第2章:34 『夜の密会を経て朝の熱』
とある薄暗い部屋。その部屋の奥に置かれた椅子の背もたれに体重を預け、男はコップに注がれた酒を一息に飲み干した。そして、長々と酒気を帯びた息を吐く。
すると、扉の向こうから戸を叩く音がする。男はわしわしと頭を掻きながら欠伸をこぼすと、
「へーい、空いてますよー」
そんな気の抜けた返事を返す。
了承の意を得た来訪者が、扉を開けて部屋の中へと入ってくる。その人影は、机の上に置かれた酒瓶に目をやり、嘆息する。
「ベッシュ……また酒か」
「いいじゃないすか。飲まなきゃやってらんねえすよ、こんなの」
ベッシュと呼ばれた男は、疲れた表情で机の上を見やる。机上には分厚い書類が山のように積まれ、男に処理されるのをまだかまだかと待っている。
ベッシュは空のコップに新たに酒を注ぐと、一口飲み、佇む来訪者にコップを掲げ、
「ジャイルさんも飲みやすかい?」
ジャイルと呼ばれた老人は、しばしの瞑目の後、ニヤリとしわの入った顔を笑みに染めると、
「少し、もらおうかのぉ」
「そうこねえと!」
ベッシュは新たにコップを取り出し、酒をなみなみと注ぐ。一方ジャイルは、手近な椅子を引いてきてベッシュの前に座った。
ジャイルの眼前に透明な液体が注がれたコップが置かれる。ジャイルはそれを手に取ると、ベッシュを見やり、互いにコップを打ち鳴らし、一気に煽る。しかし、何口目かで顔をしかめると、
「ベッシュ……お前、こんな強い酒を飲んでおったのか?」
ジャイルとは対照的に、ベッシュはけろっとした様子でコップを顔の近くに持ってきて、注がれた酒を片目を閉じて覗き込むと、
「そうすか? 俺からしたら丁度いいんすけどね」
そう言いながら、ベッシュは一息にコップを傾け、中を空にする。そんなベッシュの顔を、雲から顔を出した月の光が鮮明に映し出した。
茶髪に碧眼。無精髭を生やし、服装は紺色の着流しだ。そしてその姿、気配から連想されるのは、獰猛なる獅子だ。
ベッシュは顎の髭を触りながら、片目を閉じて鋭い視線をジャイルへと向ける。
「ところで、一体なんの用すか? ただ酒を飲みに来たって訳じゃないんでしょ?」
ベッシュの問いかけに、ジャイルはコップを机に置くと、片目を閉じ、
「あの事件の尻尾を掴んだ」
ジャイルの一言に、ベッシュの目が大きく見開かれる。しかしそれも一瞬の事で、ベッシュはすぐさま背もたれから体を離し、姿勢を正す。そして、机を人差し指でとんとん鳴らすと、
「そりゃつまり、あの野郎んとこで間違いなかったって事すか?」
「ああ、そうじゃ」
ベッシュの確認に、ジャイルは厳かに頷く。しかし、次にはその威厳ある気が霧散し、深く老成したため息を一つ吐く。それを受け、ベッシュは訝しげに片方の眉を上げる。
視線でそのため息の理由を問うてくるベッシュに、ジャイルは「いやの……?」と重々しく口を開き、
「ちと、イレギュラーな事が起こってのぉ……」
「アンタが頭を悩ませるほどってなると、そりゃよっぽどの事態な訳だ。――で、何があったんすか?」
ジャイルは腕を組むと、その白い髭を所在なさげに撫で回しながら、「ん〜……」と一つ唸り声を上げ、やがて嘆息。そしてどうしようもないと悟ったのか、伏せていた目を開き、眼前の獅子を思わせる男を見据えた。
「カワードにシャルナを雇われた」
「――なに!?」
僅かな間を置き、ベッシュがガタッと音を立てて椅子から立ち上がる。そのまま驚愕に染まった顔で数秒ほど固まるが、やがて深々と嘆息しながら脱力し、やる気のなさそうな所作でどさりと落下するように椅子に腰を落とす。そして弱々しく片目を開け、
