第4章:71 『産声』
『――わしは、ぬしが嫌いじゃ』
「…………」
怒りを隠そうともしない、辛辣な言葉だった。
果ての見えない黒一色の床と、果ての見えない白一色の空が広がる。たった二色で成立する世界はどこか無機質で、ひどく完成されているように思えた。
そんな黒と白で構成される空間において、異物があるとすればそれは二つ。
一つは、語るまでもなくキサラギ・シンゴである。そしてもう一つは、今しがたシンゴに向けて辛辣な言葉を吐きかけた存在――一人の、幼女だ。
濡れ羽色の髪に翡翠の瞳、その瞳と同じ色合いの薄い衣が幼い体を包んでおり、首の後ろに見えるのは半透明の黒い羽衣だ。
そして幼女は、身の丈ほどはある漆黒の亀の甲羅にしなだれかかるような体勢で乗っており、首をもたげながら冷たい眼差しでシンゴを見ている。
その幼い容姿に見合わない妖艶な色香と神秘的な雰囲気に呑まれて、瞠目したまま二の句が継げずに固まるシンゴの背筋が寒気に震えた。
やがて、幼女が視線を切るように瞑目――そこで呼吸という義務を放棄していた肺が思い出したように痙攣し、シンゴは目を見開いて激しく咳き込んだ。
そんなシンゴの様子に小さく息を吐き、再び瞼を開いた幼女が翡翠の眼差しでシンゴを見やりながら、ゆっくりとその唇を開いた。
『生を以て死を遠ざけ、死を以て安寧とする。その矛盾こそが命の本質であり、安易に死の安寧を得ようなど、それは命に対する冒涜じゃ。甘えるな』
じろりと、翡翠の瞳がシンゴを糾弾するように射抜いてくる。
その冷たい眼差しに、シンゴはぐっと唇を引き結んだ。甘えてきた、その自覚があるから。だから、反論の言葉など出てくるはずもなかった。
唇を噛み、俯いたシンゴを幼女はしばし見つめていたが、やがて『自覚が芽生えただけマシかの』と小さく嘆息し、
『母に感謝するのじゃな。あの者の協力なくしてぬしがここに立つ事はなかった』
「その言い方……じゃあ、やっぱり、母さんは……!」
『本物じゃよ。わしが直々に冥府より呼んだ。全く、ぬしの妹には驚かされる。よもや、このわしにまで干渉してきおるとは……』
「イチゴ……? 待て、なんでそこでイチゴが……!」
『それは向こうで本人から聞け。わしが答えてよい質問ではない』
イチゴの関与を仄めかす発言に、シンゴは思わず前のめりになる。しかし取り付く島もなく、幼女にきっぱりと拒絶の意を示された。
尚も食い下がろうとするシンゴだったが、固く唇を引き結んだ幼女は頑として口を開こうとはせず、シンゴは口惜しげに閉口せざるを得ない。
しかし、似たような話をどこかで聞いたような気がする。首をひねるシンゴだったが、すぐにその既視感が母との会話の中にあった事を思い出した。
イチゴにも感謝を、確かそんな話だったか。一体、イチゴは何をしたのだ。あまり無茶な事をしていなければいいのだが――。
「そういえば……」
ふと思い出し、顔を上げたシンゴは眼前の幼女を見る。
母が言っていた感謝の対象には、『神様』も含まれていたはずだ。あの時は比喩的な表現だと思ったのだが、この幼女が本当に母をあの世から呼び戻してくれたのだとしたら、母の言う『神様』とは――。
「……あんた、何者なんだ?」
『わしか? わしは玄武。世界の均衡を支える四本柱の一柱にして、生と死の神じゃよ。生憎と、真名の方は『傲慢』に渡ると厄介故に明かせんがの』
ゆっくりと体を起こし、神を名乗る幼女――玄武が、亀の甲羅の上で剥き出しの足を揃えながら艶めかしく横に流して座った。
どうやらシンゴの推測は正しかったらしい。その人ならざる気配には、この幼女が正真正銘の『神』であると納得させるだけの説得力があった。
「……待てよ? 玄武ってまさか、あの四神の玄武か!?」
一拍遅れて、シンゴの目が驚愕に見開かれる。
玄武とは、かの有名な四体の聖獣、その内の一体の名称だ。無論、そんな事は誰でも知っている。しかしそれは、シンゴの世界での話だ。
偶然、なのだろうか。それとも、シンゴの世界の四神と何かしら関係が――。
