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虚飾のアリス ‐不死の少年と白黒の吸血鬼‐  作者: 竜馬
第1章 リジオンの村
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第1章:3 『声と器と何か――』

 ――眠い。


 キサラギ・シンゴの意識は、ぬるま湯のような闇の中をたゆたっていた。

 眠りから目覚める瞬間の、夢とも現実とも区別のつかない、そんな境界の感覚。

 どこまでも沈んでいけそうな心地よい闇に少しだけ抗い、意識を僅かばかり浮上させる。


 ふと、身じろぎしようとして、それができないことに気付く。

 疑問に思いながら、意識を己の体へと向けてみる。


 手足、指の末端まで感覚がない。

 どころか、目は見えず、耳は聞こえない。

 己が呼吸しているのかどうかさえ判然としない。


 ――というより、自分という概念が曖昧だった。


 正常な者なら発狂ものだが、しかし何故かシンゴは冷静だった。

 酷く無感情。心底、無頓着。ただただ、どうでもよかった――。


 そう思えば、もう何もかもがどうでもよく思えてしまった。

 そう感じてしまったが最後。シンゴの意識は温かく心地いい闇の中に再度沈んでいく。

 このまま溶けて、混ざって、消えてしまいそうに思えたが、何故だか不思議と気持ちよかった。


 まるで、この世のあらゆるしがらみから解放されたような、そんな感慨が無いはずの胸中を満たした。


 自己という輪郭が徐々にぼやけ、曖昧になってきた時だった。

 ふと、これまでキサラギ・シンゴが歩んできた十七年間の記憶が、コマ送りのように脳裏に浮かんでは消えた。


 特にこれといって、劇的でも、悲劇的でも、喜劇的でもなく、ごくごくありふれた――そう、平凡な人生だった。

 確かに平凡な人生だったかもしれない。しかし、それでも、決して悪くはなかった。



――――――――――――――――――――



 ――家に帰る。


 両親はいなかったが、祖父母がいたからそれほど寂しくも、悲しくもなかった。

 紅の夕日が玄関扉の窓部分から差し込み、薄暗い廊下の一部を明るく照らす。

 靴を脱いでスリッパに履き替えると、そのまま廊下を進む。すると、突き当りにあるリビングの中から光が漏れ出していた。


「――――」


 眉を寄せて扉を開く。

 すると、キッチンの奥から誰かの声がした。


「あ、お帰り! お兄ちゃん!」


「――――?」


 ノイズがかかったような、男とも女とも区別できない声。

 その声の主が、バタバタと騒々しくキッチンから出てきた。


「――――ッ」


「どうしたの? 私の顔に何か付いてる?」


 はっと息を呑んだシンゴの反応に対し、眼前の人物はエプロンで手を拭きながら首を傾げた。


「……お前」


「――? あ! そんなことよりお兄ちゃん、さっさとお弁当箱出してよ! 洗っちゃうから!」


「え? あ、おう……」


 鞄から空の弁当箱を取り出し、差し出されていた手の上に乗せる。

 シンゴがそのまま眉を寄せて固まっていると、


「どうしたの、お兄ちゃん。具合わるいの? お風呂湧いてると思うから、温まってきたら?」


「……分かった」


 シンゴは頷くと、風呂場へと向かう。

 衣類を全て脱ぎ、腰にタオルを巻いて風呂の扉を開ける。

 もうもうと立ち込める湯気に全身を撫でられながら、手早く頭と体を洗い、少し熱めの湯に浸かる。


 口からほぅと吐息を漏らし、シンゴは天井を仰いだ。

 そして、先ほどのやり取りを回想し――呟いた。


「誰だ……あいつ?」


 シンゴが会話していた、おそらく女であろうあの子。

 その子の顔は砂嵐に包まれていて、誰なのか判然としなかった――。



――――――――――――――――――――



 ――記憶は巡る。


「ここは……」


 気が付けば、シンゴは夕暮れ時の公園に佇んでいた。

 知っていた。昔はよくこの公園で友達と遊んだ。しかし、この公園は既に取り壊しになっていて、今はもう存在しない。


「うおっ!?」


 突如、シンゴの隣を数人の子供が駆け抜けて行った。

 しかし、まだ背後から数人いるような気配がある。

 シンゴは慌てて背後を振り返り――目を見開いた。


「――俺?」


 無邪気な笑みを浮かべた小さな自分が、一人の女の子の手を引いて走ってくる。

 その小さな手に繋がれている女の子の顔は、砂嵐に包まれていて判然としない。

 不審げに眉を寄せていたシンゴだったが、ふと気付いた。あの子たちがこのまま走ってくると――、


「ぶ、ぶつか――」


 ――らなかった。


 小さな頃の自分ともう一人の女の子は、そのままの速度でシンゴに追突――せず、まるでシンゴがここに存在していないかのように、その体をすり抜けて行った。

 驚愕に目を見開き、シンゴは背後で遊び始める子供たちを振り返り、呟いた。


「なんなんだ……これ?」



――――――――――――――――――――



 鎖部分が錆び付いたブランコに座り、シンゴは無言で子供たちの遊ぶ姿を眺める。

 どうやらシンゴのことはあの子たちからは見えてはおらず、試しに別の子に触れてみたが、シンゴの手はその子の体を貫通してすり抜けた。

 つまり、双方の干渉は不可能ということなのだろう。


「――――」


 ――不思議な光景だった。


 シンゴはこの場面を覚えている。しかし、どこか食い違いがあった。――いや、どちらといえば、欠落していると言った方が正しいだろうか。

 その要因となっているのが――、


「あの女の子……」


 小さい頃のシンゴにべったり付いて回っている、顔を砂嵐で覆われた女の子。

 あの子の存在だけが、シンゴの記憶から欠落している。


 ――お兄ちゃん?


「…………だ」


 ――お兄ちゃん!


