第3章:7 『外れた時間』
イレナ・バレンシール、モプラ・テン・ストンプ、捏迷歪と、時読みの魔女ウルトによる未来の断片を読み取る作業が順調に進んだ。しかし最後の一人、キサラギ・シンゴのみが望む未来の断片を知る事ができなかった。
それは、ウルトが読んだ未来がシンゴの望んだ未来ではなかった――という訳ではなく、事はそれ以前の問題だった。
シンゴの未来を覗こうとした魔女は言った。
キサラギ・シンゴの未来は読めない――と。
それは一体どう意味なのだろうか。ただ純粋に、ウルトが時読みを失敗しただけなのか。それとも、未来の断片を読み取るという神にも近しいその業自体が、そもそも成功率が低いものなのか。イレナ達は偶然うまくいっていただけで、シンゴの場合のように読めなかったりするのが普通なのではないだろうか。
――で、あれば。
乾いた唇を舌で湿らせ、シンゴは口を開いた。
「も、もう一度――」
再び未来へ手を伸ばそうとした。
だが、そんなシンゴの内で渦巻く未練がましい考えを、次に魔女が放った言葉が容赦なく打ち砕く。
「何度やっても無駄じゃ。お前さんの時は、まるで激しい砂嵐に阻害され、ノイズがかかったようで、混沌とした闇が塞ぎ、眩い光が目をくらませ、像が捻じ曲がるように歪曲しておって、その未来を読む事ができん」
水晶にかざしていた手をどけ、紫の輝きが徐々に薄れていくのを見届けながら、時読みの魔女はさらに言葉を紡ぐ。
「似たような時を持つ男を過去に一度だけ見た事があるが、ここまでひどくはなかった。苦戦はしたが、時間をかけ、移ろう時の隙間を懸命に追いかけ覗き込みながら、何とか時の断片――その一欠片は読む事はできた。じゃが、お前さんのはさらに複雑で歪じゃ。隙間なぞ全くありもせん。まるで……そう、決して重なってはならん時が交差し、理から完全に弾かれてしまっておるような、そんな『時間』じゃ」
「…………」
水晶を見下ろしながら、時読みの魔女は己が垣間見た『時』の異質さに、その枯れ枝のような手を握り込んで戦慄かせながら、必死にそう表現する事で抗った。
それを無言で聞き終えたシンゴは、輝きを沈黙させた水晶と同様に俯いて押し黙る。
頭の中を埋め尽くすのは、ただひたすらに「何故」という二文字だ。
意味が分からないではないか。何故、自分の未来だけがそんな事になっている。一体、自分が何をしたというのだ。
ウルトのその言葉は、未来でシンゴの隣にイチゴがいないと述べられるよりも、シンゴに言葉にし難い複雑な感情を抱かせた。
「……シンゴ」
「…………」
イレナが気遣うような声で名を呼ぶが、シンゴの意識は思案の海に沈んでいき、イレナの言葉は届かない。
ウルトは先ほど、シンゴ達がここにやってくる時を読んだと言った。ならば、当然そこにはシンゴの姿もあったはずだ。だが、おそらくそれはイレナ達がいたからだろう。他の者達の未来に存在するキサラギ・シンゴの姿を見たに過ぎない。
キサラギ・シンゴ一人に絞った時読みの場合は、先ほどのように未来を読む事が不可能なのだ。
――考えられる原因には、二つだけ心当たりがあった。
まず一つ目。それは、シンゴがこの世界とは違う世界からやってきた異世界人だからだという理由だ。
この条件が当てはまるのは、この場ではシンゴしかいない。もしここにアリスが居たとしても、彼女の生まれはおそらくこの世界だ。故に、次元を超えたシンゴのみが理から外れたと、そう考えるの事ができる。
そして二つ目。シンゴはチラリと、右手を覆う黒い手袋に視線を移す。
この手袋は王都の検問以来、ずっと着用し続けている。これは、シンゴが半吸血鬼化した際に右手の甲に浮かび上がったアルファベットの『M』という謎の痣を隠すための物である。
『星屑』の痣ではないが、『罪人』と呼ばれる厄介で素性の知れない奴らと近しいと言われた。常時からずっと浮かび上がっていたその痣だったが、今はもうない。カワードとの一件以降、あの痣は姿を消した。しかし、その直後に浮かび上がった時があった。だから、完全に消えてしまった訳ではないのだろう。故に、あれ以降も念の為に手袋は着用し続けている。
これは推測だが、痣はあの炎の片翼と何か関係しているのではとシンゴは考えている。
そしておそらくだが、あの翼はシンゴが時折招かれる狂った校舎。あそこの主である、半身のみしかない紅蓮の炎鳥――ベルフに関係があると、シンゴは一人目星を付けていた。
