第4章:82 『記憶にない記憶』
シンゴは素早く炎翼を広げると、その炎でカズの全身を包み込んだ。
再生の炎で焼かれ、カズの両腕が元通りに再生される。
だが、復活した腕の調子を確認している暇はない。捏迷歪が左肩の黒炎翼を鋭く振り抜き、無数の黒い羽根をこちらに飛ばしてきたからだ。
「『全員、俺の近くに――ッ!!』」
返事を待たず、シンゴは右肩の炎翼を地面に突き刺した。次の瞬間、雪を突き破って噴出した紅蓮の炎が前方に巨大な壁を形成する。
そそり立った炎の壁が黒い羽根を全て弾き、一つたりとて後方には通さない。
――異変が起きたのは、その直後だった。
「『なん、だ……っ?』」
全身から力が抜け落ち、シンゴはその場に片膝を着く。そんなシンゴを、即座に反応したカズが漆黒の長剣で斬り付けてきた。
突然の暴挙に目を剥くシンゴだったが、痛みもなければ傷一つ負っていない自分に気付く。それどころか、全身に力が戻っていた。
「気を付けろシンゴ! あの黒炎に触れたヤツを自分よりも弱体化させる……それがあの野郎の持つ『堕落』の権威だ!」
叫ぶようにして、カズが早口に敵の能力について伝えてくる。しかしシンゴは、それに反応を返す事が出来なかった。
前方、炎の壁を突き破り、グガランナが猛然と突っ込んできたからだ。
「『――ッ!』」
咄嗟に対応すべく前に出ようとしたシンゴだったが、それよりも早く、不自然に硬直したグガランナが足を滑らせて盛大に転倒――大量の雪煙を巻き上げる。
迫り来る雪煙の波に呑み込まれる寸前、シンゴは上空で停滞しながら無音の『歌』を紡ぐリノアの姿を見た。
――彼女が、グガランナを封じてくれたのだ。
「『グガランナは任せた! カズッ!』」
「ああ、行くぞッ!」
グガランナの対処を後ろの吸血鬼達に任せて走り出す。
シンゴとカズが白い世界から同時に飛び出した。それを見て、捏迷歪とイナンナも同時にこちらへ駆け出す姿が見えた。
次の瞬間、固く握り締められた二色の炎拳が正面から激突――一瞬の拮抗も許す事無く、紅蓮の拳が黒炎の拳を粉砕した。
一方、隣では、振り下ろされた漆黒の長剣と真下から跳ね上がった金の扇子が衝突――女の細腕からは想像もつかない膂力で漆黒の長剣が弾かれた。
「ぐっ……!」
衝撃で両腕が上がり、顔を顰めたカズの胴体ががら空きになる。
咄嗟にカズは弾かれた衝撃を利用して後ろへ飛ぼうとするが、それを見越したイナンナの踏み込みが離脱を許してはくれない。
「――死ね」
酷薄な笑みと共にイナンナが片手を突き出す。その手に握られているのは、ガルベルトが持っていたはずの短剣だ。
数本落ちているのを見たが、その内の一本をこっそり拾っていたらしい。
「……ッ」
鋭い切っ先がカズの喉仏へと正確に迫り――突如、その刃先が横に逸れる。
突き出されたイナンナの腕を、真横から伸びた何者かの手が押していた。
その結果、本来の軌道から外れた短剣は、カズの喉仏を貫通する事無く、ただ首筋を僅かに掠めただけだった。
「お前……!」
「ぼさっとしない!」
目を見開くカズに、鋭い叱責を飛ばすのは――動きを封じられたグガランナを他の吸血鬼に任せ、一人こちらに付いて来ていたラミアだった。
「ふッ――」
鋭い呼気と共に銀髪が踊るように跳ね、鋭い足刀がイナンナに向けて放たれる。
それを交差した両腕で受け、自ら後方に飛んだイナンナが威力を受け流した。そして、後退が終わると同時に、その金眼がラミアを捉える。
唇が開き、最凶の権威を解き放たんと――、
「ッらぁ――!!」
「――ッ!?」
言葉が紡がれる寸前、カズが漆黒の長剣をぶん投げた。
武器を手放すというその行動には虚を突かれたらしく、鋭く息を詰めて目を見開いたイナンナが雪の上を転がって全力で回避する。
「――っ!」
長いスカートを翻し、イナンナは素早く片膝立ちとなり顔を上げ――そのすぐ目の前に、距離を詰めていたラミアの飛び膝蹴りが迫っていた。
