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虚飾のアリス ‐不死の少年と白黒の吸血鬼‐  作者: 竜馬
第3章 誘蛾灯に魅入られし少女
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第3章:5 『甘美な衝動』

「殺してくれって……それ、どういう意味よ?」


 シンゴの“お願い”に、イレナが今までで見た事の無いような、感情が抜け落ちた表情で問い返してくる。

 捏迷歪ねつまいいがみの傷を癒すには、キサラギ・シンゴが一度死ななければならない。

 あの不可思議な癒しの力を使うには己の『死』が必要だと悟ったのが、ついさっきの事だ。


 シンゴはイレナから視線を逸らし、歪の傷に目を向ける。

 彼の傷は、まるで銃弾に穿たれたかのような状態だ。傷としてはそこまで大きくはないが、出血量が多い。このまま放っておく訳にはいかない。だから――、


 シンゴはイレナに向け、精一杯の笑みをつくって告げる。


「そのまんまの意味だ。あの翼を出すには、たぶん俺は一回死ななきゃなんねえ。けど、正直自決なんて怖くて無理だ。情けねえことだけどな……。だからせめて――」


「嫌よ、あたし」


「イレナ……」


「だって……」


 イレナはぐっと唇を噛むと、目の端にうっすらと涙を湛えながら、突き放すように告げる。


「絶対にあたしは嫌よ! それに、そんな引き攣った顔で言われても――」


「え……?」


 イレナに指摘され、シンゴは自分の頬に手を当ててみる。すると、どうだ。触れた手に伝わってくるのは、頬の筋肉が痙攣する振動だ。

 その事実に頭の中が一瞬だけ白く染まり、呆けたように口を開けて固まるシンゴ。

 そんなシンゴに追い打ちをかけるように、イレナが必死に語りかけてくる。


「それに、普通おかしいとは思わないの? 確かに歪の傷は深いし、すぐに手当てしなきゃダメなのは分かるわよ。でも、だからって“あんな傷”と“人の命”が釣り合う訳ないじゃない!!」


「――――ッ!」


 まるで鈍器に後頭部を打たれたような衝撃が全身を駆け抜けた。

 シンゴは片手で顔を覆い、イレナの言葉の意味を噛み砕きにかかる。

 確かにそうだ。普通、あんな傷を治す代償として人の命を一つ消費するなど、算数が苦手だとかそういう以前の問題だ。


 等価交換にしては傾き過ぎている。釣り合っていない。平等ではない――。

 そもそも、命は天秤に乗せるようなものではない。なのにだ。キサラギ・シンゴは、己の命を天秤の片側に乗せるのに躊躇しただろうか。


 自問自答する。自分は己の命の重さを理解して天秤に乗せたのか――と。

 すぐに答えは出た。そう、普通ならそんな真似はしない。だが、キサラギ・シンゴなら事情が違ってくる。


 だって――、


「“普通”なら……そうだよな」


「あ、アンタ……」


 目を見開くイレナに、シンゴはぎらつくような笑みを浮かべて告げる――自覚する。

 キサラギ・シンゴの命は普通の物差しでは測れない。普通ではないから。終わらないから。――終われないから。

 故に、キサラギ・シンゴの命は天秤に乗せる事ができる。何故なら、乗せても失われないのだから。


「だからさ……イレナ」


「できる訳ないじゃない! アンタを殺すなんて……そんな事!」


「だったら、ぼくが殺してあげようか?」


「――!? 歪……アンタ、何言って――?」


 割り込むように助力を申し出てきた歪に、イレナは表情を驚愕の色に染めて振り返る。

 その先に居た手負いの男の姿を確認し、その顔に浮かべられた笑みを認識し、イレナの視線が更に鋭さを帯びる。


 そんなイレナの鋭い視線をどこ吹く風と受け流した歪は、片目を閉じ、残ったもう片方の昏い目をシンゴに向けた。


「シンゴが何をしようとしてるのか……正直、ぼくにはさっぱりさ。だけど、それはぼくの傷を治すのに必要なんだよね? ぼくの為に、君は死んでくれるんだよね? だったら、その手助けくらいするのが人として当然だし、親友であるぼくの義務でもあるよね?」


