第3章:4 『捏迷歪劇場』
「どういう、ことだよ……?」
「言ったままの意味です」
「そこにいる『肉欲』を渡せという意味だ」
シンゴの発した問いかけに、紅髪の少女と藍髪の少年が答える。
辺りには未だ土埃が舞い、吸い込む空気に砂利が混じり込み、口の中がざらつく。
しかしそんなことを気にしていられるほど、現状の空気は穏やかではない。何故なら、眼前の二人からは問答無用の四文字が相応しい、未だかつて感じたことのない鋭い殺気が放たれているからだ。
「――――」
シンゴは直感で悟る。これ以上の問答は不要であり、あの二人の望む答え以外がこの場の誰かから発せられれば、即座に攻撃を受けるだろうと。
目だけを動かし、この場にいる他の面子――計三人の様子を確認する。
捏迷歪は、どこか余裕が感じられる薄い微笑を湛えながら、紅髪の少女と藍髪の少年を見詰めている。そしてそのすぐ近く、氷の盾がぼろぼろと崩れ落ちる傍ら、不意の来訪者へと鋭い視線を飛ばすのは、イレナ・バレンシールだ。
――そして、最後の一人。
シンゴはイレナの腕の中で震える少女の姿を視界に収める。
おそらくあの二人が差し出すように要求している『肉欲』とやらは、あの少女のことだろう。『肉欲』という言葉が指し示す意味は正直よく分からない。少女の本名なのか、それともただそういう呼称なのか。だが、少なくとも前者ではないだろう。
「――――」
改めて周りの状況を確認し終え、シンゴは詰めていた息をゆっくりと吐き出す。そしてその視線を再び眼前の二人へと戻した。
正直、あの二人と争って勝てるとは思えない。当然シンゴは戦力外。イレナの実力は知っているが、現在彼女は奥の手である『ゼロ・シフト』を正味、一回しか使えない。
厳密には二回だが、その後の気絶は必至だ。故に、この場で使えるのは一回だと考えた方がいいだろう。それにその一回を使えば、イレナの体力は底を尽き、彼女は身動きが取れなくなる。
問題はそれだけではない。以前、旅の道中で険しい山道に差し掛かった時の事だ。
シンゴは冗談のつもりで、イレナにこの山の頂上まで全員――計四人を『ゼロ・シフト』で飛ばしてくれと投げかけたことがある。その時のイレナの返答は当然のことながらノーだったのだが、その際にイレナはその理由を述べていた。曰く――、
「飛ばす人が増えれば増えるほど、がっつり体力を持ってかれるのよ。二人で飛べば普段の二倍。三人なら三倍。四人も飛ばすとなると、頑張っても許容オーバーで誰か一人置き去りにされるか、成功しても反動が全部あたしにきちゃうのよ。だから、基本複数人での『ゼロ・シフト』は無理よ。緊急時で二人。万全でも、あたしを含めて三人くらいがげんか――はっ! あたしの馬鹿!? 奥の手なのに喋っちゃったじゃない――!!」
――という一幕があったのだ。
つまり現状、イレナ一人だけなら脱出を図れる。しかし彼女は、そんな仲間を見捨てる行為など決してしないだろう。どころか、自ら矢面に立ち、体を盾に皆を守ろうとするに違いない。――イレナ・バレンシールは、そんな強くて優しい心を持った少女なのだ。
故に、この場でイレナができるのはあの二人と戦う事だけだ。しかし勝ち目が無いに等しい事は、戦闘に関して実力も知識も皆無であるシンゴにだって分かる。精々時間稼ぎ程度にしかならないだろう。それほどまでに、彼我の実力差は圧倒的だった。
そこまで考え、シンゴは不確定要素である残りの二人に視線を向ける。
『肉欲』と呼ばれるあの少女だが、例え戦えたとしても、あの怯え様では難しいだろう。
そうなると、残りはシンゴと同じ制服に身を包んだ、黒髪黒眼も相まって全身真っ黒な捏迷歪なのだが――、
「あははは! 凄い殺気だね。凄い余裕だし、凄い上から目線の物言いだねぇ?」
