第4章:73 『交差する赤と黒』
――間に合った。
腕の中にある生の温もりに、シンゴは心の底から安堵する。
そして神妙な面持ちになると、シンゴは腕の中で目を丸くしたまま硬直する少女に向けて、懺悔するように言葉を紡ぎ始めた。
「『……今までの事、全部謝るよ。本当に、ごめん』」
「――――」
「『さっきのアリスを見て、本当に心がどうにかなりそうだった。今まで俺は、こんな辛い思いをみんなにさせてきたんだなって、改めて思い知らされた』」
「――――」
「『でも、俺はもう逃げない。そう、約束したんだ。決めたんだよ。だから、俺は戦う。何があっても諦めないし、投げ出さない。君にも、そう誓うよ』」
「――――」
「『……アリス?』」
己が積み重ねてきた罪を自覚し、シンゴは深い反省の意と共に謝罪を口にする。そして、決意の面持ちで以て、その覚悟を言葉にした。
しかし一向に反応が返ってこず、シンゴは訝しげに腕の中を――シンゴの腕に抱かれるアリスに目を向ける。アリスは頬を薄っすらと赤く染め、まるで熱に浮かされたような表情で、シンゴの顔をじっと見つめていた。
「『……おい、アリス?』」
「――っ」
不審に思ったシンゴが再び呼び掛けると、きゅっと喉を詰まらせたアリスが更にその頬を赤らめる。視線を激しく泳がせ、何か言葉を発しようと口を開くが、淡い桜色の唇から漏れるのは「ぁ」やら「ぅ」といった無意味な音だけだ。
いよいよ以て心配になり、シンゴはぐっと顔を寄せて覗き込もうと――、
「ぁ、ま、やっ……!?」
「『おぶっ!?』」
激しく狼狽した様子で、アリスの突き出した両手がシンゴの顔を押しのけた。思わぬ反撃に、シンゴの口から情けない声が上がる。
と、ここでようやくアリスの態度に合点がいった。現在のシンゴは、赤い髪に真紅の双眸、発声時にはベルフの『声』が混ざり二重音声という状態だ。普段のシンゴを知る者なら、その変貌ぶりに戸惑いを抱くのも仕方がないだろう。
「『アリス、俺は――』」
「ようやく、本命が出おったかぇ」
弁明の為に紡いだ言葉は、途中で割り込んだ声によって中断させられた。
苛立ち交じりにそちらを見れば、グガランナ四体を侍らせた華美な女――イナンナが、得物を見据える肉食獣の如き鋭利な眼差しをシンゴに向けてきていた。
その濃密なプレッシャーに対し、しかしシンゴは小さく鼻を鳴らすと、
「『見て分かんねえのかよ。取込み中だ。邪魔すんな』」
「そのような不遜な物言いが余に通ると思うてかぇ? 多少、見た目が派手になったくらいで図に乗るでないわ、この愚物めが。貴様は大人しく、そして恭しく、余に『錫杖』を献上するのが早急の義務であろうがぇ」
「『また意味の分からねえ理屈を……』」
理解の及ばない理論を振りかざす相手に、シンゴは辟易と眉を顰める。
しかし、そんなシンゴの難色など気にも留めず、というより無視して、イナンナが無造作に金の扇子を振った。それを合図に、四体のグガランナが一斉に動く。
猛然と迫り来る四体の怪牛に、シンゴは小さく舌を打ち――、
「『アリス、ちょっと揺れるぞ――ッ!』」
「え……ぅわっ!?」
炎翼を己の体に巻き付けながら、シンゴは迫るグガランナに対して背を向けた。そのまま片足を軸に回転――軽い跳躍と共に、巻き付けた炎翼を一気に解放する。
振るわれた炎翼は扇のように広がり、宿主の身の丈を越えてもまだ拡大。ついにはグガランナ四体を包んでも余りある大きさに変化した。
