第2章:10 『手痛いおかえり』
「や、やっと……着いた!」
「俺、足と手がもうヤバいんだけど……」
イレナがうんざりした様子でそう呟く隣では、荷物を地面に置き、膝に手を付いて肩で息をする疲労困憊な様子のシンゴがそう嘆く。
「あのおっさん……今度会ったら、ただじゃ済まさないんだから……!」
「お前、あのおっさんに勝てんのかよ……」
シンゴのそんな指摘に、イレナは「うっ……」と言葉を詰まらせる。
通路での一幕――あのリーダーやゴード、そして着流しを着た妙なおっさん達と遭遇してから、結構な時間が経っている。というのも、あのおっさんがイレナの持ってきていた光源を持ち去ってしまったのが、そもそもの始まりである。
そのせいで、道を知らないシンゴが目に、道を知っているのに暗すぎてよく見えないイレナが地図になり、かなり非効率的な方法で進むしかなかったのである。
月でも出てくれていれば良かったのだが、あいにく今日は月は出ていない。元の世界で言う、新月みたいなものだろうか……。
とまあ、そんな経緯を経て現在に至るという訳なのだが……
「とりあえず、さっさと中に入ろうぜ? 俺、早く座りたい……」
「…………」
「どうした?」
シンゴの切実な願いを孕んだ提案に、イレナは沈黙を持って返した。そんなイレナを不審に思い、シンゴがイレナの方を振り向くと――、
「うおぉ!? お、おまっ、なんつう顔してんだよ!?」
振り向いた先のイレナの顔を見たシンゴが、軽く飛び退りながらそんな驚声を上げる。
シンゴが見たイレナの顔は、顔中奇妙な汗をかき、その目は挙動不審にあっちこっちを行き来している。
「お、おい……イレ――」
「…………ぃ」
「え?」
奇行の果てに顔を伏せたイレナからか細く発せられた声を聞き、しかしあまりにも小さすぎて上手く聞き取れなかったシンゴは、そう疑問の声をこぼす。そして次は聞き逃すまいとして、イレナに近付こうとした時だった。
「お願いッ!!!!」
「ちょっ!?」
迂闊に近付いたシンゴにしがみ付きながら、イレナは必死の形相でもってそう叫んだ。
一方しがみ付かれたシンゴは、そんなイレナの豹変ぶりに驚きつつ軽く引いた。そして、あまりのイレナの必死さに軽く恐怖を覚え、その手を引き剥がそうとするも、
「な、なんつう怪力だよ……お前!?」
「嫌〜〜〜〜ッ!!!!」
そんな声を上げ、一層シンゴにしがみ付いてくるイレナ。そんなイレナの胸部が体に押し付けられ、平素なら役得気分でホクホクな状況なのだが、残念ながらと言うべきか、その幸福な感触はシンゴの脳に達する前にギリギリ――と、大の男を吹き飛ばすその腕力でもって締め付けられている、脊椎の激痛と言う名の電気信号で全て阻害されてしまう。
というか、修道院に辿り着いた時に元に戻したはずの右目の視界がやけに明るく鮮明に見える。シンゴは自分で目を変化させた覚えは無い。つまり、シンゴの吸血鬼の体質がこの背中への圧迫ダメージを要回復と判断したようだ。その証拠に、さっきから痛みが和らいだり悪化したりと不思議なことになっている。
「わ、分かった、から……離せ! し、死ぬ……!」
「ほ、ほんと……?」
うるうるした目を向けられるが、そんな「可愛い!」となる表情すらシンゴはスルーして、イレナの言葉に必死に――それこそ必死に青い顔で頷く。
そんなシンゴの必死さが通じたのか、イレナはシンゴの意識がフライアウェイする前にその魔手を離してくれた。
尻餅を着き、ついでに圧迫されていた肺に新鮮な空気を「げほ、がほッ」言いながら取り込む。そんな様子のシンゴを、イレナが心配そうな表情で膝に手を当てて見下ろしてくる。