「当然アイツは?」
「二つ返事で了承しおったわい」
ジャイルの言葉を受けたベッシュは「かぁ〜」と声を漏らしながら額に手を当て、背もたれにもたれかかる。そして嘆くように、
「相変わらずな小娘だぜ。こっちの事情も知らねぇで……。ちなみに、シャルにはこの事は?」
「……言うと思っとるのか?」
「ま、そうでしょうな……。アイツにポーカーフェイスは無理難題だ」
二人は目を合わせ、互いの鬱屈感を共有し、深々とため息を漏らす。それほどまでにシャルナがカワードに雇われたというのは、この二人にとっては不測の事態であり、頭を悩ませる事案なのだ。
やがてベッシュは申し訳なさそうな表情でジャイルを見やると、
「ジャイルさん。この件については、アンタに一任していいっすかね?」
そんなベッシュの懇願に、ジャイルは首を横に振ると、
「改まる事はない。わしがこの手の案件に向いているのは重々、承知じゃ。“あの男”も別件でこの王都を離れておるしの。それに――」
ジャイルは今までとは違った視線をベッシュへと向け、ニヤリとからかうような笑みを浮かべると、
「わしよりも、お前の方が立場は“上”じゃろうが。――王家直属近衛騎士団団長殿?」
ジャイルのそんな言葉を受け、ベッシュは心の底から嫌そうに顔をしかめると、片方の手の平をぷらぷらと振り、
「やめてくだせぇよ。所詮はただの看板――肩書ですよ。俺だって好きでこんな肩書を背負ってる訳じゃねぇんすよ。知ってんでしょ? 俺がこの立場を甘んじて承ってるのは――」
「ほっほっ、そうじゃったのぉ……」
「…………」
ジトっとした目を向けられ、ジャイルは笑いを治めると同時に「そうじゃ」と手をぽんと打つと、不審そうに眉を寄せるベッシュに向かって人差し指を立てる。
「今日、面白い小僧に会った」
ベッシュはジャイルの露骨な話題転換に、しかし自ら乗っかる事にした。ベッシュからすれば、先ほどの話題でこれ以上いじられるのは正直もうお腹いっぱいなのである。
ベッシュが視線でジャイルにその先を促す。それを受け、ジャイルも満足そうに笑みを浮かべると、
「大浴場での、己が道を闇に閉ざされた小僧の心の叫びを聞いた。――なんでも、妹を探しておるらしくてのぉ」
「へぇ……一体どんな奴っすか?」
「そぉじゃのぉ……」
ジャイルは考え事をする際の癖なのか、その白い顎鬚を触りながら記憶を漁るように上を見上げ、順番にすくい上げた記憶の断片を、少年の特徴を口に出して列挙していく。
「中肉中背の、どこにでも居りそうな小僧じゃった。瞳は黒。――そうじゃ、髪はベッシュ、お前さんとよく似た色合いの茶じゃった」
最後の一言を聞き、ベッシュの眉がピクリと反応する。しかし、ジャイルはそんな彼の様子には気付いた様子はなく、最後にその表情を真剣な面持ちに変え、ベッシュの顔を見やり、
「それにの、手の甲に“奴ら”のものと似た痣があった」
「ああ、そいつは無害だ。俺が保証する」
「ほぅ……?」
ベッシュから間を置かずに飛び出した擁護の言葉に、今度はジャイルが目を見開き、興味深そうな視線をベッシュへ向けてくる。ベッシュはそんなジャイルの視線をうっとうしがるように、手を払うようなジェスチャーをして顔をしかめながら、
「なに、なんだ……こればっかりはアンタでも詳しくは言えねぇが、大雑把に言えば、俺の身内みたいなもんだな」
そんなベッシュの告白に、ジャイルは目を見開くと、
「ベッシュ、お前にも身内がおったのか?」
