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虚飾のアリス ‐不死の少年と白黒の吸血鬼‐  作者: 竜馬
第4章 とある兄妹の救済
188/214

第4章:75 『次なる戦場へ』


 ――どうして、この世界に戻って来たの?


 最初、シンゴはその質問がアリスに向けられたものだと思った。

 何故なら、『この世界に戻る』という条件を満たすのは、確定した訳ではないが、アリス以外には当てはまらないからだ。

 だが、違った。トゥレスの紅い瞳は、真っ直ぐシンゴを見ている。つまり、先の問いかけは、キサラギ・シンゴに対して発せられたのだ。


 いや、そもそも、どうしてトゥレスがここにいる。イチゴにしてもそうだ。二人とも、ブラン城にて吸血鬼に匿われていたはずではなかったのか。

 向こうで何かあったに違いない。その証拠に、イナンナに対して一瞬だけ『激情』を発動させた際、集落の方角からおびただしい量の悪意を感じた。まだ、向こうの方は決着していないのだ。それに、先ほどイナンナが飛び去った方角も集落の方面だった。今は、意味の分からない問答に付き合っている暇はない。


「『トゥレス。悪いけど、話はまた後だ。今は急いでイナンナの奴を追わねえとならねえ。それに、集落の方も心配だ。すぐに移動を――』」


「よりによって、どうして、その子を連れて、戻ってきたの……!」


 早口に告げるシンゴの言葉を遮り、トゥレスが強い口調でもう一度問い直してきた。ただ、その台詞の内容は少し変わっていて。


「『その子って……アリスの事か?』」


「……?」


 訝しげに眉を寄せ、シンゴは横目にアリスを窺う。だが、アリスも困惑に眉を顰めており、彼女もトゥレスが何を言っているか分かっていない様子だ。

 少し気にはなるが、現状における優先事項を履き違えてはならない。

 反応しておいて悪いが、トゥレスには構わず、今後の方針について空中に留まるリノアに相談しようと、シンゴは後ろに振り返った。


「『――っ!?』」


 鋭く息を詰めたのは、振り向いた先にトゥレスの姿があったからだ。


「答えて……どうして、この世界に、戻って来たの?」


「『お前……今、どうやって……』」


「答えて――ッ!!」


「『――ッ』」


 慟哭に近い叫びを間近で浴びて、口を噤んだシンゴの頬が微かに強張る。

 そのまま二の句が継げずにいると、トゥレスの眼差しがより鋭く、徐々に危険な色味を帯びていく。

 『激情』を発動させていなくても分かる、明らかな敵対の意思。その敵意を向けられる理由についてはさっぱりだが、一つだけ分かった事があった。


「『お前……まさか、記憶が?』」


「――どうして、答えて、くれないの?」


 シンゴの確認には応じず、顔を伏せたトゥレスの声に落胆の色が混じる。そして次に顔を上げると、その瞳が剃刀のように薄っすらと細められた。

 今にも襲い掛かってきそうな雰囲気に、シンゴは一旦、宥めるべく言葉を紡ぐ。


「『おい、待て、少し落ち着い――』」


「約束、したのに! 信じて、託したのに! なのに、あなたは――ッ!!」


 両腕を振り下ろし、子供のような癇癪を引き起こすトゥレス。その怒声に近い大声が、シンゴの言葉を塗り潰すように掻き消す。

 次の瞬間、瞠目するシンゴに向けて、突然トゥレスが片手を突き出してきた。

 咄嗟に顔を逸らして躱すが、頬に鋭い痛みが走りシンゴは顔を顰める。いつの間に取り出したのか、トゥレスの手には短剣が握られていて――。


「シンゴ――っ!」


「『アリス、手は出すな! 何か、様子がおかしい……っ!』」