『――逆じゃ』
「……え?」
『ぬしらの知る四神、その大本はわしらじゃ。源流はこちらで、下流はそっち。おそらく、この世界の者がぬしの世界に渡り、わしらの存在を伝え聞かせたのじゃろう。この世界とぬしの世界にどういった繋がりがあるかは知らんが、かの邪神の影響で双方の世界のありとあらゆる時代と場所において時空の歪みが生じ、その穴に落ちて世界を渡る者は少なからずおるという話じゃよ』
さらりと明かされた驚愕の事実に、シンゴは呆然と口を開けて絶句した。
しかし直後、ハッとしてあの神社に出現した次元の穴を思い出す。今の話が事実なら、シンゴ達は今の話に出て来た『世界を渡る者』になるのだろうか。
だとしたら、その辺りについてもう少し詳しく話を聞ければ、もしかしたら元の世界へ帰る為の手掛かりが掴めるかもしれない。
『いや、それは難しいじゃろうな』
「な、なんで……」
『次元の歪みは天災のようなもので、言ってみれば自然現象に近しい。神ならいざ知らず、人の身でそれを御する事など出来るはずもない。中には例外もおるじゃろうが、そのような輩は外法に手を染めた外道と相場が決まっておる。無暗に接触を図れば、引きずり落とされて二度と戻って来れんようになるぞ』
「それは……いや、だったら、神のあんたなら……!」
『無理じゃ。今のわしは力の大半を別の事柄に割いておる。ぬしの母を冥府より呼んだのも、ここがわしの世界であればこそじゃ。それも、たった一人の魂を僅かばかり繋ぎ止めるだけで限界じゃった。無論、他の四神もわしと同様じゃよ』
「そう、なのか……」
期待を悉く撃ち落とされて、シンゴは肩を落として項垂れる。が、直後にハッと息を詰めて、顔を上げたシンゴは頬を硬くした。
気付いたのだ。今の話が本当なら、元の世界に帰る事は実質不可能だと。外法に頼ればその限りではないようだが、それは誰かを生贄にするという事だ。以前のシンゴなら迷わず志願しただろうが、母との約束がその自己犠牲を許さない。
何よりシンゴ自身、平穏への回帰を望んでいる。またあの日常に戻りたいと。しかしそれは、決して誰かの犠牲の上に成り立ってはならないのだ。
「くそっ、どうすりゃいいんだよ……ッ!」
『こら、話は最後まで聞かんか。確かに自然発生の次元の歪みに関しては人の手でどうこう出来る代物ではない。じゃが、ぬしの前に現れたものは例外じゃ。あまりにも不自然さが際立つ。理を外れた何かしらの意図を感じる』
「……どういう事だ?」
『言ったじゃろう。次元の歪みはありとあらゆる時代と場所に生じておると。にも拘わらず、ぬしらの前に現れた次元の歪みはぬしらを同じ時代の同じ場所に導いた。これが二人ならばまだ偶然と呼べるかもしれぬが、四人ともとなれば話は別じゃ。おそらくじゃが、自然的なものではなく、人為的なもの……』
「人為的って……じゃあ、あの次元の穴は誰かが意図的に開いたものなのか? 一体、誰が、何の為にそんな事を……」
思わぬ事実が明らかとなり、シンゴは愕然と声を震わせる。
あの神社に現れた次元の穴は、誰かが意図的に開いたもの――仮にそれが事実だとした場合、既にシンゴ達は玄武の言っていた外法に絡め取られている。
しかし、その意図が分からない。あの穴を通ったのは四人。シンゴとイチゴ、そしてあの全ての元凶である女と――、
「――アリス、か?」
アリスは元々この世界の住人である可能性が高い。加えて、アリスには『罪人』の権威を無効化するという不可解な力が備わっている。
ふと脳裏を過るのは、あの女がアリスを見て放った言葉だ。
「『虚飾』のアリス……」
スッと目を細め、シンゴは舌の上で転がすように呟いた。
仮に、アリスをこの世界に招く事が目的だったとしたら、アリスがあの神社にやって来たところから既に仕組まれている可能性がある。
アリスは言っていた。この次元の穴は『異世界』に繋がっていると。あの時は勘だと言い張るアリスを信じたが、それも疑わしくなってきた。
――何者かが、アリスにそう吹き込んだのではないだろうか?
