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虚飾のアリス ‐不死の少年と白黒の吸血鬼‐  作者: 竜馬
第4章 とある兄妹の救済
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第4章:72 『提出期限の切れた解答用紙』


 吹き荒れる吹雪の中、『黒い亀』に複数の異形の影が群がっている。

 白い猿や白い竜、この辺りに生息する白い魔物達だ。その中には雷光を纏う二息歩行の怪牛――グガランナの姿も確認できる。

 しかし、彼らの爪や牙が『黒い亀』を傷付ける事は叶わない。硬すぎるのだ。そして当の『黒い亀』も、山のように身動きせず、我関せずの態度だ。


「――――」


 そんな烏合の衆を見下ろしながら、アリスは無言で隣の少女を見た。

 そこにはアリス同様にリノアに抱えられるイチゴの姿がある。緊張の糸が切れたのか、今は気を失って眠るように項垂れている。

 あの後、どうにかイチゴを回収し、アリス達は再び空中に避難していた。こうして安全圏に身を置いた事で、アリスはようやくその疑念と向き合う余裕を得る。


「イチゴ、キミは……」


 先ほど、突如としてこの戦場に現れたイチゴは、驚くアリス達が見下ろす先で、あろう事か戦場のど真ん中を走り始めたのだ。

 驚愕に次ぐ驚愕。しかし、それで終わりではなかった。結果から言えば、あれほど激しい戦いの中、イチゴは『黒い亀』の所まで無事に辿り着いた。


 何が目的だったのか、それは定かではない。ただ、あの瞬間、あまりにもキサラギ・イチゴにとって都合のいい展開が連続し過ぎていた。

 あの光景はまるで、その前進を阻む障害が勝手に取り払われていくかのようで。

 それに、イチゴがしきりに口にしていた言葉も気になる。『アドバンス』、だっただろうか。今にして思えば、イチゴの前進を妨げる障害が取り除かれる直前、必ずその言葉が叫ばれていたような気がする。


「まさか……魔法?」


 難しげに眉を顰めながら、アリスは一つの推測を口にしていた。

 しかし、すぐに首を振って否定する。他でもない、兄であるシンゴが魔法を使えないのだ。となれば、それは血を分けた兄妹であるイチゴとて同じはず――。


「ううん、今はそれより……」


 答えの出ない思考を早々に打ち切り、アリスは戦場へと目を向けた。

 その真紅の瞳が捉えるのは、半透明の蛇から逃げ回る過剰なまでに華美な女だ。イナンナ・シタミトゥム、凶悪な権威を扱う『罪人』の一人。

 おそらくだが、あの魔物の群れを呼んだのも彼女だろう。だが、彼女自身は先ほどから逃げ回るばかりで、反撃をしようとする気配が全く窺えない。


「……何かを、待ってる?」


 ふと、そんな考えが口を衝いて出た、その直後だ。執拗にイナンナだけを追いかけ回していた半透明の蛇が、突如その身を翻して進路を変じた。

 そして、その長い体躯を鞭のようにしならせると、雪を抉りながら、本体の『黒い亀』に群がっていた魔物の群れをまとめて薙ぎ払った。

 いや、正確には、その透き通った長躯は魔物の群れをすり抜けただけだ。しかし、どのみち結果は同じ――半透明の蛇に触れた魔物は何か魂のようなモノを引き摺り出され、例外なく雪に沈み、二度と動く事はなかったのだから。


 百体近くはいたであろう魔物が、一瞬にして壊滅した。唯一の例外は、雷光を纏い尋常ならざる速度で離脱したグガランナだ。ただし、離脱が叶ったのは四体の内の半数――つまり、たったの二体だけである。

 これで、イナンナの側に付いている二体のグガランナと合わせて、十体に増えたグガランナの総数は四体のみとなった。


「――あ」


 と、その様子を見下ろしていたアリスの口が小さな声を漏らす。目を見開くアリスの視線の先、『黒い亀』の足元に闇のような沼が生じていた。

 そして、沼という表現通り、『黒い亀』の体がその闇にゆっくりと沈み始めた。底なしの沼に呑み込まれるように、その巨体が徐々に降下していく。


「龍脈かぇ……」


 闇の沼に沈んでいく『黒い亀』に対し、金眼を細めたイナンナが何か呟いたような気がした。しかし、遠すぎてアリスの耳に届く事はない。たとえ聞こえる距離にいたとしても、アリスがその呟きを言葉として処理できていたかは怪しい。