「歪――ッ!?」
突然笑い声を上げたかと思えば、歪は何も気負った様子もなく、紅髪の少女と藍髪の少年の前に歩み出る。そしてどう曲解して捉えたとしても、挑発にしか聞こえないセリフを吐き出した。
当然その挑発を受けた方はというと、紅髪の少女は目元をぴくりとさせ、藍髪の少年に至っては「ちっ」と舌打ちをしている。
この状況で口にするセリフの中でも最悪の部類に入るであろう歪の煽り文句と、明らかにお怒りの二人の反応を受け、シンゴが慌てた声を上げた。
しかし、歪は濁った黒瞳を楽しそうに歪ませながらシンゴへと振り返り、
「おや? どうしたのかな、ぼくの親友くん。ぼくは何も間違ったことは言ってないぜ? だって、間違ってるのはそこの二人じゃないか」
歪は人差し指と中指を立ててピースの形にすると、その指先を眼前の二人に突き付ける。
紅髪の少女と藍髪の少年が不快げに眉根を寄せるのを見て、捏迷歪は首を後ろに反らし、見下すような角度で愉悦の笑みを浮かべる。そんな彼を見て、キサラギ・シンゴは唖然とした。
一体、彼は何がしたいのか。何か狙いがあるのだろうか。それとも、この状況がどれだけ危うい均衡の上に成り立っているのか、理解できていないのだろうか。
だが、今さら考えても遅い。もう均衡は傾いだ。それも、おそらく傾いてはいけない方向に――。
「――シア」
「分かってるさ、テラ」
最小限のやり取りで意思疎通を終わらせた二人の目から情けの色が消えた。同時に肌を斬られるような鋭い剣気と、心臓を握り潰さんばかりの殺気が倍以上に膨れ上がった。
二人の体が動く――その寸前だった。まるで海の中にいるかのような圧迫感に抗いながら、シンゴが両手を挙げて叫んだ。
「ま、待ってくれ!? そいつが言った事についちゃ、俺が謝る! だから、もう少し俺達に現状を理解する余地を……話し合いで解決するチャンスをくれ――!!」
「おいおい、何言ってんだよ親友。勝手にぼくの代わりに謝らないでくれよ」
「歪! お前、ちょっと黙ってろ!!」
シンゴの怒声に、歪は肩を竦める。そんな彼のいい加減な態度に、シンゴは湧き上がってくる怒りに肩を震わせ――、
「――――!」
既に臨戦態勢に入っている紅髪の少女と藍髪の少年に対し、無防備にも背を向けてシンゴに「やれやれ」とジェスチャーする歪。そんな彼の目線が己に向けられていなくて、シンゴは喉元まで出かかっていた怒声を寸でのところで飲み込んだ。
彼の視線を目だけで追う。その先にあったのはイレナとあの少女の姿だ。
だが、それがどうだと言うのだ。彼女達に一体何が出来ると――、
「――――ッ!」
違和感に気付き、シンゴははっと息を呑む。
いつもなら真っ先に声を張り上げるはずのイレナが、今は大人しく沈黙を貫いていた。震える少女の肩を優しく抱き、真剣な面持ちで敵を見据えている。その瞳には確かな憤りが見て取れたが、その激情は理性と言う名の膜で綺麗包み込まれていた。
「「…………」」
自分達に無防備に背を向ける歪に対し、紅髪の少女と藍髪の少年は訝しげに眉を寄せて出方を窺っている。こんな状況下でそんな真似をする輩へ不用意に攻撃を仕掛けてもよいのか、自分達は誘われているのではないだろうか、おそらくそんな逡巡をしているに違いない。
「さて――」
シンゴがイレナの様子に気付いたのを受け、歪は不敵に微笑みながら様子を窺う二人に振り返った。当然、歪の動きに警戒心を強める二人だが、即座に攻撃は仕掛けてこない。
ここまで計算した上での振る舞いだったのだとしたら、捏迷歪はシンゴの想像以上の実力者――とんだ食わせ物なのかもしれない。
そんなシンゴの感慨を余所に、歪はポケットから手を抜くと、両手でピストルのような形をつくり、眼前で警戒心を強める紅髪の少女と藍髪の少年に指の先端を突き付ける。