「…………ッ」


 そう言って優しく微笑む歪に、イレナは信じられないものを見たという表情で固まる。

 そんなイレナの反応などおかまいなしに、歪はシンゴに向かって問いかける。


「どうする? ぼくでも、君を殺す事なんて朝飯前だぜ?」


「――ッ! ダメに決まってるでしょ――!?」


「イレナちゃん。決めるのは君じゃなくて、シンゴだぜ?」


 そう言うと、歪は顔を伏せて沈黙するシンゴに決断を迫る。


「死ぬ? 死なない? どっち?」


「俺、は……」


「ダメよ、シンゴ――ッ!!」


「少し言い方を変えよう」


 指をピンと立てると、歪は口の端をニタリと歪ませ、捻れ、ひねくれ、歪曲する。


「キサラギ・シンゴ。君は、ぼくを――」


 その口から放たれるのは、この場、このタイミングで、最も――、


「助けてくれないのかい?」


「――――ッ!!」


 最も、残酷な問いかけだ――。


 歪のその一言に、シンゴははっと顔を上げる。

 眼前には、笑みを浮かべているが、痛みと熱で苦しげな捏迷歪の姿がある。

 助ける。そう、シンゴは救うのだ。何も間違ってはいない。痛いのはもう慣れっこだ。それにただ傷を負って苦しむより、死ぬ方が苦しむ時間は少なくて済む。


「ねえ、シンゴ……お願い、やめて? それをしちゃったら、きっともうダメになる。戻ってこれなくなるわ。自分の命を蔑ろにしたら、それはもう他者の命も同じにしか見る事ができなくなる。だから――」


 今にも泣きだしてしまいそうな顔で訴えるイレナ。

 彼女の言っている事は、この上なく正しいのだろう。イレナ・バレンシールはいつも真っ直ぐで、彼女は常に正しい道を見据えている。


 ――そんな彼女の言葉に、心が揺れる。


「ぼくを助けてくれないの? 親友だろ? 死ぬほど痛いんだよ――」


 まるでこの状況すら楽しむように笑みを浮かべる歪。普通ならそんな笑みを浮かべる奴の事など信じはしないが、歪は自身の危険を省みず、シンゴ達を助けてくれた。今見て聞いているのが、彼――捏迷歪の全てでは、決してないのだ。


