第4章:70 『証明完了』
切り替わった世界に存在が順応を終える感覚。何度も経験したその感覚を確認してから、シンゴはゆっくりと息を吐いて目を開けた。
地平線の彼方に沈んでいく夕陽が空を血のように赤く染めている。その幻想的な世界を背負いながら、崖の縁に一人の少女が静かに佇んでいた。
風になびく短めのポニーテール、青みがかった瞳を怯えるように揺らし、胸元にぎゅっと引き寄せられた両手の震えは、その不安を如実に表している。
「――――」
あと一歩、後ろに下がれば転落は免れない。
切迫した状況を理解した途端、緊張で喉が渇き、心臓が強く脈打った。
「――――」
深く息を吸い込み、細心の注意を払って吐き出す。
きっと、この次はない。これが最後の世界なのだと、そんな確信があった。母とのイレギュラーな再会が原因なのか、それともただの回数上限に達したのか。
理由は分からない。ただ一つ言えるのは、失敗は許されないという事だ。
「い――」
意を決し、シンゴは妹の名を呼ぼうとした。だが、最後まで言い切る前に、二つの巨大な影がシンゴの両脇を背後から駆け抜ける。
考えるべきだった。一体、イチゴが何に怯えているのかを。
しかし、後悔しても既に遅い。猛然とイチゴに迫るのは、二体の四足獣――オール・イン・ワンの『特異種』だ。
「――ッ!」
次の瞬間、鋭く瞳を細めたシンゴの足が弾かれたように地を蹴った。
足を回す。死に物狂いで。だが、ただの高校生の脚力が敵う相手ではない。詰まらない距離、それどころか引き離される現実に、冷たい絶望が心を満たしていく。
だが、その冷気は心の芯までは冷やせない。何故ならそこには、母から貰った強い炎が燃え盛り、諦めるなとシンゴを叱咤してくれているから。
だから、この熱がある限り、シンゴはどこまでも――、
「ぅ、おおぁ――ッ!!」
左目が紫紺に染まり、シンゴの体が一気に加速する。
母に貰った熱が燃え上がり、全身に巡る力が勢いを増す。更に、加速した。
一瞬で距離は詰まり、シンゴは『特異種』に並ぶ。しかし当然、『特異種』がそんなシンゴを見逃すはずもなく、右の個体が首を捩じって噛み付いてきた。
「邪魔すんなぁ――ッ!!」
その悪意を事前に感知していたシンゴは、右から突き出される『特異種』の顔、その横っ面を思い切り蹴り飛ばす。
カウンターを喰らって吹き飛ぶ『特異種』には見向きもせず、シンゴは体勢を立て直して残りの一体を追いかける。
「――っ」
しかし、今の一瞬の攻防で再び距離が開いており、シンゴは奥歯を噛み締める。
そして、残酷にも理解してしまった。このままでは追い付けない。『特異種』の爪がイチゴに届く方が僅かばかり速い。
それを理解した瞬間、シンゴの顔が絶望に歪む。必死に光明を探るも、目の前にはただただ暗闇が広がっているばかりで――、
――明けない夜はない。明日もまた、陽は昇る。
「――ッ」
脳裏に蘇った父の言葉に、俯きかけていた顔が再び前を向く。
そうだ、まだ終わっていない。最後の最後まで、自分に出来る事を探すのだ。諦めるな。抗え。探し出せ。自分に出来る何かを。そう、自分、に――。
「――助けてくれッ!!」
確信はなかった。それでも、信じている自分がいて。
母がそうしたように、自分もまた、信じてみようと思った。だからシンゴは、助けを求めた。果たしてその声に、応じてくれる者は――、
「まっかせなさいなぁ――!!」
「言うのがおせぇんだよ――ッ!!」
声が、聞こえた。シンゴの声に、応じる声が。
目を見開くシンゴの眼前、イチゴに向けて振り下ろされた『特異種』の凶爪が、巨大な氷の盾と錆び付いた大剣によって受け止められていた。
受け止めるのは、一人の少女と一人の青年だ。イレナ・バレンシールとカルド・フレイズ。空間を跳躍してきた二人が、『特異種』の前に立ち塞がる。
そして――、
「――やっと、ボク達を頼ってくれたね」
