序章 『噂の少女』
――平凡、非凡。
この二つの概念の境界を明確にするのは、思いのほか難しい。
一体どういったことが平凡で、どんな状態が非凡なのか。
なにも特徴がなければ平凡なのか。他者より優れた才能を持っていれば非凡なのか。
――否。
平凡とは、周りと“比較すらされない”者のことを言うのだと思う。
群衆に埋もれ、『全』というひとくくりで数えられる、そんな存在だ。
たとえ特徴がなくとも、秀でた才能を持っていたとしても、少し離れて見れば『人』という一文字で片付けられる。
本当に非凡な者は、離れていても一目で分かる。
まるで白い画用紙の上に赤いインクを垂らしたように、自然と違和感が浮かび上がる。
中には上手く擬態する者もいるだろう。
本物の中の『本物』なら、それくらい容易くやってのける。しかし、この平和な日本でそんなことをする者など少ない。いや、そもそも自分が非凡だと気付いていない者も多数いるだろう。
大前提として、非凡な奴など圧倒的に少ない。
それでも、群衆の中でふと視界の端に、意識の隅にひっかかる存在がいる。
――それが『非凡』だ。
もちろん、男が美女を、女がイケメンを自然と目で追う本能的なこととは違う。
もっと異質で、纏う雰囲気が乖離している者。ああ、アイツは俺たち、私たちとは違う生き物だと、住む世界が違う奴だと瞬時に悟らされる、そんな存在のことだ。
そして、これを踏まえた上でひとつだけ言えることは、「彼」は確実に『平凡』な高校生だと言うことだ――。
――――――――――――――――――――
窓ガラスをカタカタと揺らすこの風は、おそらく冷たいのだろう。
少年は頬杖をつきながら、鬱屈としたため息と共に心の中でそう思った。
現在は十一月の下旬。冬の寒さも本格的になり始め、上に何かを羽織らなければ、おちおち外出するのも厳しい季節だ。
そして時刻は夕刻。冬の太陽は沈むのが早く、外は既に薄暗い。
ぼーっとしながら外を眺めて頭の中を空っぽにし、忘我の海に沈んでいた少年の意識を現実へと引き戻したのは、後ろからかけられたクラスメイトの声だった。
「――なあシンゴ。お前、あの噂きいたか?」
「――噂?」
『シンゴ』と呼ばれた少年は、気怠そうに顎から手を離すと、椅子の背もたれの上部に肘を預けながら後ろへと振り返った。
すると、そこには何やらニヤニヤとした笑みを浮かべた、見るからに頭の悪そうな男が腕を組んでふんぞり返っていた。
何故そんなに偉そうな態度なのか疑問は尽きないところではあるが、口にはしない。
それがこの男――『前田』との、短くない付き合いで学んだことである。
こいつの態度にいちいちリアクションしていては、話が一向に進まないどころか、精神的にも疲れる。
故に、『木更木心護』は、窓の外の外気よりも冷え切った目で前田を見やると、
「――知らねえ。じゃあな、俺は帰る」
「うおい!? 辛辣だな――って、本気で帰ろうとするなよ! いや、待ってくださいシンゴさん! お願いだから帰ろうとしないで!!」
先ほどまでの態度はどこへやら。前田は鞄を背負って立ち去ろうとするシンゴの足にしがみ付くと、泣きべそをかきながら吠えてきた。
「…………」
まじかよ――と書かれた顔で無様な男を見下ろすシンゴは、何やら周りの目が痛いので、深い嘆息を一つすると、仕方なく席へと引き返す。
シンゴが家に帰ろうとしたのは、別に素行不良で多感なお年頃だから――といった事情ではなく、時は既に放課後、ついさっき帰りのホームルームが終わったところなのだ。
「――んで、その噂ってなんだよ?」
椅子を反転させて座ったシンゴは、高校二年の十七歳。
パッと見どこにでもいる『平凡』な高校生だが、敢えて特徴を述べるなら、髪の色が茶色い。
とは言ったものの、今どきの高校生なら髪を染めたり、もしくは脱色する奴なんてザラだ。このクラスにも金髪にしている奴がちらほら見受けられる。
しかし、シンゴのこの髪色は染めているのではなく、生まれつきだ。
シンゴはその茶色の髪に手を差し込んでガシガシと掻きながら、面倒くさそうに前田を睨み付ける。
しかし、前田からは怯んだ様子など微塵も感じられない。
こいつもシンゴと同じくらいに、こちらの対応に慣れているのだ。
その事実にどんよりとするシンゴへ、机の上に這い上がった前田が首を傾げると、
「なんだよ、本当に知らねえのか? 最近この辺で、夜になると現れるっていうアレ」
「お化けの類か? ……お前、いい歳してそんな――」
聞いて損したといった様子でため息を吐くシンゴに対し、前田はその口の端をニヤリと吊り上げると、
「そのお化けが、とびっきりの美少女「詳しく」だったと――しても……」
態度急変。シンゴは瞳をぎらつかせながら前のめりになる。
一方の前田も、シンゴの突然の態度急変にぽかんとなるが、すぐさまニヤリとした笑みを纏い直す。
そしてわざとらしく「ふ――」と笑うと、
「シンゴ、やはりお前はそういう奴だ。そうこなく――」
「御託は結構、早く言え」
「…………」
目元を引き攣らせながら押し黙る前田だったが、「おほん」と咳払いを挟むと、ぴんと人差し指を立てた。
「『曰く、夜な夜なこの町を徘徊する怪しい人影があるという』『曰く、その髪は透き通るほど綺麗な白だという』『曰く、その装いは闇に避け込むような黒一色だという』『曰く、その正体は目を見張るほどの美少女だという』『曰く、その少女の目は夜闇の中で真紅に輝いているという』――以上だ!」