 風を纏い参戦してこようとするアリスに制止の声を投げながら、シンゴは咄嗟に『真憑依』を解除して『激情』を発動させる。

 『真憑依』の力では誤ってトゥレスに重傷を負わせかねない、そう判断しての事だったのだが、その配慮は杞憂どころか、むしろ間違った判断だった。

 何故なら――、


「がふっ――!?」


 容赦なく繰り出されたトゥレスの蹴りが土手っ腹に突き刺さり、苦悶に目を見開いたシンゴの身体が勢いよく後方に吹き飛ぶ。

 何度も雪の上を跳ねながら、シンゴは『真憑依』を再発動――頭髪が赤く染まり、炎翼を振るって姿勢を制御、二本の足跡を雪に刻みながら踏み止まる。


「『ぐっ、ごぶっ……』」


 踏み止まりはしたものの、喉奥からせり上がってきた異物感に思わず咳き込む。見てみれば、大量の血が手の平に付着していた。

 と、血に染まる手の平、その指のすき間から真紅の双眸と視線がぶつかる。ハッとして手をどけるのと同時に、真下から二本の短剣が跳ね上がってきた。

 頸動脈を的確に狙うその軌道に、シンゴは咄嗟に炎翼を首に巻き付け、刃先が接触するタイミングで『受柔・殺』にて威力を殺す。――殺した、はずなのに。


「『ぐ、ぅ……っ!?』」


 トゥレスの膂力はシンゴの想像を遥かに上回り、威力を殺し切れずに刃が炎翼を貫通、左右からそれぞれ三分の一ほど切り裂かれた首筋から鮮血が噴き出す。

 ここにきてようやく、シンゴははっきりとトゥレスを脅威として認識した。

 先の一瞬の『激情』でその悪意を感知したが、シンゴに対する強い怒りと、裏切りを受けた者が抱く深い悲しみ――それが反転した憎悪が感じられたのだ。


「今すぐ、あの子を連れて、あっちの世界に、帰って……っ!」


「『だから、待てって! お前が何言ってんのかさっぱり分かんねえし、元の世界に帰れる方法があんなら、むしろこっちが聞きてえくらいだ!』」


「……嘘を、吐かないで」


「『この……少しは聞く耳持ちやがれ――っ!』」


 話を全く聞こうとしないトゥレス、その頑なな態度に頭に血が上り、気付いた時には反射的に反撃の拳を放ってしまっていた。

 慌てて拳を止めようとするが、間に合わない。シンゴの常人離れした膂力を誇る拳は、トゥレスの顔面に綺麗に吸い込まれ――そのまま“すり抜けた”。


「『なっ――』」


 驚愕するシンゴの前で、トゥレスの肉体が奇妙な揺らぎを伴って消失――その少し後ろに、同じ揺らぎを伴ったトゥレスがゆらりと現れる。

 それを視界に収めて、新たな驚愕がシンゴを襲う。なにせ、今しがたトゥレスが見せた動きは、紛れもなくシンゴの知る『技』――『残陽』だったのだから。

 が、すぐに違うと気付く。根本にあるのは確かに『残陽』に近いものだ。しかし、そこに更に複数の『技』が複合されている。


 ――言うなればこれは、『残陽』の上位互換に位置する『技』だ。


「『お前、その技……ッ』」


「――『虚蝉うつせみ』」


 鋭く目を細めるシンゴに対し、トゥレスが囁くように『技』の名を告げた。

 そして、流れるような動きで二本の短剣を投擲してくる。が、二本とも命中する軌道ではなく、シンゴは不審に思いながらも顔の横を通過する短剣を見送った。


 ――直後、目の前でトゥレスの姿が忽然と消失する。


「消え――!?」


 咄嗟に『真憑依』から『激情』に切り替えたのは、我ながら好判断であった。

 前触れなく背後に悪意が生まれるのを感知し、全力で上体を前に傾ける。頭上を交差した二本の短剣が、逃げ遅れた後ろ髪を浅く切り裂く。

 すかさず両足に『激情』を集中させ、全力で前に転がって距離を取る。そして素早く振り返れば、そこには二本の短剣を携えたトゥレスがいて――。


