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虚飾のアリス ‐不死の少年と白黒の吸血鬼‐  作者: 竜馬
第2章 王都トランセル
56/214

第2章:42 『繋げ――』

「…………」


 腕に串刺しにしたままの状態で、吊るすように持ち上げたキサラギ・シンゴを、カワードはひどく無感情な色を宿した紫紺の瞳で見詰めていた。

 シンゴの貫通した胸からは大量の血が流れ落ち、カワードの白い服の袖を赤く染め上げている。そしてその口からは、胸からの流血に劣らぬ量の血が零れ落ち、シンゴの顔の下半分を赤一色に染めていた。


 そして、いつまで経ってもその血液は蒸発することなく、床に血だまりを作り出している。――つまり、シンゴの吸血鬼の再生能力が機能していないということだ。

 吸血鬼の殺し方は、死ぬまで殺し切ることだと、ある男が語った。そして、カワードはシンゴの心臓を一突きにし、再生しようとする肉や骨に内臓を、腕を差し込んだままにすることで阻害し続けていた。つまり現在、カワードはキサラギ・シンゴを“殺し続けて”いるのだ。


 死ぬまで殺し切る――今の状況は、その条件に合致する。

 吸血鬼の力は継続する『死』によって封殺され、シンゴの体は再生されることなく、その生涯に幕を閉じ――


「――――ッ!?」


 突如、シンゴの右肩付近から、紅蓮の炎で形つくられた片翼が飛び出した。

 息を呑み、咄嗟に腕を引き抜くと、カワードは支えを失って落下してきたシンゴの頭部へ、はたくように腕を振るった。

 べちゅ――と湿った音が鳴り、シンゴの頭部が潰れたトマトのように弾け飛ぶ。


 しかし――、


「な、に――?」


 本来なら床に倒れるはずのシンゴの体は真っ直ぐ直立し、その足が意思を持って床を踏みしめ、体を支えた。

 そして、カワードがはっとなった次の瞬間には、いつの間にかシンゴの頭部は再生され、首の上に元通りの状態で鎮座していた。


 その事実に驚愕を浮かべるカワード。そんな彼の意識の空白を狙い澄ましたかのように、紅蓮の片翼がピクリと動き、次の瞬間――


「ぐっ――!」


 近くにいたカワードを遠ざけるかのように翼が動き、打ち払った。

 咄嗟に腕をクロスして防御するが、カワードは後方へ無理やり退かされてしまう。しかし、カワードには大してダメージが通っているようには見えない。

 その事実に、カワードも訝しげに眉を寄せている。


 熱を感じなければ、衝撃もさほどない。本当に、ただ遠ざけられるために腕を払われた、そう感じるほどの威力だった。

 カワードは困惑を浮かべ、顔を伏せている眼前のシンゴを紫紺の瞳で見詰める。すると、シンゴがその顔をゆっくりと上げた。その顔に浮かぶ感情は――、


「……あの鳥野郎……ッ」


 何者かに対する怒りだった。しかし、カワードにはその怒りの真意を知ることはできない。当然だ。それらは全て、あの校舎の中で起きた出来事であり、この場にいる者の中ではシンゴしか知り得ないことなのだから。

 やがてシンゴは嘆息すると、チラリと己の右肩付近から生じる翼へと視線を向ける。


「…………」


 紅蓮の翼が幾度か羽ばたくような動きを見せる。それを受けて身構えるカワードだったが、その心配は杞憂だ。何故なら、シンゴはただ翼を“動かしてみただけ”なのだから。


「……変な感覚だな、これ」


 そう呟きながら、シンゴはあまり気分の良くないような表情を覗かせる。

 現在、シンゴはこの紅蓮の翼がまるで自分の体の一部になったかのような、そんな不思議な感覚を味わっていた。


 神経が通い、動かせば、その翼が巻き込む空気の圧を感じることができる。今までのように外部から取り付けたような飾りではなく、シンゴの意思で自由に動かすことができるようになっていた。


 さらに、変化はこの翼だけではない。


「そういや、今回はちゃんと何があったか覚えてるな……」


 そう、シンゴは校舎での一連の出来事を、今までのものも含んだ記憶を、全て現実世界へと持ち帰っている。これは、ベルフが言っていた『馴染んだ』証拠なのかもしれない。

 そんな風に、シンゴが眼前のカワードを無視し、思案の海に沈んでいたときだった。己の存在をなかったかのように扱われ、爆発寸前のカワードが怒声をシンゴに浴びせようとした、その寸前――、


