第2章:40 『波紋』
「あ、ぎっ、がぁあああああぁぁぁぁああああ!?」
シンゴの意識は、神経を蹂躙するように暴れ狂う激痛によって現実へと引き戻された。
痛みの元は右腕だ。シンゴがうつ伏せに倒れたままの状態で咄嗟に右腕を確認すると、右腕が肘の辺りで逆さに折られていた。
さらに激痛はそこで終わらず、何者かが折れた腕をさらに引っ張り、やがて右腕は折れた肘の部分を境に、まるで雑草を引き抜くような感覚で引きちぎられた。
絶叫し、涙を流しながら喘ぐシンゴを見下ろすのは、飛び散ったシンゴの血液で頬を赤く濡らした、カワード・レッジ・ノウだ。
カワードは再生を始めるシンゴの腕を、その紫紺の瞳で興味深そうに眺める。
すると――、
「『アイス・ズ・メイク』!!」
後ろから魔法の詠唱が聞こえると同時に、カワードは頭を下げる。
頭上を冷気が通過するのを感じながら、カワードは今しがた自分を攻撃してきた少女へと振り返った。
「なんで……ッ」
こちらを見ずに攻撃を躱すカワードに、イレナは顔に焦りを浮かべながらそう呟く。
イレナはその手に氷でできた槌を持っており、今しがたカワードを攻撃したのがその武器によるものだったことが、その様子から窺える。
しかしよく見れば、彼女の体はあちこちが傷だらけで、それは、既に交戦から幾分かの時が流れていることを示していた。
「ぅ……イレ、ナ……」
「シンゴ!」
腕の再生が終わったシンゴが両手を床に着き、ゆっくりと立ち上がりながらイレナの名を呼んだ。イレナもすぐにシンゴのもとに駆け寄りたかったが、二人の間にはカワードが立ち塞がっている。
「『アイス・ズ・メイク』!!」
イレナが再び詠唱すると、その手にあった氷の槌がぐにゃりと形を変え、やがて一本の長い棒に変化する。
イレナは、その氷でできた棒を体の周りでひゅんひゅん鳴らしながら回し、足を開いて腰を落とすと、脇に挟むようにして構えを取った。
そんなイレナを淀んだ紫紺の瞳で見詰め、カワードは肩を震わせながら、
「そんな武器まで持ち出して……君たちは本当に僕をいじめるのが好きだなぁ!?」
「言ってなさいよ、この異常者!」
「異常者は君たちの方じゃないか! 何の罪もない僕をいじめて、そんなに楽し――」
イレナは、カワードの言葉を最後まで聞かずに突貫した。
先ほどのように体の周りで氷の棒を回して、攻撃の軌道を読まれないようにしながら一息に接近し、斜め下からカワードの顎を狙って棒を振り抜く。
しかし、カワードは体を斜めに倒して、紙一重でイレナの攻撃を躱してみせる。
攻撃を放つぎりぎりのタイミングまで氷の棒を体の周りで回していたのにも関わらず、カワードは超人的な反応速度でもって、イレナの攻撃を回避する。
二度目も、三度目も、何度でも――。
「その身体能力……あなたも吸血鬼なの!?」
氷の棒で鋭い突きを幾度も放ちながら、しかしそのことごとくを躱すカワードに、イレナが顔を苦渋に歪ませながら問いを投げつける。
カワードは空中に紫紺の線を幾重にも描きながら、しゃがみ、飛んで、体を倒し、捻りながら答える。
「僕は親切な心をいつでも忘れない。だから、問いかけられているのに、それを無視するなんていじめはしない。……僕は、吸血鬼ではないよ。ただの――そう、ただの、僕が嫌いな人間だよ」
「だったら、その身体能力に反応速度! なにより、その明らかに人間のものじゃない紫の瞳はなによ!?」
会話のドッヂボールを続けながら、イレナとカワードは、まるでダンスを踊るかのように激しい攻防を続ける。
そして、カワードはそんな激しい攻防の中で片目を閉じると、
「この瞳は――僕の心だ」
「――心?」
「そう、心だ。この瞳は、僕の心の証明であり、嘆きの証だ。そしてこの瞳は、相対する者の、もっとも原始的な心を――本能を引きずり出す」
「な――!?」
イレナの目が驚愕に見開かれる。カワードが今しがた語った内容に、ではない。カワードがその紫紺の瞳を、両目とも完全に閉じたからだ。
しかし、それでイレナの攻撃がカワードを捉えたのかと聞かれれば、答えは否だ。
カワードは両目を閉じたまま、先ほどと変わらぬ精度でイレナの攻撃を躱し続ける。
「――らあッ!」
隙を見て、カワードの足を狙い、横からシンゴがスライディングをかます。
しかしカワードは、それすらも見えているかのように、その場で飛んでシンゴのスライディングを躱す。
そして、カワードは瞠目するシンゴを開眼した紫紺の瞳で見下ろし、空中で腰を捻ると、シンゴの顔面に向けて蹴りを放つ。