瞬間、持ち上がった短剣の柄がギリギリでラミアの膝を受ける。そのままイナンナは踏ん張るのではなく、わざと雪の上を滑って攻撃を受け流した。
「なっ!?」
その常人離れした反応速度にラミアが目を見開く。
そんなラミアを、攻撃を凌いだイナンナの金眼が鋭く射抜き――、
「『跡形もなく消滅しろ』。メー」
最悪の事象改変が、ラミアに襲いかかる。
いくら吸血鬼といえども、跡形もなく消滅してしまえば再生は望めない。
――だが、ラミアの存在が消し飛ぶ事は無かった。
ラミアの薄い胸から、黒い刀身が突き出している。
事象改変の言葉が紡ぎ終わるのと同時に、いつの間にか投擲した漆黒の長剣を手にしたカズが、後ろからラミアを貫いたのだ。
「――ふん」
権威の不発を受け、不満そうに鼻を鳴らしたイナンナが更に後退する。
最初こそカズに対して接近戦を挑んでいたが、ラミアの参戦に対し、戦い方を権威主体のものへと切り替えるつもりなのだ。
それを見たカズが、ラミアから素早く漆黒の長剣を引き抜く。
奇妙な事に、ラミアの胸に穴は空いておらず、全くの無傷な状態だった。
「貴方がメイン! 合わせるわ!」
「ああ、頼む!」
敵の戦法を見抜いたラミアがカズの後ろに下がる。
そのまま二人は重なるように一列に並び、距離を詰めるべく駆け出した。
一方、シンゴの方だが――。
「あはは! まだまだいくぜぇ、相棒――ッ!!」
「『お前に名乗らせるほど、俺の相棒の座は安くねえんだよ――ッ!!』」
叫び返し、シンゴは放たれる黒炎の拳に紅蓮の拳をぶつけ返す。
だが、最初の衝突とは違い、二色の炎拳は両者の間で拮抗――いや、僅かだがシンゴの方が押されている。
捏迷歪の所有する権威――シンゴの『怠惰』と対を成す『堕落』の影響だ。
あれは、最初にシンゴと捏迷歪が炎拳をぶつけ合った時だ。接敵する寸前に、捏迷歪がちらりとカズの方を見たのだ。
『真憑依』状態だったシンゴは、悪意を先読み出来ず反応が遅れた。
遠距離攻撃を持たず、視線が外れている状態では紫紺の瞳も使えない。だから、伸縮自在の炎翼で攻撃し、捏迷歪の注意をこちらに向けさせる必要があった。
――その結果、注意されていたのに、『堕落』をこの身に受けてしまった。
「『く、そっ……!』」
「ほらほら! どうしたのさ、相棒! 進化したんだろ!? 強くなったんだろ!? それとも、ただ見た目が派手になっただけの見かけ倒しかよ――!!」
「『っる、せぇ……ッ!』」
シンゴは劣っている力の差を『受柔』で埋めて必死に対抗する。
二色の拳が両者の間で衝突を繰り返す。何度も、何度も、何度も衝突を繰り返し、その度に赤と黒の火の粉が火花のように飛び散った。
目の前の乱打戦に集中している為、シンゴに他の『技』を使う余裕はない。
厄介な特殊魔法を使ってこない事から、向こうも余裕がないのか。
――どちらにせよ、このままでは千日手だ。
「『ふざ、けんな……!』」
「お?」
「『こんな、ところで……ッ』」
俯いたシンゴの髪から、赤が抜け落ちていく。鋭い犬歯が縮み、左目の真紅の輝きが喪失――入れ替わるように、紫紺へと染まった。
――愛してる。
耳に蘇るのは、母の短い一言だ。そのたった一言が、シンゴの心を熱くする。
燃える。心が熱く、燃え上がる。火柱は高く、高く、どこまでも――。
「負けてられねえんだよぉぉぉ――――ッッ!!!!」
力の限りに絶叫したシンゴ――その弱体化した力に『激情』の力が加算される。
炎拳がかち合い、紅蓮の拳が押し勝った。加算された『激情』ごと、シンゴの力が弱体化する。直後に『激情』が強く脈打ち、力が加算――二撃目、押し勝つ。
――加速度的に増大する『激情』が、『堕落』の権威を上回っていく。
「ぉ、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
三撃目、押し勝つ。四撃目、押し勝つ。五撃目、六撃目、七撃目、八、九、十、十一、十二、十三、十四、十五――全て、押し勝つ!
