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虚飾のアリス ‐不死の少年と白黒の吸血鬼‐  作者: 竜馬
第4章 とある兄妹の救済
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第4章:69 『愛してる』


 掠れて、錆び付いて、風化した記憶の果てに残された思い出。千切れた紙の断片しか残されていなかった母という存在。その姿形を補完するのは写真に残された幻影だけ。声も、匂いも、温もりも、生を感じさせる全ては遠い記憶の彼方だ。

 でも、今は違う。本物が目の前にある。声が聞こえて、匂いがあり、温もりを感じる。顔を押し付けた胸元からは、生の律動を刻む鼓動が聞こえてくる。


「おかあさん、おかあさん、おかぁさぁん……っ!」


 母の胸に抱き止められて、キサラギ・シンゴは赤子のように泣きじゃくる。

 そんなシンゴを、母は――木更木・真護は無言で抱き締めて、その頭をくすぐるようにして撫でてくれた。手つきは優しく、深い慈しみに満ちていて。

 たとえ人目があったとしても、憚る事はなかっただろう。だって、周りの事など意識にはない。ただただ母の温もりだけが、世界の全てだった。


「――辛かった?」


「つらかった……!」


「――苦しかった?」


「くるしかった……!」


「――怖かった?」


「すげぇ、こわかった……!」


 母の穏やかな声が心を優しく溶かし、本音をすくい上げていく。

 心を曝け出し、無償の愛に、身も心も委ねる。


「――どうして?」


「守りたかったんだ! 家族を、仲間を、大切な人達を……!」


「――守れたの?」


「ダメだった! 力も知恵も、全部が足りなくて、存在価値なんか一つもなくて……それでも、それでも俺は、守りたかった! みんなの役に立ちたかった! 何も出来ず、ただ守られるだけなのは、耐えられなかった……ッ!」