「――ごぷっ」


 シンゴの背後から、何かが口から溢れ出たときのような音と、次に液体が地面を打ち付ける音が耳朶を打った。

 はっとして振り返るシンゴ。そこには――、


「あ……イレ、ナ? ――イレナッ!!」


 口から盛大に吐血し、蹲ったイレナの姿があった。

 まるで、背中に氷を入れられたかのように全身の血の気が引いていくのを感じながら、シンゴは血相を変えてイレナの元に駆け寄った。


「う、そだろ……」


 駆け寄り、屈んだシンゴが見たものは、口元を血で真っ赤に染め、脇腹が大きく抉れたイレナの痛ましい姿だった。

 チラリと傷口に視線をやれば、赤色の中に蠢く、鮮やかなピンク色の臓腑が顔を覗かせていた。素人目で見ても、明らかな致命傷だった。


「な、なんで……俺は、確かに庇って……!」


 全身を汗でびっしょり濡らし、浅く息を吐くイレナの姿に困惑し、動揺し、頭の中が真っ白になったシンゴの口を突いて出たのは、今しなければならないことからかけ離れた、今さら過ぎる原因への疑問の言葉だった。

 しかし、そんなシンゴの疑問に明確な返答が背後から返ってきた。


「何を言ってるのさ。君は彼女を庇えていないよ? 僕の手は、君の体を通して彼女にちゃんと届いていた……ただ、それだけのことさ」


「ぁ……は?」


 理解できない。理解したくない。なのに、頭の中ではちゃんと理解できてしまった。

 ――つまりなんだ? シンゴは体を張って、文字通り命まで支払ったのに、それでは不足していて、シンゴは力不足でしたと、無力でしたと、そういうことなのだろうか。

 愕然とするシンゴだが、そんなことを考えている間にも、眼前の少女の命はどんどん零れ落ちていく。


 ――――どうすれば、いい……ッ?


 シンゴは必死にイレナを助けるべく、頭を回転させる。そして、はっと思いつく。


「そ、うだ……! 吸血鬼化だ! イレナを吸血鬼にして……しまえば……」


 暗いトンネルに一筋の光が差したかに思われたが、シンゴの声は徐々に尻すぼみになり、その声に比例するように、希望を覗かせた顔も暗くなっていく。

 シンゴは、恐る恐る自分の口へと指を差し入れた。

 そして浮かび上がってきた、どうしようもない事実に愕然とする。


「牙が……」


 そう、シンゴには吸血鬼の――アリスの牙のような、鋭い犬歯は存在しない。そしてアリス曰く、吸血鬼化の最初のステップは、牙の中に通っている特殊な血管から血液を相手に注入する、という方法だったはずだ。


 常人となんら変わらない状態であるシンゴの犬歯に、その血管が通っているとは思えない。それに、そもそもな話、シンゴは中途半端な吸血鬼なのだ。その体に流れる血も、言ってしまえば中途半端。他人の遺伝子を組み換え、吸血鬼へと至らせる。そんな芸当を、こんな中途半端なシンゴの血液で成し遂げられるのか。下手に送り込もうとすれば、失敗し、イレナの体が砂になってしまう可能性もあるのだ。


 歯ぎしりし、己の無力に打ち震えるシンゴ。だが、シンゴは諦めそうになる己の心に喝を入れ、背後のカワードを完全に頭の外に追いやって考える。この状況を切り抜けることができる、そんな名案を。


 しかしそんなとき、思考の海に沈んで行こうとするシンゴの意識を、掠れたイレナの声が引き上げた。


「し、んご……」


「――ッ! イレナ、待ってろ! 必ず……必ずお前を助け――」


 シンゴが必死に言い募ろうとするのを、イレナは青くなった顔を小さく横に振ることで制する。そして、血を吐いて咳き込みながら、弱々しく言葉を紡ぎ始めた。


「ゆ、ぴ姉……に、なんて……ごほっ……言われ、たの?」


「――は? な、何で今、そんなこと――」


「どう、せ……あたしの、様子、が……変……だとか、言ってたんで――ごほっ、ごぽぉ――」


「しゃ、喋んなよ馬鹿野郎ッ!!」


 言葉の最後で、尋常ではない量の血液がイレナの口から噴き出した。

 シンゴの目尻にうっすらと涙が浮かび、腹の底で何かがぐるぐると気持ち悪く渦巻くのを感じながら、シンゴは狭くなった喉を何とか震わせる。

 それでも、イレナの口は止まらなかった。


「おし……えて?」


「…………ッ」


 懇願するように、うっすらと開けられたイレナの碧い眼に見詰められ、シンゴは何もできない自分に憤り、悔恨し、苦渋に顔を歪ませた。そんなシンゴを、イレナは浅い息を吐きながら待っている。シンゴがイレナの望む答えを話してくれるのを。