それを見て、急制動をかけたグガランナが受け止めようと身構える。が、シンゴはそれに構わず、巨大な炎扇を躊躇なく一閃した。
炎の壁が通過すると、遥か遠くに吹き飛ばされたグガランナが――二体。
咄嗟に頭上を振り仰ぐと、雷光を纏った二体のグガランナが跳躍していた。そのまま真っ直ぐ、アリスを抱えるシンゴに目がけて飛来してくる。
真紅の双眸を見開くシンゴに向けて、落雷の如く降り注いだ二体のグガランナの拳と踵が炸裂――膨大な量の雪煙が舞い上がった。
「『――どこ攻撃してんだよ、バカ』」
「「――――――――ッッ!?」」
声が響いた瞬間、息を呑んだ――ように見えたグガランナ二体、その中間にシンゴはゆらりと陽炎めいた揺らぎを伴って出現。二体が反応する前に飛び上がると、両足を勢いよく左右に突き出し、グガランナの顔面を同時に蹴り砕いた。
二体のグガランナはそれぞれ左右に吹き飛び、雪の上を何度も跳ねながら、やがて遥か遠くで雪煙を巻き上げて雪に埋没した。
「……その力、吸血鬼のものかぇ?」
「『さあな。たぶん、そうなんじゃねえか?』」
一瞬にして四体のグガランナを力技で捻じ伏せたシンゴに、金眼を細めたイナンナが探るように聞いてくる。だが、それに応じるシンゴは適当だ。
なにせ、シンゴ自身、今の自分が“どういう状態”なのか詳しく把握している訳ではないのだ。言える事があるとすれば、今までに経験した最高出力の『激情』を遥かに上回る身体能力を存分に振るえるという事。そして、その力を十全に発揮できるだけの技量と共に、身体の使い方も熟知しているという事だ。
「『まあ、技術面に関しては、俺の相棒あっての話だけどな』」
そう、今のシンゴは一人ではない。その魂は、二つの魂から成り立っている。
おそらく、これは『憑依』なのだろう。ただ、今までとは違い、人格が入れ替わるようなものではなく、二人で一つの体を動かしている感覚に近い。
表面に強く出ているのは『キサラギ・シンゴ』のようだが、その他の部分には『ベルフ』が強く出ているように感じられる。
シンゴとベルフ、二人の繋がりが完全なものとなった事で結実した力だ。
あの銀龍の所為で遅延が生じていたが、あと少しの所までは来ていたのだろう。そして、あの無間地獄でシンゴがベルフを求めた事で、完全に繋がった。
つまりこれは、『憑依』の完成系。『真憑依』とでも言うべき状態だ。
――キサラギ・シンゴの、『激情』に次ぐ新たな力である。
「『――っと、そうだ。アリス』」
「は、はいっ」
「『なんで敬語……まあ、いいや』」
どういう訳か、先ほどからアリスは借りてきた猫のように大人しい。その奇妙な反応に思わず苦笑を漏らしてから、シンゴは真面目な顔になった。
そんなシンゴの真剣な眼差しに、ぎゅっと腕を胸元に引き寄せたアリスが緊張に頬を硬くする。どうやら息まで止めてしまったらしい。
その反応がおかしくて、つい真面目な表情が崩れてしまう。今さら取り繕っても仕方がないので、シンゴは微笑を湛えたまま言った。
「『アリス、俺と一緒に来てくれ。君の力が必要だ』」
「――へ?」
きょとんと、アリスが目を丸くして呆けた声をこぼす。
自分が何を言われたのか、いまいち理解できていないと言った様子だ。
「『目の前の問題を片付けたら、俺は元の世界に帰る方法を探す。元々、一筋縄じゃいかないってのは分かってたけど、更に一筋縄じゃいかないって事が分かった。だから、元の世界に帰る方法を探す手伝いをして欲しい。その後は、自由にしていいからさ。……頼む。一人じゃ何も出来ない俺を、どうか、助けてくれ』」