 それは焦りにも似た衝動で、ただ指を咥えて傍観している事しか出来ない自分がひどく不甲斐なくて、とにかく無性に許せなかった。

 何かしなければ。行動を起こさなければ。そう思った。でも、自分は悲しいほどに非力で、降りかかる火の粉を払う力さえない無能だった。

 だからせめて、火の粉を払う事が出来ずとも、盾くらいにはなろうとした。朽ちる事の無いこの肉体、潰える事の無いこの命を燃やして。


 今では多少の火の粉なら払う事が出来る。でも、それを嘲笑うかのように、火の手は火勢を強めて何度も襲い掛かってきた。

 取りこぼすのが怖かった。取り返しのつかない事態になるのが恐ろしかった。役立たずと罵られるのが嫌だった。


 強欲で、憶病で、ただの軟弱者。吹けば消えるような心の火を守る為に、覆い被さって雨風に耐える、どこまでも自分の事しか考えていない自分勝手野郎。

 それが、キサラギ・シンゴという男の本質だ。他人を守ると声高に叫び、命を擦り減らすその行為も、結局は自分の脆弱な心を守っているに過ぎない。


「――本当に?」


「……え?」


「――本当に、心護の心は守られてるの?」


 頭上から降ってきた母の問いに、シンゴは胸に埋めていた顔を上げる。

 黒い瞳が、真っ直ぐにシンゴを見つめていた。まるで心の奥底を見透かすように、その眼差しはどこまでも真摯な輝きを秘めていて――。


「『心護』って名前はね、どれだけ弱くても、どれだけ惨めでかっこ悪くても、それでも決して諦めず、誰かの心を護れる優しい子になってほしいって付けたの」


「…………」


「よく聞いて、心護。その『誰か』の中には、貴方自身も含まれてるんだよ?」


「……俺、も?」


 しゃくり声で、だらしなく鼻水をすすりながら、呆然と問い返す。

 そんなシンゴと目を合わせたまま、母は「そう」とゆっくり頷いて、


「大丈夫。心護なら、きっと出来る。みんなの心も、貴方自身の心も、全部丸ごと護り抜いてみせる……そんな弱くて優しいヒーローに、きっとなれるよ」


「…………そんなの、無理だ」


 自嘲気味にこぼして、シンゴは母の期待の眼差しから目を逸らした。

 なるほど、確かにそんな偉業を成し遂げる事が出来れば、その者はヒーローと呼ばれるに相応しい存在だろう。だが、自分には不可能だ。無理なのだ。

 たかが一介の高校生に、何を求めているのだ。それはあまりに傲慢で、強欲で、無謀な高望みと言えよう。そんな、闇の中でもがくような事など到底――、


「――明けない夜はない。明日もまた、陽は昇る」


「――――」


「貴方の、お父さんの言葉だよ」


 ――父の言葉。そう聞いて、シンゴの目が大きく見開かれる。


 それは、諦めない者の言葉だ。どれだけ闇が深く、絶望が覆い尽くそうとも、決して屈する事無く、光を求めて何度も立ち上がれる者の在り方だ。

 それを、シンゴの父は、木更木・一心は口にしたのだと言う。はっきり言って、心が震えた。きっとこれを、人は憧憬と呼ぶのだろう。

 そして、シンゴに憧憬を抱かせた男は――、


「――うん。あの人は、生きてるよ」


 シンゴの胸中を見透かしたように、母が父の生存を肯定する。

 しかし、今さら驚きはない。父の生存、その可能性は予てより示唆されていた。だから今、シンゴの心の内を占めるのは、激しい怒りの感情だった。

 だってそうだろう。生きているという事は、つまりはシンゴを、イチゴを、母を、家族を捨てたという意味に他ならないのだから。


「あー、えっと、その件はね……」


「――?」


 急に挙動不審となり、視線を泳がせた母にシンゴは眉を寄せる。

 ジッとシンゴが見つめ続けると、母は頬を掻きながら苦笑いをこぼし、


「実を言うと、あの人は最後まで渋ってたんだけど、私がお尻を蹴っ飛ばして無理やり送り出したと言うか……ね?」


「いや、ね? って言われても……」


 思わぬ母の自白を受けて、シンゴの顔に何とも言えない渋みが走った。

 だが、今の話が事実ならば、先ほどシンゴが抱いた父への怒りはお門違いという事になる。いや、正当性こそ薄れるが、家族を捨てた事実に変わりはない。

 変わりはないのだが、問題はそこではない。そう、問題は――、


「そもそも親父は、どうして家を出てったんだ……?」


 少しずつ、氾濫する感情に埋もれていた理性が顔を出し始めた。

 生きている。それはいい。自ら進んで家族を捨てた訳ではない。それも理解した。だが、その理由は何だ。愛する妻の少し手荒な後押しがあったとは言え、最終的に家族を何年も放置してまで、一体どこに、何をしに行っているのだ。