非常に「お前のせいだよ!?」と言ってやりたい気持ちで一杯だが、またしがみ付かれて今度こそサバ折りにされるのも嫌なので、自重しておく。そんな危うさが今のイレナにはある。
何やらやたらと弱腰というか、しおらしくなってしまったイレナ。あのイレナをこんな状態にしてしまう原因。おそらくシンゴにとっても危うい何かなのだろう。
ようやく呼吸を整えたシンゴは、未だにうるうるした目をしてこちらを見ているイレナに、その要因を聞いてみる。
「で、何があったんだよ? お願いって何だ?」
「…………先に、入ってほしいのよ……」
シンゴは首を傾げ、
「――修道院にか?」
そう問う。それに対してイレナは、こくりと可愛らしく頷き返す。
さっきから非常にやりずらい。まるで別人である。そんなイレナに眉を寄せつつ、シンゴは続ける。
「何で?」
その質問に対してイレナは、怯えた表情で辺りをキョロキョロ見渡すと、シンゴの顔にその顔を近づけてきた。
それに一瞬シンゴはドキッとしたが、どうやらただの耳打ちのようだ。
心の中でがっかりしつつ、耳にかかる吐息にこそばゆさを感じながら、イレナの話を聞く。
やがて、話し終えて遠ざかる体温に心細さを感じながら、シンゴは眼前で人差し指をツンツンさせているイレナに「なるほど……」と呟くと、言った。
「『遅くなったからマザーに怒られる。だから、先に行って――?』だと!? 前フリ長すぎなんだよッ!!」
シンゴのごもっともなツッコミを受け、イレナはビクッとする。
今までの付き合い上なら、ここで強気な反論――もしくは、理不尽な逆ギレが飛んでくるはずなのだが、今回は違った。
イレナは人差し指を合わせながら唇を尖らせ、シンゴを上目使いで見ると、ぽしょ――と呟いた。
「――だめ?」
「いいでしょう」
即答した。キサラギシンゴは、単純な男の子なのである。
――てなわけで、大半の荷物をシンゴの後ろに震えながら隠れているイレナに預け、シンゴは手軽な荷物を数個だけ持つと、修道院のドアの前に立った。
ガチで怖がって震えているイレナに「入るぞー」と一声かけると、シンゴはドアの取っ手に手をかけた。
今さらながら、あのイレナのこの怯えようだ。どんだけ怖いんだよアネラス――と思うと同時に、シンゴの方に飛び火してこないか心配になってきた。
そんなことを考えてしまい、一瞬だけ動きが止まってしまうが、シンゴは「ええい、ままよ!」と、そのドアを押し開いた。その瞬間――
「イ、レ、ナーーーー!!!!」
「おぶッ??」
何者かがそんな事を叫びながら、シンゴに飛付いてきた。
しかし、ここまでの徒歩で結構足にきていたシンゴは、その重圧に耐える事が出来ず、その飛び掛かってきた人物に押し倒されるようにして、後ろに倒れ込んだ。
抱き着かれているせいもあって、シンゴは碌に受け身も取れないまま後頭部をもろに強打。二人分の体重の乗ったこともあり、結構なダメージになった。
頭を押さえ、苦悶の声を上げながら悶えまくりたかったのだが、顔を何か柔らかいモノに覆われ、なおかつ頭を腕でがっちりホールドされていたため、痛みは誤魔化されずにシンゴの脳をダイレクトに刺激した。
「〜〜〜〜〜〜ッッ!!!!」
声にならない苦鳴を上げるシンゴだったが、一方そのシンゴに飛付いてきた人物はというと、
「イレナイレナイレナ〜〜!!」
と、明らかに人違いをしつつ、シンゴの頭に頬ずりをしていた。
そして、どうやら吸血鬼の再生能力が発動したらしく、シンゴを苦しめていた後頭部の痛みは波が引くように薄れていった。
そして、ようやくシンゴに現状を把握できるだけの思考力が戻ってきた。どうやらシンゴの上に乗っているのは、女性のようだ。そして必然的に判明する、シンゴの顔面に押し当てられている柔らかい物体の正体。
シンゴは思った。俺、もう思い残すこと、ねえや――と。