「君達二人、見たとこ双子みたいだけど、もしかして――」
「「――――ッ」」
二人が息を呑むのを見て、歪の口の端がニタリと笑みの形に裂けていく。
シンゴも息を詰めると同時に、まさかあの指先から何か強力な魔法を撃ち出すのかと期待し、そして身構えた。――だが、
「やるとこまでやっちゃった!? 兄と妹、あ、それとも姉と弟かな! ぼくとしては姉と弟が萌えるんだけど、激しく燃えるんだけど! いいよねぇ、憧れるよねぇ。決して越えてはならない境界線。でも、禁忌は犯すためにあるとぼくは思うんだ! なぁ、禁断の愛は甘美な蜜の味? それとも甘酸っぱい感じ? はたまた渋くて苦かったとか……あ! 背徳感とかどうだった!?」
「「な――」」
歪の空気をぶち壊しにするセリフを受け、紅髪の少女と藍髪の少年が頬を引き攣らせた。そして紅髪の少女が隣の藍髪の少年の顔をチラリと見やり、頬を染めて視線を逸らす。
唖然と目を見開くシンゴの目の前、歪は眼前の二人の様子に「やれやれ」と両手を挙げると、
「その反応はもう答えだぜ? せっかくそんな羨ましい設定があるのに、それを有効活用しないなんて……ぼくは心底呆れたよ。いっそ軽蔑するね」
「――ッ! し、死ねッ!!」
「テラ――!」
口元に手を当てて吹き出す歪。そんな歪の態度に真っ先にキレたのは、紅髪の少女だった。未だに動揺の抜けきらない顔を羞恥と怒りで紅く染めながら、藍髪の少年の制止を振り切り、目にも止まらぬ速さで突貫してきた。
低い姿勢で地を駆けた少女は、未だへらへらと余裕を崩さない歪の胴を目がけ、斜め下から剣を一閃させる。
その寸前――、
「――――ッ!?」
真横からつららが紅髪の少女に迫る。目を見開き、冷静を欠いた己の行動を悔やむように端正な顔を歪ませながら、少女は咄嗟に剣の軌道を変えてつららを叩き壊す。しかし――、
「な――!?」
叩き壊したつららの影に隠すように放たれていた、もう一本のつららが姿を現す。躱せるタイミングでもなければ、振り抜いた剣を引き戻す時間もない。――完全に詰み。だがそれは、紅髪の少女一人の場合の話だ。
「――――ッ」
不意に割り込んだ影が無言の呼気を吐き、もう一本のつららに剣を一閃させ迎撃した。紅髪の少女はその人物の紅色の背中を見て、口元を綻ばせる。
――その瞬間。もう一人、口元を綻ばせた人物がいた。
動揺し、冷静を欠いた紅髪の少女。そんな彼女を救うために無理やり動かされた藍髪の少年。そこには、明確な隙が生まれた。
その隙に割り込むように、捏迷歪が眼前の二人に向かっておもむろに手を突き出す。
「『パラリシス・エアロゾル』」
「「――――!?」」
途端、捏迷歪の手の平から黄色い煙霧が吹き出し、紅髪の少女と藍髪の少年を覆い尽くした。
「――ッ! 煙幕……ッ!」
一寸先すら見通す事の叶わない、黄色い世界に包まれる。
先ほどの失態を引きずっているのか、紅髪の少女は動揺を隠しきれない。しかし、藍髪の少年は違った。
藍髪の少年は咄嗟に握り込んだ手から人差し指のみを突き出すと、ピストルの形を模す。そしてその指先を黄色い煙霧の向こうに向け――、
「『アクア・ズ・ペネトレイト』」
指先から高圧縮された水が、細い線で放たれた。
命中の手応えを感じ、藍髪の少年は次の行動に移ろうとして――膝が折れた。
隣からも膝を着く音が聞こえた。おそらく紅髪の少女も藍髪の少年と同じような症状に見舞われているのだろう。
「これ、は……ッ」
「く……ッ」
全身の筋肉が脳の命令に背き小刻みに痙攣し、四肢が痺れたように動かせない。
痺れで倒れそうになる体をなんとか剣で支えながら、二人は悟る。この黄色い煙霧は煙幕などではなく、おそらく麻痺毒か何かを含んだものだと。