「誰なんだよ……お前?」


 先ほど家でシンゴのことを「お兄ちゃん」と呼び、たった今目の前で遊んでいる幼少時のシンゴのことも「お兄ちゃん」と呼ぶあの子は、一体どこの誰なのだろうか。


「わ、かんねえ……」


 顔を両手で覆い、頭を抱える。

 何かが頭の隅に引っかかる。しかし、その取っ掛かりを掴もうとすると、指の間からするりと抜け落ちて行ってしまう。


「――――?」


 不意に手の平に温かい水の感触が生まれ、シンゴは咄嗟に手を離す。

 そして、恐る恐る自分の目元を拭ってみると――、


「なんで俺……泣いて……」


 頬を伝う涙は止まることなく流れ続け、ふとあの女の子を見れば、さらにその量は増えた。


「なんなんだよ……誰なんだよ!!」


 シンゴの叫び声に答えてくれる者はいない。

 子供たちは無邪気に遊んでいるだけで、シンゴのことなど見向きもしない。


 ――たった一人を除いて。


「おにい、ちゃん……?」


「――――!?」


 不意に声をかけられ、シンゴはばっと顔を上げた。

 そこには、顔を砂嵐で覆われたあの女の子がいて――。


「お、まえ……俺が、見えるの……か?」


「…………」


 シンゴの問いかけには答えず、何やらシンゴの顔をじーっと見ているような気配が伝わってくる。

 シンゴが呆気に取られてポカンとしていると、その女の子はその手をシンゴの頬に伝う涙へと触れさせた。


「な――」


 他の子供は見ることも、触れることもできないはずなのに、何故かこの子だけはシンゴを認識し、触れることができた。

 その事実に狼狽するシンゴ。そんな彼に、女の子は「うん」と頷くと、


「やっぱりお兄ちゃんだ!」


「――――!?」


 ――抱きしめられた。


 女の子はシンゴの頭を胸に抱き、「よしよし」と子供をあやすように頭を撫で付ける。

 シンゴは咄嗟に引き剥がそうと手を動かし――途中で止めた。

 何故かは分からないが、この子の匂いはとても懐かしくて――。


 そういえば――。


 先ほど幼少のシンゴが現在のシンゴの体をすり抜けて行った時、この子は横に並んで走っていたために、シンゴとは接触していない。

 どころか、チラリとこちらを見たような気もした。砂嵐のせいで目線が分からず気のせいだと思ったが、どうやら錯覚などではなかったようだ。


「……お前、一体誰なんだ?」


 シンゴの心を掻き乱してくる、この子は一体――。

 しかしシンゴの質問は、明確な返答を得られなかった。

 というのも――、


「何言っているの、お兄ちゃん? 私だよ、『』だよ!」


「…………は?」


 聞き取れなかった。肝心の名前の部分だけ、音を認識できなかった。

 シンゴが慌ててもう一度聞こうとした時だった。


「おーい! 帰るぞー、『』!」


「あ、うん!」


 幼少時のシンゴに呼ばれ、女の子は返事をすると駆け出す。


「あ、待っ――」


 シンゴが女の子の背に手を伸ばそうとした時だった。不意に女の子が立ち止まる。

 何やら公園の出口の方へと視線を向けているらしいのが、何となくだが分かった。


「…………」


 無言で佇む女の子の先、公園の出口では、先ほどまで遊んでいた他の子供たちが、それぞれの親に手を引かれて帰って行くところだった。

 女の子は彼らを見送ると、顔を伏せた。


「……どうしたんだよ、『』?」


 小さい頃の自分が駆け寄ってきて、心配そうに眉を寄せ、女の子に話しかけた。

 いつの間にか、女の子の口からは嗚咽が漏れ出している。

 ノイズがかっているのは相変わらずだが、その泣き声は無性に今のシンゴの心を締め付けてきて――。


「ねえ……お兄、ちゃん。どうして、私たちにはお父、さんと……お母さんが、いないの……?」


「……え?」


 嗚咽交じりの女の子の問いかけに対し、狼狽を顕にする小さな自分。