「いや、だから身内みたいなもんだって言ったじゃないすか……。耳遠くなってきたんじゃねぇすか?」
ベッシュの嫌そうに顔をしかめての皮肉を受け、ジャイルもさすがにそれ以上の詮索を断念。しかし、ふと思い出したように、最後に一つだけ質問をする事にした。
「その小僧の事で、最後に一つだけ質問してもいいかの?」
「いや、だからこれ以上はアンタでも――」
「名は、なんと言うのじゃ?」
ジャイルのそんな質問に、ベッシュは一瞬だけ呆けた顔になる。そんなベッシュを見やり、ジャイルはくっくっ――と喉から笑い声を漏らす。やがて、ベッシュからも苦笑が漏れる。そしてニヤリと笑うと――、
「そいつの名は――」
――――――――――――――――――――
「なあイレナ、この王都から一番近くにある都市ってどこだ?」
「え――?」
空は曇り、今にも雨が降り出しそうな曇天。そんな薄暗い空の下、シンゴ達はあの迷路のような通路を歩いていた。
時間は朝。先ほどユピアとの別れを済ませ、王城を出て今は修道院に向かう帰路の途中である。
そんな折に、シンゴが突然イレナに先の質問を投げかけたのだ。
「なによ? どっか行きたい所でもあるの?」
シンゴの質問に対し、イレナはきょとんとした顔で首を傾げる。つい先ほどまで、ユピアとの別れを最後まで愚図っていたのに、相変わらず切り替えが早いというか、前向きな性格である。
「いや、実は――」
シンゴは隣を歩くアリスとカズにも、順に視線をやる。そして少しだけ迷うような素振りを見せるが、それも一瞬の事で、すぐさま決意を秘めた顔で口を開く。
「アリスとカズにも聞いて欲しい。サラスさんに質問した事で、ここにあいつが……イチゴが居るって可能性はほぼ無くなったと俺は感じた。もうこの都市の目ぼしい所は大方、調査済み。これ以上ここに長居しても意味がないと思うし、時間をかけるのもイチゴが心配で……だから――」
シンゴは改めてアリス、カズ、イレナの顔を見やり、己が胸中にある方針を告げる。
「次の都市に向かおうと思う」
シンゴの告白を受け、一瞬だけ空気が停滞する。シンゴはその停滞を嫌い、その間を埋めるように言葉を紡ぐ。
「イレナ。修道院への宿泊の件だけど、長くてもあと一日、二日くらいになると思う。……折角の厚意を無駄にするみたいになるけど、俺は――」
そんなシンゴの、申し訳なさそうに歪ませた顔で発せられた謝罪。しかし、その謝罪の言葉は最後まで告げられる事なく、力強い言葉に押し返される。
「なに言ってんのよ!」
「――え?」
イレナの一喝に、シンゴは呆けた声を上げる。イレナはそんなシンゴを真っ直ぐ、強い意志の宿った碧眼で見据え、やがて破顔した。
「なにを思い悩んでるのかは分かんないけど、それがあたし達への罪悪感とかそんなんだったら、余計なお世話よ! あたし達バレンシール修道院の人間は、そんな小さい事でぐちぐち言うなんてしないわ! むしろ早く行けって、そのお尻を蹴っ飛ばしてあげるわよ!」
「イレナ……」
イレナの力のこもった、熱い心のこもった声を受け、シンゴの声が震える。そんなシンゴの耳に、苦笑する声が二つ滑り込む。
そちらを見やると、同じように呆れた顔を、しかし温かな笑みを纏ったアリスとカズが、まるでしょうもない事で思い悩んでいる弟を見るような、そんな優しい眼差しを向けてきていた。
「シンゴ、ボクも当然一緒に行くよ。イチゴを見つけ出して、帰る方法を見つける。それまでは君と一緒だって、前にも言ったじゃないか」
笑って首をこてんと倒すアリスに、カズもニヤリと笑って続く。