 ――そんな彼の言葉に、心が揺れる。


 シンゴは揺れる気持ちと、この現状、そして己の命の価値について熟考する。

 頭の中がぐらぐらと揺れ、顔面に異様な汗が玉のように浮かぶ。瞬き一つする事なく、最善は何なのかを必死に探る。そして――、


「俺は……歪を助けたい。死ぬのは怖いけど……俺は死なない。だから――」


 シンゴの言葉にイレナが目を見開き、歪は口の端を吊り上げる。

 決定的な言葉が、決断が、シンゴの口から放たれる、その寸前だった――。


「あの――」


 不意に割り込んだ弱々しい声に揃ってはっとなり、三人はゆっくりと声の主に振り返った。

 三人分の視線を浴び、声を発した少女が肩をびくりと跳ねさせ、「ごめんなさい!」と頭を抱える。


「……どうしたの?」


 三人はお互いに顔を見合わせてどうするべきか逡巡する。だが、結論が出る前にイレナが少女に問いかけた。

 シンゴが声を上げる前にイレナは立ち上がると、少女に近付き、より怯えて顔を伏せる少女に優しく語りかけた。


「何か言いたい事があるんでしょ? 大丈夫よ。皆、何も怒ったりしないから。だから……ね? 言ってみて?」


 微笑みと共に告げられたイレナの優しい声に、少女の体の強張りが小さくなっていく。やがて少女は、消え入りそうな震え声で言った。


「……あの、わたし……なら、治せます」


「――え?」


 少女の言葉に、イレナは目を見開く。それはシンゴも、歪も同様だ。

 三人の驚愕の視線を浴び、少女はより体を小さくしながらも、懸命に言葉を紡ぐ。


「わたしの……特殊魔法は、厳密には違うんですけど……怪我を治す事なら……簡単に」


「それ、本当!?」


「はわっ!?」


 少女の言葉に、半信半疑だったイレナが瞳を輝かせて少女の肩に手を置いた。

 驚いた少女が悲鳴を上げてフードをより深く被るのを見て、イレナは「あ、ごめんね?」と慌てて少女の肩から手を離す。


「――なあ、お前。本当に、歪の怪我を治せるのか……?」


 突然もたらされた第三の選択肢を受け、シンゴは目を見張りながら問いかける。

 少女はシンゴの声にも律儀に肩を一度跳ねさせると、その後おずおずと頷く。


「……そっか」


「――――」


 少女の言葉が偽りでないと悟り目を伏せるシンゴに、イレナが思わしげな視線を向けてくる。

 しかしそれも数秒で、次に顔を上げた時には、シンゴの顔にはほっとしたような安堵の笑みが浮かべられていた。


「それならよかった! いやぁ、死ななきゃなんねえのかなって思ってめちゃくちゃビビってたけど、代わりに治してくれるってんなら……うん、それがいいな! 頼んだ!」


 少女に向かってぐっとサムズアップするシンゴ。一方少女は、シンゴの大声にいちいちその華奢な体を跳ねさせていたが、シンゴのサムズアップを受けて小さく頷くと、石壁にもたれかかる歪の元に歩み寄る。


 興味深そうな視線を向けてくる歪に少女はビクビクしながらも、その肩の傷に手を当てた。そして――、


「『トレース・メモリ・リコレクション』」


 少女が小さな声音でそう詠唱すると、その手元が淡い光に包まれた。

 その光は歪の肩に空いた穴を優しく包み込む。同時に、歪の傷がみるみる治癒していく。

 その様子に、シンゴとイレナは驚きのあまり口を開けて固まる。


 少女のその姿はどこか神秘的な美しさを孕んでおり、神に祈りを捧げる聖女のようにも見えた。

 その神々しいまでの言い知れぬ感動に、シンゴとイレナは揃って時を忘れたように少女の治療行為に見入ってしまう。

 やがて傷が塞がると、少女はほっと吐息して手を下ろす。そして自分を見詰めるシンゴとイレナの視線に気付くと、手をあたふたさせながら、


「あ、その……! ち、ちゃんと、成功しました!」


 治療の成功を告げる少女の言葉に、一瞬だけシン――とした静寂が場を満たす。

 何かしでかしてしまったのかと思ったのだろう。少女はやってしまった――といった様子でフードを引っ張り、ただでさえ下半分しか見えていない顔の露出面積を減らしにかかる。


 ――と、


「――凄いじゃない!」


「ひゃわぁ!?」


 太陽のような笑みを弾けさせたイレナが、称賛の声と共に少女に抱き着いた。

 シモア直伝の熱い抱擁を受けた少女は驚いて悲鳴を上げる。

 一方、少女の魔法で傷を治療してもらった歪は、肩の調子を確かめるように腕をぐるぐる回し、シンゴに向かってサムズアップした。


 そんな歪の様子にほっと安堵の息を吐いてから、シンゴは頭を掻きながらイレナの抱擁に苦しむ少女に視線を向ける。

 シンゴがあんなに思い悩んだのに、少女は呆気なく歪の傷を治して見せた。これでは本当に――、


「俺の葛藤って……まじで無駄だったな」


「そんな事ないぜ? 若者に悩みは付き物さ。今のうちにたくさん悩んでおきなよ」


「明らかに俺と年の差が一、二歳くらいのお前に言われたきゃねえな……。で、その線で行くと、さっきのセリフは全部、詰るところ俺の為ってか?」


「さあ。それも自分で考えてみなよ?」


「あっそ……」


 軽口を叩き、やがて二人して顔を見合わせ苦笑する。

 場には和やかな雰囲気が漂い、紅髪の少女と藍髪の少年との邂逅から続いていた緊張感が、ここにきて初めて弛緩したような気がした。


 シンゴは「よし!」と気持ちを切り替えると、ようやくイレナの抱擁から解放され、「ぜぇぜぇ」荒い息を吐いている少女に視線を向ける。

 少女もシンゴの視線に気付いた様子で、肩を強張らせる。


 その警戒っぷりと怯え様に、どこかウサギみたいだなと苦笑してから、シンゴは少女に向かってぐっと親指を立てた拳を突き出す。そして少女の警戒心を解くために、キサラギ・シンゴができる精一杯の優しい笑みを浮かべると、