 女の子はその顔を上げると、狼狽うろたえる小さなシンゴを見て、言った。


「私……寂しい……」


 そう告げ、そのまま本格的に泣き始める女の子。

 困ったように頭を掻く小さな自分と、どうにかしなければと焦る今の自分。

 しかし、先に動いたのは小さな方の自分だった。


「なあ、『』」


「…………?」


 小さな自分は女の子の頭に手をポンと置くと、腰を落として目の高さを合わせた。


「どうしてお父さんとお母さんがいないのか、それは僕もよく分からない」


「…………ッ」


 女の子の肩が跳ねた。

 シンゴはそれを見て、何を言い出すんだと首を横に振る。思わず駆け寄ってしまいそうになった時だった。


「でも――」


 小さな自分は、にかっと歯を見せて笑い、


「僕はいる! おじいちゃんも、おばあちゃんもだ! 『』は一人なんかじゃないよ。だから泣くな! ……でも、どうしても寂しいっていうんだったら――」


 小さな自分は、ぐっとサムズアップして、


「僕がずっとお前の傍にいてやる! だからさ、帰ろうぜ! 僕たちの家に! な? ――『イチゴ』!!」


「――――ッ!!」


 ――泣き止んだ女の子は、小さな兄と共に帰路に着く。

 女の子は途中で背後を振り返ったが、その先にいたもう一人の兄の表情を確認すると、どこか安心したような笑みを残し、その場を後にした。


 その笑顔は、既に砂嵐に覆われていなくて――。

 その笑顔は、今一番会いたい人のもので――。


「……ろ」


 胸を掻き毟るように掴む。


「……待ってろ」


 己自身に誓うように、自分の中の覚悟を改めて確認するように。

 キサラギ・シンゴは強い意志を目に宿し、その顔を上げる。


「待ってろ――イチゴ!!」


 その言葉を最後に、公園が暗い、昏い闇の中へと飲み込まれ始める。

 無論、シンゴもその闇に飲まれる。だが、逃げない。

 シンゴは無言のまま瞳に決意の炎を揺らし、再びあの闇の中へと誘われた――。



――――――――――――――――――――



 ――消え、たくない。


 シンゴの意識が明確な輪郭を得て、覚醒する。

 そうだ、こんなところで道草を食っている場合じゃない。イチゴを、シンゴのたった一人の妹を連れ戻さなければならない。


 約束したのだ。側にいてやると、一緒に帰ろうと――。


 シンゴは吠える。声は出ないが、それでも声を上げる。

 こんなところで終われないと、終わってなんかいられないと。


 足掻け。もがけ。生にしがみつけ。

 情けなくても、醜くてもいい。こんなどうしようもないことで終わってたまるかと。

 しがみつく手も足も体もないなら、残った他の全てで抗え。己に残された全てを余すことなく絞り出し、使い尽くせ。


 そして戻れ。あいつが待っている、あの過酷な世界に。


 ――不意に誰かの『声』が闇の中に響いた。


『そんなものか?』


 違う。まだいける。


『それがお前の“全て”なのか?』


 違う。まだある。


『なら示せ。お前の全てを――』


 何故――とは問わなかった。

 得体の知れない何かでも、今はそれすら利用してしまえ。


 シンゴは、自らを飲み込もうとする闇に抗うのを止めた。

 ずぶずぶと飲み込まれ、己という存在が溶けていきそうになる。

 しかし、最後の一線は超えさせない。


 何故なら、もうシンゴは確固たる“芯”を――“心”を手に入れたから。

 融解しそうになるシンゴを、脳裏に浮かぶイチゴの笑顔が繋ぎ止め、留めてくれる。


 抗い、耐え、潜り続けた果てに――見付けた。


 己の奥底にあった『何か』を魂ですくい上げ、そのまま一気に浮上する。


 浮上して戻ると、そこには大きな『器』があった。

 その『器』からは禍々しい何かを感じるが、シンゴはその嵐のような逆風に抗いながら『器』へと取り付く。

 

