第4章:86 『後始末④』
「……ダメだな。これも読めねえ」
徒労感の滲む嘆息をこぼし、シンゴは閉じた本を元の場所に返却する。
隣の本に手を伸ばすのも面倒で、シンゴは頭を掻きながら後ろに振り返った。
目の前に広がるのは、暴力的な量の本の山だ。これを全て読破しようと思えば、果たしてどれだけの時間を要するのだろうか。考えただけでも気が滅入る。
「やっぱ、アリス……は無理でも、イチゴは連れてくるべきだったか」
そうぼやくシンゴは、現在あの書庫を再び訪れていた。
特に目的らしい目的があった訳ではない。ここの書物の著者の名が話題に出て、ふと気になって再び足を運んでみただけの事だ。
――ツウ・レッジ・ノウ。
この書庫内にある本は全て、彼女が記した物である。
本はシンゴの元いた世界の様々な言語で書かれているのだが、残念ながらシンゴは日本語と簡単な英語しか分からない。それ以外は完全にお手上げだ。
「ふぅ……」
高所の本を取る為の低い脚立にどっかりと腰を下ろし、シンゴは肺から空気を絞り出すと、そのまま本の山をぼんやりと眺めた。
そうしていると、脳裏に蘇ってくるのはリノアとのやり取りである。
「パーツはそれぞれ『四神』が管理していて、全部で四つ。全部揃えて悪用すると、『DCL16』が復活するかもしれない、ね」
それが、『権威の錫杖』と『世界滅亡』の関係性、その大まかな概要だ。
千八百年前、『権威の錫杖』を携えた『金色の巫女』――ツウ・レッジ・ノウの活躍により、『DCL16』は封印された。
そして八百年前、一人の吸血鬼が自らを器に『DCL16』を復活させた。
この時に『権威の錫杖』が悪用されたらしく、以降は二度と悪用されないよう『権威の錫杖』を四つに分割し、『四神』がそれぞれ管理する事になったらしい。
――ちなみに、この情報は全てガルベルトからの又聞きだとの事だ。
というのも、千八百年前のリノアは呪いを受ける前の普通の女の子で、非戦闘員の彼女は前線からも血生臭い戦の情報からも遠ざけられていたらしい。
八百年前も、『DCL16』関連の事件が起きる少し前に眠りについてしまっていたようで、事件に関わる事は出来なかったとリノアは言っていた。
だからか、リノアの説明は些か具体性に欠けていた。
おそらく、ガルベルトが意図的に情報を制限したのだろう。リノアに余計な重荷を背負わせない為に、自分一人で全て背負い込んでいたに違いない。
そして真相を知る機会は、彼の記憶と共に失われてしまった。リノアを除けばガルベルトが最古参で、一番多くの情報を持っていたのだから仕方がない。
とはいえ、『権威の錫杖』が『DCL16』の封印と復活に大きく関わっている事は理解した。したが、具体的なその能力等は不明のままだ。
話を聞いている限りだと、使い方によって毒にも薬にもなる、そんな印象だが。
「……権威、か」
口の前で指を組み、ぽつりと呟いたシンゴは静かに目を細めた。
『罪人』の使う異能は何故か『権威』と呼ばれている。だが、その呼称が当てはまりそうなのはイナンナ・シタミトゥムの『高慢・傲慢』くらいだ。
一体、どういう意図で『権威』などと呼ばれているだろうか。
気になると言えば、『権威の錫杖』とも符合している事だ。
そして、その『権威の錫杖』は『DCL16』と深い繋がりがある。という事は、『罪人』もまた『DCL16』と何か関係があるのだろうか。
だとしたら、やはり『罪人』であるシンゴも無関係ではいられない気がする。
「何はともあれ、絶対に関わっちゃマズいって事は身に沁みた。やっぱり巻き込まれる可能性は十分にあるって分かっただけでも収穫だな。さすがに根拠が俺の勘だけだと、いずれ警戒の必要性に疑問を抱いて疎かになってただろうし……」
少なくともこれで、曖昧な根拠ではなく、確固たる確信を以て警戒に当たれる。
心構えに芯が通れば、見落としを減らす事にも期待できるはずだ。
「あとは……」
リノアから聞いたのは、『権威の錫杖』に関する話だけではない。
まず、アリア・ブラッドグレイについて。『憂鬱』と名乗る少女とほぼ同一の外見を持ち、長らくその存在を忘れ去られていた少女だ。