語り終え、ドヤ顔を向けてくる前田に対し、シンゴは表情そのまま、
「へえ……」
「へえ――って、もっとあるだろ!? なんかこう……たまらん! 涎が湧きだすぜ! ――みたいな!?」
「いや、ねえよ」
「……さてはお前、偽物だな!? 本物のアイツなら、さっきのにプラスαくらいでリアクションしてくるはずだぞ!」
「しねえよ! むしろ、その子がお前に襲われないかどうかの方が心配だわ!!」
「それこそ本物のシンゴがやることだ! このシンゴを語る偽物め! 俺の親友を返しやがれ!」
「まだそれ引っ張んのかよ!? ――てかお前、さっきから俺に対する評価ひどすぎねえか!?」
黙って聞いていれば言いたい放題。「涎が湧きだすぜ!」と、涎を垂らしながら語っていることに気付いていない馬鹿に言われるのは無性に腹が立つ。
お互い示し合わせたように胸ぐらを掴むと、至近距離でガンを飛ばし合う。
すると――、
「はぁ……ほんっとに平和な頭してるわよね、あんたら」
「……おい、言われてるぞ、前田?」
「は? お前のことだろ、この偽物」
「あたし今、あんた“ら”って言ったわよね!?」
シンゴたちの会話に割り込んできたのは、前田の隣の席に座る『上村』だ。
肩にかかるくらいのショートカットに、ほどよく引き締まった体。
纏う雰囲気もシャキッとしており、スポーツ少女然とした女子だ。
そしてその評価は的を射ており、上村は陸上部所属だ。
「――んでも、胸までまっ平らにしなくてぼぐせぶっ!?」
「前田。あんた、ちょっと黙りなさい」
底冷えするような声と共に上村が放った蹴りで、余計な一言を零した馬鹿が横に吹っ飛んで逝ったのを横目に、シンゴは鞄を掴むと立ち上がる。
「もう帰るの?」
「ああ、ちょっとイチゴと約束があってな」
声をかけてきた上村に対し、シンゴは「今日はあいつの誕生日だから、ちょっとな――」と説明。
それを受け、上村は微笑むと、
「そっか。イチゴちゃん、今日が誕生日なんだ。何歳になったの?」
「十五だな」
「へえ……あっ、イチゴちゃんにおめでとうって伝えておいてよ」
「オーケー」
上村の要望にサムズアップで答え、教室の出口へと向かうシンゴの背中に、馬鹿の奇声じみた声が飛んできた。
「俺からは! イチゴちゃんが寂しくならないように、俺の姿を精巧に模したにんぎょぐほうッ!?」
何ごともなかったかのように蘇ってきた馬鹿を、上村がドロップキックで再び沈めたのを見届け、シンゴは教室を出て玄関口を目指す。
「そういや――」
ふと、前田が語ってきた噂話に引っかかる点を見付けた。
「真紅に輝く瞳って……」
その身体的特徴と一致する存在は、この世にそう多くない。
その中でも、真っ先に思い浮かぶのは――、
「吸血鬼……か?」
そんなことを考えながら、シンゴは廊下を歩くペースを少しだけ上げたのだった――。
――――――――――――――――――――
「遅い……」
そう重々しく言葉を吐き出すのは、黒髪を短いポニーテールに纏め、携帯を持っていない方の手でその毛先を所在なさげに弄る、日本人では珍しい青みがかった目をした少女だ。
『木更木一護』。今日で十五歳になったばかりの、中学三年生だ。
「もう待ち合わせの時間を三十分は過ぎてるのに、メールにも、電話にも反応がない!」
現在、彼女がいるのは、とあるショッピングモールの入口付近に等間隔で並んで生えている木、そのうちの一本の真下だ。
かれこれ、もうここで三十分は兄の到着を待っている。
――今日はイチゴ、十五歳の誕生日である。
去年――というよりほぼ毎年、女の子が貰って喜ぶような物からかけ離れたプレゼントをくれる兄。今までは、せっかく貰うんだからと、文句の一つも言ってこなかった。しかし、年々斜め上にいく兄のプレゼントに、とうとう貰う本人であるイチゴがプレゼントを選び、買ってもらうという、サプライズの欠片もない方式に変わった。というか、イチゴがそうした。
そして現在、こうして兄と待ち合わせをしているという訳なのだが――、
「まさか……忘れてるなんてこと、ない……よね?」
若干、半泣きになりながらそんなことを考えてしまい、否定する材料が見当たらないことにイチゴは愕然とする。
兄である木更木心護は――馬鹿だ。
今朝もなかなか起きてこない兄を起こしに部屋に行ったら、目覚まし時計がアラーム設定時間の二分前で止まっていた。
――馬鹿に加え、兄は何かと昔から運もない。
仕方なく、まず布団を引き剥がし大声で呼びかけるも、返ってきたのは寝言のみ。
今度は馬乗りになってビンタをかましたが、それでも起きない。叩き過ぎて、兄の顔面の面積がすごいことになっていたが、叩いているイチゴの手の方が先に限界を迎えてしまったので、ほっといて登校することにした。
――とまあ、常日頃から兄はそんな調子なわけで、「忘れてた! テヘペロ♪」なんてことが普通に有り得る。
ふと、兄のテヘペロ顔を想像してしまい、ふつふつと湧き上がってくるドス黒いオーラを辺りに撒き散らし、周りの奇異なものを見る視線を集めていると――、
「お、お前……何と戦う準備してんの?」
不意に肩を叩かれ、振り向いた直後に戦慄した声がかけられた。
見れば、走ってきたのか、少し息の上がった兄の引き攣った顔がそこにあった。
「あ、お兄ちゃん! ――はっ! 遅い! 何してたの!? 携帯も一切繋がんないし、メールにも返信なし! 私、このさっむい中で三十分も待ったんだよ!?」