 見れば『器』には頑丈な封がされており、何人なんぴとたりともこの『器』の中を知ることは叶わないと、本能的に察することができた。

 そんな中、再びあの『声』が響いた。


『お前ならできるはずだ』


 根拠はない。自信もない。それでも、シンゴは己の全てをこの『器』の封へとぶつけた。

 しかし『器』はびくともせず、ただただおぞましい何かを放ち続け、シンゴを吹き飛ばそうとしてくる。


『その程度か……?』


 再び響いた『声』が、落胆するように呟いた。

 シンゴの“心”に『声』に対する反発心が生まれる。だが、それは『声』に対しては向けない。生まれた黒い感情の舵を取り、『器』へぶつける己という存在の糧とする。


 ――もっとだ。もっと。もっともっと。もっともっともっともっともっと!!!!


 念じる。想う。願う。

 ただがむしゃらに、己という全てを『器』にぶつけ続けた。


 やがて、ピキッという音と共に、『器』の封に小さなヒビが入った。

 同時に、そこから飛び出した『何か』にシンゴは吹き飛ばされる。


『逃がすな、捕まえろ』


 反響する『声』に従い、吹き飛ばされたシンゴは飛び去ろうとする『何か』を必死に追いかけ始める。

 闇の中をのたくるように突き進む『何か』に、懸命に追い縋る。


 駄目だ――。


 追い付けない。速すぎる。

 周りの闇が意思を持った生き物のように蠢き、シンゴの体に纏わり付いてくる。振り払っても振り払っても、闇はしつこくへばり付いてくる。

 徐々に『何か』との差が開き始めた。


 ――ふとその時、遠くに一筋の光が見えた。


『アレに辿り着かれたら終わりだぞ』


 分かっている。あの『何か』があの光に到達する前に追い付かなければ、キサラギ・シンゴという存在は永遠に終わる。

 それだけは避けなければならない。シンゴにはまだやるべきことがあるのだから。


 ――イチゴ。


 ふと思い浮かぶのは、屈託ない笑顔を浮かべる妹の姿。

 それが、シンゴの“心”に温かな火を灯した。


 ――『何か』が脈動する。


 己の中に可能性を感じながら、シンゴは前を見据えた。

 既にあの『何か』は光に到達する一歩手前だ。

 ここからどう足掻いたところで間に合わない。


 無理。駄目。不可能――。


 そんなマイナスな言葉が頭の中で踊り出す。

 しかし、めげない。そんなもの、全て“無視”してしまえばいい。


 『何か』が半分ほど光に突っ込んだ――その瞬間だった。

 一瞬で距離を無にしたシンゴが、光に潜り込もうとする『何か』を捕まえた。


 暴れ狂う『何か』。

 だが、放さない。決して逃がさない。

 両者は拮抗し、やがて――、


 ぶちりと音を立て、『何か』が引き千切れた。


 反動で、シンゴの体は闇のクッションに投げ出される。

 そんなシンゴを歓迎するように、闇がへばり付いてくる。

 しかし、もうそんなことなどどうでもいい。


 シンゴは“起き上がる”と、眼前にある小さな光を見据えた。

 引き千切れた『何か』の片側は、既に見当たらない。

 もう一方、シンゴが己の全てを出し切って捕えた『何か』も、どこにも見当たらない。


 だが、分かる。己の中で脈打つ『何か』があることに――。


 気付けば、シンゴは己の体を認識できていた。

 存在し、シンゴの意思に従い動いてくれる肉体。

 十七年間、連れ添った体だ。やはりしっくりくる。


