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虚飾のアリス ‐不死の少年と白黒の吸血鬼‐  作者: 竜馬
第4章 とある兄妹の救済
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第4章:79 『安い買い物』


 ――痛い。苦しい。熱い。寒い。眠い。


 津波のように押し寄せるそれら高密度の感覚に呑み込まれ、意識が徐々に黒い水の底へと沈んでいくのが分かる。

 僅かな光すらも通さない、どこまでも深くて濃い純粋な黒の世界だ。

 このまま沈み切ればどうなるのか、その先はぼんやりと察する事が出来た。


 だから、足掻いた。必死に浮かび上がろうと、懸命にもがいた。

 誰かが戦っているのが分かる。目も耳も何もかもが不確かな中で、それでも戦うその男の魂の叫びを聞いた気がした。


 感化される。自分も彼のようにあれたらと強く思った。

 でも、自分は知っている。現実はどうしようもなく残酷で優しくはない。


 ――どれだけ同じ土俵に立ちたいと願っても、力不足というどうしようもない現実が行く手を阻んで邪魔をする。


 それでもなお、願う事を止めない。醜くても、それでも求め続ける。

 手を伸ばす。上下左右も分からない黒い水に溺れながら、懸命に手を伸ばした。

 その時である。伸ばした手を何者かの手が掴んだ。大人ではない、小さな子供の手だ。そしてその小さな手の主は、そのまま自分を一気に引き上げて――。



――――――――――――――――――――



「――――」


 ――気が付くと、カルド・フレイズは見知らぬ場所にいた。


 雲一つない大空が広がり、漆黒の大海が地平線の彼方まで果てなく続いている。自分がいるのは、その黒い水面の上だ。

 そして、膝を着く自分の手を握っているのは、見知らぬ一人の幼女だった。


 濡れ羽色の髪に翡翠の瞳、幼い体躯を包むのは瞳と同じ色の薄い衣で、首の後ろには透き通った黒い羽衣のような物が見える。

 人間、ではない。もっと高位の、想像も及ばないような次元に存在するモノ。

 誰に聞かずとも、目の前の存在がそのようなモノなのだと理解できた。


『――――』


 その、人ならざる存在が、不機嫌そうな顔で自分を見下ろしている。

 そこではたと、ずっと手を握ったままだった事に気が付いた。慌てて、それでいながら刺激しないように注意を払って手を放す。

 だが、それでもその不機嫌な表情が晴れる事は無い。


「――っ」


 緊張に喉が渇き、汗が顎を伝う。身動きはおろか、視線も外せない。

 目の前の超常の存在、その機嫌を損ねている原因が分からない。いや、状況から考えて自分に原因があるのだろうが、残念ながら心当たりが全くない。

 まず先に、謝罪すべきだろうか。そう考えた時だった。


『――こんにちは、なのですよ』


「――ッ!?」


 全く警戒していなかった背後から声を掛けられ、カズは驚愕に息を呑みながら勢いよく振り返った。――またしても、見知らぬ幼女がそこにいた。

 金色の髪に金色の瞳、白いワンピース姿の幼女がにこやかに微笑みながらカズへ向けて手を振っている。


 ――すぐに理解した。この金色の幼女もまた、最初の幼女と同じ存在なのだと。


 これが見た目通りの存在なら、こちらも笑って手を振り返せただろう。だが、生憎とそんな勇気は持ち合わせていない。こっちの反応一つで、どのような結末が訪れるのか、全く予想できないからだ。

 そうして警戒と緊張を孕んだ面持ちで硬直していると、金色の幼女はきょとんと小首を傾げてから「ああ」と納得したように声を漏らし、


『大丈夫なのですよ。アナタに危害を加えるつもりはないのですから』


「……そう、なのか?」


『はいなのです』


 ひまわりのように笑い、金色の幼女がこくりと頷く。

 態度や声音からは確かに敵意は感じ取れない。しかし、それでも油断は禁物だ。とはいえ、少なくとも対話には応じてくれる様子。

 拳を握り締め、意を決して震える唇を開く。


「アンタは……何者だ?」


『――この場で相応しいのは、やはりバランサーという呼び名なのですかね』


「……バランサー?」


『娘の不注意で傾いてしまった天秤を正す為にやって来たのですよ。本音を言えば必要以上の干渉はしたくないのですが、娘のしでかした事となれば、さすがに母として傍観はできないなのです。――ね、ゲンちゃん?』