兄の姿を確認したイチゴの顔に笑みが弾けるが、それも一瞬。意思の力でなんとか緩もうとする表情筋を自制する。
何故なら、この寒い中で長時間も待たされたのだ。ここは何かガツンと言ってやらねばならない場面だ。なのに、緩み切った笑みを浮かべていれば、イチゴの威厳は地に落ちてしまうというものだ。
すると、そんなイチゴの剣呑な雰囲気を察したのか、シンゴが慌てた様子で弁解を始める。
「い、いやな? ここって入り口が多いうえに、並んでる木も似たようなもんばっかでさ! ――あと、ちょっと迷っちった! テヘペロ♪」
「…………」
「あ、あの~イチゴさん? 何をそんなに震えてらっしゃるので? あ、寒いからか」
俯いて震えるイチゴに対し、シンゴは手をぽんと打つと、一人で納得してしまう。
そんな兄に対し、イチゴは目尻に涙を浮かべた顔を勢いよく上げると、
「どうして!? なんで自分の住んでる町で迷えるの!? 昔っからそう! お兄ちゃんのそのくだらない才能、私怖いよ!!」
イチゴの怒声に対し、シンゴは「え、そう?」と何故か照れる。そんなどうしようもない兄のつま先をかかとで攻撃。兄が悲痛な叫びを上げるのを聞き流し、さらに追撃する。
「携帯は!?」
「じ、充電切れ……」
蹲ったシンゴのサムズアップを受け、イチゴの体から怒気が霧散する。
これ以上の追撃は無意味だ。どころか、こっちが精神的にやられてしまう。
深いため息を吐いて肩を落とすイチゴに対し、ようやく足の痛みが和らいだシンゴは立ち上がると、何を思ったのか視線をイチゴから外し、あらぬ方向へと向けた。
「なあ、それよりさ。さっきからあそこ、妙に騒がしいけど……何かあったのか?」
シンゴの視線の先、少し離れた所に、何やら人だかりが出来ている。それに、パトカーも止まっているように見える。
「露骨に話を逸らすし……」
そんなシンゴの質問に対し、イチゴはじろりと半眼を向ける。――が、やがて嘆息すると、
「なんか、『私は王だぞ!』とか叫んでる、外国人のおじさんが居たよ。たぶん、誰かが通報でもしたんじゃない? 結構、叫んでたから、そのせいで人が集まったんだと思うよ」
「……かわいそうに。この寒さで頭でもやられたのかな……」
「……そのセリフ、そのままお兄ちゃんにぶつけたい気分だよ。――はぁ、もういいや。とりあえず中に入ろうよ。外は寒い」
そう言って自分の体を抱くように肩を震わせるイチゴに、シンゴも「おう、行くか」と言うと、イチゴに向かって手を差し出した。
数秒ほど兄の手を見て固まるイチゴだったが、「もう……」と小さく呟くと、その手を掴んで強引に引っ張った。
「ちょっ、おい」
「うるさい。いいから早く行くの!」
シンゴの手を引き先導するイチゴの顔を見ることはできないが、それでもその耳が赤くなっていることから、今どんな顔をしているのか大体は想像できた。
そんな妹の様子に苦笑するシンゴだったが、ふと首の裏あたりにチリっとする感覚を覚え、背後を見る。
しかしそこには何もなく、夕闇に染まりつつある町の風景が飛び込んでくるだけだ。
「――――?」
シンゴは首を傾げて首裏をさすりながら、イチゴと共にショッピングモールの中に消えて行った――。
――――――――――――――――――――
「ふんふふ〜ん♪」
プレゼントの入った袋を胸に抱き、入店前とは違って上機嫌な様子で鼻歌を歌いながらショッピングモールから出てくるイチゴ。その後ろには、諭吉さんとの涙の別れでテンション低めのシンゴが大量の荷物を手に続く。
「さ、お兄ちゃん! 早く帰ろ?」
「……そうだな。腹減ったし、暗いし、腹減ったし、寒いしな」
やたらと空腹アピールをしてくるシンゴに、イチゴは呆れたような目を向けながら反論する。
「お兄ちゃんが遅れたのがいけないんでしょ? さあさ、文句言ってないで、歩いた歩いた!」
ふらふらと歩くシンゴの背中を叩き、イチゴが激を飛ばしてくる。
シンゴはあの後、遅れた罰として、あれやこれやと追加で色々買わされたのだ。
一体なぜこんなことにと、己の過ちを振り返ってみる――間違いない。
「それもこれも、前田がしてきた噂話のせいだ……!」
前田に引き留められた時間が、ここになって響いたのだ。
と言っても、三十分の遅刻がそれでどれだけ短縮されるかは、考えなくても分かることである。
無情な現実と、己の方向音痴にため息を漏らすシンゴに、イチゴから声がかけられる。
「ねえお兄ちゃん。噂話って?」
シンゴの愚痴の中に気になる単語を見つけたらしいイチゴが、その概要について聞いてくる。
心なしかわくわくしている様子のイチゴに苦笑すると、シンゴは簡潔に纏めて噂話の内容について話してやる。
「なんでも、最近この辺でカワイイ吸血鬼が出るんだってよ」
「カワイイ吸血鬼!? 何それ! 教えて教えて!?」
完全に食いついたイチゴに再び苦笑し、シンゴは前田から聞いたことをさらに詳細にして語ってやる。
そして聞き終えたイチゴの反応はというと――、
「ほえー……会ってみたいなぁ」
「アホ言え。血、吸われんぞ。――ま、いざとなったら俺がお前の身代りになってやるよ」
シンゴはそう言って優しく微笑むと、イチゴの頭にぽんぽんと手を置く。
イチゴはそんな兄を半眼で見上げ、
「お兄ちゃん……何かその子に対して、いやらしいこととか考えてないよね?」
「…………」
「お兄ちゃんの……エッチ」
兄の下心を的確に見抜くのであった――。