「俺の名前はキサラギ・シンゴだ。歪の怪我を治してくれて、サンキュな!」


「いいね、自己紹介。ぼくは捏迷歪。怪我、治してくれて助かったぜ。ありがとう」


「あ、じゃああたしも! イレナ! イレナ・バレンシールよ!」


「あ……えっと……」


 矢継ぎ早に自己紹介をされ、少女は困惑したように狼狽える。

 そんな少女を見て、イレナが優しく微笑みかけながら問いかけた。


「あなたの名前は――?」


「わ、わたしは……モプラ、です。モプラ・テン・ストンプって……言います」


「へえ……モプラ、テントン……モプラって言うんだ! いい名前じゃない!」


「諦めんなよ。……俺もモプラしか分かんなかったけど」


 長すぎる横文字は、シンゴの天敵だ。それが人名ともなると、尚更である。

 そんなシンゴに自分を棚上げしてイレナは嘆息すると、「でも――」と、どこかお姉さんぶったような態度で人差し指を立てると、もう片方の手でモプラのフードを掴み――、


「自己紹介をする時は、ちゃんと相手の顔を見て言う事!」


「え――あ、ダメ!!」


 モプラが初めて発した大声による制止の言葉が届くより、イレナがモプラのフードを捲り上げる方が早かった。


 フードの下から現れたのは、左右の耳元で纏められた綺麗な桃色の髪。そして初めて見るモプラの顔は、見た目相応の十代前半と思われる幼い顔立ちながら綺麗に整っており、彼女の将来が有望であるとすぐに察する事ができた。


 しかし、シンゴの驚きはモプラの美少女っぷり以外にも向けられた。

 確かにモプラの顔は一目で美少女だと断言できる――つまり、目立つ顔立ちなのだが、位置的な関係から彼女の顔を真正面から見る事となったシンゴの意識は、それ以外の二つの要素に向けられていた。


 まず一つは、赤を基調として可愛い模様が散りばめられた、額から頭頂部までを覆うバンダナだ。

 まるで料理をする際に着用する三角巾のような覆い方であり、それはつまりバンダナの占める面積が大きい事を意味する。故に、最初にバンダナに目が行ってしまうのは仕方のない事だろう。


 ――だが、それ以上にキサラギ・シンゴの目を絡め取り、離さないモノがあった。


 それは――目だ。


 モプラの目は怪しい桃色に輝き、その瞳を見ていると不思議と鼓動が高鳴り、体の奥底から奇妙な高揚感が湧き上がってくる。

 美しく、神秘的な目。その眼球が収まっている、愛らしい顔。整った鼻筋。小ぶりな桃色の唇。その顔が鎮座する細い首。くっきりとした鎖骨。まだ幼いながらも、しっかりと出るとこは出ているその肢体。手足は触れれば壊れてしまいそうなほど細く、守ってあげたいと庇護欲をくすぐられる。そして服の隙間から覗く肌はここまで走ってきた余韻がまだ残っているのか、それとも素顔を見られて恥ずかしかったのか、うっすらと上気し、見ていると眩暈がしそうになる。服も可愛い。その短いズボンから覗く健康的な太腿に思わずむしゃぶりついてしまいたい衝動に駆られる。シンゴを見て怯えたように後ずさる姿を見て、抱き締めて安心させてあげたくなる。彼女の為なら全て投げ打ってでも、あらゆる悪意から彼女を守らなければならない。彼女の為ならこんな矮小な自分の命など、笑って捨ててやれる。だから、少しくらいいいではないか。こんな素敵な女神が目の前にいるのに、襲わないのは失礼というものだ。問題は自分が女性経験皆無で、彼女を満足させてあげられるかという事だが、そこは目を瞑ってもらうしかない。ああ、もう我慢できない。いますぐこの溢れんばかりの衝動をぶつけ、彼女の全てを奪い尽くしてしまいたい。可愛い。美しい。綺麗。秀麗。流麗。倒錯的。艶美。最高。至高。最強。というか、もう無理。無理無理。限界。我慢できない。早く襲いたい。犯したい。蹂躙したい。早く。速く。はやく。ハヤク――――