「オレが同行するのは、ホントならこの王都までだったが、こうなったら旅は道連れってやつだ! お前の妹を見つけ出すまで、オレもとことん付き合うぜ?」
「…………」
二人のそんな言葉を受け、シンゴは顔を伏せて俯く。
自分は、キサラギ・シンゴは自他共に認める不幸な奴だ。それはこの異世界に来てからも変わらない。それでも、それでも一つだけ、シンゴには運のいい事がある。いや、今見つけた。――今、気付かされた。
シンゴは苦笑しながらその伏せた顔を上げる。眼前には、シンゴを支えてくれる仲間が見える。――そう、キサラギ・シンゴが持つ、たった一つの幸運。それは、人との巡り会いの良さだ。
「――ぷっ」
「は? おい、何故に笑うよ!?」
吹き出したイレナに、シンゴは若干の照れ隠しを含んだ叫びを上げる。しかしイレナに続き、アリスとカズからも笑い声が漏れ始める。
「ちょ!? 確かにむず痒い空気ではあったよ!? でも、笑うのはひどくない君達ッ!?」
少しだけ頬を羞恥で染めたシンゴが、オーバーリアクション気味に手を振り回して吠える。そんなシンゴにアリスがくすくすと笑いながら、「ごめん、だって――」と謝りつつも、シンゴの顔を指差してくる。
シンゴは意図がすぐには察せず、困惑しながらアリスの指先を追い、自分の頬に指を這わせる。そこには――、
「うそぉ!?」
シンゴは自分の頬を濡らす水滴に、自分が知らず知らずのうちに涙を流していた事を悟る。しかし、シンゴには涙腺を緩ませたつもりはない。――いや、少し、ほんのちょっとだけ緩んだ気もしないではないが、まさかまさかである。
しかし次の瞬間――、
「――ん?」
シンゴは頭の天辺に生じた一瞬の感触に、眉を寄せながら空を見上げる。そして、シンゴが空を見上げた瞬間、シンゴの瞳を狙い澄ましたように水滴が直撃する。シンゴは「おう!?」と変な声を上げて咄嗟に目をぎゅっとつむると、目をごしごしとこする。
そんなシンゴの奇行をただの照れ隠しだと思って優しく見守っていた面々も、空から落ちてくる水滴の存在に気付き始める。
そう、この水滴は――、
「うおッ!? 降ってきやがった!」
「修道院までダッシュするわよ!」
カズが頭を庇うように叫ぶと、次にイレナが通路の先を指差しながら叫び、同時にすぐさま走り出す。
イレナに続き、アリスとカズも走り出す。そんな三人に一拍遅れ、
「え? ちょ、置いてかんといて!?」
曲がり角に消える三人の後ろ姿に、シンゴもエセ関西弁を発して、慌てながら追いかける。
――やがて、ひぃひぃ言いながら、シンゴはようやく三人の背中に追い付いた。
シンゴが息を切らすなか、前を行く三人は走りながら余裕の会話を交わす。
「なあ、なんか焦げ臭くねぇか?」
「――確かに、なんだか焦げ臭いね……」
「誰か喧嘩でもして、火の魔法でも使ったんじゃない?」
「お、お前、ら……」
ぜえぜえ言いながら、シンゴは三人の強靭な――というより、人間離れした心肺機能に、心の中で嫉妬と憎しみを湧き上がらせる。あとそこに、碌に部活もしてこなかった自分に対する後悔も追加する。
すると――、
「ほん、とだな……」
酸素を要求してくる肺に従い、大量の空気を短時間に吐き吸いしていたせいもあり、シンゴにもアリス達の言う焦げ臭さに気がつく。しかも、徐々に鼻をつく焦げ臭さはその強さを増していき、やがて――
「――――なんだ、それ……?」
通路を駆け抜けたシンゴ達を、本格的に降り始めた雨と――
――炎に包まれる、バレンシール修道院が出迎えた。