あの校舎の出来事はアリス達には話していない。何故だか分からないが、あの校舎の話をしようとすると、まるで自分の浅ましく矮小で卑劣な醜い負の部分をさらけ出すような、そんな激しい忌避感に襲われるのだ。
そういえば旅の道中、アリスは確か、シンゴのあの翼の事を『怠惰』だとか言っていたような気がする。詳細について求めようとしたが、アリスはお茶を濁すようにそれ以上は語らなかった。まるで勇気を振り絞って言ってみたものの、やはり言い切る勇気が持てなかったといった、そんな様子だった。
『怠惰』という単語は、とある白い少女がしきりにシンゴに向かって連呼していた言葉でもある。そこに妙な引っ掛かりを感じたが、アリスにはそれ以上言えない、もしくは言いたくない理由があるのだと感じ、シンゴはあれ以来アリスにこの話はしていない。それに、白い少女の事もだ。
これも理論的な根拠はない。だが、シンゴはあの白い少女にアリスは関わってほしくないと思ったのだ。あの二人は絶対に会わせてはいけない。近付けてはいけないのだ。
アリスと瓜二つの顔を持つ白い少女。額に『星屑』と同様の痣を持つ女性で、『影』を操る吸血鬼の女だ。
あの白い少女は危険だ。とてもではないが、人間を――アリスと同じ吸血鬼を見ているような気にはなれない。あれは、もっと――、
「――――!」
ふと、心配そうに己を見詰める複数の視線を意識し、シンゴはかぶりを振って思考の脱線を元に戻す。
つまりだ。あの不可思議な片翼と、それに起因するであろう痣と、治癒の力。これらがシンゴの未来を複雑に、そして曖昧にしている要因なのではないかと考えたのだ。だが、シンゴはこの二つ目の可能性を心の中で首を横に振る事で半ば否定した。理由はモプラにあるのだが、それはまた彼女自身に話を聞いた後で結論を出すべきだろう。
それにいつまでもこうして黙っている訳にもいくまい。動揺もとっくの昔に抜け切っている。沈黙は、そのほとんどが今しがたの思考に使われたものだ。
シンゴは「ふぅ――」と唇をすぼめて息を吐くと、顔を上げた。
「ま、分からねえならしょうがねえか。ネタバレ食らっても面白くねえし、イチゴが俺の隣にはいないとか言われた日にゃ、その水晶で頭蓋割って自害するくらいには絶望する。――つっても俺、そう簡単にくたばんねえけどな!」
腰に手を当て、もう片方の手で作ったサムズアップをウルトに突き付ける。そんなシンゴの横で、イレナとモプラが安堵の息を吐くのが聞こえた。
物凄く申し訳ない気持ちになるが、素直に謝るのも恥ずかしい。というか、二人はちゃんと未来を読んで貰っているのだ。むしろ妬ましいし、ぽんとシンゴの肩に手を置いてきて、ウインクと共にサムズアップで「まいどん!」とほざく歪は殴りたい。
歪の手をシンゴが仏頂面ではらい除けていると、「そうか……」と呟いたウルトが、シンゴにフードに覆われた顔を向けてきた。
「わしの時読みは、あくまでこのままいけば起こり得るであろう未来を読み取るものじゃ。よいか? 未来はまだ訪れてはおらん。幸福な未来をミス一つでおじゃんにもすれば、最悪の未来を選択一つで覆す事もできる。時読みとはそもそも、その変化の一助をする為のものなのじゃよ。――未来は変えられる。良い方にも、悪い方にも。ゆめゆめ、その事を忘れるではないぞ?」
「もちろんよ!」
「は、はい!」
「つまりそれは、頑張れば二人目のお嫁さんも――」
三者三様の反応を見届け、ウルトは最後にシンゴに向けて言葉を贈る。
「お前さんの未来は、おそらく想像を絶するものになるじゃろう。時読みでお前さんの未来は読む事はできんかったが、読めなんだという事実がお前さんの未来の壮絶さを雄弁に物語っておる。……決して、何があっても挫けてはならんぞ。そして、後悔のせん選択をせい。未来は変えられる。じゃが、過ぎ去った過去は――変えられんのじゃからな」
「……分かった。ありがと、ウルトさん」
ウルトの声音には、憐みでも同情でもなく、ただひたすらにシンゴの背中を押そうとする力強い感慨が垣間見えていた。その言葉で、シンゴは未来に抱いていた不安に抗ってやろうという気概が芽生えるのを感じ、その感謝を言葉にしてウルトに告げた。
「さて、と――」
シンゴはそう呟くと、イレナの袖をちょんと摘まんでいるモプラに振り返った。
シンゴの視線を受け、慌ててイレナの後ろに隠れるモプラを見据えながら、シンゴは己の未来が時読みできなかった二つ目の考察理由――その否定の根拠の裏付けにかかる。