「……教えてくれ、母さん。親父は、どこで、何をしてる?」


 涙を袖で拭い、母に向けて静かな声音で問いを放つ。

 家族よりも優先させる何か、その正体を知りたい。いや、知らなければならない。シンゴには、その権利があるはずだ。

 そんなシンゴの真剣な眼差しに対し、母の目が細められる。視線はシンゴに据えられているが、その焦点が結ばれるのは過去の情景だ。


「……どこ、かは分からない。でも、何を、なら言ってた」


 過去から回帰して、母の眼差しが現在へと焦点を結ぶ。その目に見つめられて、シンゴの喉から生唾を呑み込む音が鳴った。

 緊張に表情を硬くするシンゴ、その眼前で、母の唇が動き――、


「――確か、世界を救いに行く、って言ってた」


「――は?」


「だから、世界を救いに行くって、あの人はそう言ってた」


「いや、待った。待って、母さん。マジで……え、マジで?」


「うん、マジで」


 真面目な顔で頷かれ、シンゴは眉間に皺を刻みながら深く瞑目する。

 何かの暗喩、だろうか。唸り、必死に言葉の裏を読もうと苦心するが、そもそも表の文面が持つインパクトが強すぎて、裏にまで思考が届かない。

 想像を遥かに上回る剛速球、それも小細工なしのど真ん中ストレート。あまりに話が壮大過ぎて、事前に用意していた様々な憶測が全て吹き飛んだ。


「あの人ね、実は記憶喪失だったの」


「ちょ、ちょっと待った。本当に、本当にちょっと待って。いったん、整理する時間を下さい、お母さま……っ!」


 すかさず一球目に勝るとも劣らない二球目の剛速球をぶっ込んでくる母に、シンゴは眉間を押さえて苦し紛れのタイムを要請する。


「えっと……え? 親父、記憶喪失だったの……?」


「そうだよ。ほら、木更木家の風習に誕生日を迎えたら神社にお参りするってのがあるでしょ? で、私も毎年お参りしてたんだけど、十八の誕生日にあの人が神社の境内にぶっ倒れててね? なんでも記憶喪失だって言うから、『困ってる人は全力で助ける!』が信条の私としては、その場に放置するなんて選択肢はなかった訳で、そのまま家に連れ帰る事にしたの。それでなんやかんやあって学校を卒業と同時に結婚して、貴方が生まれて、二年後に一護が生まれて、そしたら翌年に記憶が戻ったとかであの人が世界を救わなきゃーって言うもんだから、そりゃ行かなきゃって事で盛大に送り出して、なんかあの人が来てから調子がよかった体調が一気に悪くなって、そのままぽっくり病死しちゃったって感じ」


「――――」


 ただでさえ理解が追いついていないというのに、聞いてもいない父との馴れ初めまで語られて、というより母の半生を語られて、もはや黙るしかなかった。

 とりあえず深呼吸を挟み、情報が飽和してパンクする脳に酸素を提供する。そうして順に、時間をかけて頭の中を整理――無理やり呑み込んで、理解は二の次に、ひとまずただの情報として蓄積を試みる。


「うん、まあ、とにかく、色々とツッコみたいけど、とりあえず、分かった」


「そっか。ならよかった」


 苦労の果てに呑み込み、頬を引き攣らせるシンゴを見て母が無邪気に笑う。

 そういえば、生前の母は意外と楽観的で大雑把に物事を捉える事があった、と祖父母が言っていた。イチゴのような性格なのだろうと当時のシンゴは判断したのだが、実物を前にその考えが些か甘かった事を思い知る。


 ――だって、この人は完全に、イチゴの上位互換そのものだ。


「――ん。そろそろ時間みたい」


「え?」


 不意にそう漏らした母を、シンゴは呆けた顔で見上げる。そして、その言葉の意味を理解した瞬間、込み上げてきた不安と焦燥に顔が強張った。

 本来、有り得べからざる死者との邂逅。無情にも終わりの時を刻む砂時計は、この理の外にある事象にさえも例外なく適用されていた。

 その証拠に、母の――木更木・真護の体から小さな光の粒子が立ち上り始め、その存在が少しずつ希薄になっていく。


「そんな……嫌だ、お母さん……ッ!!」


 消えゆく母にしがみ付き、シンゴは嫌々と首を横に振る。だって、あまりにも突然すぎる。心の準備など全く出来ていない。

 もっと話したい。もっと触れていたい。何より、離れたくない。駄々をこねる子供のように、シンゴは薄くなっていく母を強く抱き締めて泣き叫んだ。

 そんなシンゴの頭を、母は大事な宝物に触れるように愛おしく撫でて――、


「『死』に逃げちゃダメ。それじゃ、誰の心も護れない。貴方が思ってるほど、木更木・心護の存在価値は低くないの。それでも、どうしても『死』を避けられない時は、いっそのこと『死』を踏み台にして前に進んで。逃げる為じゃなく、立ち向かう為に。どれだけ惨めでも、情けなくても、それでも諦めず、最後まで抗い続ければ、きっと道は開けるから」