「だめに……決まってんだろォ――ッ!!!!」


 シンゴは咄嗟に石壁に駆け寄ると、躊躇なく頭を壁に打ち付けた。何度も、何度も、何度も――。

 額が割れ、血が頬を伝う。しかし吸血鬼の再生能力が血を蒸発させ、割れた額を塞ぐ。塞がれたそばから、自分で割る。


 こうでもしなければ、キサラギ・シンゴはこの欲求に耐えられない。自我を保つ事ができない。こうして痛みで意識を上書きする間にも、この耐え難い甘美な衝動が脳を侵そうと鎌首をもたげてくる。


「し、シンゴ――!?」


 後ろからイレナの動揺を孕んだ声が聞こえるが、今はそれどころではない。だが、徐々に衝動は小さくなってきている。

 シンゴはその場に膝を着くと、激しく高鳴る心臓を上から押さえつけるように手を胸に当て、深呼吸をして必死に己を落ち着かせる。


「はぁ……ふぅ……よし、そのまま落ち着け、俺。でなきゃ、犯罪者だぞ……ッ」


 そう自分に暗示をかけるように言い聞かせながら、シンゴは己の中の欲望が鎮火されていくのを感じた。

 その時だ。シンゴの後ろから驚愕を孕んだ声がポツリと零された。


「うそ……『色欲』の権威に、耐えるなんて……」


「は、あ……しき、よく……?」


「――――ッ」


 己を抑え込むのに苦心したシンゴは憔悴しきった顔を、再びフードを深く被り直したモプラへと向けた。

 シンゴの視線にびくりと肩を跳ねさせたモプラは、フードを掴んでさらに俯くと、


「ごめんなさい……ほんとうに、ごめんなさい……!」


「…………」


 ひたすら謝罪の言葉を続けるモプラに不審げな視線を向けながら、シンゴはアドレナリンが大量に分泌されて冴え渡った頭で、先ほど自分が見舞われた症状について考察する。

 あの症状――体が熱く、鼓動が高鳴り、甘美な衝動が腹の底から込み上げてくるあの感覚。


 そしてその衝動の矛先は余すことなく全て、モプラ・テン・ストンプへと向けられていた。

 シンゴは信じたくないと頭では拒絶しながらも、先ほどの自分の状態についておおよその見当と確信を抱いていた。それは――、


 ――キサラギ・シンゴは、モプラ・テン・ストンプに激しく欲情していたのだ。


「いや……あれは、もっと」


 欲情というには生易しい。最早あれは一種の崇拝に近かった。

 彼女の事しか考えられない。彼女以外はいらない。彼女の為ならこの命など惜しくない。彼女の願いは全て叶えてあげたい。彼女の言う事に逆らうなんて有り得ない――と。


 意識の全てをモプラ・テン・ストンプが独占し、思考の頂点に彼女が据え置かれる。

 彼女の存在は自分を含めた他の全てより優先される。言うなれば、自分の中のモプラ・テン・ストンプが神にも等しいという認識に“すり替えられた”のだ。無理やり頂点に捻じ込まれたと言った方が正しいだろうか。