 ――右目が、熱い。


 心臓の音に合わせて脈打つ右目。

 シンゴはそっと右の目に手を当て、残った左の目で眼前の小さな光を見た。


 いつの間にか、『声』は聞こえなくなっていた。

 シンゴは手を伸ばし、光に触れる。その瞬間、眩い光がシンゴに纏わり付く闇を消し飛ばし、そして――。



――――――――――――――――――――



「…………ぁ」


 瞼を薄く開けながら、学校に早く行かなければと思い、時計を見ようとして気付く。

 シンゴを見下ろす天井は、見たことのないものだった。

 一気に意識が覚醒し、慌てて起き上がろうとするが、左腕の上に乗っている重みに邪魔された。


 シンゴは起き上がるのを中断して左腕を見る。

 ――左腕は、何やら白い物体に覆われていた。


「ひぃ!?」


 思わずそんな情けない声が漏れるが、よくよく見てみると、その白い何かは髪だった。

 いや、起きたら腕に髪が乗っている光景というのは、かなりホラー強めで心臓に悪いという点には変わりない。


 すると、シンゴの情けない悲鳴に白い髪がピクっと反応した。

 そして、白い髪がゆっくりと起き上がる。


 その髪の下から出てきたのは、寝ぼけた表情で口元をむにゃむにゃとさせる少女――アリスだった。

 しかもよく見てみれば、その薄いピンクの唇の端からは涎が艶めかしく糸を引いており、それはシンゴの左腕に着地していた。


「あぅ? おはよう……」


「あ、うん。おはよう……」


 律儀に挨拶をしてきたアリスに、シンゴは思わず挨拶を返してしまった。

 口を開けて固まるシンゴを横目に、アリスはふわぁと欠伸をして目をこする。

 何か、見てはいけないもの見てしまっている気がして、後ろめたい気持ちになる。


「――――?」


 ようやく意識が覚醒してきたらしいアリスは、苦笑いで自分を見詰めるシンゴに気付く。

 そしてふと、自分の口から伸びている糸を発見し――、


「――――!!」


 慌てて口元を拭うと、そのまま袖口でシンゴの腕を拭こうとして止まり、しかし拭こうとして止まりを繰り返した挙句、最終的に申し訳なさそうにチラリとシンゴを上目使いで見てきた。


「いや、気にしてないって。ほら――」


 そう言うと、シンゴは布団で手を拭き、アリスにサムズアップしてみせる。


 正直、こんな可愛い子の唾液が自分の体に付着しているという状況は、少しだけ嬉しかった――


「――ってのは、さすがにマニアックすぎんな」


「――――?」


「ああ、大丈夫だって。ほんとに気にしてねえから」


 眉尻を下げて瞳を潤ませ始めたアリスに気丈に笑って見せ、シンゴは先ほど目覚めかけた性癖については忘却することにした。

 すると、安堵の息を吐いたアリスは、今度はその瞳に気遣うような色を宿し、


「シンゴ……体の調子はどうだい?」


「えっと……体って? つか、ここってどこだ?」


 気を失う前の記憶が混濁していて、シンゴは自分が何故こんな所にいるのだろうと不審に思った。

 きょろきょろと辺りを見渡すシンゴに、アリスは驚いたように目を見開き、


「……覚えて、いないのかい?」


 深刻味を孕んだアリスの言葉を受け、シンゴは混乱の抜けきらない状態の頭で記憶を探る。目を閉じ人差し指をこめかみに当てていたが、次の瞬間、シンゴの目が大きく見開かれ、その顔が恐怖に歪んだ。