「『憂鬱』……デプレシンって言うんだったな」
どうやらアリスも過去に『憂鬱』と接触していたらしく、その時に自分の事をデプレシンと名乗ったらしい。
「まあ、名前なんてどっちでもいい」
問題は、その『憂鬱』とアリアの関係性だ。
リノアの話によると、口調や雰囲気は別人との事だった。しかし、その姿形の一致具合は他人の空似で片付けられるレベルではない。
シンゴ自身、例の回想でアリア本人と思しき少女を見ているから尚更だ。
「しかも、過去に失踪してるっぽいし……」
失踪の事実発覚が遅れたのは、単に『強欲』の権威の影響だろう。
ひとまず、失踪時期を確認しようと、シンゴはリノアに当時の状況について質問したのだが、ここで新たな問題が発覚した。
「自分がどうやって眠ったのか、思い出せない、ね……」
思わぬ不意打ちに、シンゴは弱り顔で額に手を当てる。
過去の記憶に思いを馳せたリノアは、少なくとも自分が起きている間にアリアの失踪はなかったと証言してくれた。
――が、肝心の眠りについた時期について掘り下げようとした時、その部分の記憶がすっぽりと抜け落ちている事が発覚したのである。
リノアが眠りについたのは、悠久の時を生きる吸血鬼に頻発する、精神の摩耗による生きる気力の喪失――その前兆が確認されたからだと聞いた。
しかし、今のリノアを見る限りでは、そのような症状は全く見られない。
「――――」
シンゴは無言で『激情』を発動し、その権威を思考能力の強化に回す。
今は精神的に落ち着いている事もあり、『激情』の効力は大して強くない。だが、それでもシンゴの頭脳は別人のように冴え渡り、一つの結論を導き出した。
「たぶん、精神崩壊を防ぐ為に、誰かがリノアの記憶を消したんだ」
そして、その『誰か』にも、おおよそだが見当がついた。
「俺の前任者……『封印』の力だな」
現状、シンゴの持つ情報から導き出される中ではその説が最も有力だ。
とはいえ、あの力は時間制限付きで恒久的な作用はない。いや、もしかすると、シンゴが『真憑依』で使用する『封印』は劣化版なのかもしれない。
肉体的な動きが重要な『技』とは違い、『封印』はおそらく特殊魔法だ。つまりは個性、元々の持ち主ではないシンゴは上手く扱えていない可能性がある。
「一応、確かめる方法はあるけど……」
その方法とは、リノアに施されているかもしれない『封印』を、シンゴが『真憑依』状態で解除してみるというものだ。
だが、この方法には多大なリスクを伴う。仮に成功すれば、リノアの精神が危うくなる可能性があり、劣化したシンゴの力では同じ『封印』は施せない。
「まあ、無理して確かめる事でもねえな」
デメリットばかり目立つ方法である。試すなど論外だろう。
肝心のアリアの失踪時期については、リノアの記憶が不確かなので迷宮入りだ。
「アリアに関して判明したのは、家族構成と、その存在が隠蔽されてた事実、あとは『憂鬱』との類似点と相違点の三つだけか……」
これだけの情報では、真相の解明には遠く至らない。
しかし、シンゴが無理して解き明かす必要はない。
リノアたち吸血鬼は、今後アリアと『憂鬱』を追うと言っている。ならば、この案件は彼らに任せるのが正解だろう。
「最後は、あの女か……」
リノアへの最後の質問、それはトゥレス・デトレサスについてである。
だが、こちらはアリアよりも芳しくなかった。
「分かったのは、リノアが眠る以前にトゥレスと面識はなかったって事だけ、か」
正直、シンゴが一番知りたかったのは彼女の事だった。
が、知らないと言われてしまえば、もはやどうしようもない。
「ガルベルトさんの記憶が無事ならな……」
おそらく、大半の疑問に答えが出る事だろう。
ないものねだりになるが、彼の記憶喪失が本気で悔やまれる。
「結局、今回で手に入ったパズルのピースはどれも断片的だな。全体像が全く見えてこねえよ。……それとも、全体像の方がでか過ぎんのか?」
両手を尻の後ろにつき、シンゴは天井を仰ぎながらため息をこぼす。