 そしてこの現象が引き起こされたのは、シンゴが彼女の“目”を見た瞬間だ。

 改めて振り返ってみて、初めて分かる。ほとんど無意識のうちに価値観を浸食され、意識をモプラ・テン・ストンプで上書きされた。

 もしあのまま衝動に飲み込まれていたら、犯罪を犯すどころか自我が昇天してしまっていたかもしれない。そう思うと、遅れながら背筋を薄ら寒いものが駆け抜けて行った。


「……えっと、ごめん。たぶん、あたしがモプラのフードを勝手に捲っちゃった所為……よね?」


「そうだね。イレナちゃんの行動がこの結果を引き起こしたのは間違いないだろうさ。だから、イレナちゃんが一番悪い」


「うっ……」


 バツが悪そうに発言したイレナの謝罪を、歪が優しい声音で全力で肯定する。


「――あの!」


 そんな中、故意ではなかったとはいえ実行犯とでも言うべき立場になってしまったモプラが、胸の前で両手をぐっと握って声を上げた。

 皆の視線が集まる中、モプラは「えっと、その、あ……ぅ」と口ごもり、やがて肩を落とすと、


「わたしが……いけないんです。最初に、権威の事を……説明しなかったから」


「権威……?」


 モプラの口から出た『権威』という言葉に、イレナがオウム返しをした時だった。四人から見て真ん中の床が前触れなく持ち上がり、床下から何者かの頭部が生えた。

 突然の事に全員の反応が遅れた。もしかして紅髪の少女と藍髪の少年の仲間か誰かに見付かったのかと身構えたシンゴ達だったが、しかし床から顔を出した人物は子供――小さな男の子だった。


「――きて」


「え、ちょっと、君――」


「――――」


 固まるシンゴ達をぐるっと見回した男の子は、そう一言だけ告げると、シンゴの呼びかけには答えず床下に引っ込んで行った。

 突然の事に動揺が抜けきらない四人はお互いに顔を見合わせ、数秒の沈黙の後にシンゴが神妙な面持ちで告げた。


「突然すぎて意味が分かんねえけど、今は身を隠す方が先だと思う。今の子供も色々とアレだったけど、少なくとも敵対的じゃない……はずだ。だから、とりあえず付いて行ってみようってのが、俺の提案なんだけど……どう?」


 シンゴの問いかけに対し最初に返答したのは、「楽しくなってきたぜ」と呟く緊張感皆無の捏迷歪だった。


「ぼくはダチに賛成かな。少なくとも、こんな見通しのいい穴だらけの廃墟に身を隠すより、地下に潜る方が賢い。それに、超楽しみ」


 ニヤリと、心底楽しげな笑みを浮かべる歪に嘆息してから、シンゴはイレナに視線を向ける。

 イレナはシンゴの視線を受けると、顎に触れながら眉間にしわを寄せた。


「う〜ん……色々と疑問に思う事はあるけど、よく分からないからそれでいいわ!」


「考える素振りの意味よ……」


「ちゃんと考えたわよ! ――半分!」


 顔を赤くして吠えてくるイレナに「へいへい」とおざなりに返答しておき、シンゴは最後の一人に目を向ける。


「モプラは……どうする? お前、あいつらに追われてんだろ? その事についても聞きたいし、さっきの俺の症状……権威、だったか。その事についても聞きたい。だから――」


「……分かりました。断る理由も……権利も、ないです」


 弱々しい声音でそう答えるモプラ。そんな彼女にシンゴは苦笑し、「俺は気にしてねえよ」と微笑みかけ、頭を撫でてやる。

 シンゴの手が触れた瞬間は体を強張らせたモプラだったが、次第に体の力を抜き、シンゴの手の感触を味わうかのように首を傾けてきた。


 目深に被り直したフードの隙間から覗く肌が赤くなっており、シンゴ達は顔を見合わせると、思わず苦笑した。

 やはり、シンゴは年下の女の子の扱いが上手いようだ。ここだけ切り取ると物凄い犯罪臭がするが、決してシンゴはロリコンではない。


 やがてモプラの頭から手を退ける。モプラからどこか残念がるような気配が伝わってきたようにも感じたが、自意識過剰だと意識の隅に追いやる。

 そしてシンゴは、先ほど男の子が出てきた穴を見やる。

 改めて見てみると、ここだけが他の石床と色味が違っていた。


 その事実に「ほぉ――」と思うと同時に、何故この下に誘われたのかという疑問が、頭の中でぐるぐる踊り始める。

 しかしシンゴはその疑問をかぶりを振って隅に追いやると、顔を上げて面子の顔を見渡す。そして――、


「んじゃ、訳分からん事になってきたけど、とりあえずはモグラ少年の後を追っかけますか――!」


 シンゴのサムズアップに、三人は頷く事で応じた。


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