次の瞬間、鋭く空から落ちてきた踵が『特異種』の胴を圧し潰した。腹を潰された『特異種』が血を吐き出し、醜い断末魔を響かせる。
たった一撃で『特異種』を葬り去ったのは、白髪と黒衣を揺らし、どこか嬉しそうに細められた真紅の瞳でシンゴを見つめる少女――アリス・リーベだ。
簡単な話だった。一人では手が届かない、だったら誰かの手を借りればいい。
一人で全てやろうとするから失敗する。一人で全て背負おうとするからその重みに耐えかねて潰れる。そう、平和な世界で何不自由なく生きてきた。それがどれほど多くの人に支えられて成立しているのかなど考えもせずに。
――思い上がりも甚だしい。滑稽すぎて笑えてくる。
自覚しろ。自分は有象無象の一人だと。
自覚する。自分はただの凡人だ。
自覚しろ。自分は一人で何でも出来るほど有能ではないと。
自覚する。自分は一人では何も出来ない無能だ。
受け入れる。自分自身の弱くて嫌な部分を肯定する。
不意に胸の奥が軽くなった気がした。それは錯覚などではなく、事実、視界が大きく開けたような開放感が全身を包み込んで――。
「――ッ!?」
だからだろうか。その悪意に気付けたのは。
鋭く息を呑んだシンゴが振り向いた先、先ほど蹴り飛ばされて地に這い蹲った『特異種』が首をもたげ、開いた口腔に『風』を集めているのが見えた。
その、狙いを定める先には――、
「イチゴを――ッ!!」
間に合わない、そう判断したシンゴは叫ぶと同時に駆け出す。まさにそのタイミングで、無情にも『特異種』が『風』を解放した。
シンゴの声に反応してカズとイレナが対処に動く。だが、とてもではないが間に合うタイミングではない。
風の弾丸がイチゴの体を穿ち、肉片を崖下にばらまく――そんな最悪の未来がシンゴの脳裏に過った、その瞬間だった。
呆然と佇むイチゴに飛び付く人影があった。それは、悪意を感知するシンゴよりも速く、この事態を察知して動いていた少女――アリスだ。
風を纏ったアリスがイチゴに体当たりし、風の弾丸の軌道から逃れる。だが、風の弾丸が崖の先に着弾し、その余波に煽られて二人の体が崖から滑り落ちる。
「――ッ!!」
瞬間、シンゴは『激情』をコントロールし、中枢神経系の強化に全て回す。
圧縮される時間感覚の中、強化された思考能力が最善の選択を導き出す。即座に『激情』を肉体強化へ回し、シンゴは更に加速しながら叫んだ。
「イレナ、『特異種』を! カズ、頼む!!」
「任せて!」
「おう!」
イレナが『特異種』へと走り出すのを横目に、カズがこちらに背を向ける。そのまま大剣の柄を両手で持ち、崖先の虚空に向けて大きく振りかぶった。
それを見て、シンゴはすかさず加速。崖が近付くと、勢いはそのままに低く前宙して崖先の何もない空間に身を投げた。
「っらぁ――ッ!!」
前宙し、体を丸めたシンゴが上下逆さになった完璧なタイミングで、気合の声を迸らせたカズが振りかぶった大剣を真上から叩き付けてくる。
自分目がけて振り下ろされる大剣、その腹をシンゴは足の裏で受け止めると、折り畳んでいた足を一気に伸ばし、砲弾の如く真下に向けて飛んだ。
カズという発射台から射出され、シンゴは風を裂きながら落ちる二人を追う。
彼我の距離はぐんぐんと縮まり、伸ばしたシンゴの手がイチゴの襟首を掴まえた。そのままイチゴを抱き寄せ、数メートル先のアリスに目を向ける。
「アリス、魔法で……ッ!」
アリスには圧縮した風を爆発させる魔法がある。故にこそ、先にイチゴを確保したのだ。しかし、シンゴの声は強烈な風圧で掻き消されて届かない。
とはいえ、アリスとてバカではない。わざわざシンゴが口頭で伝えずとも、自分の持ち札くらい把握しているはず――。
「――!?」
だが、事態はシンゴが考えているよりも切迫していた。
空中で風に揉まれるように落下するアリス、全く姿勢を制御しようともしないその脱力した姿に、シンゴの顔が一気に強張る。
「――――」
