第4章:68 『贋作に見る夢』
清らかな水流を思わせる長い黒髪、優しく細められた黒瞳を深い慈愛で満たし、姿勢正しく椅子に腰を落ち着けるのは、和服姿の一人の女性だ。
その肌は透けるように白く、どこか儚げな印象を抱かせる。外見からも分かるが、落ち着いた雰囲気とは裏腹にまだかなり若い。
それもそのはずである。だって、この人の時間は、既に止まっているのだから。
――木更木・真護。二十三歳という若さでこの世を去った、シンゴとイチゴの実の母親である。
「なんで……」
凄まじい驚愕に見舞われ、瞠目したシンゴは静かに声を震わせる。
無数の世界を巡った。だが、死んだ者が一人として現れた事はなかった。それが何故、ここに来て急に死者が出てくる。
混乱と、動揺と、筆舌に尽くし難い感情に激しく翻弄され、シンゴは凝然と目を見開いたままその場に立ち尽くす。
「――ッ!」
が、その硬直を塗り潰す衝撃が直後に内側から弾け、シンゴは頬を硬くした。
焦燥を顔に張り付け、素早く周囲に視線を走らせる。忙しなく動く眼球が探すのは、絶対不変の法則――必ず訪れる『死』の気配だ。
血眼になって、瞬きすら忘れて、全神経を尖らせて『死』を嗅ぎ分ける。こと『死』に繋がる前兆の看破に至っては、シンゴの右に出る者はいないだろう。それだけ多くの『死』に触れてきた。もはや『死』は、シンゴにとって隣人に等しい。
「くそっ、どこだ……ッ!」
しかし、そのシンゴの目を以てしても、このリビングから『死』の気配を見付け出す事は出来なかった。堪らず舌打ちするシンゴ、その手の平に汗が滲む。
と、その時だ。視界の端で何かが動いた。ぎょっとそちらに目をやると、そこには人が――いや、木更木・真護だ。彼女が、立ち上がっていた。
「――ッ」
歯噛みして、シンゴは己の愚かさを心の底から呪った。
一体、自分は何をしているのだ。リビングの中に『死』は見当たらない。だったらもう、消去法で『死』はそこにしかないではないか。
ゆっくりと歩み寄ってくる木更木・真護、彼女こそがこの世界での『死』だ。
「――――」
「く、来るな……っ!」
無言で歩いて来る母の幻影に、シンゴは顔を歪めて後退――躓き、尻餅を着く。
何故、疑わなかった。何故、候補から外してしまった。そんな自己批判の言葉の数々、その中から不意に答えは浮かび上がってきた。
そう、答えは簡単だ。木更木・真護を無意識に意識から除外していたのだ。目を逸らした、と言ってもいい。ただ、その理由はまでは分からなくて――、
「――――」
「ひっ……」
尻餅を着くシンゴに向けて、木更木・真護が手を伸ばしてくる。
咄嗟に目を固く閉じて、全身を強張らせる。迫る『死』に、どれだけ経験しても決して慣れる事のない『死』に、身構えた。
手が、頬に触れる感触――顔を両手で挟み込まれ、シンゴの肩が恐怖に跳ねる。だが、いくら待っても『死』は訪れず、シンゴはそっと瞼を持ち上げた。
そこには――、
「――私、おかえりなさいって言ったよね? なんで返事してくれないの?」
「……ぇ?」
むっと、怒りに膨れた顔が目の前にあった。
ぽかんと口を開け、思考が空白に染まる。そんなシンゴの前で、木更木・真護は拗ねたように唇を尖らせると、
「私だって、大きくなった息子との久しぶりの再会で、すっごく緊張してたんだよ? それでも、母の威厳は保たなきゃーって、必死に雰囲気とか作って頑張ったのに、それをあろう事か無視! 無視だよ!? 無視だけならまだしも、私が近寄っただけで怖がるってどういう事!? もう、謝って! それで、ただいまって返事して! ね、聞いてる? 謝罪と返事ッ!!」
「ご、ごめんなさいっ!? あ、と……え? ただい、ま……?」
「――ん。おかえりなさい、心護。大きくなったね!」
「――――」
ひまわりのように笑い、木更木・真護は――母は、シンゴにそう告げた。
しかし、その怒涛の勢いに圧倒されて、シンゴは目を丸くして口をぱくぱくと開閉させるくらいしか反応を返せない。
未だに脳は混乱に見舞われている。だが、どこか既視感を覚える自分がいて、その原因に気付いた時、シンゴはハッと目を見開いた。
割り込む余地など全くない高密度な言葉の嵐、それはまさしく、キサラギ・イチゴの困った持ち味そのものではないか。そして、改めて間近にある笑顔をまじまじと観察してみれば、イチゴの面影が重なって見えて。
――当たり前だ。だってこの人は、イチゴの母で、シンゴの母なのだから。