 それほどまでに、闇の沼に沈む『黒い亀』を見たアリスの心は、途方もない動揺と焦燥によって激しく翻弄され、完全に平静を失ってしまっていたから。

 だって、あの『黒い亀』の中には、まだ彼が――。


「シンゴ……ッ!!」


 悲壮感に包まれた叫びを上げて、アリスは咄嗟に身をよじると、地面に下りようと暴れた。でも、腰に回されたリノアの手はアリスを解放してくれず、余裕のない表情でアリスはリノアを睨み付ける。

 そんなアリスの切羽詰まった抗議の眼差しに対し、リノアは静かに首を振ると、


「龍脈に潜る。もう、間に合わない」


「まだ間に合う――ッ!!」


「行っても何も出来ない。試練には、割り込めない」


「――っ」


 何も出来ない。はっきりとそう告げられて、アリスの顔が悲痛に歪む。だが、続けられたリノアの言葉は、アリスの心を覆う絶望に小さな光を生んだ。


「神が去る。つまり、試練が終わった。試練を越えていれば、シンゴは無事」


「それは――」


 無事という言葉を聞いて、アリスの顔が安堵に綻ぶ。が、すぐに陰りが差した。

 リノアが口にした『試練』とやらについてはよく分からない。ただ、リノアは“越えていれば”と言った。つまりそれは、“逆”もあるという事で――。


「――っ!」


 嫌な想像を振り払うように首を振り、アリスは必死に眼下に目を凝らした。

 今のやり取りの間に『黒い亀』は闇の沼に沈み切っており、その闇の沼もアリスの視線の先で綺麗に消失する。――そこに、人影は見当たらない。


 その意味を理解しても、アリスは目尻に涙を浮かべて懸命に目を凝らし続ける。

 冷たい感触が背筋に這い上がる不快感に抗いながら、キサラギ・シンゴの姿を探して、その紅い瞳が魔物の骸が積み重なる雪原を虚しく往復する。


 ――と、その時だった。


 何かを探すように首を巡らせていたイナンナが、その金眼をこちらに向けてきた。それも、何やら殺気にも似た敵意が滲む眼差しを。

 無視しようとしても、アリスにはそれが出来なかった。心は激情に呑まれながら、それでも微かに残った理性が訴えかけてくるのだ。


 今にも泣き出しそうな顔で唇を噛み、アリスの視線がイチゴに向く。

 そして次に、イナンナの周囲に控える四体のグガランナを見る。あの厄介極まりない落雷の事が脳裏に過った。

 今のアリス達は、あの落雷からしてみれば格好の的だ。吸血鬼であるアリスとリノアはまだいい。しかし、ただの人間であるイチゴは話が別だ。


 ――決断するのに、迷いの過程は存在しなかった。


「……リノア、イチゴを頼むよ」


 覚悟を宿した面持ちでそう告げると、アリスはリノアの返答を待たず、手の平に小さな空気の塊を生成――自分を抱えるリノアの二の腕に炸裂させた。

 『エア・デ・バースト』、威力を最小限に抑えたその小さな爆風は、リノアの細い腕を跳ね上げて、アリスの目論見通り拘束から逃れる事に成功する。


「アリス――」


「ごめんっ!」


 自分の名を呼ぶ声を頭上に置き去りにして、落下したアリスは冷たい雪のクッションに危なげなく着地する。そして、顔を上げれば――、


「余は、待たされるのがこの上なく嫌いでな。それに、ただ逃げ回るだけというのも性に合わん。他に手はなかったとはいえ、あのような屈辱は久方ぶりぇ。――故に、『虚飾』、これより貴様を半殺しにする。どのみち貴様を余のコレクションに加えるのは決定事項よ。余のストレスも発散でき、上手くいけば本命も引き摺り出せる。この上なく合理的で効率的な提案だとは思わぬかぇ?」