「させ――ないわよッ!!」
シンゴの顔面がスイカのように割られる寸前、イレナが氷の棒をその間に斜めに突き刺して妨害する。
しかしイレナの氷の棒は、ほとんど抵抗なくへし折られてしまう。――が、それでもなんとか、カワードの攻撃は逸らすことに成功する。
「…………ッ」
眼前を掠めて行くカワードの足をひやりとしながら見送り、シンゴはカワードの下をそのまま滑り抜ける。
イレナは咄嗟に魔法を詠唱し、つららを手の平から打ち出して、カワードをけん制する。
カワードは足元に突き刺さるつららに身動きを阻害され、シンゴへの追撃を断念する。
「あ、あぶねえ……」
「何もできないのに出てこないの!」
「わ、わるい……」
イレナに怒鳴り付けられ、シンゴは自分の軽率な行動を反省する。
しかし次の瞬間――、
「人のことを無視して会話なんて……ひどいよっ!!」
「――――ぇ」
常人とは違った沸点を持つらしいカワードが、その表情を怒りに歪ませ、シンゴのすぐ目の前に現れる。
いつの間に距離を詰めたのかは認識できず、シンゴはただはっと息を呑むしかできなかった。
空気を引き裂いて放たれるカワードの拳。それは、寸分違わずシンゴの眉間を狙っており――、
「…………ッ!?」
突如足が払われ、シンゴが床に尻餅を着く。
カワードの拳が掠めたシンゴの茶髪がはらりと舞う中、今しがたシンゴに足払いをかけて転ばせたイレナが、そのまま足払いから裏蹴りへと繋げる。しかも、その足裏からは氷の刃が生えており、真っ直ぐカワードの胸を狙う。
「――!? これでも届かないの……ッ」
歯噛みするイレナの視線の先では、攻撃をステップするように後退して避けたカワードが、その端正な顔を歪ませている。イレナが足の裏に仕込んだ氷の刃の分のリーチが、カワードの服を僅かばかり浅く引き裂いたのだ。しかしそれでも、カワードの体には傷一つとして付いていない。
だが、傷は付かなかったとはいえ、イレナの攻撃が初めてカワードに届いたのは事実だ。
しかし、どうやらその明確な傷は、カワードの心を心底、逆撫でしたようで――、
「危ないなぁ〜〜もうッ!?」
「…………ッ」
「え? ちょ、シンゴ!?」
顔を歪ませて吠えるカワードに向かって、シンゴが無言でスタートダッシュを切る。
突然のシンゴの行動に、イレナがぎょっと目を剥く。
しかし、そんなイレナの反応を背後に置き去りにして、真っ直ぐカワードに駆け寄るシンゴに対し、カワードは憤怒に歪んだ顔をさらに歪ませて、
「そんなに僕をいじめたいなら、もう死ねよお前ぇ!?」
カワードがシンゴに向かって、その拳を放つ。気のせいか、さらにその速度が上がっているように見える。しかし当然、人並みの動体視力しか持ち合わせていないシンゴには、その差異など見極めることはできないし、拳を避けることも、防ぐことも、いなすことすらできない。
――しかし、あらかじめ狙う場所が分かっていれば、話は別だ。
「――はぁ!?」
シンゴは、反応できないはずの速度で放たれたカワードの攻撃を、頭を横に振ってなんとか避けてみせた。
カワードが驚愕の声を上げるが、しかし回避は完璧とは言えず、頬が一センチほど抉られ、シンゴは頬に生じた熱に顔をしかる。
しかし当然、シンゴはここで終わるつもりはない。シンゴは、真紅の右目でカワードの紫紺の瞳を睨み付ける。吸血鬼の再生能力で頬から煙を上げながら、シンゴは顔の横にあるカワードの腕を掴むと、その腕を巻き込むように体を捻り、
「さっきらか顔ばっか狙いやがって! いい加減、察するわ! ――こんの、イカレ野郎がぁ!!」
「うぁ――!?」
シンゴは、腰にカワードの体を乗せるようにして浮かせる。
そう、これは日本が誇る武道でもあり、スポーツでもある――、
「喰らえ! 十八番奥義その四! じいちゃん直伝、『一本背負い――」
シンゴの体がぐるんと回り、それに伴い、カワードの体もその動きに追従するように回る。――しかしシンゴは、そこから普通の一本背負いとは違った変化を加えた。
本来ならそのまま地面に投げるが、シンゴは技の途中でふわりと自分も飛び上がり、
「――途中から頭蓋落とし』ッッ!!!!」
全体重を乗せ、背負った相手を頭から地面に叩き付ける。普通に使えば、破門どころか警察沙汰レベルの技をシンゴが繰り出した。
――しかし、
「あ――れ?」
体に乗っていたはずのカワードの体重がふわり背中から離れ、バランスを欠いたシンゴのみが床に叩き付けられる。
シンゴは衝撃によって眩んだ頭を振り、起き上がろうとして――失敗する。