 そんな彼女の目を見て、シンゴは悟ってしまった。どうしようもなく、至ってしまった。


 唇を強く噛むシンゴは、震える喉をなんとかこじ開け、イレナの望む話を紡いだ。


「――ユピアは、お前が明るすぎて、無理してるんじゃないかって……。お前が泣くとこを、全然見たことがないって……」


 嗚咽が漏れるのをなんとか堪えるシンゴの眼前では、話を聞き終えたイレナが満足そうに目を閉じ、口から血を飛ばしながら弱々しく笑った。


「ふ……っふ。しんぱ、い……性だ、なあ、ユピ姉……は。あたし……だって――ごほっごほっ! ぅ……ふ、普通に、泣いて、たわよ……。た、だ……こ、どもたちの前では……泣け、ない、だけで……ッ、ごほっ!」


「…………」


 ――これはシンゴの勝手な憶測だが、ユピアはイレナの心がどこか壊れてしまったのではないかと思ったのだろう。しかし、それは杞憂だったことになる。

 過去、一体なにがあったのかは知らないが、しかしイレナの心は壊れてしまった訳ではなかったのだ。イレナはただ、強くあろうとしただけで――。


 さらに、イレナは心配するユピアのこともちゃんと察し、そして理解していた。

 これほど強い少女が、今、シンゴの目の前で終わりを迎えようとしている。


 ――あまりにも、理不尽だった。


「――――ッ!!」


 イレナの目尻から、一筋の涙が零れた。それを見て、シンゴは息を呑む。

 そして、イレナはもう目を開ける力もないのか、目を閉じたまま、


「死に……たく、なぃ……なぁ……」


「――――」


 弱々しく呟いた。

 シンゴはユピアから、イレナに涙を流させて欲しいと乞われた。しかしユピアの心配は外れ、イレナはちゃんと涙を流してきたと語った。だが、だが――こんな形で涙を流させるのは間違っている。望んでいない。

 善悪、好悪、関係なく断言できる。こんな終わり方は――間違っている。


「――――よ」


 零れ出る。シンゴの口から零れ出る。


「―――せよ」


 止まらない。止まれない。


「――こせよ」


 終われない。終わらせてはいけない。


「――寄越せよ」


 ふっ――と、イレナの全身から力が抜け、腕がずり落ち、血だまりに波紋を描いて投げ出される。

 こんな終わりがあってはいけない。だったら、終わらせない。終わらせないためにも――、


「力、寄越せよぉぉぉおおおおおおッッッッ!!!!」


 あらん限りの声を、魂を震わせ、手を伸ばす。望みを、希望を――『繋ぐ』ために。

 次の瞬間、紅蓮の片翼が大きく開いた。そのままイレナの全身を包み込むように、上から覆いかぶさる。


 そして――燃え上がった。


「まだだ……」


 ――繋げろ。


「こんな事で……」


 ――何を?


「終わらせて、たまるかよぉ――!!!!」


 ――命を!