「――――」
一息に言い切ると、アリスは目を見開いたまま固まっていた。
その真紅の瞳を染めるのは、純粋な驚きの色だ。ただ、その驚きの色に混じって、小さな落胆の色が垣間見えた気がしたのは気の所為だろうか。
そうしてしばらく、無言のまま反応を待っていると、やがてアリスはどこか拗ねたように唇を尖らせ、ぽつりと小さく呟いた。
「……ずるいよ」
「『アリス……?』」
「そんな言い方されたら、断れないじゃないか……」
不満そうに言って、アリスが視線を逸らす。
まだ少し赤みが残るその横顔からは、やはり拗ねたような気配が伝わってきて。
「でも、それってつまり、元の世界に帰る方法が見付かったら、ボクは用済みって事だよね? もちろん、断るつもりなんてないけど……なんだかボク、都合のいい女みたいで、なんかヤだ」
「――――」
そう言って、アリスがシンゴの反応を窺うようにちらりと横目に見てくる。
その目にはきっと、唖然と口を開けて固まるシンゴの顔が見えた事だろう。証拠に、シンゴを見るアリスの瞳に不安の色が過ったのが見えた。
その姿はまるで、大人に悪戯を仕掛けるも、予想していた成果に結びつかず、不安がる子供のように見えて――思わず、小さく吹き出してしまう。
そんなシンゴの反応を見て、アリスが傷付いたような顔をする。だが、これ以上に拗ねられても困るので、シンゴは予め用意していた解答を口にした。
「『だったらさ、全部終わったら、俺んちに来いよ』」
「え? あ、うん、それなら……ぅえっ!?」
一度は頷きかけたアリスが、素っ頓狂な声と共に勢いよく顔を跳ね上げた。
目を限界まで押し開き、魚のように口をぱくぱくと開閉させながら、その顔が今までにないほど真っ赤に染まっていく。
「そ、そそ、それって、どういう……」
「『どういう意味も何も、そのままの意味だって。確か前にアリス、住む家が無いって言ってただろ? 俺の親父も元々居候だったみたいだし、今さら一人くらい増えても問題ねえよ。それに、その方がイチゴも喜ぶだろうしな。……まあ、アリスがこっちの世界で同族と一緒に暮らしたいってんなら、寂しくはあるけど、俺に引き止める権利は――』」
「い、行くっ! 行くよ! ボクも一緒に、シンゴと暮らしたいッ!!」
「『そ、そっか……じゃあ、まあ、その時は、よろしくな』」
食い気味なアリスの承諾を受け、シンゴは鼻白みながらもどうにか頷いた。
興奮した様子で、頬に手を当てながら「わぁ〜」とアリスが感激を顕にする。どうやら、特定の住家が出来た事が堪らなく嬉しいらしい。
シンゴ自身、期待薄だと考えていたのだが、ここまで食い付いてくれるとは思っておらず、心底から驚きを隠せない。駄目元で言ってみるものだ。
――ずっと、『金色の神域』に残ると言うアリスの選択が気になっていた。
諦めないと、母と約束を交わしてから、その思いはより強く、大きくなった。その選択の先に、本当にアリスの幸せがあるのかだろうか、と。
迷惑なお節介かもしれない。それでも、シンゴは改めてアリスに別の道を提示した。その結果、アリスは選んだ。少なくとも、先が途絶えた道ではない方を。
ここから先は、改めてアリスにその意思を確認しなければならない。そして、アリスにその気があるなら、シンゴはどこまでも付き合うつもりだ。
それこそ、元の世界に帰る方法が見付かったとしても、アリスにまだその意思があるなら、シンゴだけこちらに残り、一緒に手伝いたいと思うほどに。
