴも同じなの!!」


 ほとんどこじつけのようなユリカの言い分。だが、その言葉を聞いたシンゴの動揺は目に見えるほど明瞭なものだった。

 まるで鈍器で頭部を殴打されたかのような衝撃が、シンゴの脳天からつま先に向かって駆け抜ける。


 いつの間にか、先ほどまで感じていた荒波のような激情は、どこかに消えていた。

 シンゴはそれを自覚すると、目を伏せ、自嘲するように力なく笑った。

 そして、答えを求めるように眼前の少女に疑問を投げかけた。


「そう……なのかな……イチゴも……そう思うのかな……?」


 そんなわけがない。イチゴは今すぐにでも助けて欲しいに決まっている。

 己の中で、そう否定するような声が上がる。しかし、そう決めつけてしまうのは簡単だ。だが、この少女にここまで言わせる今のシンゴを見たら、一体イチゴは何と言うのだろうか。


 ふと脳裏に、腰に手を当てて憤慨する妹の姿が浮かぶ。

 そうだ。おそらくイチゴは、こんなどうしようもない兄を見て、叱咤するようにこう言うのだろう――


「『シャキっとする!!』」


「――――ッ」


 言い放ったユリカに、イチゴの姿が一瞬だけだぶったように見えた。

 やがて、腰に手を当てたユリカを見るシンゴの目から、再び涙が零れた。

 しかしその涙は、先ほどとは違う感情を宿していて――。


 涙は後から後から流れ落ち、やがてシンゴの口からは嗚咽が漏れ始める。


「いち、ご……ッ」


 膝を着いて俯き、顔を押さえて泣く。

 そして理解する。目の前の少女も、兄を持つ一人の妹なのだと。

 お互い全くタイプの違う兄妹。それでも妹であり、女性であるユリカの方が、こんなどうしようもなくだらしないシンゴより、イチゴの気持ちを理解できるはずだ。


 そのユリカがシンゴに言うのだ。もっとシャキっとしろと――。


「……まったく、シンゴは泣きむしさんだなぁ」


 泣き崩れるシンゴの頭を、ユリカの腕が優しく包み込む。

 シンゴの頭を撫でながら発せられた声は、慈しむような優しさが溢れていた。


「いいよ。今だけユリカがシンゴのお母さんになってあげる。だから……ね? いいんだよ、泣いても」


「…………ッ」


 シンゴは、ユリカの胸に顔をうずめたまま泣き続ける。

 凝り固まった心が、優しく溶かされていくのを感じた――。


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