「…………」


 ――まただ。


 これはもう、動きが速すぎて目で追えないとかいう次元の話ではない。おそらくだが、これは瞬間移動――イレナの『ゼロ・シフト』と同じ類のものだ。

 ただ、トゥレスにはイレナのような体力の消費は見受けられない。他にも目に見える範囲でデメリットを被っている様子もない。


 つまり、使い放題の『ゼロ・シフト』と言うこと。――完全に上位互換だ。


「どうなってやがる……ッ!」


「私の、質問に、答えて。――じゃないと」


 再び、トゥレスが二本の短剣を投じてくる。『激情』を中枢神経系の強化に回し、再び回り込まれて短剣を回収されないように、今度はしっかりと炎翼で弾く。

 同時に敵意の変化を感知、再び次元の跳躍が来る事を予感する。その読み通り、シンゴの頭上、何もない虚空に突如としてトゥレスが出現した。


 そのままシンゴが弾いた短剣を空中で回収し、勢いよく投げつけてくる。

 強化された中枢神経系が見せる時間感覚が圧縮された世界で、二本の短剣の軌道を正確に先読み――今度こそ回収されないように、二本の短剣がそれぞれ別の方向に弾かれるように角度を調整して炎翼で防ぐ。


「――は?」


 呆けた声が出たのは、目の前に着地したトゥレスの手に二本の短剣が握られていたからだ。弾いた短剣は二本とも空中にあり、回収された訳ではない。

 つまり、新しい短剣を取り出したのだ。問題は、強化されたシンゴの知覚能力でも、短剣を取り出す瞬間を視認できなかった事にある。それこそ、トゥレスの両手の中に、二本の短剣が急に現れたようにしか見えなかった。


「何が、どうなって……っ!」


「――ふっ」


 まるで手品を見せられたような気分を味わい、シンゴの顔が混乱と困惑に歪む。そんなシンゴの反応などお構いなしに、眼前でトゥレスが鋭い呼気を吐いた。

 一気に踏み込んで来たトゥレスが、二本の短剣で無数の斬撃を叩き付けてくる。その手数の多さに、『激情』の配分制御が間に合わない。“あの男”ほど『激情』を上手く使いこなせないシンゴは、必然的に『真憑依』に頼らざるを得ない。

 中枢神経系に『激情』を集中させた状態には僅かに劣るものの、それでも『真憑依』の反射神経および動体視力も相当なものだ。そこにベルフの卓越した技量が加わる分、総合的に見れば『真憑依』の方が対処に向いている。


 無数に閃く白刃を、四本の鉤爪に変化させた炎翼でどうにか防いでいく。本当はもっと本数を増やしたいのだが、これ以上増やせば処理できなくなる。

 というのも、トゥレスの一振り一振りが恐ろしく重いのだ。それこそ、全て『受柔』で対応しなければ、炎翼の鉤爪が散らされてしまうほどに。


「『でも……っ!』」


 集中すれば捌き切れない事はない。――そう、判断した矢先の事だった。


 不意にトゥレスが、二本の短剣を手首のスナップで上に放り投げた。回転する短剣が視界からフェードアウト、気付けば新たな短剣がその両手に握られていた。

 その新たな二本でシンゴに斬りかかったかと思えば、すぐにまた上へ放る。またしても新たな短剣が両手に出現、斬撃を放つとすぐに上へ放り――と、ここで最初に上に放り投げた二本の短剣が落下してきた。

 手元に新たな二本を出現させ、トゥレスは落下してきた二本の短剣を折り曲げた両肘で受け止める。――ここで、攻め方に変化が生じた。


 両手両肘で四本の短剣を不規則に振るいながら、今度はその四本を上に放り投げ、両手両肘の同じ場所に新たな短剣が出現。落下してきた二本の短剣を今度は首を曲げて頬と肩で挟み取り、残りのもう一本は歯で受け止めた。