――――――――――――――――――――
賽銭箱に十円玉を投げ入れ、二人で手を合わせる。
二人が寄り道しているのは、家から歩いて十分程のところにある神社だ。
シンゴとイチゴは、母方の祖父母との四人暮らしだ。
そして、シンゴは父の顔を覚えていない。母の顔はうっすらと覚えてはいるが、その程度だ。
父はシンゴが物心つく前に、母は物心がつき始めたころに亡くなっている。故に、シンゴは父の顔を知らず、母もぼんやりとしか覚えていない。
シンゴより後で生まれたイチゴは、母の顔も覚えていないだろう。しかし、知らないというわけではない。母の写っている写真だけは家にあるので、母の顔は分かる。ただ、思い出として、記憶として覚えていないのだ。
ともあれ、どうして二人が神社にいるのかというと、木更木家には誕生日を迎えた子供は神社にお参りして、今年も何事もなく誕生日を迎えられたことに感謝する――という変わった風習があるのだ。
何でこんなことをするのか昔、祖父に聞いてみたことがあるが、祖父も子供の頃は同じようにこの神社にお参りしたそうだ。
伝統だからやっているが、起源は特に知らないらしい。そうなると、一般的な神社の寿命はよく分からないが、この神社は割と昔からあるものだということが分かる。
そんな風に神社の歴史に思いを馳せているシンゴの横では、目を閉じ、何やら眉間にしわをよせているイチゴの姿がある。
「……イチゴ。毎年言ってるけど、感謝するのであって、お願い事をするんじゃないと思うぞ?」
いつの間にか指を組んでお祈りモードに突入しているイチゴに、シンゴは毎年恒例となったお決まりの文句を投げかける。
そして、そんなシンゴのお決まりの言葉に対し、こちらは毎回お願いの内容が違うイチゴの反論。
「いいの! お兄ちゃんの頭が少しはマシになるようにって、お願いしてたんだから!」
「神頼みレベルでやべえの、俺の頭!?」
イチゴはそんなシンゴの悲痛な魂の叫びをさらっと聞き流すと、今度は何やら照れ臭そうに頬を染め、
「それと……おじいちゃんとおばあちゃん。そしてお兄ちゃんと、みんなでいつまでも一緒にいられますように――って」
「――――」
「……ちょっと、黙らないでよお兄ちゃん」
口を開けて沈黙するシンゴの反応に、イチゴは顔を真っ赤にしてそっぽを向く。
そんなイチゴの態度に、シンゴは再起動と同時に苦笑。ぽんとイチゴの頭の上に手を置き、そのまま乱暴に撫で付ける。
「可愛いなぁ、もう!」
「ちょっ!? お兄ちゃん、やめてよ恥ずかしい! ていうか、髪ぐちゃぐちゃになるからホントやめて!?」
シンゴの手から逃れ、肩で息をするイチゴ。
その様子が妙におかしくて、シンゴの口から「ぷっ」という音が漏れ、やがて――、
「あはははははははは!!」
「もう!」
腹を抱える兄に、顔をさらに真っ赤にしたイチゴが怒りを顕にする。
「ふ~……わりぃわりぃ」
目尻に涙を浮かべながら謝るシンゴを、頬を膨らまして睨みつけるイチゴ。
しかしやがて、いつものことと諦め肩を落とす彼女の姿からは、この兄に対する気苦労が滲み出ており、この男の普段の行いがどんなものなのかを雄弁に物語っていた。
ようやく笑いが収まってきたシンゴをしばらくは睨み付けていたイチゴだったが、ふとその表情を少し困ったような苦笑いに変え、ポツリと言った。
「あと、一ノ瀬くんへの謝罪も、かな……」
「――? 一ノ瀬って確か……お前の中学で有名な、あの一ノ瀬か?」
『一ノ瀬和人』。イチゴの通う中学の生徒会長で、成績優秀、スポーツ万能、イケメンと三拍子揃った男だ。その評判はシンゴの通う高校にまで届くほどである。
以前、偶然にも町中で一度だけ見かけたことがあるが、一目見ただけでシンゴは敗北を悟った。
何と言うか、纏っているオーラが違った。爽やか指数的なものが、上限を突き破っていた。
「――んで、その一ノ瀬に、なんでお前が謝んだ?」
腕を組んだシンゴの問いかけに、イチゴは困ったように笑って頬を掻くと、
「えっと……今日、一ノ瀬君に告白されたの」
「……誰が?」
「私が」
「よし、殺してくる」
「わー! 待ってお兄ちゃん! 断ったから! 私、告白は断ったからぁ!」
瞳孔が開き切った兄をしがみ付いて引き留めながら、イチゴが事の顛末を説明する。
すると、目に光が戻ったシンゴが「ああ――」と、何やら納得した様子でぽんと手を打つ。
「それで謝罪に繋がんのか」
「う、うん……一ノ瀬君、この世の終わりみたいな顔してたから、せめて何かいいことがありますようにって」
「へっ、ざまえねえ。どうせ断られるなんて思ってすらいなかったんだろ。誰がうちの姫やるかってんだ」
「ねえ……姫って、もしかして私のことじゃないよね……?」
そんな問いかけを敢えて無視し、シンゴはイチゴの方へと向き直り、
「どうして断ったんだ?」
そう、そこが一番気になるところだ。
絶対にイチゴをやるつもりはないが、それでもあのイケメンの告白を断ったというイチゴの理由が気になった。
そんなシンゴの質問に、イチゴは片目を閉じて唇に人差し指を当てると、
「それは、ひ・み・つ♪」
「絶対に誰にもやらん!」
シンゴが改めて決意を固めていると、イチゴは荷物を拾い上げ、「よいしょ」と可愛い掛け声と共に背負うと、
「さ、お参りも終わったし、さっさと帰ろ! 私もお腹空いちゃった!」
そう言って微笑むと、イチゴはさっさと歩き出してしまう。