 シンゴの口から迸る言葉には願いが、決意がこめられていて。それらはうねりを生んで――溢れ出した。

 熱を上げる心に呼応し、イレナを包む翼の炎が勢いを増す。


 そして――、


「あ、れ――?」


 紅蓮の翼から迸った炎が勢いを緩め、主の背中の定位置へと帰っていく。そして翼の下から、そんな拍子抜けた声が漏れた。

 見れば、イレナの脇腹の傷は完全に塞がり、流れ出した血液は炎によって焼かれ、全て蒸発していた。

 そしてあろうことか、イレナは呆けた顔のまま、何事もなかったかのようにむくりと体を起こした。


 ――もう、限界だった。


「イレナぁ!」


「わ、きゃあ――!?」


 イレナの胸に飛び込み、シンゴは彼女の体を抱き寄せる。

 従来なら鉄拳が飛んできそうなものだが、イレナは最初こそ驚きはしたが、その後はその表情を優しいものに変え、シンゴの頭を労わるように、慈しむように撫でて、


「――ありがと、シンゴ。アンタが、あたしを助けてくれたんだよね」


「……ぅ、ん……うん……」


「あはは……」


 イレナの胸に顔を埋めながら嗚咽を漏らし、子供のように頷くシンゴに、さすがにイレナも苦笑する。

 そんな二人に、驚愕を含んだの声が飛んできた。


「君は……そうか、デプレシンが気にかけていたのは君か! それにその手の痣! そうか、そういうことなのか!?」


「…………?」


 ようやく顔を上げたシンゴが、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で背後を振り返った。

 どうやら今まで成り行きを見守っていたらしいカワードが、シンゴの右手を見て忌々しげに叫んでいた。

 そんなカワードに鋭い視線を飛ばしながら、イレナが声を発する。


「黙って傍観なんて、どういう風の吹き回しよ?」


「…………さっきも言ったけど、僕は他人を助けようとしている者の邪魔をするなんて非道な事はしない。……でも、それとは別に――」


 カワードは突然、今まで手に嵌めていた、シンゴの返り血で真っ赤に染まった本来は白かった右手袋を脱ぎ捨てると、その手の甲をシンゴたちに向かって突き出した。

 その手の甲には――


「……そ、その痣……!」


 シンゴの目が驚愕に見開かれる。

 カワードの手の甲には、ローマ数字の『Ⅶ』という文字に酷似した痣が刻まれていた。

 シンゴはそれを受け、咄嗟に自らの手の甲へと視線を落とす。そこには、アルファベットの『M』に酷似した痣が刻まれている。


 顔を上げたシンゴの視線の先では、再び手袋を嵌め直したカワードが忌々しげに顔を歪ませ、シンゴのことを睨み付けてくる。

 紫紺の瞳と視線がぶつかった瞬間、シンゴの背筋を恐怖と言う名の電流が駆け抜け、全身が金縛りにあったかのように硬直した。しかしそれもほんの一瞬のことで、シンゴは詰めていた息を吐き出し、荒く肩で息をする。


 そんなシンゴを睨みつけたまま、カワードが憎々しげに、まるで呪詛を吐き出すかのように口を開いた。


「よくも……よくもデプレシンを! 彼女は僕のものだッ! 君にはあげない、あげるもんか!!」


「は、はぁ? 誰だよその……デンプンとかいう奴は?」


「デプレシンだッ!! 彼女の名前も知らない君なんかが……ッ! 僕から彼女を奪うなんて……こんないじめ……それだけは容認できない! 許さない!!」


「……この異常者が……人の話を……ッ」


 シンゴの知らない誰かを奪われるとほざくカワードだが、そんな彼の圧迫感のようなものがさらにその濃度を上げた。そして、異常者は自らの美しい金髪を両手で掴むと、力任せに引っ張り、引き抜いた。


 そして、ぎろりと血走った紫紺の瞳をシンゴただ一人へと向けると、叫んだ。


「君が何の罪を背負っているのかは知らない! でも、僕の方が彼女に相応しいッ!! 彼女は僕の罪を美しいと、至高だと言ってくれた! つまり、僕が一番だ! この――『激情』がッッ!!!!」


 吠え、肩で息をするカワードの顔は狂気で歪み、従来の彼の端正な顔立ちの欠片すら、今は探すことができない。

 しかし、カワードの体から発せられる圧迫感は、現在進行形でその強さと大きさを肥大させていっている。


「…………ッ」


 知らず知らずのうちに汗が顎を伝っていることにすら気付かず、シンゴはどうやってこの状況を切り抜けるかを必死に模索していた。

 シンゴには自らを『死』からもすくい上げる奇妙な『力』と、先ほどイレナを救った他人を癒す『力』が備わっている。しかし、それは攻守で区分すれば“守”だ。そして、先ほどカワードを弾き飛ばした紅蓮の翼も、炎が相手を燃やすこともなければ、大した打撃力も備わってはいない。