「――ッ」
炎拳がかち合い、競り勝つ度にシンゴは足を前に進めて距離を詰めていく。
前進を始めたシンゴを見て、捏迷歪の余裕の笑みが崩れる。その左肩からうねるように噴出した黒炎が、更なる拳を形成し始めた。
その数は十を超え、二十、三十――いや、まだ増え続ける。
「――ッ!!」
その光景に、シンゴはその真紅と紫紺の双眸を鋭く細める。
右肩で紅蓮の炎が勢いよく噴出し、激しくうねる炎が無数の拳を形成していく。
――次の瞬間、百に迫ろうかという黒炎の拳と紅蓮の拳が一斉に衝突した。
拳が衝突する度に、『堕落』が堕とし、『激情』が這い上がる。
紅蓮の炎と黒い炎が交互に粉砕され、膨大な量の二色の炎がまき散らされた。
「まだ、だ……ッ」
奥歯を軋らせ、シンゴは黒炎の拳で形成された分厚い壁を睨み付ける。
胸を掻き毟るように掴み、両目を押し開いて叫んだ。
「まだ上がる――ッ!!」
――私も、貴方が好き。世界で一番、貴方の事を、愛してます。
「――っ!?」
不意に、聞き覚えのある『声』が頭の中に響いた。
知らないのに、何故か知っている情景が、脳裏にちらつく。
――一人の、女性がいた。
美しい白髪を風に揺らし、自分の胸にそっと手を当てながら、その女性は血のように紅い瞳を潤ませて――はらりと、一筋の涙を頬に伝わせた。
でも、それは悲しみの涙ではない。嗚咽を堪えるように、その女性は一度ぐっと唇を引き結ぶと――心の底から、幸せそうに微笑んだ。
その女性は、まるで『彼女』がそのまま成長したかのような――。
「ぅ、く――っ」
狂おしいほどの愛おしさと、胸が引き裂かれるような切なさが込み上げてくる。
噛み締めた歯の隙間から嗚咽が漏れ、溢れた熱い涙が頬を伝った。
――心が強く打ち震え、『激情』が大きく脈打った。
「くっ……ぉ、ァああああああああああああああああああああああああッ!!」
胸の内に渦巻く感情をぶちまけるように、喉が裂けんばかりに絶叫した。
勢いを上げた紅蓮の拳が黒炎の拳を次々と駆逐していく。そしてとうとう黒い炎の壁が砕け散り、唖然と目を見開いた捏迷歪の顔が垣間見えた。
「――ッ!」
その瞬間、紫紺に輝く左目が黒瞳を射抜いた。
びくりと肩を跳ねさせ、捏迷歪が硬直する。その顔面を、足に『激情』を集約させて一気に駆け抜けたシンゴの手が鷲掴みにし、勢いよく地面に叩きつけた。
「はがッ……!?」
「はァ……ふ、はぁ……ッ」
捏迷歪の頭部を雪に押し付けたまま、荒い息を吐くシンゴはその意識を『封印』すべく『真憑依』に切り替えようと――、
「っ――!?」
ゾッと、背筋が凍るような悪意を察知して、シンゴは咄嗟に真上へ飛んだ。
一拍遅れて、仰向けに横たわった捏迷歪の真下から『影』が噴出する。そのまま『影』は意思を持ったかのように蠢き、空中のシンゴを追ってきた。
「くそッ……!」
咄嗟に炎翼を使って逃れようとするが、すぐに間に合わないと悟る。
視界いっぱいに広がった『影』が、シンゴを呑み込まんと迫り――、
「――少し、遅れた?」
「リノア……!」
『影』に呑み込まれる寸前、間一髪でリノアがシンゴを空中で掻っ攫った。
どうやらグガランナを倒したらしく、援軍に駆け付けてくれたらしい。
「……シンゴ、泣いてる?」
「……いや、気にするな。それより……」
頬を伝う涙を指摘され、シンゴは目元を袖で拭うと、眼下に視線を向けた。
上体を起こした捏迷歪、そのすぐ近くで蠢く『影』の中から一人の少女がゆっくりと浮かび上がってきた。
「やれやれ、様子を見に来て正解だった。……わざわざ『堕落』で『激情』に真っ向勝負を挑むとは、私には理解しかねるな」
「はは、それが僕さ」
皮肉に笑って応じる捏迷歪を見て、少女は肩にかかるほどの長さの白髪を揺らして呆れた様に首を振ると、その紅い瞳を上空のシンゴに向けてきた。