シンゴも慌てて荷物を拾い上げると、そのあとを追う。
「ちょ、ちょっと待――うお!?」
シンゴが駆け足でイチゴの後を追いかけると、何故か急にイチゴが立ち止まった。
危うくイチゴにぶつかりそうになったシンゴは、慌てて急ブレーキ。不審げに眉を寄せながら、イチゴの横に並ぶ。
見れば、イチゴの視線は前方へと向けられている。
「――――?」
首を傾げ、イチゴの視線を追う。
前方、鳥居のすぐ近く。そこには、イチゴと同じ制服を着た女子生徒が立っていた。
しかしその顔は伏せられており、ここからでは顔が見えない。
「誰だ? イチゴ、お前の知り合いか? イチ――」
イチゴに確認しようと、シンゴがイチゴの方を見る。
次の瞬間、シンゴの目が大きく見開かれた。
「な……イチゴ、どうし――」
イチゴはその目を大きく見開き、顔を青くして震えていた。
シンゴははっとなり、視線を目の前の少女に戻す。
そして、気付く。遅すぎる気付きだった。
眼前の少女の手には、月明かりを浴びて怪しく輝く――刃物が握られていた。
――――――――――――――――――――
「あなたがいけないんですよ? あなたなんかがいるから、一ノ瀬くんは私に振り向いてくれない。気づいてくれない。こんなに近くにいるのに。私が一番、一ノ瀬くんのことを分かっているのに。こんなにも想っているのに。愛しているのに。お弁当も作って持っていったわ。上履きもキレイにしてあげた。下駄箱にあった“紙くず”も捨ててあげた。こんなに尽くしてる。勇気を持ってラブレターも渡したわ。何度も何度も何度も。でも、一ノ瀬くんはあなたを選んだ。私はね? 一ノ瀬くんが幸せになれるなら、それでもよかったの。……一ノ瀬くん泣いてたよ。どうして? 彼のどこが気に食わなかったの? 必死に慰めたわ。あんな女なんか忘れてって。私がいるからって。そしたらね、一ノ瀬くん怒っちゃった。恥ずかしかったのかな? でも、大丈夫。そんなところも含めて大好きだから。でもこのままじゃダメ。考えたわ。一ノ瀬くんのために考えたわ。そして気づいたの。木更木さんがいるから、一ノ瀬くんはあんなに苦しいんだって。悲しいんだって。つらそうなんだって。そう、あなたがいるからいけないの。あなたが憎いです。憎い、うざい、羨ましい、妬ましい!!!!」
「…………」
――やばい。あれは、本気で洒落にならない。
目の前で狂ったように呪詛を吐き出す少女に、今まで生きてきた中でも未だかつて感じたことのないような不快感と共に、頭の中に大音量のアラームが鳴り響く。
すぐにでも何らかのアクションを取らねばならないのを頭では理解しているが、何故か体が一切いう事を聞かない。
気持ち悪い汗が頬を伝い、顎から滴り落ちる。
何故、動かない。何故、動こうとしない。
――否、動けない。
今、あの女を刺激するのだけは、絶対にしてはいけない。
「――沢谷優子……さん?」
「――――ッ!?」
おそらくイチゴ本人からしたら、自然と零れ出た言葉だったのだろう。
しかし、イチゴのその不用意な発言は明確な波紋となり、この場に『動』をもたらす。
――イチゴの呼びかけに、女がぴくりと反応した。
「――……そうです、優子です。隣のクラスの沢谷優子です。私、今日ずっとあなたのことを付けていたんです。……楽しそうでしたね、あなた。ずっと笑顔だった。一ノ瀬君が落ち込んでいるのに、あなたはこんなにも幸せそう。こんなのって、不公平じゃないですか? だから、木更木さん。一ノ瀬くんのために――消えて?」
そう告げてニコリと微笑むと、沢谷優子は真っ直ぐイチゴに向かって歩み始める。完全にシンゴなど眼中にない様子で――。
「い……嫌……」
イチゴの口から、掠れた声が漏れる。
しかしその行為はむしろ、沢谷優子の嗜虐心に油を注ぐだけだ。
イチゴの消え入りそうな声を聞いた沢谷優子の口の端がニタリと吊り上がり、歩く速度が上がる。その速度は下がることなく徐々に上がり、やがて歩みは駆け足に変わる。
イチゴはこの状況に飲まれてしまっているのか、震えたまま動こうとしない。
このままいけば、イチゴは――。
「――よ」
足は地面に縫い付けられたかのようで、微動だにしない。
「――ねえよ」
だが、動かせ。それでも、動かせ。
「――やらせねえよ」
狂笑を纏った沢谷優子が、イチゴのすぐ目の前に迫る――。
歯を食いしばる。奥歯が欠けようが構わない。
拳を握りしめる。爪が喰い込もうが構わない。
「死んで? 木更木さん!!」
沢谷優子が刃物を振り上げた、その瞬間だった――。
シンゴは、自分の中で何かが弾ける音を聞いた。
そして――、
「やらせねえっつってんだろぉがぁぁああああああッッ!!!!」
叫び、体に纏わりつく何かを強引に振り払う。
そして間髪入れず、がむしゃらに真横へ飛ぶ。
シンゴの体はイチゴの華奢な体を横に突き飛ばし、沢谷優子の前へ躍り出た。
ふと見れば、ここにきて初めてシンゴの存在に気付いたのか、目を大きく見開いて驚愕を顕にする沢谷優子の顔が見えた。
一杯食わせてやったという感慨が胸中を掠めるが、それもすぐに霧散する。
――理由は至極簡単。
悟ってしまったからだ。
己の命が、もうすぐ終わってしまうのだということに。
極度の緊張感のせいか、世界が遅く見える。その中で、見た。
沢谷優子の振り下ろした刃物の軌道――これは、シンゴの首を斬り裂く軌道だ。
掠るとか、そんな生易しいものではない。このままいけば、シンゴの首は五割以上が分断されるだろう。