やがて、黄色い煙霧が晴れた先に、キサラギ・シンゴ達の姿はなかった。
「――ダメ。もう、私の目が……届かない範囲まで、逃げられた」
「……死角、は?」
「……いない」
「そう……」
先ほどの浅はかで感情的な行動を振り返り、瞳に後悔の色を宿して唇を噛む紅髪の少女。
そんな姉の姿を沈痛な眼差しで見詰め、藍髪の少年は痺れを訴える唇を無理やり動かす。
「大丈夫、さ……テラ。そう遠くに、は……行けやしない。それに――」
双子の弟の言葉を受け、紅髪の少女は全身の強張りを解いた。
姉である彼女は分かっているのだ。弟の言葉が決して慰めなどではなく、ただ事実を述べているだけなのだと。
やがて紅髪の少女――テラは吐息し、「ええ――」と頷き、
「シアの、言う通りだわ。ノーミ様からは……逃げられない、ものね」
「――うん」
そう呟く二人は痺れる口元を吊り上げて笑うが、その表情にどこか諦念の色が混ざっている事に、本人達が気付くことはなかった――。
――――――――――――――――――――
「はぁ、はぁ……なんとか、逃げ切れたみたいだな……」
シンゴは荒い息を吐きながら、ボロボロの石壁にもたれかかるようにして座り込んだ。
そんなシンゴと同じように荒い息を吐きながら、イレナ、歪、そしてフードで顔を隠した少女が座り込んでいる。
――と、
「どうだった、ぼくの華麗な演技! 自分でも惚れ惚れする出来だったよ! いやぁ、それにしてあの初心な反応……絶対経験ないぜ、あの二人」
「経験……?」
「あー、イレナ。そこはスルーがおすすめ」
意外とこういう事に疎いところがあるイレナにそう言葉を投げかけ、シンゴは改めてほっと息を吐く。
シンゴ達は現在、とある廃墟の中にある一室に逃げ込んでいた。
捏迷歪の巧みな――と言っていいのか怪しいところであるが、ともかく彼の話術とあの黄色い煙霧の魔法のおかげもあり、シンゴ達は紅髪の少女と藍髪の少年から逃げおおせる事に成功していた。
と言っても、まだ油断はできない状況である事に変わりはない。少し休憩を挟んだら、すぐさま行動に移らなければならない。だがその前に、ここからどう行動を起こすかなど、色々と話し合わなければならないだろう。
そう考え、ざっとここいる顔ぶれに視線を走らせた時だった。
シンゴの視線がある一点で止まり、次いでその顔が驚愕の色に染まった。
「お、い……歪、お前その肩――!?」
「おっと、ばれちゃったか」
シンゴの叫びに歪は余裕げな顔で肩を竦める。しかしその顔には脂汗が浮かび、呼吸も先ほどから乱れたままだ。
「ちょっと、その怪我どうしたのよ……!」
「はっはっは……ちょっとしくじった」
イレナが慌てた様子で歪に駆け寄る。シンゴも駆け寄り、歪の傷を確認する。
歪の肩には、まるで拳銃にでも穿たれたような穴が空いており、流れ出た血が黒い制服に濃い染みをつくっていた。
「だから無茶だって言ったのよ! あんな無謀な作戦……!」
「でも、うまくいった」
「それは……ッ」
おそらく二人が話している作戦とは、さっきの事だろう。
歪が注意を引き、煽り、相手のペースを乱す。同時に相手のチームワークも乱す。そして生まれた隙を見て、先ほどの麻痺毒を含んだ黄色い煙霧の魔法を歪が行使する。イレナはそのサポートを任されたのだろう。
理には適っているが、ほとんど博打のような作戦だ。イレナが憤るのも無理ない。
しかし歪は反対される事まで見越し、イレナから快い返事を貰う前に行動を起こした――先ほどの一幕は、およそそんな感じだろうか。
「待ってろ歪、俺がその傷を治してやるから――ッ!」
「へぇ……シンゴ、そんな事できるんだ」
余裕そうな微笑を浮かべながら、興味深そうに聞いてくる歪に「まあ、見てろって」とサムズアップで応じると、シンゴは目を閉じる。