その顔は、アリスと瓜二つ。過去にシンゴは、彼女と何度か面識があった。
名前は、たしか――、
「『憂鬱』……!」
「やあ、久しぶりだね、シンゴ君。順調に育っているみたいで私は嬉しいよ。――でも、まだ足りない。『怠惰』の方も斜め上の育ち方をしているみたいだし、『憤怒』に至れないのはそれが原因かな?」
薄く微笑みながら、『憂鬱』がその目をスッと細めてシンゴを見てくる。
次の瞬間、シンゴは悪意の変化を感知――ハッと息を詰め、全力で叫んだ。
「カズ! ラミア! 逃げろぉ――ッ!!」
「「――!?」」
シンゴが叫ぶのと、二人の足元から『影』が噴出したのは同時だった。
足を絡め取られ、動きを封じられた二人の全身に『影』が這い上がる。咄嗟に漆黒の長剣を振るうカズだったが、その斬撃は『影』を切り裂く事は出来なかった。
「女狐が、余計な真似を……」
『憂鬱』の介入に顔を顰めたイナンナが不快げに舌打ちをこぼす。
だが、この機を逃すつもりはないらしい。手の平に短剣を水平に置き、照準を合わせるようにして目の前に掲げると――、
「『飛べ』。メー」
次の瞬間、まるで見えない糸に引かれるようにして、短剣が射出された。
短剣は真っ直ぐ、『影』に全身を拘束されたカズの胸元に吸い込まれて――、
「――アイス・ズ・メイクッ!!」
カズの心臓を貫く手前で、閃いた氷剣によって叩き落とされた。
長い、茶色のツインテールが羽を広げるように揺れる。突如として現れたその少女は、氷剣を振り抜いた体勢のままゆっくりと顔を上げ――、
「――間一髪、ってところね!」
「イレナ……!」
空間を跳躍して現れた少女――イレナ・バレンシールだ。
思わず破顔するシンゴの視線の先で、イレナは不敵に笑うと、
「あたしだけじゃないわよ!」
「――ッ!?」
その直後、ハッとした『憂鬱』が振り返り、胸の前で腕を交差させる。そこに、しなやかに伸びた足が真横から叩き付けられた。
そのまま薙ぎ払うように足が振り抜かれ、『憂鬱』の身体が勢いよく吹き飛ぶ。その先で『影』が盛り上がり、クッションのように『憂鬱』を受け止めた。
「ぅ、ぐっ……!」
「――やるね。遅刻しちゃった分、本気でいかせてもらったんだけどな」
両腕がへし折れ、苦悶の声を漏らす『憂鬱』に向けて、長い白髪を扇のように浮かせてふわりと着地した少女――アリスが不敵な笑みと共に告げる。
「アリスも……!」
ここにきて、仲間たちの増援だ。その頼もしさに、シンゴは笑みをこぼす。
その、直後の事だった。
「――ッ!?」
「……リノア?」
鋭く息を呑む気配が伝わってきて、シンゴは訝しげに振り向く。
見れば、シンゴを抱えるリノアが『憂鬱』を凝視し、両目を大きく見開きながらその頬を硬く強張らせていた。
「アリア……我は、忘れて……?」
「アリア? いったい誰の事を――づぅッ!?」
途中まで言いかけたところで、シンゴの顔が激痛に歪んだ。
痛みの発生源である頭を両手で抱え、堪らず両目を固く閉ざす。
激しい耳鳴りに混じり、誰かの『声』が聞こえてきた。同時に、閉ざされた瞼の裏に奇妙な光景が浮かび上がり――目の前に、一人の女性が立っていた。
「なん、だ……トゥレス、か……っ?」
場所は、ブラン城の中庭だ。そこで『自分』は、トゥレスと向かい合っている。
こんな場面は記憶にない。ない、はずなのに――どこか、既視感があった。
――うん。呑み込みは、凄く速いと思う。でも、まだ足の運び方が雑。『陽炎』は、相手の視覚に訴えかける技だから、そこは疎かにしちゃダメ。
もう一度、と促したトゥレスが殴り掛かって来る。
次の瞬間、ぐるりと視界が回った。躱せずに殴られた、らしい。
――大丈夫?