錐揉み落下するアリス、そのこめかみから流れ出た血と、その血が吸血鬼の再生能力で蒸発する様子が見えた。――気絶、している。
おそらく、あの風の弾丸が地面を抉った時だ。飛び散った岩の破片がアリスの頭部を直撃し、その意識を刈り取ってしまったのだ。
「くそッ……アリス……ッ!!」
必死に姿勢を制御し、間接が上げる悲鳴も無視して手を伸ばす。だが、間に横たわる距離は僅かにしか埋まらず、シンゴの手がアリスに届く事はない。
「くそッ、くそぁッ……!!」
懸命に手を伸ばす。だが、ダメだ。――手は、届かない。
ひんやりと、冷たい絶望が心を蝕んでいく。
そうだ。たとえアリスに手が届いたとして、それからどうすると言うのだ。
この速度で地表に叩き付けられれば、仮にシンゴが下敷きになってクッションとなっても助かるはずがない。可能性があるとすれば『ゼロ・シフト』だが、イレナ自身がこの場にいなくては意味がない。何より、それではアリスを見捨てる事になってしまう。それはダメだ。許容できない。
――だが、しかし、ならどうすればいいのだ。
地面が迫る。『死』が諸手を上げて歓迎しているのが見える。
まだ足りないと言うのか。これだけやっても、まだ届かないと言うのか。なら、その不足している『何か』とは、一体何なのだ。
何が、足りない。何が、欠けている。何が、抜けている。何が、何が、何が、何が、何が、何が、何が、何が、何が、何が――――。
「――助けてくれ、ベルフッ!!」
それは偶然などではなく、必然だったように思う。
かつて一度、シンゴは崖から落下する経験をしている。その時の記憶が、最後のピースを見付け出すヒントとなったのだ。
――右肩から、激しい炎が噴き出す。
その瞬間、今までより強く、深く、何かが繋がる感じがした。
歓喜に打ち震える。頼もしさが込み上げてくる。右の瞳が真紅に染まり、シンゴは右肩から噴出した炎翼に意識を集中させる。
そして――、
「つか、まえろぉ――ッ!!」
シンゴの意思に従い、吹き荒れた炎がアリスに向かって伸びる。
傷だけを燃やし、物理的な接触が出来る炎がアリスを包み込む。そのまま一気に引き寄せて、シンゴの腕にアリスの華奢な体がすっぽりと収まった。
だが、ここで安堵している暇はない。
「次は――っ!」
両脇にイチゴとアリスを抱えながら、シンゴは炎翼の形状をコントロール。『激情』の力で耐久力を強化し、そそり立つ絶壁に向けて勢いよく射出する。
岩壁に炎翼が突き刺さった瞬間、その先端を鉤爪のように曲げて外れないように工夫――ガリガリと岩を削りながら、落下の勢いを殺していく。
「くそ、殺し切れねえ……ッ!」
加速しての落下、加えて三人分の重み、何より高度が足りない。
あと少し、もう少しだけ勢いを殺せれば、安全圏に指先がかかるのだが――。
「だったら――ッ!!」
すぐそこまで迫った地面を凝視し、シンゴはタイミングを計る。『激情』の何割かを中枢神経系の強化に回し、限界ギリギリのラインを見極める。
ほんの僅かに圧縮された時間感覚の中、精神がガリガリと削れていく音を無視して、シンゴは極限の集中状態でその時を待つ。
まだだ。まだいける。まだ、まだ、まだ――、
「ここ、だぁ――ッ!!」
岩壁に突き刺した炎翼の鉤爪を解除、外れた反動を利用して一気に引き戻す。そして、途中で炎翼を大きく広げると、真下に向けて全力で振り抜いた。
『激情』の力を全て上乗せし、かつ引き戻す反動を利用した渾身の一振り。それは尋常ではない風圧を生み、残っていた落下の勢いを全て殺し尽くした。
ふわりと、シンゴの両足が危なげなく地面を踏む。そして、まるでそれを待っていたかのように、あの【声】が聞こえた。
【――証明完了――】
その【声】が響いた次の瞬間、世界が、意識が暗転した。
そして、次に意識が世界に焦点を定めた時、キサラギ・シンゴは――、
『――ようやく抜けおったか、この拗らせめが』
――見知らぬ幼女に、罵倒されたのだった。