「……そう簡単に、捕まってあげるつもりはないよ」


「貴様の意思など聞いておらぬわ。貴様は大人しく頷き、諸手を上げて歓喜しながら、余から受ける死を死なぬ程度に甘受するだけでよいのぇ」


「…………」


 尊大な態度で、顎を上げて見下すような角度で見据えてくるイナンナ、その折り畳まれた金の扇子がアリスに突き付けられる。

 その扇子の先端を睨みながら、アリスの目が無言で細められる。一瞬、瞳が逡巡に揺れた。やがて、アリスは縋るような面持ちで口を開くと、


「もし、ボクが大人しくその提案を呑めば……アナタは、アナタなら、シンゴを助ける事が出来ますか?」


「阿呆が。他を当たれ」


 そんなアリスの願いを一蹴し、不機嫌そうに鼻を鳴らしたイナンナが扇子を無造作に振った。それを合図に、四体のグガランナが一斉に駆け出した。

 顔を苦渋に歪め、アリスは迎え撃つべく構えを取る。だが、相手は雷光を纏っていないとはいえ、四体だ。たった一体でも勝てる気がしないというのに、それを四体も相手取るなど、もはやアリスの敗北は確定したようなものだ。


 だが、ただで敗北してやるつもりはない。リノアがイチゴを連れて安全圏まで離脱する時間を稼ぐ事くらいなら出来る。いや、やるのだ。

 リノアならきっと、イチゴの安全を第一に考えてくれるはずで、勝ち目のないこの戦いに参戦してくる心配はおそらくないはずだ。


「――ふ」


 思わず、自嘲の笑みがこぼれる。あれだけ彼を糾弾しておいて、結局自分も彼と同じ事をしようとしているのだから、これが笑わずにいられようか。

 アリスのこれは、決して自己犠牲などではない。二人を逃がす為、そんな都合のいい口実で、単に全てを投げ出そうとしているだけに過ぎない。


 誤解しないでもらいたいのだが、空中に身を躍らせた時点では、アリスは二人を逃がすだけでなく、本気で自分自身も助かる道を模索していた。

 でも、雪の上に降り立ち、顔を上げて眼前の絶望を視界に収めた瞬間、アリスの心は自然と諦める事を選んでいた。それこそ、自分が一番驚いたほどだ。


 諦めるつもりなんて全くなかった。にも拘わらず、気付けばその足は、何の躊躇いも抵抗もなく、自然と諦める道を歩き始めていた。

 足は止まらない。振り返る事もない。引き返すという選択肢など初めから存在していないかのように、アリス・リーベは当然の如く諦めた。


 自分がこんな選択をした原因には、なんとなく目星が付いていた。

 今この瞬間も、ずっと彼の事を考えている。いや、彼の事しか考えていない。

 だからきっと、自分が諦めたのは、こんな自暴自棄に等しい愚行を犯そうとしているのは、おそらく彼の喪失が原因だ。


 そう、彼は失われた。何かに失敗して、『黒い亀』と共に闇へ沈んでしまった。

 彼とはもう二度と会えない。そう思うと、痛かった。心が、死ぬほど痛かった。これは、フィーアを失った時と同等か、それ以上の痛みだ。

 己という存在の根幹が激しく揺らぎ、冷たい虚無に蝕まれていくのが分かる。


「――ぁ」


 ふと、小さな声が漏れて、アリスの目が大きく目を見開かれる。それは、今この瞬間、唐突に胸の奥にすとんと落ちるものがあったからだ。

 彼を失って、初めて気付いたのだ。ようやく、自覚する事が出来た。ずっと空欄だった解答欄が、すんなりと埋まってしまう。


「そっか、私は……」


 優しく目を細め、微笑をこぼす。空虚で儚げな、ひどく脆い笑みだった。

 その先が言葉になる事はない。ただ、提出期限の切れた解答用紙が、大切な宝物を扱うように、優しく、丁寧に、引き出しの奥にそっと仕舞われる。