そうしてしばらく天井を眺めていたシンゴだったが、やがて勢いよく上体を振って立ち上がると、その場でぐっと背伸びをして、
「ま、わざわざ俺が真相を解き明かす必要もねえか! とりあえず、『権威の錫杖』関係で最大級の警戒が必要って事だけ分かりゃ十分だ!」
いい加減、脳細胞が焼け付いてきた気もするので、シンゴは潔く思考を放棄。
日本語で書かれた本が奇跡的に見つかる可能性に賭けて、このまま徹夜で書庫にこもる事も考えたが、考えただけで面倒になったので、部屋に戻る事にした。
既に夕食も終わり、あとは明日の出発に備えて就寝するだけだ。こちらの世界に来てから体力は付いたが、それでも日中の肉体労働は堪えた。すぐに寝たい。
家を失った者達の為に、ブラン城の空き部屋が提供されており、既に就寝している者もいるので、シンゴはなるべく物音を立てないように書庫を出ようと――、
「――あ?」
退出の為に扉を開きかけたところで、不意に背後で物音が聞こえて振り返る。
だが、物音の発生源らしき物は見当たらない。シンゴ以外は誰も書庫に来ていないはずなので、何者かが立てた物音とも思えない。
「――――」
今までは気にならなかった静寂が、今はやけに不気味に感じられる。
耳に届くのは、己の心臓が奏でる律動と、浅い呼吸音のみ。他の音は何も聞こえない。つまり、シンゴ以外は、誰も、何も、いない。その、はずだ。
「――――」
念の為に『激情』で悪意を探ってみるが、何も感じ取る事は出来ない。
そのまま警戒して硬直している訳にもいかず、シンゴは意を決すると、その物音が聞こえた方向へとゆっくり歩き始めた。
「――――」
息を殺し、足音も最小限に、シンゴは左目を紫紺に染めたまま歩みを進める。
やがて書庫の最奥に差し掛かり、首を左に、右に振ったところで――、
「なんだ、本が落ちただけかよ……」
床に転がる本を一冊見つけ、シンゴは深く息を吐いて脱力した。
同時に数秒前までの自分が恥ずかしくなってきて、シンゴは「あーっ!」と乱暴に頭を掻き回すと、苛立たしげな歩調でその本へと接近。
雑な手つきで拾い上げ、元の場所に返そうと本棚を見るが、
「あれ? 全部、ちゃんと収まってる……」
両隣の本棚を見てみるも、どこも空いたスペースなど存在しない。
上階の本棚から落ちてきたのかと頭上を仰ぐが、落下防止の柵が存在するので下の階まで落ちてくる事はまず有り得なかった。
「一体、どこから……」
不審に思いながら、シンゴは手の中の本に視線を落とす。
黒い表紙には、金色の文字が六つ刻まれていて――。
「――ッ!?」
その文字列を見た瞬間、シンゴは驚愕のあまり本を落としそうになった。
そこには、漢字五文字と、ひらがな一文字で、こう記されていた。
――『木更木・心護へ』、と。
「なんで、俺の名前が……?」
あまりの衝撃に、シンゴは限界まで目を押し開いて戦慄する。
そして、まるで吸い寄せられるように、震える手で本を開いた。
「……白紙?」
――次の瞬間、『それ』はきた。
「っ……これ、は……ッ!?」
本を床に落とし、シンゴは頭を両手で押さえてふらつく。
頭の中に何かが流れ込んでくる。その異物感に目を閉じると、瞼の裏側に奇妙な映像が再生され始めた。それはまるで、あの時の回想のような――。
『――アナタとは、初めましてになるわね。キサラギ・シンゴ』
「誰、だ……っ?」
頭の中に、聞き覚えのない『声』が響く。
同時に、目の前に一人の女性の姿が浮かび上がってきた。
茶色の髪は長く、こちらを見つめる瞳は青い。
その姿を見た瞬間、シンゴは一人の少女を連想した。
「イレナ……?」
震える声で呟くシンゴだったが、まるでその呟きを予期したように――、
『――アタシはツウ。ツウ・レッジ・ノウよ』
「……ぇ?」
その衝撃的な告白に、シンゴは目を丸く見開いて絶句する。
しかし、次の言葉は別の意味でシンゴに衝撃を与えた。
『ちょっと時間の壁を越えて、アナタに一つ、恋のアドバイスをプレゼントよ!』
「……は?」
人差し指と親指で『ちょっと』を表して、ツウ・レッジ・ノウを名乗る少女は少し前屈みになりつつ、お茶目な仕草でウィンクを送ってきたのだった。