「ちゃんと仲直り出来たら、聞いてみねえとな……」
そう思考の決着を迎えて、シンゴは深く吐息すると、
「何はともあれ、俺は絶対に諦めねえぞ。誰も不幸にせず、必ず元の世界に帰る方法を見付け出してやる」
今さら障害が一つや二つ増えたところで、シンゴの決意は揺るがない。こんな困難など、あの無間地獄に比べれば可愛いものである。
そう己を鼓舞していると、不意に玄武がふっと小さな笑みを漏らした。
『さすがに、あれだけの地獄を経験すれば、これしきの事では屈さぬか』
「怪我の功名ってやつだな。まあ、多少は精神的にタフになった自覚はあるよ。母さんの件以外は微塵も感謝しねえけど」
苦笑と共に皮肉を述べて、今の話はいったん頭の片隅に置いておく。代わりに、今度はそこに置いてあった別の疑問を引っ張り出した。
「なあ、さっきの『傲慢』がどうこうって……」
『分かっておる。ぬしが知りたいのは『傲慢』の権威についてじゃろ?』
「やっぱ、知ってんのか!?」
思わず足を一歩前に踏み出すシンゴだったが、玄武の眉間に微かに皺が寄るのを見て、慌てて足を止めた。どうやら本当に嫌われているらしい。
大人しく前に出た分だけ下がると、それを見届けてから眉間の皺を緩めた玄武が口を開いた。語られるのは、あの凶悪極まりない権威についてだ。
『ぬしの想像通り、アレは事象改変の権威じゃ。しかし、縛りもまた厳しい』
「縛り……発動条件、みたいなもんか?」
『そうじゃ。まず、改変する対象の真名を知っていることが大前提。次に、改変内容を言葉とし、最後に力ある詞で締めること。そして言葉を紡ぐ間は対象から決して目を離してはならない。他にもまだあるが、ぬしの性質からしてあまり選択肢を増やすのは得策とは思えんの。ひとまず、今の三点を念頭に置けば問題なかろう。あとは純粋に、ぬしの力量次第じゃ』
期せずして手に入れた『傲慢』の情報。シンゴは腕を組むと、その三つの発動条件から権威攻略の糸口を探して頭を回した。
微かにだが、光明が見えた気がする。細くて淡い、目を凝らさなければ見落としてしまいそうなほどの小さな光点だ。それでも、光が見えた。
『そうじゃ、考えろ。生きるとは考える事じゃ。思考を止めた時点で生はその鼓動を止めるぞ。故に立ち止まるな。振り返らず、進み続けるのじゃ』
「――ああ、分かってる。教えてくれて、ありがとう」
素直に感謝の言葉をシンゴが述べると、玄武は何を思ったのか亀の甲羅から飛び降りて、自分からシンゴに向けて歩み寄ってきた。
そして片手を持ち上げると、身構えるシンゴの胸に小さな手の平を触れさせて――やがて、それ以上何をするでもなく、ゆっくりと手を離した。
眉を寄せ、シンゴは己の体に触れて確認するが、特に何かをされたような形跡も見当たらず、訝しげな眼差しを玄武に向ける。
『確かに渡したぞ』
「何を……」
『わしらの母はぬしを気に入っておるようじゃが、だからと言ってわしは無理強いするつもりなどない。残り三つの試練を受けるか否かはぬしの好きなようにせい。――これから先の歩み方は、自分で考え、自分で決めろ』
一方的にそう言ってから、不意に玄武が一歩距離を詰めてきた。思わずのけ反るシンゴの顔を間近から見上げ、その濡れ羽色の髪を揺らして小首を傾げると、
『どうじゃ? ぬしは、ここで何を掴み取った?』
「――――」
その問いかけに目を見開いてから、やがてシンゴは静かに瞑目した。
瞼の裏側に、ここで見た様々な世界の光景が再生されては消えていく。正直に言えば、今すぐにでも忘れてしまいたい辛い記憶ばかりだ。