「モプラ、上でお前の目を見た時に俺を襲ったあの衝動。お前が言ってた『色欲』の『権威』とやら。それと、そもそもなんでお前があの二人に追われてるのか。……その辺の事情、俺らに話してくれるな?」
「…………」
自然と、モプラに皆の視線が集まる。モプラはその視線から隠れるように、無言でイレナの背中に顔をうずめる。だが、数秒の沈黙の後、意を決したように顔を上げると、心配そうな視線を向けてくるイレナに「大丈夫……です」と告げて体を離した。そして、突然そのフードを取っ払った。
「ちょ――!?」
再びあの衝動に襲われるのではと身構え、咄嗟に目を閉じたシンゴだったが、歪が隣から「モプラちゃん、目、閉じてるぜ」と教えられ、恐る恐る瞼を持ち上げる。
見れば、歪の言う通り、モプラの目は固く閉ざされていた。
それを見てほっと安堵の息を吐くシンゴに、モプラはすっと頭を下げた。
「さっきは……ごめんなさいです。でも……『色欲』の権威は、わたしと目を合わさなければ……発動しません」
「そ、そうなんだ」
「はい……」
未だ動揺が抜け切らないシンゴは深呼吸でそれを鎮めると、改めて目を閉じるモプラに問いかけた。
「話して、くれるんだな?」
シンゴの問いかけに、モプラはこくりと頷く事で了承の意を示した。
そして閉じた目の代わりに、その愛らしい小ぶりの唇を開くと、開口一番――、
「わたしは……浮浪児です」
「――――!」
モプラが発したその一言、その一言で、シンゴはモプラの身の上が壮絶なものであると察した。それは他の者も同様のようで、周りから一様に息を呑む気配が伝わってきた。
初っ端から重い事実に、シンゴは息を深く吸い、ほっと息を吐くことで続きを待った。
皆の動揺が収まったのを感じたのか、タイミングよくモプラが語りを再開する。
「わたしは今、十三ですが……本当はもっと上か、下かもしれません。物心ついた時には、この『ウォー』より荒れ果てた、とある町の薄暗い路地裏で、生きる為に……必死で走ってました。そんなわたしが今日まで生きてこられたのは……わたしと同じような境遇の子供達が協力して……支え合ってきたから、なんです」
「その子供達は……今どうしてるの?」
「みんな……死にました」
「……ごめん。辛い事、聞いちゃったわね……」
俯き、唇をきゅっと引き結んで仲間の死を告げるモプラに、イレナが申し訳なさそうに眉尻を下げて謝罪する。
モプラ同様に俯いて、拳を固く握るイレナ。彼女はアネラスに保護されたという点を除けば、似たような境遇だ。思うところがあったのだろう。だが、その保護されたか否かという点は、あまりにも大きな相違点だ。
「――そんな生活が続いて、わたしが……八歳になった時でした」
重い沈黙が場を満たすのを避けるように、モプラが言葉を紡ぐ。
「物乞いをしていたわたしは……男の人に、乱暴……を」
「な――!?」
後半に行くにつれ、眉根を寄せて苦しそうにモプラが吐き出した過去の出来事に、シンゴは思わず目を剥き、次いで湧き上がる理不尽な怒りに奥歯を噛みしめた。
それは他の者も同様のようで、特にイレナと、子供達を保護しているウルトの怒気は相当なものだった。だが、モプラはその怒気を感じ取ると、「ひっ!? あ、あの――!?」と怯えながら両手を顔の前でぶんぶん横に振った。
「ち、違うんです!? わた、わたしは何もされてません!」
「……どういう事?」
モプラの否定の言葉に、イレナが幾分か収めた怒りを声音に含ませながら問いかけた。
そんなイレナの声にモプラは怯えながら、その時の事について語る。
「わ、わたしは……あの男の人に、人気のない細い通路に連れ込まれて……そこで、そこで……わたし、は……」
「む、無理すんな……!」
モプラの痛々しい姿を見ていられず、思わず口をついて出てしまったシンゴの声に、しかしモプラは首を振って「だ、大丈夫です」と言うと、息を長めに吐き出し、己の肩を両手で抱きながら言った。
「わたしは……その時に授かったんです」
「授かった?」
片方の眉を上げてオウム返しするシンゴの言葉に、モプラは肩を抱いたままこくりと首肯し、
「――権威を、授かったんです」
「権威って……さっき上で言ってたやつの事、か……?」
「はい……そうです」
頷くモプラに、シンゴがさらに質問をしようとした時だった。今まで黙っていた歪が、シンゴの聞こうとしていた事と同じ質問を隣から発した。