視界いっぱいに広がる青空を背に、トゥレスがぬっと覗き込んでくる。
眼前に差し出された手を『自分』の手が掴み、ゆっくりと起き上がった。
――あ。
と、顔を横に向けたトゥレスが何かに気付いたような声を上げる。
そんなトゥレスの視線を追うように、ぐるりと視界が回って――、
――――。
少し離れた位置に、一人の少女が後ろで手を組みながら立っていた。
少女の真紅の瞳と『自分』の視線が交わり――そこで、ふっと頭痛が遠のいた。
頭の中で再生されていた映像が、ぶつりと電源を落とすように途切れる。
不可解な現象にシンゴは動揺する。記憶にないトゥレスとのやり取りもそうだが、問題なのは最後に目が合った少女の方だ。
「なんで、『憂鬱』が……っ!?」
「――ああ、やられたね。私にかけられた『強欲』の権威が消えている」
むくりと身体を起こし、再生した両腕の調子を確認するように振りながら、『憂鬱』が言葉の割にはさして困っていない様子で呟いた。
「『強欲』、だと……っ?」
「シンゴ――っ!」
リノアが降下し、シンゴを地面に降ろす。ふらついたシンゴを駆け寄って来たアリスが支え、その拍子にふっと全身に力が戻るのを感じた。
「大丈夫かい……?」
「あ、ああ……たった今、元気になった」
『堕落』の権威から解放されたシンゴは、額に手を当てて軽く頭を振りながら、心配してくるアリスからそっと身を離す。
と、そこへカズとラミアが、青い顔のイレナを支えながら駆け寄ってきた。アリスが『憂鬱』を蹴り飛ばした事で『影』が霧散して脱出できたらしい。
「おい、イレナ、お前……!?」
「例の秘薬の副作用だ。コイツ、また使ったらしい」
「頭痛くて、吐きそうで、指先が震えて、視界も霞むけど、問題ないわ……!」
「あの秘薬を短期間で二度も服用して、それでなお意識を保っていられるなんて……貴女、本当に人間かしら?」
言外にラミアから人外認定を受けたイレナだが、どうやら敵にやられた訳ではないらしく、その事実にシンゴは心底ほっとする。
そんなやり取りを交わす間に、他の吸血鬼達も続々と合流してきた。敵もまた、腕を組んで動こうとしないイナンナを中心に集まり、こちらを見ている。
それぞれの援軍が合流し、双方共に最大戦力が集まった形だ。
つまり、前哨戦が終わり、ここからが本番――。
「――戦いは終わりだ。二人とも、引き上げようか」
「……は?」
一瞬、言われた言葉の意味が理解できず、シンゴは呆けた声を上げていた。
それは、睨み合う二つの陣営――張り詰めていく緊張の糸を拍手一つで断ち切り、全員の注目を集めた『憂鬱』が言い放った言葉である。
その突然の撤退宣言に、シンゴを含めて全員が面食らったように固まる。そんなシンゴ達を見やりながら、『憂鬱』は己の肘を抱くように腕を組み、
「こちらとしては、『錫杖』を手に入れた時点で目的は既に達成している。君達とここで矛を交える必要性が全くない。何より、シナリオが大きく破綻する。出来ればそれは避けたい。あと、優子君との約束もあるからね。私も少なからずその下準備に手を貸している手前、ここでその労力を無にするのは本意ではない」
「ふざけた事を抜かすでないぇ。ここで余に手を引けと? 阿呆め、余の目的はまだ達成されておらぬわ」
戦う意思はないと告げる『憂鬱』だったが、それにシンゴ達が反応を示すよりも先に、身内から反論の声が上がった。
「イナンナ。君の要望に関しては、必ず私が叶えると約束しよう。この場で彼らと戦うより、遥かに楽に達成できる事を保証するよ」
「断る」
提案を即座に突っぱねられ、『憂鬱』は小さくため息を吐くと、そのアリスそっくりの顔を――しかし、断じてアリスがしない類の妖艶な微笑で彩り、
「忘れたのかい? 聞き分けの悪い子供から親が玩具を取り上げるように、私は容易に君から権威を取り上げる事が出来るのを」
「この、女狐が……ッ」
その発言に対し、怒りに顔を歪めたイナンナが射殺さんばかりに『憂鬱』を睨み付ける。が、やがて苛立たしげに鼻を鳴らすと、金の扇子を畳んで背を向けた。