でも、それはしない。ここで得た全てを抱えて、シンゴは生きていく。
――母の声を、笑顔を、言葉を思い出す。
自然と口元が綻んだ。そして目を開けると、堂々と胸を張り、ぐっとサムズアップを玄武の顔の前に突き出す。誇らしげに、自慢するように言ってやった。
「愛と、勇気と、その他諸々――ッ!」
『――そうか』
ニッと歯を見せて笑うシンゴを見て、玄武が満足げに微笑んだ。
その笑顔からは今まであった険が取り払われており、初めて玄武が素の表情を見せてくれたように思えた。少しは、認めてもらえたという事なのだろうか。
『――わしは、ぬしが嫌いじゃ』
「…………」
『じゃが、試練を受ける前に比べれば多少マシになった。しかし、勘違いするでないぞ? マシになっただけじゃ。このわしに好かれたいなら、行動で示せ』
腕を組み、横を向いた玄武が挑発的な流し目を送ってくる。
確かに、嫌われるより好かれる方が絶対にいい。ただ――、
「別に、幼女に好かれてもなぁ……」
『何を言うか。言ったじゃろうが。わしは万全ではないと。言っておくが、本来のわしはばいんばいんじゃぞ?』
「本気出します」
『現金な男じゃな……しかし、それだけ軽口を叩ける余裕があれば問題なかろう。――ちなみに、わしが元の姿を取り戻す時は、この世界の滅亡を意味する』
「ダメじゃん!?」
思わず目を剥くシンゴに、玄武はくつくつと楽しそうに笑い、そこでハッと思い出したように口を手で押さえると、
『おっと、いかんいかん。わしはぬしの事が嫌いな設定じゃった』
「おい、あんた……」
『誰かと会話するのは八百年ぶりなのじゃ。お茶目な神の冗談と聞き流せ』
ひとしきりシンゴを弄って満足したらしく、玄武は不意に真面目な顔になると、
『勝算は?』
「……ある、とは断言できない。でも、俺は一人じゃない。仲間がいる。それに、頼もしい相棒もな」
そう言って、シンゴは親指で自分の胸を指し示す。
それを見て、目を細めた玄武は『なるほどの』と頷き、直後に首を横に振った。
『昔話に花を咲かせたいのは山々じゃが、今は大人しくぬしを送り出すとしよう』
「ああ、見ててくれ。そして、出来ればあの世の母さんに伝えてやって欲しい。木更木・真護の自慢の息子は、ちゃんとヒーローやれてたぜってさ!」
『いいじゃろう。見届け、そして伝えると約束しよう』
不敵な笑みを浮かべるシンゴの頼みを、玄武は首肯で以て請け負ってくれた。
それを見届けてから、シンゴは玄武に背を向けた。そのまま真っ直ぐ、果てのない黒い床を踏み締めながら、果てのない白い空の下を歩き出す。
気付けば白と黒が剥がれ落ちるように崩れ、世界の崩壊が始まっていた。しかし、歩みは止めない。振り返る事もしない。
――剥落する世界を、キサラギ・シンゴは迷いなき足取りで歩いて行く。
『――シンゴ』
「ああ」
『満ちたぞ、シンゴ』
「ああ」
『今、全てが満ちたぞ、シンゴ――ッ!!』
「ああ!」
喜びに打ち震える『声』に、シンゴもまた喜びの声で応じた。
二つの魂が重なり、混ざって、一つに溶け合っていく。
剥落する世界を歩くシンゴ、その茶色い頭髪が毛先からゆっくりと赤く、燃え盛る炎の如く鮮烈な赤に染まっていく。
笑みを浮かべる口元からは犬歯が鋭く伸び、右肩から噴出した炎翼が喝采を上げるように激しくうねり、そして――、
「『いっちょ、派手に暴れてやろうぜ――ッ!!』」
――真紅に輝く両目を見開き、今一つとなった魂が、高らかに産声を上げた。