ともあれ、今はアリスが別の道を選んでくれた事を素直に喜ぼう。
意思の確認等は、ひとまず目の前の問題を片付けてからだ。
「『――さて、待たせたな』」
「よい。余は寛大なれば、男女の睦言に横槍を入れるような無粋はせぬぇ。それが意義のある“待ち”であれば、尚更な。――『錫杖』の在り処、見定めたぇ」
嫣然と微笑み、イナンナが扇子の先端を向けてくる。その背後には、先ほどシンゴが吹き飛ばした四体のグガランナが戻って来ている。
そんな主従から視線を外し、シンゴはちらりと背後を振り返った。その真紅の瞳が映すのは、空中に浮かぶリノアと気を失ったイチゴだ。
何故、イチゴがここにいるのかは謎だが、念の為に、シンゴは視線でリノアに釘を刺しておく。この戦いには、参戦して来ないように、と。
リノアも察してくれたらしく、シンゴの視線に無言で首肯を返してきた。
――と、その時である。
「『ぃづっ!?』」
首筋に鋭い痛みが走り、シンゴは顔を顰めながら奥歯を噛み締めた。何かが自分の中から吸い上げられる感覚。見れば、アリスが首筋に噛み付いていた。
突然の事に目を白黒させていると、シンゴの首筋からゆっくりと牙を引き抜いたアリスが、その唇に付着した血を舌で艶めかしく舐め取り、
「――うん。やっぱり、これが“正解”だったみたいだね」
「『あ、アリス……?』」
「イチゴの血だけじゃ、ボクの『呪い』は完全に抑え込めてなかったみたいなんだ。それで、シンゴから貰ったんだけど……嫌、だったかな?」
「『……出来れば、事前に一言声を掛けて欲しかったかな』」
頬を掻きながら、苦笑いでそうシンゴが告げると、
「……だって」
「『――?』」
ちらりと、アリスがシンゴの首筋を見てくる。そして自分の唇に手を触れ、さっと顔を赤くすると、「な、なんでもないよ!」と言って目を逸らした。
訝しんでいると、アリスが身をよじり、シンゴの腕から離れた。雪の上に立ち、小さく深呼吸――次に振り向いた時には、戦意を宿した凛とした面持ちで。
「ボクも一緒に戦う。構わないね?」
「『……さっきも言ったけど、俺にはアリスの力が必要だ』」
「じゃあ?」
「『むしろ、俺の方からお願いするよ。――アリス、俺と一緒に戦ってくれ』」
シンゴの頼みを受け、アリスはどこか嬉しそうな顔で力強く首肯。そのままシンゴの隣に並び立ち、敵の方へと顔を向けた。
「……何か策は?」
「『ある。でも、あの女に近付かねえとダメだ。アリス、サポートしてくれ』」
「うん、分かった」
無茶な要望の自覚があったのだが、アリスはそれを二つ返事で受諾。その頼もしい返事に、シンゴの口元が自然と笑みを形作る。見なくとも、隣のアリスも同じような笑みを浮かべている事が分かった。
対する敵の顔にも笑みがある。絶対的自信に裏打ちされた余裕の笑みだ。
「――――」
――研ぎ澄まされた戦意が交わされ、濃密な一瞬が双方の間に横たわる。
その静寂を打ち破り、最初に動いたのはシンゴとアリスだ。深く腰を落とした体勢から、二人の姿が小さな雪煙を置き去りに一瞬で掻き消える。
凍える冷気を切り裂き、火の粉を散らす赤い残像が右に、風を纏う黒い残像が左を駆ける。左右に分かれた二人に対し、雷光を纏う怪牛が二体ずつ反応した。
電流が尾を引き、主に仇なす者らを屠らんと瞬く間に距離を詰めてくる。
だが、二人は足を止めない。互いに二本の雷光を引き連れたまま、やがて赤と黒のラインが交差する。すれ違い様に、四本の鉤爪に変化した炎翼がアリスに迫る二体のグガランナを切り裂き、鋭く宙を舞った黒い独楽がシンゴに迫る二体のグガランナの脳天を同時に踵で蹴り砕いた。