そのまま振り返る事無く歩き始めるイナンナに、シンゴ達はただ呆然とするしかない。咄嗟にシンゴは悪意を読むが、その背中からは『憂鬱』に対する苛立ちは感じられても、こちらに対する敵意等は綺麗さっぱり消え失せていた。
――つまり、イナンナは本当にこのまま立ち去るつもりなのだ。
「――っ」
咄嗟に追うべきか、シンゴは奥歯を噛み締めて懊悩した。
イナンナはあの『黒い棒』を持ったままだ。あれをこのまま持ち去られるのは非常にまずい気がする。だが、この場にいるのはシンゴだけではない。シンゴ一人の勝手な判断で、他の者達を危険に巻き込むのは愚策中の愚策だ。
「君も、それで構わないね?」
追走するべきか否かシンゴが判断を下しかねていると、立ち去るイナンナの背中を見送った『憂鬱』が問いを発した。
それを受け、捏迷歪は「ええ」と両手をポケットに仕舞いながら肩を竦めると、
「僕は約束の情報さえちゃんと頂けるなら、喜んで貴女の足を舐めますよ」
「私の足は別に舐めなくても結構だよ。しかし、君の欲する彼の情報だが、私も多くを知り得ている訳ではない。君に渡せるのはせいぜい、彼の次なるフルコース……そのメインディッシュ対象くらいだ。それでも構わないかな?」
「誰だ?」
食い気味に、捏迷歪がその昏い瞳を『憂鬱』に向ける。
その急かすような態度に、『憂鬱』は静かに苦笑して肩を竦めると、
「レーヴェ・ヘルト・ヴァイス。――今代の、『英雄』だ」
「――――」
告げられた瞬間、捏迷歪の顔が凄絶な笑みに歪んだ。
しかしそれも一瞬の事で、すぐにあの作り物めいた軽薄な笑みに戻ると、くるりと背を向け、肩越しに振り返って片手をひらりと振った。
「そんな訳で、僕もここでお暇させてもらうぜ。たぶんもう会う事はないだろうけど、もし次また会えたら、その時は相棒の腕の中で死なせてくれよ。約束だぜ?」
一方的にそう言い残すと、シンゴの返事を待つ事なく、捏迷歪は既に遠くに見えるイナンナの後を追うように歩き去って行った。
思わぬ幕引きに、シンゴ達は不信感を拭い切れず、警戒を緩める事が出来ない。そんな中、一人だけ残った『憂鬱』がその真紅の瞳でこちらに振り返り、
「さて、私もそろそろ――」
「アリア――っ!」
撤退を匂わせる『憂鬱』の言葉を遮ったのは、リノアの大声だった。
彼女にしては珍しい、感情を強く表に出した表情だ。
それはまるで、離れて行く肉親を必死に呼び止めようとするような――。
「――残念ながら、私はアリアではないよ」
「――っ」
首を横に振り、『アリア』なる聞き慣れない名で呼ばれた『憂鬱』が否定した。
その返答に、リノアがぐっと喉を詰まらせる。
「リノア、今は下手に刺激するな。敵意は感じねえけど……正直、何がきっかけで心変わりして襲ってくるか分からねえ」
リノアの肩に手を置き、シンゴは『憂鬱』を警戒しながら小声で囁く。
今のリノアは少し様子がおかしい。焦りにも似た何かを感じる。誰かが止めなければ、そのまま『憂鬱』に向かって行きそうな雰囲気だ。
と、そんなシンゴの制止に対し、リノアはゆるゆると力なく首を振った。
「アリアは、我の姉……見間違えるはずがない」
「――? いや、お前の姉は……」
リノアの縋るような呟き――その内容に違和感を覚え、シンゴは眉を寄せる。
シンゴの記憶が正しければ、リノアの姉は『リアス』という名だったはずだ。被る文字はあるものの、響きの違う『アリア』と聞き間違えるはずがない。
「――違う」
シンゴの疑問を察したのか、リノアが小さくかぶりを振って否定した。
そして、困惑するシンゴに振り向き――、
「アリアは――我の、もう一人の姉」
「な――っ!?」
驚くべき『アリア』の正体に、目を見張ったシンゴは思わずのけ反る。
その驚愕はシンゴだけでなく、他の面々にも伝播した。意外な事に、吸血鬼達までもが揃って驚きを顕にしており、近くの者と顔を見合わせている。
気絶しているガルベルトは分からないが、同族の彼らも初耳だったらしい。
「……どうして、今まで黙ってたんだい?」
真っ先に我に返り、最初に尋ねたのはアリスだ。