助かる術は――ない。
今からどう足掻いたところで、遅すぎる。
出遅れた。遅すぎたのだ。勇気を振り絞るのも、覚悟を決めるのも、恐怖を振り払うのも、何もかもが手遅れ。
死の危機に瀕したシンゴの脳裏には、走馬灯が流れる――こともなく、考えるのはただただこの後のことだけだった。
願わくば、シンゴを殺した沢谷優子が動揺して逃げ出してくれれば、イチゴに被害は及ばないかもしれない。
まさか、今まさに自分を殺そうとしている奴の善性に縋ろうなんて、なんとも滑稽である。しかも、確実性など皆無の、だ。
それでも、願わずにはいられない。
折角、命を懸けたのだ。それが無為に終わるのだけは、どうしても嫌だった。
ああ、でも――。
ゆっくり首元へと落ちてくる刃物を見ながら、シンゴは思ってしまった。
死にたくないな――と。
そんな未練たらしい生への渇望を最後に、木更木心護の十七年の人生は、呆気なく幕を閉じる――はずだった。
――バツンッ、と。
空気が爆ぜるような音ともに、すぐ目前に迫っていた『死』が――沢谷優子の姿が掻き消えた。
「な、ん――」
一瞬の出来事に、シンゴの脳は何が起こったのかを正常に処理できない。
ただただ、白く染まる脳内。ただただ、何もない空間を映す視界。
そんな視界に突如、白と黒――二色の色が滑り込んだ。
――息を呑むほど、美しい少女だった。
振り抜いた足は、美しい線を描いて伸びている。
ふわりと舞う髪は、処女雪のように白い。
身に纏う服は、まるで闇を纏っているのかと錯覚してしまうほど、黒一色のみ。
しかし、シンゴの視線が吸い寄せられたのは、そのどれでもなかった。
――目だ。
紅い、紅い、血のように紅く染まった、真紅の瞳。
まるで、この世で最も美しい宝石を見たのかと思った。
それほどまでに、シンゴの胸は何故か高鳴った。
――が、その感慨も、いつまでも続くわけではない。
とん、という軽い音と共に、その少女が着地する。
同時に、シンゴの時間感覚が正常に戻る。
「――あぐっ!?」
バランスを崩したシンゴは、その場に倒れ込む。
体を打ち付けた際の痛みが、未だ浮遊していたシンゴの意識を地へと引き戻す。
「――ってぇ……」
痛みに顔を顰めながら、上体を起こす。すると、すぐ目の前に――、
「大丈夫かい?」
「――――!?」
目を見開くシンゴの前には、心配そうな表情で手を差し伸べる、謎の少女の姿が。
「あ、えと……あり、がと?」
思考することを止めた脳。故にシンゴは、この状況に流されるしかない。
シンゴは咄嗟に少女の手を握り返した。
――小さく、柔らかい。簡単に折れてしまいそうなほど華奢な手だった。
しかしそんなシンゴの感慨を裏切るように、少女は信じられない力でシンゴを引っ張った。
「うお!?」
たたらを踏みながらも立ち上がったシンゴへ、少女は微笑みながら告げた。
「どういたしまして」
「――――」
思わず見惚れてしまった。
それほどまでに、少女の笑顔は不思議な魔力を秘めていて――。
「――でも、少しまずいことになった……」
「――え?」
少女は笑顔を引っ込め、難しい顔で横を見やった。
少女の動きに釣られ、シンゴもその視線を追う。
そこには――、
「――なん、だよ……これ?」
そこには――何もなかった。
いや、正しくは誰もいなかった。そして、“それ”は――あった。
――裂け目。
暗い、暗い、どこまで落ちていってしまいそうになるような闇を覗かせる、奇妙な裂け目が空間に生じていた。まるで乱暴に画用紙の真ん中を引き裂いたような穴が、何もない空間に開いていた。
口を開けて呆然とするシンゴだったが、すぐさまはっとなり、慌てて辺りを見渡す。
同時に思い返す。自分は先ほど、心の中で何と言ったのかを。
つまり――、
「誰も……いない」
シンゴが突き飛ばしたイチゴも、そのイチゴを殺さんと襲い掛かってきた沢谷優子も、どこにもいない。
あるのはただ、この奇妙な裂け目のみ――。
「はは……なんだよ、これ……」
およそ自分の口から出たことが信じられないほどの、掠れた声だった。
理解不能。意味不明。意図不明。
だが、目の前にあるこれが――現実だ。
「なんなんだよ……なんなんだよこれはぁッ!?」
立て続けに起こった現実は、シンゴの許容できる範疇を超えていた。
叫ばなければ、平静を保っていられなかった。
だが、そんなシンゴの強がりを、水のように澄んだ声がたしなめた。
「落ち着くんだ。叫んで錯乱しても、この現実は変わらないよ」
「あ!?」
ぎろりと睨み付ける先には、素性不明の白黒の少女。
シンゴは柳眉を吊り上げ、これがただの八つ当たりだと理解していながらも、そうせずにはいられなかった。
シンゴはずかずかと少女に歩み寄ると、その慎ましい胸を覆う黒い服を掴み上げる。
「お前、誰だよ……イチゴはどこだよッ!?」
シンゴの怒声に、少女は一瞬だけ怯えたような表情を見せるが、それもすぐに真剣な表情に上書きされる。
「だから、落ち着くんだ。彼女……名前はイチゴだね。イチゴは君が突き飛ばした際に、あの裂け目に飲み込まれた」
「なん……だと?」
少女の服を掴むシンゴの手から力が抜ける。
戦慄し、見開いた目を裂け目へと向けるシンゴ。
そんなシンゴに、少女は乱れた服を直しながら告げた。
「ごめん」
「――は?」
突然の謝罪。
シンゴは口を開けて少女へと振り返る。
そこには、申し訳なさそうに顔を伏せる少女の姿が。
