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虚飾のアリス ‐不死の少年と白黒の吸血鬼‐  作者: 竜馬
第4章 とある兄妹の救済
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第4章:77 『血塗れた背中』


 無慈悲に振り抜かれた黒炎の拳が、両腕を欠いた青年を吹き飛ばす。

 遥か遠く、錆び付いた大剣が雪に突き刺さるように落下し、その衝撃で柄を握ったままだった両腕がぼとりと雪の上に虚しく転がる。

 大剣と両腕を失った青年は、うつ伏せに倒れたまま起き上がる事は無い。


「――さて、と」


 青年の生死すら確認せず、というより興味が失せたかのような態度で、捏迷歪がぐるりと首を回す。その昏い瞳が映すのは、這い蹲る自分――レミアだ。


「――っ」


 目が合った瞬間、レミアは自分の肩が小刻みに震えているのを自覚した。

 それは生まれて初めて実感する『死』への恐怖であり、最初から吸血鬼であったレミアが感じた事のない未知なる感情だった。


 そう、今のレミアにとって、『死』は無縁の存在ではない。

 拷問にも等しい『生』を強要する『呪い』は取り払われ、『金色の加護』も消えてしまった今、レミアを守ってくれるものは何一つとして存在しない。

 剥き出しの『命』が曝け出される感覚、生きる者にとって当たり前の事が、耐え難い恐怖としてレミアの心を軋ませてくる。


「ぅ、ぁ……」


 口から漏れ出るのは、呻くような小さな音だけ。実際のところ、レミアの負傷はその行動を縛るほど重いものではない。

 それでも動けずにいるのは、恐怖に屈した心が肉体を縛り付けているからだ。


「――私を見なさい」


「――っ!」


 その落ち着いた声は、恐怖に呑まれるレミアの心に冷や水を浴びせるかの如く、怜悧な響きを以て発せられた。

 レミアがその声の方に振り返るのと、昏い瞳が同じ方向を向くのは同時だった。


 そこには、レミア以上に深い傷を負いながらも、血を滴らせながら立ち上がる『姉』の姿があって――。


「力は落ち、再生も止められ、『金色の加護』も消えた。――で、それがどうしたと言うのかしら?」


「わぉ」


 この絶望的な状況を、それでも不敵な笑みで笑い飛ばすその胆力。捏迷歪が眉を上げて感嘆の声を漏らすのを聞きながら、レミアは思わず目を細めた。

 眩しい。本当に眩し過ぎて、目を逸らしてしまいたくなる。どうしてあの『強さ』が自分にないのか。どうしてまたあの人に頼ってしまっているのか。

 自己嫌悪に圧し潰されそうになり、レミアはひっそりと唇を噛んで俯いた。


「うん。それじゃ、君に聞こうかな」


「――ッ!?」


 そう言って捏迷歪が笑った直後、ラミアの背後で黒炎が噴出――ハッとしたラミアが振り返った時には、既に黒炎に絡め取られて拘束されていた。

 黒炎に捕まるラミアと捕まえる捏迷歪、両者の間で不自然に雪が盛り上がり、細長く伸ばされた黒炎が地上に顔を出す。


「雪の下を……っ!」


「カッコ付けるのは勝手だけどさ、それがただの見栄っ張りってのは頂けないね。今の君は見た目通りのか弱い女の子だ。そんなただの少女が僕に勝つ為には、何かしら策を弄して、不意を突いて、欺かないと。――弱者として、今の君の行動に及第点は上げられない。次、頑張って取り返さないと、落第だぜ?」


「生憎、そんな点数を稼ぐつもりなんて毛頭ないわ」


「先輩の言う事は大人しく聞いておくもんだぜ?」


 そうして会話に応じる傍ら、必死に脱出しようともがくラミアだが、吸血鬼としての力を封じられた今の彼女では、その黒炎を振り払う事は叶わない。


「あらよっと」


「くッ……!」


「ラミアお姉さま――ッ!」


 気の抜けた掛け声と共に、捏迷歪が黒炎翼を引き戻した。

 足が宙に浮いてしまえば、その幼い体躯は見た目通りの軽いものだ。両足が何もない空間を虚しく掻き、ラミアが捏迷歪の下へと引き寄せられる。

 そして、そんなラミアに向けて、ポケットから引き抜かれた手が――、


「――おっと、動かない方がいいぜ?」


 その手はラミアではなく、開かれたまま別の方向に突き出されていた。

 忠告の台詞と共に手の平が向けられた先にいるのは、口の端から血を流す全身血塗れの老執事――ガルベルト・ジャイルだ。

 ガルベルトは忠告通りに動きを一旦止めるが、その真紅の瞳は煮え滾るような怒りを宿しながら、睨み殺さんばかりに嗤う少年を射抜いている。


「……放せ」


 低く、静かな怒気を孕んだ、短い一言。それを聞いた者の背筋を震え上がらせるほどの殺気を、しかし捏迷歪は平然とした微笑で受け流し、


「この場にいる全員に『呪い』をかけた。等価交換の呪いだ。僕への攻撃は、己を構成する一部を対価に差し出さなければ成立しない。念の為に忠告しておくけど、万が一、君らが僕の『堕落』の影響から脱する事が出来ても、この世界が認める等価交換の結果は不変だから気を付けてね? ――さぁ、対価の選択はランダムだ! 自分の運に自信がある奴から遠慮なく僕を殺しに来ようぜ!」