 更に攻撃が変則的になる。その手数の増加、また不規則過ぎる斬撃の嵐に、シンゴの対応が徐々に後手に回り始め、斬撃が防御を抜けて身体に届き始めた。


「『ぐっ……!』」


 ――反撃する暇を全く与えてもらえない。


 気付けば、空中に待機する短剣はゆうに十を超え、トゥレス本人は全身のありとあらゆる部分で短剣を持ち、もはや全身刃物と言っても差し支えない状態だ。

 時には空中で前転しながら斬り付け、時には片手で逆立ちしながら斬り付けてくる。挙句の果てには瞬間移動まで間に挟まれ、もう防御どころではなかった。

 全身を切り刻まれ、絶え間ない痛苦が神経を焼く。『怠惰』の力も相まって、吸血鬼の再生力は普段より高まっているが、それでもペースは完全に向こう側だ。


「『く、そ……っ』」


 どうにかして反撃の隙を作らなければならない。だが、そんなシンゴの思惑を嘲笑うかの如く、トゥレスが今度は魔法まで織り交ぜ始めた。

 一発一発はそんなに大した事がない――どころか、むしろ貧弱な部類なのだが、如何せんその使い方が実にいやらしい。


 氷に関節部を凍らされ、突き出た小石に躓かされ、弱火が眼球を炙り、そよ風が空中の短剣をけしかけてくる。どれも規模は小さいが、絶妙に邪魔で鬱陶しい。

 それに、どれだけ小さな魔法でも、トゥレスが行使する魔法は全属性に及んでいた。それを巧みに制御しながら、短剣は一度も取り落としていない。


 ――凄まじいまでの技量、圧倒的なまでの技術だった。


「――――」


「『っ、ぐ……!?』」


 縦横無尽に刃が乱れ舞い、不規則にトゥレスが舞い踊る。そこに自然のささやかな悪戯が加わり、一方的にシンゴを攻め立てる。


 そしてとうとう、シンゴの両腕が肩の根元から分断され、炎翼も根元から切り離される。ほんの一瞬ではあるが、完全に無防備な状況が作り出された。

 その刹那に滑り込むように、トゥレスの片手がそっとシンゴの胸に添えられる。直感でトゥレスが放とうとしている『技』の種別を察し、シンゴの顔が強張った。


「『かる――」


 が、その『技』が放たれる事はなかった。『技』を繰り出す寸前、トゥレスがシンゴの胸に添えていた手を滑らせるようにしてずらし、肩を掴んできたからだ。

 そのままトゥレスは軽く跳躍し、シンゴの肩を支えに倒立――その瞬間、直前までトゥレスがいた空間を烈風が横なぎにした。


「――――」


 その烈風の主は、振り抜いた足の反動で背を向けている。が、構わず軸足だけで跳躍し、背面状態から前向きに――逆のトンボを切った。

 真下から跳ね上がる踵がシンゴの肩で倒立するトゥレスの顔面に吸い込まれる。だが、踵は何もない空間を通過するだけで、対象を捉える事はなかった。


「瞬間移動……っ!」


 前方宙返りを終えて着地し、悔しそうに呻くのはアリスだ。

 彼女の見つめる先には、どこか悲しげな面持ちのトゥレスが無傷で佇んでいる。あの状態から瞬間移動でアリスの攻撃を躱したらしい。

 だが、おかげで両腕の再生は完了し、シンゴは体勢を立て直す事が出来ていた。


「『わるい、アリス、助かった……っ!』」


「――ボク、足しか出してないから、問題ないよね?」


「『……出来れば、今から手の方も借りたいんだけど』」


「じゃあ、まるごと貸して上げるよ」


 そう言って微笑みながら振り返るアリスに、シンゴは首肯で応じる。

 ピンチを救われておいて、手を出すななどとどの口が言えようか。それに、二人がかりで挑んだとしても、はっきり言って勝機はかなり薄い。

 それほどまでに、トゥレス・デトレサスの戦闘技術は圧倒的だ。


 イナンナとの戦闘は、権威を無効化するアリスの特性が極めて相性よく働き、あそこまで善戦できた感じがある。

 その大きなアドバンテージが、トゥレス相手には全く意味を成さない。はっきり言って、あの女よりもトゥレスの方が攻略難易度は上だろう。


「『――ッ!?』」「――ッ!?」


 彼我の戦力差に次の手を打ちかねていると、その隙を突くようにトゥレスが姿を消した。予備動作がない分、本当に厄介極まりない。