――何故か、この少女のそんな顔を見ていると、無性に心がざわついた。
そのことが、余計に腹立たしくて。そのことが、混乱する心をより一層、複雑にかき混ぜて。
「…………ッ」
それ以上は、少女のことを直視できなかった。
唇を噛んで顔を背けるシンゴに対し、少女は謝罪の続きを述べる。
「ボクがもう少し早くここに来ていれば、君の妹を救えた。だから、これはボクのせいだ。――ごめんね」
「…………」
違う。それは違う。
この少女は悪くない。何も悪くない。
何もせずに傍観していたうえで遅れたとういなら、その謝罪で通る。しかしこの少女は、おそらく偶然通りかかっただけだ。
それなのに、自分は一体この少女に何を求めているというのだ。
責任を全て丸投げし、そのうえで少女を責めている。
これでは、自分はただの馬鹿だ。なんともおこがましい。吐き気がする。
でも、それ以上に今は、ただただ落ち着きたかった。
だから――、
「……シンゴ」
「え?」
少女からぽけっとした顔を向けられる。
こんな表情もするんだな、と感じながら続ける。
「キサラギ……シンゴ。俺の名前だよ。――あんたは?」
「ボクは……アリス。アリス・リーベ」
困惑しながらも、少女――アリスは、シンゴの自己紹介に続き自分の名を告げる。
そんなアリスの困惑した顔を見て、シンゴは脱力するように吐息すると、苦笑した。
「怒鳴って悪かった、アリス。助けてくれてサンキュな。……で、よければだけどさ、何が起こったのか教えてくれねえか? 正直、頭ん中ぐちゃぐちゃでさ……」
困ったように微笑むシンゴの言葉にアリスはしばらくポカンとしていたが、やがてクスリと笑うと、
「うん。分かったよ、シンゴ。何があったか、説明する」
「――――」
笑ったアリスの顔は、とても魅力的な女の子の笑顔だった。
――――――――――――――――――――
「なるほど……」
アリスから先ほどの状況を説明してもらい、納得の声を漏らす。
アリス曰く、ここに来たタイミングはシンゴがイチゴを突き飛ばした瞬間だったらしく、そこから急いで助けに入り、先に繋がると言う。
「――で、あのクソ女も一緒にこの裂け目の中、と……」
「うん……ギリギリだったから、蹴り飛ばす方向までは調整できなくて……」
どうやら沢谷優子も、アリスに蹴り飛ばされてこの裂け目の中に落ちたらしい。
正直、ざまあみろという感情しか湧いてこない。だが、イチゴも同じように裂け目に落ちているということもあり、シンゴの胸中は複雑だ。
いや、今はあの女のことはどうでもいい。
そもそも――、
「この裂け目……いったい何なんだ?」
そう、まずはそこからだ。
この怪現象――非現実的な事象。一体これはなんなのだろうか。
シンゴは疑問を宿した視線をアリスへと向ける。しかし、アリスは首を横に振ると、
「詳しくはボクも分からない。……でも、“これ”が現れたのは――シンゴ。君がイチゴを突き飛ばした瞬間だった」
「……なんで、よりによってそのタイミングなんだよ……」
最悪のタイミング。言い知れぬ理不尽さに、シンゴは奥歯を噛み締める。
この奇妙な裂け目について分かったのは、よく分からないということだけだ。
ごちゃごちゃした感情をため息と共に吐き出そうとするが、成功しなかった。
それは何故か。決まっている。イチゴはもう死んだ。あの女と共に――。
悲しいという感情は何故か湧いてこなかった。というより、状況が状況なだけに、感情が完全に麻痺してしまっている気がする。
もし、目の前にイチゴの死体が転がっていれば、涙は出るだろうか――。
「――――ッ」
――いったい、自分は何を考えているのだろうか。
シンゴは自嘲するように笑うと、淀んだ目で空を見上げる。
空には冬の星が瞬いているが、綺麗だとは思わない。どころか、その光さえ、今は鬱陶しく思える。
「――この裂け目は、こことは違う世界に繋がっているんだ」
「――――は?」
突如アリスが発した言葉の内容に、シンゴは呆けた返事を返してしまった。
しかし、そんなシンゴを見詰めるアリスの表情は真剣そのもので――。
「それって……所謂、異世界ってやつか?」
「うん」
「…………」
即答された。
困惑して眉を寄せるシンゴは、混乱が抜けきらないままの状態で、当然の疑問を口にした。
「なんで……そんなこと知ってんだよ?」
先ほどは何も知らないと言っていたではないか。
それなのに、何故そんなことが分かる。何故、そんなにも確信し切った顔ができる。
それを裏付ける根拠は――なんだ。
しかしアリスから返ってきたのは、シンゴの予想を裏切るものだった。
「勘だよ」
「……もう一回」
「勘」
「…………」
この子、ちょっとアホの子なんじゃないだろうか。
そんな憶測が頭をよぎるが、しかし次にシンゴが取った行動はというと――、
「は、ははは……あははははははははははッ!!」
笑う、だった。
腹を抱えて笑うシンゴに、アリスはむっとすると、
「そんなに笑わなくてもいいじゃないか……」
いや、違う。そうじゃない。
シンゴは目尻に浮かぶ涙を拭うと、立ち上がった。
そんなシンゴを不審げに見上げるアリス。そんな彼女に、シンゴはニヤリと笑いかけると、
「俺、ちょっと異世界に行ってくるわ」
「――――え?」
今度はアリスが驚く番だった。
しかしアリスが驚くのを余所に、シンゴはぐっと伸びをしながら理由を述べる。