「……ッ」


「――そう、それでいいんだよ。僕は別に、この子を取って食おうって訳じゃない。ただ、確認したい事があるだけなんだ。だから、そのまま大人しくしてろよ?」


 苦渋に顔を歪めるガルベルトにそう言うと、捏迷歪は「あー」と喉の奥を見せびらかすように口を開け――次の瞬間、ラミアの細い肩にかぶり付いた。


「ぅぐッ……!?」


「貴様ぁ――ッッ!!」

「ラミアお姉さま――ッ!?」


 ぶちぶちと肉が引き千切られる音が響き、鮮血が勢いよく噴き出す。

 取って食うつもりはない、などと言っておきながら、その直後にこれだ。息を吐くように嘘を吐く。さも当然のように前言を無視する。それが捏迷歪なのだ。


「――ッ!!」


 ――先に動いたのは、レミアだった。


 この男の言う『呪い』とやらが嘘でも本当でも、もはやどちらでも構わない。

 たとえ己が永久的に欠ける事になったとしても、目の前で行われた暴挙を見過ごすなど出来るはずもない。弱者に成り下がったこの身でも、一度は『死』の恐怖に屈したこの脆い心でも、あの人の為ならば無理にでも動かしてみせる。


 ――だって、もう失いたくないし、捧げ続けなければならないから。


「ッ、ああああああああああああああああああああああッッ!?」


 雪に足をもつれさせ、遅い足の回転に焦燥感を募らせながらも、懸命に姉の下へと走っていたレミアの鼓膜を絶叫が貫いた。

 それは『呪い』によって対価が支払われた事で起きた己の一部の喪失、その喪失から生じる激痛がもたらした耐え難い苦痛の表面化だ。


「――え?」


 ただし、その絶叫は自分の喉からではなく、レミアの背後から上がっていた。

 足を止めて振り返ったレミアが見たのは、右目を押さえて蹲るガルベルトの姿で――。


「なん、で……」


 無理解に目を見開き、愕然と声を震わせるレミア、その視線の先で激痛に歪む顔を大量の脂汗で濡らすガルベルが、顔に当てた手をどける。

 その瞬間、まるで腐り落ちるように剥落して、右の眼球が雪の上に転がった。


「――――」


 ぐずぐずに腐敗し、どろりとした液状になった眼球が雪に染み込む。それを見ながら、レミアは何が起きたのか理解できず半身で振り返ったまま硬直した。

 そうして硬直するレミアの耳に、ガルベルトの漏らす苦鳴以外の音が――くちゃくちゃと何かを咀嚼するような音が滑り込んできた。

 状況の整理もままならぬまま、ハッと顔を前に戻したレミアが見たのは、口の周りを真っ赤な血で濡らしながら、噛み千切った姉の肉を咀嚼する男の姿で。


「ぅぺっ! まっず! ……ほんと、人肉なんて食えたもんじゃないぜ。好んで食う奴の気が知れない」


 肉塊を吐き出し、不味そうに顔を顰めた捏迷歪が袖で口の血を拭いながら言う。

 そして、その昏い瞳で呆然と立ち尽くすレミアを見やると、ぞっとした寒気の走る微笑で口端を薄く引き裂き、


「君ら姉妹の対価だけ、そっちのおじさんが支払うように調整してみた。――だって、子供の支払いは親がするもんだろ?」


「ぁ、あ……っ」


 絶望に染まるレミアの顔から視線を外し、次に捏迷歪は、黒炎の中で唇を噛み締めながら必死に激痛に耐えているラミアを仄暗い微笑で見やり、


「さ、本題だ。君ら吸血鬼ってさ、人の生き血を啜る時、どんな事を考えながら、どんな気持ちで啜ってるのかな?」


 その、ねっとりとした声音は、黒い感情を煮詰めたように深く濁っていて。

 それは、捏迷歪という少年が初めて垣間見せた、彼の本心のように思えた。


「ねぇ、答えてよ。僕を、助けると思ってさ」


「……ッ」


 改めて問いを投げかけられ、ラミアがその相貌を不快感に歪める。

 そんな姉の様子を、レミアは大きく押し開いた目で見つめるしか出来ない。後ろから聞こえるのは、苦痛に喘ぐガルベルトの声だ。


 前と後ろ、そのどちらにも足は動かない。足の裏が地面に縫い付けられてしまったかのように、全く動いてくれない。

 喉が干上がるように乾き、心臓が痛いほどに早鐘を刻む。浅い自分の呼吸音がやけにうるさく感じられて、頭蓋の内側でぐちゃぐちゃの思考が氾濫している。


「はぁ……は、ぁ……っ!」