 シンゴとアリスが同時に息を詰めた直後、二人の間に音もなくトゥレスが出現――しなやかな足が一気に開脚され、シンゴとアリスをまとめて蹴り飛ばす。


 とは言え、あれだけ何度も多用され、かつ実際に食らったのだ。回避は不可能でも、被弾を前提に『技』の準備をしておく事くらいなら出来る。

 だが、それでも完全に対応が間に合った訳ではない。『受柔・殺』で威力を殺そうと試みたシンゴだが、殺し切れずに吹き飛ばされる。

 それでも上手く防げた方だ。雪の上を転がりながら、地面を殴り付けて飛び上がると、炎翼で姿勢を制御して危なげなく着地に成功する。


 そして、そのまま顔を跳ね上げて前方を見ると――、


「ぅ、くっ……!」


「『アリス――!?』」


 跪くような体勢のアリスに、後ろで腕を極めたトゥレスが圧し掛かりながら、その短剣をアリスの首筋に押し当てていた。

 逃れようと足掻くアリスだが、腕を完全に極められている所為で脱出できず、また自分の動きで腕関節に激痛が走り、その端正な顔立ちを苦痛に歪めている。


 すかさず助けに向かおうとするシンゴだったが、トゥレスの鋭い一瞥がシンゴの足をその場に縫い留め、身動きを封じてくる。

 ならば、目には目を。シンゴは『真憑依』から『激情』に切り替え、今度は逆にトゥレスの動きを封じてやろうと紫紺の左目に力を込め――、


「――っ!?」


 左目の力を使う寸前、シンゴはハッと息を詰め、驚愕に目を見開いた。

 唇を浅く噛み、怒りと憎悪と、そして悲しみが満ちた表情で、シンゴを睨み付ける真紅の双眸、その縁から溢れ出た涙が頬を伝う様を見てしまったからだ。

 その涙に言葉を失っていると、トゥレスがその濡れた瞳をアリスに向けた。


「お願い、だから……あっちの世界に、帰って……! あの方の、最後のお願いを……私に、守らせて……ッ!」


「…………」


 自分を見下ろす涙目、嗚咽交じりの震え声を聞き、顔を傾けてトゥレスを見上げたアリスも、目を見開いた状態で言葉を失っている。


「いい子だから……大人しく、フィーアの所に、帰って……っ!」


「――っ!?」


 縋るように、懇願するように紡がれた言葉、その中にあった人名にアリスが鋭く息を詰め、更に大きく目を見開いた。


「フィーアを……知ってるのかい?」


「……それは、知らなくて、いい」


 瞠目しながら、掠れた声でアリスが問いを発する。その問いかけに対し、トゥレスは一瞬、思わしげに瞳を細めるが、すぐに首を振って回答を拒絶した。

 そして、トゥレスは何かを押し込めるように一度きつく目を瞑る。やがて、ゆっくりと、感情がこぼれ落ちないよう慎重に目を開けて――、


「それよりも、向こうの世界に――」


「フィーアは死んだよ」


 静かに、感情を押し殺した声で告げられたアリスの告白に、トゥレスが「え?」と目を丸くする。何を言われたのか理解できないといった表情だ。

 そんなトゥレスの反応に薄く目を細め、アリスは顔ごと視線を下に落とすと、どこか寂寥感の滲む空虚な声音で、ゆっくりと噛み締めるように言葉を紡いだ。


「寿命で、死んだんだよ。彼女はもう、この世にはいない」


「……う、そ? ふぃ、あ……が、しん……だ?」


 凝然と目を見開き、震える声で言葉を吐き出すトゥレス。その拘束が緩んだ隙を見逃さず、アリスが素早く小さな声で『エア・デ・バースト』と唱える。

 小さな空気の塊が爆発したのは、拘束されていた手の平だ。完全に意表を突いたその魔法は、トゥレスの拘束を見事に振り解いた。

 余波で雪の上を滑るアリス、そんな彼女をトゥレスより先に回収するべく炎翼を全力で伸ばすシンゴだったが、そこまで慌てる必要はどこにもなかった。


「…………」


 何故ならば、トゥレスは何も反応を示さず、その場から動かなかったからだ。

 ぺたんと尻餅を着いたまま、呆然と虚空を見つめている。


「『……アリス、大丈夫か?』」


「ありがとう、ボクは平気だよ。それより……」


 シンゴに礼を述べてから、アリスがトゥレスに視線を向ける。そんなアリスに倣い、シンゴもトゥレスへと目を向けた。

 トゥレスは座り込んだまま、ぶつぶつと独り言のように『ふぃーあ』と呟き続けており、その戦意の喪失は『激情』を使わずとも窺い知る事が出来た。