「なんか、一周回って吹っ切れたっていうか……どうせ死ぬ運命だったんだし、それにこの裂け目は別の世界――異世界に繋がってんだろ? だったら、イチゴはまだ生きてるかもしれねえってことだ。……だったら、兄である俺が取る行動なんて、もう決まったも同然だろ?」
「…………」
難しい顔で黙り込むアリスに、シンゴは苦笑を一つ零し、裂け目に向き直る。
どこまでも落ちていけそうなほど、深い闇が裂け目から覗いている。
――正直なところ、この先が異世界とやらに繋がっているなどという話は、信じていない。
当然だろう。根拠が勘だなんて、信じろって方が無理な話だ。
これが長年一緒にいて、全幅の信頼を置く奴の言葉だったらまだしも、この少女とはついさっき会ったばかりだ。
信頼がどうのこうの以前の問題である。
でも、でも――だ。
イチゴが生きているかもしれない。その可能性は、絶望の淵にあったシンゴの心を明るく照らした。
それにイチゴが無事なら、沢谷優子も無事だということになる。つまりそれは、あまり時間がないということでもある。
さあ、このとんでも展開の果てに、これだけの情報が出揃った。
全て憶測の域を出ず、その根源となった少女の言は、勘という冗談みたいなオカルトよりの根拠のみ。
だが、ただ一点。イチゴが生きているかもしれない。その一点のみで――、
「十分だ!」
ぐちゃぐちゃに丸められた紙のようだった心が、イチゴの生存の可能性を得て、皺が取れて真っ直ぐ伸ばされていく。
しかし、次に起きた出来事に、シンゴの心は再び波を立てる。
「――ボクも行く」
「…………はい!?」
隣から聞こえた声に、シンゴは数秒の間を置いて驚愕する。
のけ反るシンゴに、さらっと同行すると告げてきたアリスは苦笑すると、
「もともと、ボクはこの裂け目の向こうの世界に用があったんだ。だから、止めても無駄だよ。というか、君が行かなくてもボクは行く」
「おいおい……」
信じられないと言った様子で首を振ってから気付く。彼女から見れば、シンゴも同じように映っていてもおかしくないのだ。
シンゴはそれに気付くと、深くため息を吐き、改めて裂け目を見据える。
口にはしなかったが、シンゴにもこの裂け目に飛び込むだけの根拠があった。
しかしその根拠は、アリスの勘という根拠と同じくらいに不確か――というよりほぼ同じで、勘である。
何故だか分からないが、おそらくこの裂け目に飛び込んでも、決して死ぬようなことにはならないだろうという不思議な確信があった。
完全に頭がイカれたのか、それともシンゴの隠された第六感的なものが覚醒したのか。
どちらにせよ今足を踏み出さなければ、二度と機会はないだろう。それはこの裂け目がいつまで開いているのかという時間的な問題もあれば、シンゴの心の問題もある。
シンゴのこの決断は、流れに身を任している部分が大きい。
非現実的なことが起こりすぎて感覚が麻痺している今だからこそ、キサラギ・シンゴは無謀な賭けに打って出ることができる。
「――――」
裂け目の奥を見据える。
怖い。この未知が、この闇の奥が、心底怖かった。
恐怖を認識し、震え出す体。
どうやら、シンゴの麻痺していた感覚に血が通い始めたようだ。
怖い、怖い、怖い、怖――
「――え?」
不意に手の平に温もりを感じ、隣を見る。
そこには、優しく微笑んだアリスがいて――。
彼女の手は、優しい温かさでシンゴの手を握ってくれていて――。
「…………」
彼女から伝わってくる体温で、安心して。
己から伝わっているであろう体温を意識して、男の意地で覚悟を決めて。
――ふと、この裂け目に飛び込む前に、アリスに聞いておきたいことが頭の中に浮かんだ。
「アリスって……吸血鬼なのか?」
「……分からない」
「え?」
「でも……たぶんそうだと思う」
「――――?」
曖昧な返答に、シンゴは首を傾げるが、頭を振ると意識を切り替える。
今は時間が惜しい。まずは行動が先だ。
もう、体の震えは止まっている。
シンゴはちらりと隣のアリスを窺い見た。その横顔はどこまでも凛々しく、その深紅に輝く瞳は裂け目の奥に広がる闇を前にしても、決して揺らいではいない。
そんな不思議な少女――白黒の吸血鬼、アリス・リーベの立ち姿に勇気を貰い、シンゴは改めて視線を正面へと戻すと、そこにある闇を見詰めた。
「――異世界、か。前田から借りた小説だと、異世界は召喚されて行くもんだったんだな……。けど、この場合だと」
そう、こちらから出向くのであれば、これは――、
「……ふぅ」
息を吐くと、シンゴは緊張に固まる頬を無理やり吊り上げて笑みを作り、殊更明るく、不安を吹き散らすようにおどけて言った。
「そんじゃま、異世界に訪問と行きますか!」
「うん」
二人は同時に足を踏み出し、裂け目の中に飛び込んだ。
裂け目の闇に溶け込むようにして、二人の姿が完全に消えた。
神社には静寂のみが残り、空には満天の星空が広がっている。
この時は誰も、この星空でさえも、この先で待ち受けている運命がどれほど過酷で、残酷で、絶望的なものになるのかなど、知る由もなかった――。
はじめまして、竜馬と言います。
拙作、『虚飾のアリス』を読んでいただいて、本当にありがとうございます。
更新は不定期ですが、気長に続けて行こうと思っておりますので、物語の続きが気になった方は、是非このまま続きを読んでいただければ幸いです。
割と長くなる予定ですが、決してエタらせる気はないので、その点はご安心くださいませ。
それでは、この辺りで失礼いたします。