 ぐらつく視界の中で、数人の神官が捏迷歪に襲いかかるのが見えた。が、ある者は腹がべこりと凹み、ある者は片足が爆ぜ、ある者は虚ろな目で立ち止まる。

 彼らを襲った症状は様々だが、共通するのは、誰一人として捏迷歪に到達できる者はいなかったという事実だ。


 ――それでも、彼らは動いた。対して、自分はどうだ。


「れ、みぁ、は……れみあ、は……っ!」


 どうすればいい。自分は一体、何をすればいいのだ。

 何が正解で、何が間違いなのか。この場において、レミアが選択すべき行動は、一体、一体、一体、一体一体一体一体一体一体一体一体一体一体――。


「――レミア」


「――ッ!?」


 不意に後ろから肩を叩かれ、レミアは心臓が止まるかと思った。

 肩を跳ねさせ、怯えるように振り返れば――、


「下がって、いなさい……」


「――――」


 片目を欠いた、血塗れのガルベルトが立っていた。

 大きく目を見開くレミアの視線を受けながら、ガルベルトは満身創痍の身体を引き摺りながら、ゆっくりと前に歩を進める。

 一瞬だけ見えたその残った左目からは、この絶望的な状況を映しながらも、決して衰える事のない戦意が宿っていて。


「――っ」


「……レミア?」


 咄嗟に、レミアはガルベルトの袖を掴んでいた。

 軽く目を見張りながら、振り返ったガルベルトがレミアを見てくる。


「……虫がいいのは、分かってます」


 袖を掴む手にぎゅっと力を込め、レミアは俯きながら絞り出すように紡ぐ。

 今からレミアが口にしようとしているのは、最低最悪のお願いだ。最終的にこんな考えに行き着き、他に何も思いつかなかった自分の浅ましさに反吐が出る。

 だけど、それでも、レミアは――、


「今まで、散々、ひどい事をしてきて……今も、レミアの所為で、ひどい怪我を、負わせてしまって……」


「…………」


 込み上げてきた熱い何かが喉を塞ぎ、声が震える。そのまま熱は鼻の奥にツンとした疼痛をもたらし、最後には目頭から一気に溢れ出した。

 すぐ近くで、小さく息を呑む気配が伝わってくる。こんな状況にも拘わらず、気恥ずかしさが込み上げてきて、自分の頬が熱を持つのを感じた。

 でも、それらの熱を全て呑み込み、勢いよく顔を跳ね上げたレミアは――、


「お願いです……お姉ちゃんを、助けて……っ!」


「――――」


「お願いします、お父さん……ッ!」



 ――言ってから、自己嫌悪で胸が潰れそうになった。



 あれだけ強く拒絶して、あれだけ酷い扱いをして、こんな時だけ都合よく『父』と呼び、縋り付いて嘆願する様は、なんと醜く、そして恥知らずなのだろうか。

 逆の立場なら、こんな女など無言で殴り倒している。だから、自分が殴られても文句は言えないし、言うつもりもなかった。


 なのに、だというのに、この人は――、


「――任せなさい」


 たった一言、そうレミアに告げて、優しく微笑みかけてきた。

 その皺だらけの笑みは、あの幸福の時間にあった笑みとなんら変わりなく。


「…………」


 一拍置いて、僅かな躊躇と共に手が持ち上がり、レミアの頭に伸ばされる。

 その手をレミアが受け入れると、手の平からほっとした安堵が伝わってきた。

 伝わってくる温もりに昔と全く変わらない安心を感じて、レミアは薄く目を細めながら、心の中の何かが氷解していく音を聞いた。


「一時は、見失いかけた……しかし、今なら胸を張って言える。今も、昔も、そしてこれからも、ガルベルト・ジャイルという男にとっての最優先事項は、ラミア、レミア、そしてガレッタを置いて、他には存在しないと」


「――ぁ」


「私は、改めてここに誓う。もう二度と、お前達を見失わないと。――お前達は、俺とガレッタの、最高の宝だ」


 涙に濡れた瞳を見開き、小さな声を漏らすレミアにそう言って、手を離したガルベルトは――父は、ゆっくりと背を向けた。

 そして、拘束されるもう一人の娘と、その娘を拘束する男を鋭く見据え――、


「返して貰うぞ……私のもう一つの宝ッ!!」


 ――後ろから見上げる父の血塗れた背中は、この世で一番大きな背中だった。


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