『……母よ。此度の件は確かにわしが悪かった。反省もしておる。だから、頼むからその呼び名は勘弁してくれんじゃろうか?』


 ゲンちゃんなる名で呼ばれて抗議の声を漏らすのは、今まで沈黙を貫いていた黒緑の幼女だ。不機嫌そうな顔をよりいっそう嫌そうに顰めている。


『でも、ゲンちゃんはゲンちゃんなのですよ?』


『はぁ……』


 顎に指を当て、こてんと小首を傾げた金色の幼女の言葉に、ゲンちゃんと呼ばれた黒緑の幼女は額に手を当てて重いため息を吐く。

 と、カズの視線に気付いた黒緑の幼女は、むっと眉根を寄せて腕を組み、


『言っておくが、わしの名はゲンちゃんではなく玄武じゃからな? もしもゲンちゃんなどと呼ぼうものなら、ぬしの魂、冥府に叩き落すぞ』


「あ、ああ、肝に銘じておく……」


『こーら、ゲンちゃん!』


『そんな事より母よ。早急に取り掛からねば時間はあまりないのではないか? この者と母のか細い縁では接触時間は限られるのじゃろう?』


『ああ、そうなのでした!』


 叱責しようとしたらしい金色の幼女だったが、黒緑の幼女――玄武に言われた言葉で何かを思い出したらしく、きょろきょろと周囲を見渡し始めた。

 何かを探しているようなのだが、しかしこの空間に存在するのは自分と幼女が二人、あとは果てのない大空と漆黒の大海だけだ。他には何も見当たらない。


『――ん。見付けたなのです』


 不意にある方向に視線を定めたかと思うと、スッと目を細めた金色の幼女がおもむろに片手を持ち上げた。不審げにカズが見てみると、金色の幼女は何かを探るように指先を動かし――やがて、何か細い針を引き抜くように指を引いた。

 次の瞬間、漆黒の水面を突き破って何かが姿を現した。それはそのまま見えない糸に引かれるように近付いてきて、金色の幼女の手に収まる。


「オイ、それ……!」


『はい。アナタの剣なのです』


 金色の幼女の手に横たえられた家宝の大剣を指差し、カズは驚愕の声を上げる。

 すると、金色の幼女がそんなカズに向けて大剣を差し出してきた。一瞬の躊躇が持ち上がりかけた腕を止めるが、かぶりを振って振り払い、大人しく受け取る。


【――契ろうぞ】


「ぐッ……!?」


【契ろうぞ。契ろうぞ。契ろうぞ。契ろうぞ。契ろうぞ。契ろうぞ。契ろうぞ。契ろうぞ。契ろうぞ。契ろうぞ。契ろうぞ。契ろうぞ。契ろうぞ。契ろうぞ。契ろうぞ。契ろうぞ。契ろうぞ。契ろうぞ。契ろうぞ。契ろうぞ】


 頭の中に、またあの老若男女の声が混ざり合った不快な【声】が響き始めた。

 その【声】はまるでカズの奥底にある欲望を引きずり出すように、ゆっくりと不要なモノを押しのけながら、奥へ奥へと侵食の魔の手を伸ばしていく。


『――ゲンちゃん!』


『分かっておる!』


 頭を片手で押さえて蹲るカズ、その手が固く握り締めて放さない大剣に玄武が手を触れさせる。そして、集中するように両目を閉ざした。

 だが、カズにはそんな二人のやり取りに意識を割いている余裕はない。無理やり理性を剥がされ、己の欲望と真正面から対峙させられる感覚。素直に受け入れ、己が魂を差し出す事への忌避感――など、抱く必要がどこにあるのだろうか。


 自分は弱い。特別でもない。だから価値がない。そう、無価値な存在だ。

 だが、道はある。そうだ、あるではないか。こんな身近な所に。簡単に、お手軽に、力を手に入れて、特別になる為の価値を付与する方法が。

 それを実行するには、差し出さなければならない。魂を、差し出さなければ。


 ああ、それはなんと――なんと、安い買い物なのだろうか。


 こんな価値なき男の魂一つで、彼と彼女らと同じ土俵に立ち、あまつさえ守るだけの力が手に入る。なんとも破格の条件ではないか。

 苦悶に歪んでいた口元が自然と笑みを形作る。胸の奥から溢れ出す歓喜の感情に喉から笑声がこぼれ落ちる。愉快だ。痛快だ。最高だ!


「アハッ! アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!」


 滂沱と感涙を流しながら、カルド・フレイズは価値なき魂を明け渡そうと――、


『――なりません』


 声が、聞こえた。清流のように澄み、暖炉の火のように温かな、そんな声だ。

 そっと、誰かの手が頬に優しく触れている事に気が付いた。いつの間にか、あれだけ高ぶっていた心が嘘のように凪いだ湖面の如く静まっている。

 呆然と目を見開くカズ、その眼前に立つのは、長い銀髪を揺らす一人の女性だ。その身体は半透明で透き通っており、瞼は両方とも固く閉ざされている。


「アンタ、は……」


『私はリーシャ・クロムウェル。――単なる、死人ですよ』


 そう言って、リーシャと名乗った銀髪の女性は、自分の胸にそっと手を当てると、目を閉じたまま優しく微笑んだのだった。


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