「ふぃーあ……そんな、ふぃーあが……ふぃーあ……ぁぐっ!?」


 ぶつぶつと呟いていたトゥレスが、突然、呻き声を上げて頭を押さえた。

 その顔は苦痛に歪み、大量の冷や汗が滝のように顎を伝う。激しい頭痛に耐えるように噛み締められた歯のすき間からは、喘ぐような吐息が漏れ出している。

 そのただならぬ様子にシンゴは咄嗟に口を開くが、言葉は何も紡がれる事無く、やがて開いた口がゆっくりと閉ざされた。


「『――――』」


 シンゴとアリスの見つめる先に、トゥレスの姿はもう存在しない。

 おそらく、瞬間移動したのだろう。ぐるりと周囲を見渡してみても、彼女の姿はどこにも見当たらない。念の為に『激情』を発動させて悪意を探ってみるが、あの怒りと憎悪、そして深い悲しみを感じ取る事は出来なかった。


「――シンゴ、アリス」


「リノア、か」


 その声に振り向けば、イチゴを抱えたリノアが降り立つところだった。

 リノアが地上に降りて来たという事は、この場に脅威はもう存在しないという事を意味し、ようやく張り詰めていた緊張の糸を緩める事が出来た。

 そっと吐息し、肩の力を抜く。そしてリノアに抱かれたイチゴを見て、その小さな胸が確かに上下している様子に、今度こそ本当の意味で安堵の息を吐く。


「そういえば、イナンナと戦ってる時、イチゴの声が聞こえたような……」


「イチゴ、一度目覚めた。何か叫んで、すぐに寝た」


「そっか……じゃあ、やっぱあれは幻聴じゃなかったのな……」


 戦いの最中に響いたイチゴの声は、どうやら聞き間違いではなかったらしい。

 確か、『アドバンス』だっただろうか。正直、何か意味のある言葉には聞こえなかったが、今はイチゴの安全が確認できただけでよしとしよう。


「…………」


 黙り込み、静かに目を細めながら、シンゴはトゥレスの事を考える。

 はっきり言って、トゥレスの行動は謎だらけだった。しかし、薄っすらとだが、一つ確信めいたものを得る事が出来た。

 シンゴの抱える多くの疑問、そして宿命にも似た何かに対する答え、トゥレス・デトレサスという存在は、それらを紐解く重要な鍵に違いないという確信だ。


 そしてそれは、シンゴだけでなく、きっと彼女にも当てはまるはずで――。


「――――」


 その彼女は、無言でトゥレスが消えた場所を見つめていた。

 薄く細められた真紅の眼差し、固く引き結ばれた薄い唇、感情が排されたその横顔からは、彼女が何を思い、何を考えているのかは窺い知る事が出来ない。

 ただ、きっと彼女も確信したはずだ。トゥレス・デトレサスこそが、他でもない、アリス・リーベという存在に繋がる重要な存在である事を。


「――シンゴ」


「っと、そうだったな。こんな事してる場合じゃねえ」


 リノアに声をかけられ、シンゴは今が緊急の状況である事を思い出す。

 どこか一枚の絵画じみた光景、またその思案に横槍を入れる事への躊躇はある。だが、今はそんな個人的な理由で停滞を招く方が愚かだ。

 そう己に言い聞かせ、シンゴは咳払いを挟んでから、彼女へと声をかけた。


「えっと……アリス?」


「――うん、ごめん。集落に向かうんだよね?」


 思ったよりも小声になってしまったが、返答がちゃんとあって内心ほっとする。

 振り返って応じてくるアリスの表情も、いつもの凛とした面持ちだ。そして、今の状況もしっかりと把握できている様子で、何も問題はない。

 ただ――、


「集落には、俺とリノアの二人で向かおうと思う」


「――――」


 はっきりと告げたシンゴに、アリスはきょとんと目を丸くして沈黙。しかし、すぐに「ああ」と納得したような顔で頷き、その視線を横にずらした。


「イチゴを、このままにしておく訳にはいかないもんね」


「……悪い」


 軽く頭を下げて謝るシンゴに、アリスは困ったように苦笑し、


「どうしてシンゴが謝るのさ。こんな雪山に放置したら、イチゴは凍死しかねない。だから、誰かがイチゴを安全な場所まで運ばなきゃならない。消去法でボクが適任だってのは、わざわざ言わなくても誰だって分かる事さ」