「――がッ!?」
右胸辺りに生じた激痛に、シンゴが顔を盛大にしかめる。
徐々に追い付いてくる痛覚に悲鳴を噛み殺しながら、シンゴは胸中に生じた嫌な既視感に従い、己の右肩を見やる。
またしても、またしてもシンゴの右腕が消失していた。しかも今回はその傷が深く、右肩の根元からごっそりと腕が引きちぎられていた。
とうとう激痛に耐えかね、シンゴの喉から今日で何度目とも知れぬ絶叫が迸った。
「あぁぁぐ、いぉおおぅぐっ、ううぅがっ、ぁぁああああ……ッ!!」
ぐじゅり――と、湿った音を立てて己の右腕が再生されるのを感じながら、シンゴは痛みに涙を流し、唇を血が出るほど噛んで耐える。
「――――」
そんなシンゴを見下ろすカワードの手から、シンゴの右腕がさらさらと砂になって消えていく。どうやらカワードは、一本背負いの途中で無理やりシンゴの腕を引きちぎって逃れたらしい。
一時間も経たない間に三回も右腕を失い、シンゴは頭がどうにかなりそうだった。
トカゲの尻尾のように何度も再生される自分の体に、自分は本当に人間ではなくなったのだと、場違いな寂寥感がシンゴを襲う。
しかしそれも一瞬のことで、シンゴは近付いてくる足音が背後に聞こえた瞬間、限界を超えて分泌された脳内物質でショックから素早く立ち直る。
そして、再生したばかりの腕を含む両腕で床を力いっぱい掴むと、
「があッ!!」
四つん這いの体勢から、馬のように後ろ蹴りを、カワードのすねの辺りに向かって放った。同時に背後を見たシンゴの視線の先では、シンゴの蹴りをその場で飛んで軽々と躱すカワードが――
「――――え?」
大量に分泌された脳内物質のおかげか、シンゴは一瞬、世界がスローモーションのように遅くなったような錯覚を覚えた。
しかし、シンゴが呆けた声を上げたのはそのことにではない。遅く流れる時間の中、カワードの後ろの空間に、水面に生じる波紋のようなものが広がり、そこから――
「――――!?」
波紋の真ん中、まるで水面から浮かび上がってくるかのように、何者かの体が這い出てきたのだ。
驚愕に目を見開くシンゴの視線の先では、這い出てくる体がより面積を増し、やがて、その人物が女性であることを認識できた。
圧縮されて流れる時間。そのひと時の錯覚のなか、最後にその女の顔が顕になり――
「『アイス・ズ・メイク』――」
波紋から現れたのは、シンゴのよく見知った少女だった。
シンゴの時間感覚が正常に戻る。――と、同時に、空間を裂いて現れた少女――イレナ・バレンシールが、魔法でつくった氷の長剣を、未だ空中に留まるカワードの首筋に目がけて――振り抜いた。
「――――!?」
イレナの目が驚愕に見開かれる。
カワードは背後から襲いくる氷の長剣を見もせず、空中で体をくの字に折り曲げることで回避したのだ。
「あぅ――」
波紋から全身を顕にしたイレナが着地と同時にくず折れる。その手からは、長剣が氷の破片となって砕け散った。
よく見てみれば、イレナは苦しそうに荒い息を吐き、疲労にまみれたその顔には、玉のような汗が浮かんでいる。
「――――」
シンゴの蹴りと、イレナの有り得ない奇襲を完璧に避けきったカワードは、着地すると、ゆっくりと背後のイレナへと振り返った。
カワードの口元から、がりっと歯を砕かんばかりの音が鳴る。
「奇襲、だまし討ち、不意打ち……汚い、醜い、卑劣だ、侮辱だ――いじめだ! なんで君たちは僕を……どうしていじめるの!? ひどい、ひどい、ひどいよぉっ!!」
自らの顔を両手で覆い、頭を振り乱して狂乱するカワード。そんなカワードの狂乱を受け、シンゴは胸中に生じた予感の理由も分からないままに、飛び出していた。
「も、もういい! 死ね!! 消えろ!!! 失せろぉ!!!! 僕を……いじめないでぇッッ!!!!!」
拳でも、平手でもない。その中間、鍵爪のように五指をたわめかせたまま、カワードがイレナの顔面に向かって、その手の平を突き出した。
迫る死の手に、しかしイレナは、ただただ憔悴し切った瞳でそれを見やるしかできなくて――。
――突如、その間に影が割り込んだ。
「イレ――ごぶっ」
イレナを突き飛ばし、その名を呼ぼうとしたその影――キサラギ・シンゴは、そのセリフを最後まで発することなく、胸の真ん中に穴を開けられた。
こみ上げてくる嘔吐感に抗えず、口から赤黒い血の塊を吐き出す。
急速に遠のく意識の中で、シンゴが最後に見たのは――
――自分の胸の中央から生える、カワード・レッジ・ノウの腕だった。