その声が少し咎めるような響きを孕んでしまったのは、彼女の本来の目的と今の心情を思えば、多少は仕方がない事だと思う。
本人は否定したが、実の妹が姉と別人をそう簡単に見間違えるはずがない。
つまり、『憂鬱』の外見的な特徴は『アリア』と限りなく近いのだ。
――そして、アリスはその『憂鬱』と同じ白髪で、似た相貌も持っている。
「我、黙っていた訳ではない。ただ、忘れていた」
「忘れて、いた……?」
アリスの瞳を真っ直ぐ見つめ、リノアが誤解だと告げる。
疑問げに眉を寄せたアリスの復唱に、リノアはこくりと小さく頷き返し、
「ずっと、忘れてた。でも、さっき、唐突に思い出した」
「それは……」
リノアのそれは、出来の悪い言い訳に聞こえなくもない。
だが、リノアの性格を鑑みるに、嘘を吐いているとは思えない。むしろこういう場面では、きっぱりと黙秘を主張するのではないだろうか。
実際、『錫杖』についてシンゴが聞いた時がそうだった。
アリスもそれは、なんとなく察しているのだろう。
困ったような、やり切れないような顔で、続く言葉を発せずにいる。
そんな二人のやり取りを横目に、シンゴは思い当たる事があって――『憂鬱』を警戒しつつ、『激情』を中枢神経系へと集中させた。
頭の中が透き通るように冴え渡るのを自覚しながら、普段のシンゴには出来ない深度、速度で、高度な思考へと意識を落とし込んでいく。
「『強欲』、だったか」
それは、『憂鬱』が漏らした言葉の中にあったワードだ。
十中八九、『怠惰』や『激情』と同じ権威の力で間違いないだろう。
その他の台詞や直前の出来事から推理するに、おそらくあの時――アリスが『憂鬱』を蹴り飛ばした時に、『強欲』の権威が打ち消されたに違いない。
権威を無力化するという奇妙な力を持つアリスならそれが可能だ。
そして、リノアの口から『アリア』の名が出たのはその直後だった。
つまりリノアは、『強欲』の権威が打ち消された直後に、今まで忘れていたもう一人の姉――『アリア』の事を思い出したのだ。
状況的にも、タイミング的にも、直前の出来事と無関係だとは思えない。
詳細は不明で断言までは出来ないが、『強欲』の権威は他者の記憶に干渉――もしくは、応用によって似た現象を引き起こせる能力と見て間違いないだろう。
――だが、ここで一つ問題が浮上する。
「俺にも、リノアと似たような症状が出てた」
そう、リノアとほぼ同じタイミングで、シンゴは奇妙な回想を経験した。
その回想の中には、トゥレスともう一人――『憂鬱』に似た少女が現れている。
「たぶん……あれが『アリア』だ」
見た目は同一人物でも、『憂鬱』とは雰囲気がまるで違っていた。その『憂鬱』が否定した以上、消去法で彼女が『アリア』という事になる。
雰囲気だけでそうと言い切るには些か説得力が不足している気もするが、本能――いや、魂がそうなのだと強く訴えていた。彼女が本物の『アリア』だと。
「ただ……」
違和感――というよりは、どうしても納得できない部分が存在する。
それは、シンゴが過去に『アリア』と面識があるという事実。その一点だけが、あまりにも飛躍し過ぎていて荒唐無稽なのだ。
まず、根本的な問題として、二人は文字通り住んでいる世界が違う。
リノアの姉と言うからには、『アリア』も吸血鬼なのだろう。事実、例の回想はブラン城の中庭――こちら側の世界での出来事だった。
この時点で、両者の間には越えようもない壁がそそり立っている事になる。
だが、魔法があり、記憶に干渉するような異能が存在する世界だ。
過去、シンゴが何らかの事故でこの世界に転がり込み、あの回想時の経験をして――その上で全てを忘れた。そう言われても、残念ながら否定する材料がない。
とはいえ、可能性はあるとしても、それは限りなくゼロに近いだろう。
そして、そんなシンゴの与り知らぬ空白の記憶を怪しむよりも、もっと現実的で可能性の高い推測が一つだけ存在する。
――前任者の記憶だ。
あの回想の中で、『自分』はトゥレスに『陽炎』の手ほどきを受けていた。