 そう、現実的な問題として、イチゴをこのまま放置する事は出来ない。そうすると、誰かがその役を担わなければならないのだ。

 まず、集落に向かうに当たって、陸路で移動していては時間がかかり過ぎる。となれば、空を飛んでショートカットが出来るリノアは確定だ。

 残すはシンゴとアリスなのだが、アリスは今までの戦いで魔法を連発しており、かなりのフィラを消費しているはずである。


「あと、純粋な戦力面で見ても、今じゃシンゴの方がボクより強いだろうしね」


「いや、そんな事は……」


「謙遜は美徳ではあるけれど、時と場合によっては失礼に当たるよ?」


 人差し指を立て、片目を閉じたアリスが微笑みかけてくる。そのからかうような仕草に、シンゴは思わず「うっ」と言葉を詰まらせた。

 そもそもこの配役はシンゴが言い出した事であり、なおかつここまで言われてしまえば、もはや粛々と受け入れるしかないだろう。


「もちろん、ボクもイチゴの安全を確保したら、ちゃんと追いかけるよ」


「……ああ、待ってるよ」


「うん、待ってて。――キミには、ボクが必要みたいだからね」


 そう言って、薄く頬を染めたアリスがはにかむように笑った。

 その台詞が、勢いとテンションとその場のノリで口にした自分の言葉になぞられたものだと気付き、今さらながら恥ずかしさが込み上げてくる。

 それを気取られないように咳払いで誤魔化し、シンゴはリノアに振り返ると、


「そんな訳で、リノア、俺を抱えて集落まで飛んで欲しいんだけど」


「分かった。我も、『錫杖』は取り戻したい」


「……その、『錫杖』ってのについて、飛びながら詳しく聞いても?」


「それは、我の一存では決められない」


「……そうか」


 正直、何も知らないで済ませられないほど深く踏み込んでいる自覚があるのだが、リノアの説得に割く時間と労力を考えれば今は後回しでいいだろう。

 そう自分を納得させていると、イチゴをアリスに手渡し、離れ際にジッとその横顔を見つめてから、準備OKとばかりにリノアが頷きかけてきた。

 シンゴもシンゴで、イチゴの頭を優しく撫でてから、小さな声で「行ってくる」とだけ告げて、リノアの前に移動した。


「そんじゃ、安全運転で頼むぜ?」


「問題ない。かっ飛ばす」


「……安全運転で頼むぜ?」


 冗談のつもりで言ったのだが冗談では済まされない返答が返ってきて、シンゴは頬を引き攣らせながら振り返って念押し。

 だが、リノアは何も言わず、シンゴの背中に後ろから抱き着いてきた。そのままぎゅっとシンゴの腰をホールドし、黒翼を展開する。


「――シンゴ」


「――?」


 微かな緊張感に頬を強張らせていると、不意に呼びかけられた。

 見れば、イチゴを抱えながら、アリスが小さく手を振っていて――、


「――行ってらっしゃい」


 と、優しく微笑みかけてきた。


「――――」


 ――行ってらっしゃい。


 一瞬、アリスが浮かべた柔らかな微笑が、誰かの微笑みと重なって見えた。

 胸の奥に、あの時と同等の熱が込み上げてくる。これ以上ない送り出しの言葉に、シンゴは口元に不敵な笑みを浮かべ、ぐっと親指をアリスに突き出すと、


「ああ……ちょっくら行ってくる!」


「――出発」


 そんなリノアの合図と共に全身を浮遊感が包み込み、次の瞬間、飛翔した。

 ぐんぐんと上昇し、あっという間に地上を置き去りにする。やがてそれなりの高度に達した所で角度を変え、集落を目指して砲弾の如く加速したのだった。


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