そのまま十秒近い時間が経過するが、一向に変化は訪れない。その様子に歪は首を傾げ、イレナも不審げに眉を寄せる。やがて――、
「――な、なんで出ねえんだよ!?」
愕然として、シンゴは己の右肩に手をやる。
シンゴのその様子を見て、イレナがおずおずと尋ねてくる。
「ねえシンゴ。アンタがやろうとしてるのって、あの時あたしの傷を治してくれた……」
「そうだよ! そう、なんだけど……くそっ! 何で出ねえんだよッ!?」
己の右肩を拳で打ち、シンゴはしきりに「くそっ!」と毒づく。
しかし、そこで何かを思い出したようにはっとなる。
「そうだ……ベルフ」
「え……?」
イレナの疑問の声には取り合わず、シンゴは己の内に向かって叫ぶ。
「おい、ベルフ! 力貸せ! ベルフッ!!」
シンゴは必死にあの半身のみの炎の鳥の名を呼ぶが、答えてくれる『声』はおろか、シンゴが顕現を望むあの片翼も姿を見せてくれない。
「どうしたんだよ……おい、ベルフ! ……まさか――」
ここでシンゴは、とある一つの可能性に思い至る。
今まで自分からあの翼を出そうとはしてこなかったし、さしたる疑問を持つこともなかった。理由は、そんな事を気にしていられる余裕もなかったというのもあるが、何より必要がなかったからだ。
シンゴとアリスは吸血鬼だ。シンゴは厳密には半吸血鬼だが、それでもこの二人の再生能力は人外のそれだ。そしてイレナとカズだが、二人は強い。だから旅の道中、これといった重症は負わなかったし、どちらかとえば、シンゴの方が重傷を負う事の方が多かった。だから、シンゴがカワードと対峙した際に発現させた他者を癒す力は必要がなかったのだ。故に、翼の顕現も不要――。
「……違う」
シンゴは首を振ると、己が偽ろうとした心と向き合う。
怖かったのだ。――否、気持ち悪かったと言うべきか。
己の体が人外に近付くその感覚。自分の身体から得体の知れないモノが生じるという抵抗感。それらに対する拒絶感で、シンゴは事ここに至るまであの翼を意識しないように努めてきた。それがここ来て、仇となったのかもしれない。
「いや……それも、少し違うか……」
「シンゴ……?」
「…………」
イレナの心配げな呼びかけに対し、シンゴは返事をしない。というより、自分の世界に没頭しすぎて聞こえていないのだ。
キサラギ・シンゴは己の心の奥底をさらに覗き込む。もう本当は分かっている。だが、認めたくないのだ。
冷や汗が頬を伝い、顎から落ちる。
シンゴはその視線を、余裕そうな顔をしながらもどこか苦しげな捏迷歪に向ける。
今、彼に治療を施せるのは、己が持つあの力のみだ。故に、シンゴはさっさとあの翼を発現させなければならない。つまりそれは、認めなくてはならないという事だ。
――紅蓮の炎で形作られた片翼は、キサラギ・シンゴが『死』を迎えた時に現れる。
今までそうだった。ヒィースの時も、オールインワンの時も、カワードの時も、全部、全部、全部、シンゴが死に至る負傷を被った際に片翼は現れた。逆に死に至らないような負傷時には現れない。そこから導き出せる答え――あの片翼の出現のトリガーは、シンゴの『死』なのだ。
――つまり、他者を癒す力は、シンゴが一度死ななければ使えない。
「はは……まじかよ。この力、頭悪すぎだろ……」
シンゴは力なく笑うと、深いため息を吐いた。
俯いていたのは数秒だ。シンゴは「ふぅ」と吐息すると、顔を上げた。
そして、その顔を心配そうに己を見ていたイレナに向ける。
「――イレナ」
「な、なに……? あの翼の出し方が分かったの?」
「ああ……」
「よかった……じゃあさっさと――」
安堵の笑みを浮かべるイレナに、シンゴは“お願い”をした。
「俺を……殺してくれ」
強張り、引き攣った笑みで、お願いした――。