あれはシンゴの持ち技ではない。『怠惰』を通して――ベルフを介する事で、『怠惰』の前任者から一時的に借り受けているに過ぎない。
あれが前任者の記憶ならば、トゥレスと戦った時に彼女が『陽炎』に似たより上位の技を使ってきた事にも納得がいく。
他でもない、彼女こそが前任者に技を伝授した師匠だったのだ。
――が、そのトゥレスの存在こそが、一番の謎を生んでいる。
記憶を取り戻したらしきトゥレスと戦った時、彼女の発言や態度は全て、過去にシンゴと会った事があるかのようなものだった。
かつての弟子の面影をシンゴに感じて――というなら、まだ納得できただろう。
だが、そうではない。彼女の紅い瞳は、シンゴしか映していなかった。
何より、彼女の怒りや悲しみ――それらが反転した、憎悪という強い負の感情。
それらは全て、キサラギ・シンゴに対して向けられたものだった。悪意を読み取る事が出来るシンゴには、それがはっきりと感じ取れたのだ。
「…………」
これ以上は、いくら『激情』で思考力を強化しても分からない。
パーツが揃っていれば話は別なのだが、今は――、
「――っ!?」
長く、濃密な時間を思考に割いていた気もするが、思考速度が大幅に強化されていた恩恵もあり、実際に経過した時間は十秒にも満たないだろう。
だが、その僅かな時間経過の間に、事は悪い方へと傾いていた。
「――――」
無言で、『憂鬱』がシンゴの事をじっと見つめている。
「……撤退、するんじゃなかったのかよ?」
――マズい、と。シンゴは内心で冷や汗を掻く。
何が切っ掛けになったのか、『憂鬱』からシンゴに対する『疑念』を感じる。
その動揺を悟られまいと、努めて平静を装ったシンゴの問いかけ――対して、『憂鬱』はシンゴから視線を一切逸らさず、そのままゆっくりと口を開き、
「シンゴ君……きみは昔、私とどこかで会ってないかな? リジオンの村近く、あの森の中ではなく……それよりも遥か以前に、全く別の場所で」
「……それは、ブラン城の中庭での事か?」
「ブラン城? いや、あの時は――」
思っていた回答と違ったのか、怪訝そうに眉を寄せた『憂鬱』――その台詞が途中で無造作に放棄され、ゆっくりと目が見開かれた。
「これは……驚いたな。まさか、別の事実が明らかになるとは。いや、考えてみれば同じ呼び名だ。今も私と共にあり、人柱になっているから……そう決め付けて、その可能性を無意識に除外してしまっていた。完全に、私の落ち度だ」
「待て、何の話をして……?」
「その状態……なるほど、かなりの無茶をしたようだね。情報の共有が図られていないところを見るに、記憶の欠落があるのか……何はともあれ、それが仇となった訳だ。もしも覚えていたなら、私に気付く余地など与えるはずがない」
それは、事の核心――その外皮だけをなぞるような、迂遠な言葉選びだった。
偶然か、それともわざとか。おそらく後者だろうが、その真意は定かではない。
それでも、一つだけ分かった事がある。
――『憂鬱』とキサラギ・シンゴの間には、きっと何かがあるのだ。シンゴ本人も与り知らない、不鮮明で不透明な繋がりが。
そこを尋ねようにも、おそらく『憂鬱』は答えてくれないだろう。
それくらいはシンゴにだって分かる。
「…………」
ただ、謎だけが積み重なっていく。
それは、因縁にも似た何かで。鎖のように、重く全身に巻き付いてくる。
願わくば、それがこの先の歩みを阻害しない事を祈るばかりだ。
「ふふ。今日は顔を出して正解だったよ。思わぬ拾い物が出来たからね」
満足そうに笑った『憂鬱』が、足元の『影』にゆっくりと沈んでいく。
それを追おうとする者は、誰一人としていない。
最初は、思いもよらぬ撤退宣言に、誰もが驚き、困惑して、理解が遅れた。
でも、今は違う。既に全員、正しく理解している。
――自分達は、見逃して貰ったのだと。
「それでは、また次の機会に会おう。――そう遠くない内に、ね」
再会を匂わせる不穏な言葉と、決して無視できない多くの謎――そして、ゾッとするほど美しい微笑を残し、『憂鬱』は『影』の中へと消えていったのだった。