 そう言って、母は優しくシンゴを引き剥がす。そして、涙で顔をぐちゃぐちゃにするシンゴに向けて、小指を差し出してきた。


「逃げるのは、もうおしまい。お母さんとの、最期の約束。――ね?」


「そん、なの……無理、だって……ッ! 俺には、出来っこない……俺は、そんなに強く、ないんだよ……ッ!!」


「大丈夫。心護なら出来る。必ず、出来るよ」


「なんで……なんでそんなこと、言い切れんだよ……ッ!!」


 分からない。これっぽっちも理解できない。どうして出来ると断言できる。どこにそんな根拠があると言うのだ。全く以て意味が分からない。

 自分がそんな大それた器じゃない事は、シンゴ自身が一番よく分かっている。自分の手が届く範囲くらい、己自身が誰よりも把握できている。


 それを何故、他人が、そこまで、頑なに、出来ると、失敗しないと、成し遂げられると、確信を以て、言い切れるのだ。

 何故だ。何故なのだ。何故、何故、何故、何故、何故――。


「――信じてる」


「――――」


「私は、貴方を、信じてる」


「――――」


「だって、私は貴方の、お母さんだから」




 ――熱を、帯びた。




 胸の奥が、熱い。腹の底が、熱い。手足が、熱い。喉が、熱い。顔が、熱い。全身が、熱い。魂が、熱い。心が、熱い。


 熱だ。途方もない熱が、キサラギ・シンゴを支配している。

 その熱は力強く、温かくて、優しくて、そしてどこか、深い安心感があって。


「……俺に、出来るかな」


「出来る」


「本当に、俺なんかが、出来るのかな……」


「大丈夫。――だって貴方は、私とあの人の、自慢の息子なんだから」


 そう言って、眩い光の粒子に包まれながら、母は笑って力こぶを作った。

 俯いたシンゴの口元が、小さな笑みを形作る。涙を拭い、顔を上げて、その手をゆっくりと持ち上げる。立てられた小指が、母の小指と絡まった。


「――出来る?」


「分からない……自信も、ないけど……それでも、やってみるよ」


「ん。それでこそ、私の自慢の息子だ!」


 弱々しいながらも笑みを浮かべて頷くシンゴに、母もこれ以上ないくらい最高の笑みで力強く頷き返してくれた。

 その笑顔を見て、再び涙が溢れそうになり、シンゴはぐっと唇を噛んで素早く立ち上がると、そのまま母に背を向けた。


「……っ」


 でも、無理だった。涙が溢れ、嗚咽がこぼれる。

 思えばずっと、泣いてばかりだったように思う。それでも母は、こんな泣き虫を『信じてる』と言ってくれた。だから、最後くらいは、その信用に応えたい。

 我慢だ。もう少し、あと少しだけ、我慢しろ。それくらいの根性を見せずして、誰が木更木・真護の息子を名乗れるものか。


「――心護」


「――――」


「行ってらっしゃい」


「――うん。行ってきます、母さん!」


 精一杯に笑って、ぐっと親指を立てながら、シンゴは振り返った。

 振り向いた先には、既に母の姿はなく、ただ光の粒子だけが残っていて――。




 ――愛してる。




 どこからともなく、母の声が聞こえた気がした。それはもしかしたら、ただの幻聴だったのかもしれない。

 だけど、その言葉は深く、強く、シンゴの心に刻み込まれて――。


「俺も、ずっと、いつまでも――っ」


 限界だった。膝を着き、顔を覆って、シンゴは大声を上げて泣いた。

 泣いて、泣いて、泣いて、そして、涙を拭って、立ち上がる。





【――穢れ無き心を証明せよ――】





 世界が巡る音がする。だが、それも次で終わりだ。否、終わらせる。

 勝算は何一つとしてない。緊張で手足は震え、少しでも気を抜けば、不安と恐怖で今にも圧し潰されてしまいそうだ。

 だけど、それでも、キサラギ・シンゴは――、


「もう、絶対に逃げねえ……ッ!!」




 ――世界が、意識が、暗転した。


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