 いわば、シンゴはゲームで言うところの『ヒーラー』だ。それも、攻撃手段は精々その杖で相手を殴打するくらいの。

 つまり、シンゴには圧倒的に“攻”が足りない。何故かは分からないが、カワードは相手の動きを完全に読み切る力、もしくは技能がある。


 しかし、躱すということは、攻撃を受けたくないということの裏返しでもある。ということは、カワードの自身の耐久力は、普通の人間と同じレベル――のはずだ。なら、シンゴが全力でぶん殴れば、意識くらいなら飛ばせるかもしれない。しかし、そのためにはまず、カワードに攻撃を当てなければならない。そうなってくると、あの読みが――といった具合に、先ほどから思考は堂々巡りを繰り返している。


 それに、この世界には魔法といったものもある。今まで使ってこなかったことから、出し惜しみしているのか、それとも使えないのか。その判断は難しいが、とりあえずは警戒しておかなければならない。

 対処しなければならないことが、あまりにも多すぎる。


「――シンゴ」


「――――!」


 頭を悩ませていたシンゴの後ろから、イレナがシンゴにしか聞こえないくらいの声量で声をかけてきた。

 シンゴはカワードに悟らせないために、背後へ振り返らないように気を付けながら、イレナの言葉に耳を傾ける。


「どうにかして、アイツの注意を引きつけて。そうしたら、あたしが思いついた方法を全力でぶつけてみるから」


「……無茶なこと言ってくれるな……ま、やるけどさ!」


 “攻”はイレナに任せることにして、シンゴは全力でカワードの注意を引くことにした。

 シンゴはカワードにびしっと指を突き付けると、ニヤリと意地の悪い笑みを纏った。


「はっ! 何が彼女は僕のもの~だ! その彼女さんは、どうやら俺にメロメロみてえじゃねえかよ! おたく、浮気されてますぜぇ?」


「あぁ!?」


 カワードから放たれる圧迫感が、さらに密度を増した。最早それは、水の中にいるのではないかと錯覚してしまうほどの圧をシンゴに感じさせた。

 ひるみ、後退しそうになる足に力を込め、シンゴは挑発を続ける。


「それともあれか? お前はその彼女の口から直接聞いたのか? あなたが一番です〜って。もし言われてねえんだったら……あらやだ! あなたもしかして、妄想大好き頭ん中お花畑野郎か? うーわねえわ、まじねえ、気持ちわる!!」


「…………死ね」


「お勤めご苦労さまであります! 単細胞様!」


 ――――来る!


 何度も『死』に近付いたシンゴは、その『死』に、普通の人より僅かばかり敏感になっていた。しかも、さっき一回――いや、二回か。死んだばかりなのだ。この死にたてほやほやの状態なら、『死』に対してより敏感になれるというものだ。

 つまり、シンゴは自分に襲いくる『死』の予感を感じた。普段は経験する者の方が少ないが、所謂「あ、これ死んだな――」と察するアレの、もう一歩、踏み込んだものに近い。


 そして、そんなシンゴの直感は見事的中し、その数瞬後、カワードが砲弾のように突貫してきた。

 咄嗟にシンゴは、背後のイレナを巻き込まないように横へ逃げる。カワードはそんなシンゴを完全にロックオンしており、イレナのことをガン無視して方向転換する。


 シンゴは回り込むように走り、カワードが最初に呑気に腰かけていた椅子の近くまでやってくると、その椅子を即席の武器として手にする。そして振り返ると、カワードはすぐ目の前までやって来ていた。

 カワードがどういった能力を持っているのかは分からないが、ここまでの戦闘を通し、シンゴはカワードの能力は身体能力を底上げする類なのではないかと目星をつけていた。そして、その上げ幅には若干のムラがあるということも。