 気が付けば、既に体は傷だらけで、まるで意識と肉体が切り離されたような感覚の中、アリスの肉体は四体のグガランナを相手に鬼神の如く奮闘していた。

 そんな自分を後ろから見つめながら、アリスの意識は奇妙な違和感を覚える。

 もっと速く、強く、鋭く、自分なら動けるはずだという確信と、その確信に肉体が追いついていないような、そんな齟齬からくるもどかしさ。


 しかしそれも、すぐに気にならなくなる。終わりが近いのを感じたから。

 肉は抉れ、骨もひしゃげて、内臓は潰れている。口の中は血の味しかせず、霞む視界の端に映る自分の白い髪は、今や己の流した血で真っ赤に染まっていた。

 吸血鬼の中でも異質らしい自分の再生力も、それを上回る負傷の密度に、完全に置き去りにされてしまっている。遠くに聞こえるのは、果たして終幕を告げる幕引きの音か、それとも死を運ぶ死神の足音か。


「……ぅ」


 ぐらりと、限界を迎えた体が前に傾く。それを迎え撃つように、真横から極太の黒い脚に腹を蹴り上げられて、アリスの体がぼろ雑巾のように宙を舞った。

 回る視界の中で、ふと空中に留まるリノアの姿を見つける。イチゴを強く抱き締めながら、いつもの無表情ではなく、必死の形相でこちらに何か叫んでいる。

 出来れば逃げて欲しかったが、ちょっとだけ嬉しくもあった。こんな諦めた自分を諦めてくれずにいてくれた事に、ほんの少しだけ救われた気分になる。


「ぁ、り……が、と……」


 聞こえないと知りながら、血塗れの唇は勝手に動き、感謝の言葉を紡いでいた。そして、最後の力を振り絞り、小さく微笑む。

 そのアリスの笑みを見て、リノアの顔が悲痛に歪んだのが見えた。そんな顔をさせてしまった事が申し訳なくて、出来れば笑顔が見たかったなと少し悔しくて。

 そんな場違いな思考と戯れていると、視界の端に雷光が瞬いた。それは、アリス・リーベを終わらせる、確かな一撃に違いなくて――、




「『終わらせるかよ――ッ!!』」




 その終わりを否定したのは、耳慣れない『声』だった。

 そして気が付けば、アリスは誰かの腕に抱かれていた。腕の主を確認しようと顔を上げるが、それよりも先に紅蓮の炎がアリスを包み込む。


 反射的に体が強張る。でも、その炎が燃やしたのは、アリスの傷だけだった。

 温かくて、優しくて、どこか安心する熱に包まれる。全身に甘い疼きが広がり、思わず「んっ」と自分で聞いていて恥ずかしくなるような声が漏れた。

 そして、その疼きがおさまると、視界を覆う炎の膜が取り払われ――、


「――――」


 最初に視界に飛び込んで来たのは、炎のように鮮烈な赤い髪だった。

 少し下に視線を下げれば、アリスと同じ真紅の双眸と目が合う。その紅い瞳はアリスを真っ直ぐ見つめており、やがて安心したように細められた。

 緩んだ口元からは長い犬歯が覗き、その真紅の瞳と合わせて、自分を抱き抱える目の前の人物がアリスと同じ吸血鬼なのだという事を伝えてくる。


「『まだ、どこか痛むか……?』」


「――っ」


 発せられた声は、まるで二人分の声が重なるように、二重に聞こえた。

 だが、アリスが鋭く息を呑んだのは、それが理由ではない。重なる二つの声、その片方の声に、どこか聞き覚えがあったのだ。

 まじまじと、アリスは丸くした目で眼前の人物を見つめる。胸の奥で心臓が高く跳ねて、頬が火傷しそうなほどの熱を帯びていくのが分かった。


「……しん、ご?」


「『――遅くなって、ごめんな、アリス』」


 震える唇が紡ぎ出したその名に、少年は泣き笑いのような顔で頷きかけると、囁くような声で遅刻を詫びてきたのだった。


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