 思い出されたのは、自分の体内から鳴り響いたおぞましい異音。そして、地面を真っ赤に染める大量の血。そして――『死』の実感。


「うっ――」


 慌てて口を押さえて、こみ上げてくる胃液を必死に飲み込む。咄嗟にアリスがシンゴの背中をさすってくれる。

 食道と喉を逆流した胃液で焼かれながらも、何とか嘔吐するのだけは堪えた。もし、何か胃に入っていたら危なかっただろう。


「あ……ありがと、アリス……もう、大丈夫だ」


 アリスに背中をさすってもらうのは、これで二回目だろうか――。

 そんなことを頭の片隅で考えながらも、記憶は次々と蘇ってくる。


 シンゴは青い顔で、己の腹部へ視線を落とす。

 今のシンゴは上半身裸で、この世界に来た時から着ていた制服は脱がされている。下半身は掛け布団で覆われているが、おそらくパンツのみだろう。


「傷が……ねえ……」


 シンゴの腹部には何もなく、剣が刺さっていたり、穴が空いていたりなどしていない。

 あれは全て夢だったのだろうか。

 そう思い首を傾げるシンゴに、アリスが真剣な面持ちで告げてくる。


「シンゴ……ボクは、君に話さなければいけないことが、いくつかある」


「…………」



――――――――――――――――――――



「そっか……やっぱ、あれは夢じゃなかったんだな……」


 アリスの話を聞き終えたシンゴは、暗い表情で呟いた。

 できることなら全て夢で終わってほしかったが、アリスが嘘を吐くような子だとは思えない。


 ――つまり、そういうことなのだ。


 シンゴはヒィースに腹を剣で貫かれ、死の淵に突き落とされた。

 そしてアリスが言うには、シンゴを剣で貫いたヒィースたち三人は立ち去り、残されたシンゴはほとんど瀕死の状態だったらしい。


「でも、生きてんだけど。というか、傷すらないんだけど……」


 なぜ自分は生きているのか。明らかに致命傷だったはずだ。

 シンゴは貫かれて穴が空いていたはずの腹部を撫でながら、眉を寄せて首を傾げる。


「シンゴ。そのことについてなんだけど、実は――」


 何か言おうと口を開きかけたアリスだったが、そんな彼女の言葉の続きを遮るように突如、部屋の扉が勢いよく開かれた。


「――――!?」


 二人揃って仲良く肩を跳ねさせる。

 そんな二人の驚いた視線を浴びながら現れたのは、オレンジ色の髪を一本の三つ編みにまとめて肩から前に流した、見た目十歳前後くらいの女の子だった。

 その子の手には、シンゴの制服と黒い服が綺麗に畳んで乗せられていた。


 遅まきながら気付く。アリスはあの黒い服を着ておらず、現在その華奢な体は簡素な白い服に包まれていた。

 どうやら、二人分の服を洗濯してもらっていたらしい。


 すると――、


「あ、とりのおにいちゃん! 目がさめた!?」


「と、とり?」


 少女が太陽のように弾けさせた笑顔と共に、おそらくシンゴに対してだろう奇妙な呼称を口にする。

 いったい自分のどこが鳥なのだろうかと、シンゴは困惑しながら自分の体を見下ろしてみる。


 そんなシンゴを余所に、少女は持っていたシンゴの制服をベッドの端に、アリスの服を本人に渡す。

 しかし、服を渡す瞬間――、


「はい! ひんにゅうのおねえちゃんの分!」


 ピシッ――と、空気が固まった音が聞こえたような気がした。


 確かにアリスはそこまで“ある”方ではないが、しかしそこまで“ない”わけでもない。

 ちょうど手のひらにおさまる程度の、程よい大きさだ。

 ちなみにシンゴはドストライクである。


 しかし、アリスを貧乳呼ばわりしたこの少女は、見た目十歳前後にして既にアリスを凌ぐ『もの』を持ち合わせており、自分の胸に手を当ててぷるぷると震え出したアリスに一切の反論を許さないでいた。


「あ、そろそろご飯の時間だよ! 二人とも着替えて、一階に集合! はやくきてねー!」


 腰に手を当て、こちら側に口を挟むタイミングを与えず一息にそう言い切った少女は、そのまま回れ右。駆け足で部屋の外に出ると乱暴にドアを閉め、ドタバタと廊下を走り去って行った。


「…………」


 ――嵐のような少女だった。


 そんなことを考えながら、しかしシンゴの意識は別の問題へと向けられている。

 つまり、目の前の『爆弾』をどう処理したものかという問題である。

 まったく、とんでもない置き土産を置いて行ってくれた。


 シンゴはため息を吐きながら頭をがしがし掻くと、生まれたての子鹿のようにぷるぷると顔を伏せて震えているアリスを見やる。


「さて……ここが正念場だな」


 対処を間違えれば何が待っているか分からないこの『爆弾』に対し、シンゴの脳はフル回転を始める。

 どう助かったのかは後で聞くことにして、どうやらシンゴは一度死にかけたことにより、危険予測能力が飛躍的に向上したようだ。――そんな感じがする。


 シンゴはそんな己の本能に従い、『爆弾』を処理するための行動を迅速に開始した。

 シンゴは己の馬鹿に一応の自覚はある。なので、簡単にボロが出る『言葉を発する』ことをまず己に禁じた。と言っても、何も話さないとなると厳しいので、最小限かつ有効な一言にまとめることにする。


「――よし」


 目を閉じ、腕を組んで思案していたシンゴは、決意の言葉と共に目を開く。そして、未だ俯いて震えているアリスの肩に、ぽんと優しく手を置いた。

 アリスがぴくりと反応する。


 ここだ――。


 シンゴはなるべく優しく、それでいて諭すように、できるだけ無駄を省いた言葉を紡いだ。


「アリス、俺、貧乳、大好き」


 ウインクと共にサムズアップし、歯を光らせながら言い切ったシンゴの頬に、アリスの張り手が炸裂した――。


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