 しかしそれが分かったところで、現状シンゴにはどうすることもできないという事実が決して揺らがないのが痛いところだ。


「――らッ!!」


 シンゴは向かってくるカワードに、手に持った椅子を投げつけた。しかしカワードは、まるで羽虫を払うかのように手を軽く振るだけで、椅子を横に吹き飛ばしてしまう。

 そしてそのまま、真っ直ぐシンゴに向かってくる。


「ちっ、なんちゅうゴリ押しだよ……!」


「撤回、しろ……撤回しろぉッ!! デプレシンは……僕のものだ!!」


「うるせえよ! このストーカー野郎!!」


「黙れ、この狂人め!!」


 カワードは自分のことを棚上げしてそう叫ぶと、懲りずにシンゴの顔面を狙った拳を放ってきた。当然シンゴはそれを予測し、あらかじめ体を伏せている。

 頭上を通過する高密度に圧縮された暴力にひやりとしつつも、なんとか回避には成功する。しかし、またしても拳が掠り、今度はシンゴの頭髪が宙を舞う。


 やはりカワードの拳は、徐々に威力と速度が上がっているようにも感じられる。だが、狙うところが分かっていれば、躱せないほどではない。

 そう、カワードが同じ所を狙ってくれれば、だ。


「――あがっ!?」


 シンゴの右足が、太ももの辺りから吹き飛ばされる。カワードが蹴り飛ばしたのだ。

 攻撃パターンを変えてきたカワードの攻撃に対応しきれず、攻撃をモロに貰ってしまった結果だ。


「ああ、ぎっ……いッ!」


 苦痛に顔を歪ませ、シンゴが両手を床に着く。しかし次の瞬間、シンゴの右ひざが地面にちゃんと接した。いつもの再生よりも速い。

 そのことに驚くシンゴがはっとした次の瞬間、再びカワードの足がシンゴの顔面を蹴り飛ばそうと放たれた。


 シンゴは今、四つん這いの体勢だ。ここから咄嗟に横に避けることも、下に伏せることも、ギリギリで間に合わない。なら――、


「な――!?」


「――――ッ!」


 シンゴは紅蓮の翼を思い切り羽ばたかせ、生じた揚力を加えて横に飛んだ。

 真横を通過するカワードの足は、シンゴの腕を僅かばかり掠めただけに終わった。

 その事実に、足を振り向いたままの状態で驚愕を顕にするカワードの背後で、水面に浮かぶ波紋のような歪みが生じた。


「――――ッ!!」


 カワードは咄嗟に前方へ振り抜いた足を引き戻し、前を向いたままで、馬がするような蹴り上げを片足で背後に放った。

 しかし手応えはなく、波紋はそのまま掻き消えてしまう。そして次に、カワードから見て左側面に波紋が生じる。生じた瞬間、カワードはその波紋に向かって左の正拳を放った。しかし、またしても波紋は掻き消えるだけで、その波紋を生じさせているであろう少女は姿を現さない。


 何かを狙っているのか、それとも――

 思考するカワードは、その場から横に飛んだ。理由は簡単、シンゴがタックルを繰り出してきたからだ。しかしカワードはその不意打ちを、またしても目視することなく回避してしまう。


 今まで何度も繰り返されたような光景、しかし今回は少し違った。

 シンゴの紅蓮の翼が、まるで独立した意思を持ったかのように、主の意思にそぐわぬ動きを見せたのだ。

 それは、ただうちわで扇ぐような、ただ風を叩き付けるものだった。しかし当然のことながら、この翼は普通のうちわよりも大きく、必然的に生み出される風圧も大きくなる。


 その風圧を真正面から受け、何故か対応しきれなかったカワードの体勢が僅かに崩れる。そしてそれは、この戦局を決定付ける歪みとなった。


「――――ッ!」


 カワードははっとなり、バランスを崩した体勢のまま、後ろへ裏拳を放つ。その拳は背後に生じていた波紋の形を崩すが、その波紋を作り出した張本人は既に床へ着地している。

 カワードは体勢が完全に崩れてしまうのも厭わず、さらに後ろ回し蹴りを放った。――顔を狙って。


 イレナはその攻撃を、体を前傾させて躱す。だが、イレナは息も絶え絶えで、かなり苦しそうな表情を浮かべている。足から力が抜け、その場に膝を着きかける。

 しかし、イレナはそこから奥歯をがっと噛み締めると、折れかける足に残った体力と意思を全て叩き込み、吠えた。


「ぅ……あああああああああああッ!!!!」


「うっ……!?」


 イレナが体勢を崩したカワードの腰に飛付いた。


「つか、まえたぁ!!」


「…………ッ」


 イレナのタックルにより、バランスを崩していて踏ん張ることができなかったカワードの体が、その衝撃によってイレナを腰に張り付けたままの状態で宙を舞った。

 そして、イレナが叫んだ――。


「ゼロ、シフトぉぉおおおッッ!!!!」


 カワードの体が水面に着水したかのような波紋を空中に生み、まるで本当に水の中に落ちるかのように、体が空間にずぶりと沈んだ。そして――


「――――ぇ?」


 その言葉を最後に、カワードは空間に生じた波紋へと完全に飲まれ――沈んだ。


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