そして、その一瞬の攻防で生じた隙を突くように――、
「『昏倒しろ』。メー」
残虐な色を孕んだ金眼がシンゴを捉え、凶悪な権威がその意識を奪いにかかる。
しかし、シンゴがその意識を手放す事はない。両手を広げ、シンゴを背に庇う形でアリスが間に割り込んだからだ。
そんなアリスの背後から、『傲慢』の権威を免れたシンゴが赤い髪を揺らして勢いよく飛び出す。ほとんど同時に、炎翼に切り裂かれた二体と脳天を潰された二体のグガランナが再生を終え、一斉にアリスへと襲いかかった。
「『昏倒せよ』」
そこへ更に、今度は言霊の権威がシンゴの意識を閉ざしにかかる。
四体のグガランナがアリスを、言霊の権威がシンゴを襲う。だが、その言霊をシンゴは跳ねのけた。無論、気合で捻じ伏せた訳ではない。その右肩から伸びた炎翼がアリスの腰に巻き付いており、これで“触れる”という条件を満たしたシンゴは言霊の権威を克服。続いて炎翼を一気に引っ張り、アリスをグガランナの包囲網から脱出させ――そのまま並走に移った二人が、一気に本丸へと肉薄する。
「『加速しろ』。メー」
その事象の上書きは、猛然と迫るシンゴとアリスに向けられたものではない。それは二人の背後、四体のグガランナに対して向けられたものだ。
次の瞬間、猛然と並走する二人の横を四本の雷光が追い抜き、主を背に守るような位置で二人の前に立ち塞がった。
「『その拳は必中する』。メー」
立て続けに改変される事象、今度はグガランナの攻撃が不可避の属性を帯びる。
咄嗟にシンゴはアリスの細い腰に手を回し、踵で急制動をかけた。しかし、積雪に摩擦力を殺され、止まる事は叶わない。加えて、この状態では『残陽』も使えない。そもそも、敵の権威の力で回避は不可能だ。もはや、防御しかない。
そう判断して、シンゴは炎翼を壁のように展開――途方もない衝撃が炎壁に叩き付けられた瞬間、僅かに傾けて『受柔・流』により攻撃を上向きに流す。
更に、アリスが斜め上に片手を突き出し、『エア・デ・バースト』を発動。爆風で二人の体が後ろに倒れ、背中で雪の上を滑走――そのままグガランナの足元を滑り抜け、一気に突破。滑走から疾走へとスムーズに移行する。
と、目前にまで迫った二人に対し、イナンナが足元の雪を蹴り付けてきた。
「『全を切り裂く刃と化せ』。メー」
瞬間、雪の結晶一つ一つが鋭利な刃に変じ、眼前の空間全てを埋め尽くす。
回避は到底不可能、防御も恐らく通じない。ならばと、シンゴは炎翼を全力で振り抜く事で風圧を生じさせ、同じ結論に至ったらしいアリスも、全開の『エア・デ・バースト』で刃の壁を吹き飛ばさんと試みた。
「『――ッ!?』」
――しかし刃は、その“風”をも切り裂いた。
全を切り裂く刃、まさにその言葉の通り、その刃の前では如何なる障害も障害には成り得ない。逃れる為には、回避する以外に方法は存在しないのだ。
だが、その猶予は既に失われた。いや、猶予など最初から存在していなかった。あまりに広範囲で、あまりに近すぎて、あまりにタイミングが悪かった。
完全な詰みの状況、しかしシンゴは諦めない。決して投げ出さない。この状況における最善手を模索して、激しい頭痛がするほどに脳を回転させる。
「――アドバンスッ!!」
その時だ。遥か上空から、最愛の声が力強く戦場に轟いた。
その声が響くのと同時に、シンゴの眼前で信じられない現象が起きる。