「つまり、モプラちゃんを襲ったその男は、さっきシンゴに起こった事と同じような状態になった――と」
「はい……あの人は、わたしの目を見て、狂ったような……でも、とても幸せそうな笑みを浮かべて――」
「ちょっと待て」
「どうしたのさ、被害者二号くん?」
「その呼び方やめろ。つか、俺が二人目って決まった訳じゃない……じゃなくて!」
余計な茶々を入れてくる歪の頭をはたいて黙らせると、シンゴはモプラに向き合い、先ほど己が見舞われた衝動の事を思い返す。
シンゴはモプラに対し、激しいという言葉では生ぬるいほど欲情していた。それと同じ現象がモプラを襲おうとした男に起こったのなら、それは結局、火に油を注いだだけになってしまうのでは、と思ったのだ。
だが、自分が年端もいかない――本人が言うには十三歳――少女に欲情したなど、口が裂けても言えない。おそらくモプラ自身は、シンゴが己に欲情していた事は分かっているのだろう。だからあれ以降シンゴには近寄らず、ずっとイレナの傍にいるのかもしれない。
しかしそうだとしても、イレナやウルト、そして何より、絶対にネタにしそうな歪にだけは知られたくない。故に、シンゴは少しぼかした言い方でモプラに懸念を告げた。
「え、と……さっきみたいな状態になると、さ。その、ちょっと凶暴になるから、本末転倒なんじゃ……ないか?」
「なんで噛みまくりなのよ?」
「こ、言葉にしづらいんだよ! あの感覚は!!」
悪意ゼロの顔で聞いてくるイレナにそう吠えて誤魔化し、シンゴはその視線を再びモプラに向ける。そして「違うか?」と改めて問う。それに対し、モプラの反応は――、
「そ、それは……ですね。あの……その人がおかしくなった瞬間を見計らって、逃げたんです」
「――嘘だろ?」
「ふぇ――!?」
眉を寄せ、腕を組んだシンゴが発した言葉に、モプラは肩を跳ねさせてオーバーリアクション。その様子にため息を吐きつつ、根拠を求める周りの視線に応えるように、己の考えを述べる。
「たとえ逃げたとして、その男は絶対にお前を追ってくる。あの症状に見舞われた状態の俺だったら、迷わずそうするな」
「うぅ……」
図星だったらしく、モプラは言葉を詰まらせる。
すると、不意にイレナがシンゴの隣にやってきて、その口をそっとシンゴの耳元に寄せると、
「ねえ、アンタを襲った症状について、もっと詳しく教えてよ」
「は? いや、だからそれはさっき言った――」
跳ねる心臓をなだめながら、必死に平静を装って言い逃れを試みるシンゴだったが――、
「はい……シンゴさんの言う通りです。『色欲』の権威に侵されて……」
と、そこで言葉を切ったモプラは、何やら顔を真っ赤に染め、その顔を隠すように両手で覆うと、くぐもった声で言った。
「わ、わたしに欲情した状態なら! きっとそうなりますです!!」
「言うんかい!?」
最後の方で口調が完全に乱れたモプラの告発。それを受けて目を剥くシンゴの隣では、イレナが半眼で「ふ〜ん」と呟いている。
その呟きには底冷えしそうなほどの怒気が込められており、シンゴは背中に嫌な汗をだらだら流しながら、咄嗟に十八番奥義その五『左右他言』を行使する事にした。
「そんな事よりモプラ、本当のところはどうなったんだ?」
「ちょっと、シンゴ?」
「そんな事よりモプラ、本当のところはどうなったんだ?」
「そ、それは……」
口ごもるモプラを腕を組んで見詰めるシンゴの頬に、イレナの鋭い視線が突き刺さる。が、『左右他言』はここで完全に無視して話題転換を図る奥義だ。よくイチゴ相手に乱発した。結果、言葉ではなく拳が飛んでくるようになった。
イレナを全力で無視し、モプラに早く何か言ってくれと念じながら、待つ事およそ十秒前後。拷問にも等しい時間を抜け、ようやくモプラが行動を起こした。
モプラはおもむろに、額から頭部までを覆っていたバンダナを、恥ずかしそうに外し始めた。
最初こそその行動の意味が分からなかったが、バンダナの下から現れた二つ――いや、厳密には三つのものを見て、シンゴ達は息を呑んだ。
シンゴは、羞恥で顔を真っ赤に染めて俯くモプラの頭部を指さし、驚愕に目を見開きながら、頭上で揺れるそれの名称を震える声で告げた。つまり――、
「うさぎの……耳?」
モプラ・テン・ストンプの頭頂部には、紛れもなくうさぎの耳が二つ、主の動揺を表すように小さくしおれながら、ふるふると小刻みに震えていた――。