いつまでも浸っていたい夢のような時間だったが、しかし夢とはいずれ必ず覚めるものである。
「――ユピ姉?」
「――え?」
イレナのそんな言葉で、そのユピ姉なる人物が顔を上げてイレナを見る。そして数秒間そのまま固まると、恐る恐る、自分が下敷きにしているのが何者なのか確認するために、その顔を下に向けた。
シンゴを見下ろすのは、シンゴと同じ茶色の長い髪をした、碧眼の美しい女性だった。
シンゴがその美しさに見惚れる間にも、眼前のユピ姉の顔は、ゆでだこのように真っ赤になっていく。
さすがにこの後どうなるかはシンゴにも分かる。キャー!からのビンタだろう。
しかしまだ――ほんの僅かだが、一言だけなら何か発するだけの間はあった。
シンゴの脳がフル回転する。なんか走馬灯みたいなものも流れ始めた。あれ?俺死ぬの!?と、セルフツッコミを自分の脳みそにかましている間に、ツッコまれた側の脳が一つの単語を走馬灯の中から導き出した。
その走馬灯では、イチゴが腰に手を当て「いい? お兄ちゃん。女の子は――」と、ご高説を垂れていた。これは、シンゴが『勇者』になった時の記憶だ。イチゴは女の子に対しての接し方のノウハウをシンゴに教えてくれたのだ。正直ほとんど聞き流していたように思えるが、僅かに記憶に残るイチゴの言葉曰く、「女の子は褒められるのが好き――」だったような気がする。
シンゴは脳裏に浮かんだ単語を、真剣な表情で口にした。
「イイ……おっぱいでした――」
「キャーーーーーーーーーーッ!!!!」
サムズアップしたシンゴの顔面に、平手ではなく、まさかのグーが振り下ろされた。
地面にめり込みながら、シンゴの脳裏に再び走馬灯が流れる。
イチゴが腰に手を当てながら、先ほどのご高説を垂れる――が、「――だけど……」と続けると、首を可愛く傾げながら言った。「お兄ちゃんは、褒めちゃだめだよ?」――と。
――――イチゴ、お兄ちゃん……お前の言葉の意味が今、身を以て分かったよ――
走馬灯の中のイチゴが苦笑いした気がした。
――――――――――――――――――――
何やら視線を感じて、シンゴがゆっくりと目を開けると、
「――え?」
シンゴをぐるっと囲むようにして見下ろす、複数の子供達の顔があった。そして、シンゴが目覚めた事に気付くと、示し合わせたように顔が引っ込み、ドタドタと足音。次いでドアの開閉音が響き、やがて廊下を走るような足音が遠ざかって行くのを聞き、シンゴは猛烈な既視感を覚えつつ跳ね起きると、
「まさかのループ説!?」
叫んだ。
辺りを見渡してみるも、シンゴが最初に寝かされていた部屋と全く同じである。
そして、シンゴがこの現状に顎を開けて戦慄していると、ふと次に起こる事を思い出す。シンゴの記憶が確かなら、子供達が出て行ったドアからは――、
そう思い、シンゴはドアの方に視線を向ける。見れば、ドアは最初と同じように少しだけ開いており、シンゴは思わずゴクリと唾を飲んだ。
耳を澄ましてみると、聞こえる。明らかに子供達のものとは別の、重みのある足音がシンゴのいる部屋に向かって来ている。
「……………………」
緊張感に支配されるシンゴの視界の先――開いたドアの隙間から、とうとう何者かの人影が覗いた。そして入ってくる。果たしてその人物は、シンゴと短い期間であったが、友好的な関係を築いた事を全て覚えていない――いや、築く前の、あの元気という言葉がよく似合うツインテールの少女――
「やあ、シンゴ。起きたんだね」
「――――え? アリス?」
そこには、シンゴの言葉に「?」と首を傾げ、その綺麗な白髪を揺らし、黒で統一された装いをした美しい白黒の少女が立っていた。
アリス・リーベ。その少女との、約半日ぶりの再会であった。