空白が見当たらないほどに密集する刃群、その内の一つがすぐ隣に存在する刃とぶつかった。弾かれ合った二本の刃が周囲の刃を弾き、更に弾かれた刃が周囲の刃を巻き込んで――そうして衝突が連鎖し、やがて人間二人分の空白が生まれる。
それはまるで、二人の前進を妨げてはなるまいと、この世界が二人に対して道を譲ってくれているかのようで――。
「――っ」
刃の壁に空いた穴から、目を見張るイナンナの顔が窺える。
あの女も、この『予想外』には驚きを隠せなかったらしい。事実、こんな奇跡が起こる確率など、それこそ天文学的な数字のはずだ。
だとしても、不可能でない限り、それは可能なのだ。実際、奇跡は起きた。そして、その奇跡を本当の奇跡に出来るのは、その奇跡を受け取った者達だけだ。
「『――アリスッ!!』」
「いくよ、シンゴ――ッ!!」
刃のトンネルを跳躍で潜り抜け、着地と同時にシンゴが叫ぶ。その意思を先に汲み取り、跳躍の最中に空気の塊を準備していたアリスが声高に応じた。
猛然と駆け出すシンゴ。背中で広げた炎翼を受け皿に、アリスがシンゴに向けて放った『エア・デ・バースト』の爆風を推進力に変換――加速する。
「――ッ」
言葉を紡ぐ余裕はない。そう判断したのか、イナンナが迎撃の体勢を取る。
『呪い』の影響が残っていたとは言え、あのアリスを肉弾戦のみで圧倒。シンゴ自身、『激情』を発動させた状態で挑んで、その結果、赤子の手を捻るように返り討ちにされた。その異常な身体能力と高い戦闘技術は、身を以て経験している。
――それを理解した上で、シンゴは自ら『真憑依』を解いた。
髪から赤が抜け落ち、真紅の双眸が元に戻る。残ったのは、炎翼だけだ。
傍から見れば、限界を迎えて『真憑依』が解けたように見えただろう。事実、元の状態に戻ったシンゴを見て、イナンナが口端を笑みの形に引き裂いた。
その、勝利を確信した金眼を見据えながら――シンゴの左目が、紫紺に染まる。
「――ッ!?」
ぎろりと、紫紺の瞳に射抜かれて、息を詰めたイナンナの肩が小さく跳ねた。身構えた不自然な体勢のまま、恐怖に身が竦んだように硬直する。
この千載一遇のチャンスを逃す訳にはいかない。シンゴは瞬時に『真憑依』を再発動――再び髪が赤く染まり、左目の紫紺と右目の黒瞳が真紅に塗り替わる。
最後の距離を跳躍で一気に詰め、全力で手を伸ばす。しかし、そのタイミングでイナンナが小さくのけ反った。精神力だけで、恐怖に竦んだ体を動かしたのだ。
――伸ばした手は、ほんの僅かに届かない。
「『まだだ――ッ!!』」
限界まで伸ばされたシンゴの右手、その肩の付け根からごきりと異音が響いた。『蛇顎骨』、自発的な脱臼技により、肩の骨を強引に外す。
激痛が脳髄を焼き、視界が明滅する。だが、それを奥歯で噛み殺し、シンゴは腕を更に伸ばした。――指先が、辛うじてイナンナの細い首に触れる。
それは、爪先が掠る程度の、ほんのささやかな接触だ。それでも、触れた事実に変わりはない。そして、それが意味するのは、条件が満たされたと言う事だ。
体の中を巡る、奇妙な力の流れを感じる。不思議な感覚、初めて知る感覚。
生まれ持った体の中に、後天的に埋め込まれた新たな臓器が息衝くような、そんな異物感がある。力は、その中を通っていた。
血が体内に巡るように、その力は全身を巡り、その過程で『意味』を付与される。そして、意思を以て指先に集められ――一気に、解き放たれた。
――特殊魔法発動。
「『――封印ッ!!』」