「だから、なんだってんだよ……っ!」
「……心護?」
「ああ、そうだよ! 母さんは俺が四歳の時に病気で死んだ! だから! 母さんの顔は覚えてても、どんな風に話して、どんな性格して、どんな風に笑ったのかなんてまともに覚えてねえよ! だからって、それを都合よく利用して人の大切な人を勝手に捏造しやがって……クソがッ!!」
感情が、決壊する。涙が頬を伝い、耐え難い侮辱に心が燃え上がる。
頬に触れる手を乱暴に振り払い、怒りに頬を歪めるシンゴ、その怒鳴り声を浴びて、木更木・真護の紛い物が驚いたように目を丸くする。
その仕草の一つ一つに、大切な人が穢される気がして、腹の底から灼熱が込み上げてくる。熱を帯びた吐息が、噛み締めた歯の隙間からこぼれ落ちた。
「ふざけやがって! ふざけやがってぇッ!! 俺の母さんを、こんな事に利用しやがって……ちくしょう、ちくしょう、ちくしょうがぁッ!! 俺を煽って、何が目的なんだよ!? 怒らせて、俺の醜態を見て楽しんでんのか!? 俺の心が折れねえからって、今度は別の趣向を凝らそうってか!? だったら……だったら、これで満足かよッ! ああッ!?」
立ち上がり、眼前の贋作に指を突き付けて、容赦のない怒声を叩き付ける。
そもそも、この世界の事はほとんど理解できていない。そこに何者かの意思が介在しているのかも不明だ。だから、目の前の贋作に怒りをぶつけるのが筋違いなのは理解している。意味がない事など、重々承知している。
でも、だからといって、母を侮辱されて黙っていられるほど、キサラギ・シンゴは薄情者でもなければ弱虫でもない。
「これ以上、その顔で、その声で、その目で、俺の前で! 母さんを侮辱してみやがれ! ぶっ殺してやる……ああ、八つ裂きにしてやるッッ!!」
「……心護」
「お前……俺の話、聞いてたのか? 喋るな! そう、言っただろうがッ! それ以上何か口走ってみろ! お前、本当に後悔させて――」
「――ありがと」
「――――」
その一言に、喉元まで出かかっていた言葉が霧散し、掠れた音だけが出た。
目の前、あれだけ怒声を浴びせられたにも拘わらず、その贋作は胸に手当てながら、嬉しそうにはにかんでいた。
絶句する。予想外の角度から意識を殴られた気分だ。どうして今ので、『ありがとう』などという感謝の言葉が出てくる。全く、理解できない。
そんなシンゴの動揺に対し、まるで心を読んだかのように贋作は微笑んで、
「嬉しいよ。嬉しいに決まってる。だって心護は、私の為に怒ってくれてるんでしょ? お母さんの為に、声を荒げてくれたんでしょ? それって凄く、母親冥利に尽きる事だと思う。ああ、私って、幸せ者だなーって」
「ちがっ……俺は、偽物の、お前の為じゃなくて……っ!」
「偽物なんかじゃないよ。私は私、木更木・真護で、貴方のお母さん。この世界の『死』に呑まれる事もなければ、貴方に『死』を運ぶ事もない。だって私は、貴方を試すこの世界から生まれた存在じゃないから」
「――――」
妄言を連ねる贋作に、咄嗟に否定の言葉を叩き付けようとするが、続けられた言葉に否定の言葉は力を失い、喉の奥へと滑り落ちていった。
不意に込み上げてきた熱い塊が喉を塞ぎ、顔を顰めて押し止めるのに苦心する。
そんなシンゴの苦労など露知らず、贋作は無邪気に笑うと、
「奇跡をくれてありがとうって、神様に感謝しなくちゃね。もちろん、神様が心変わりするきっかけをくれた、私の可愛い愛娘への感謝も忘れずにね」
そう言って、茶目っ気にウインクする贋作――贋作、なのだろうか。分からない。何も分からない。分からなく、なってしまった。
でも、それでも、気付けば喉は嗚咽を漏らし、強張っていた心はいつしか脱力して、憤怒に塗れた涙を新たに溢れ出た優しい涙が洗い流し、上書きしていく。
「……ほん、とうに……っ?」
縋るような、祈るような涙声だった。
何度も希望を抱いて、その度に絶望に叩き落とされて、思い知ったはずだ。理解させられたはずだ。それでも、まだ懲りずに夢を見ようというのか。
なんと愚かで、浅ましく、醜いのだ。しかし、そうと理解していながら、どうしてこの口は言葉を紡ごうとするのか。
「ほんとうに、ほんとうの、お母さん……っ?」
情けなくなるほど、羞恥に悶えたくなるほど、その声は幼子のそれで。
まるで道に迷い、ふと母の背中を見つけた子供のように、目の前の贋作に夢を見てしまう。固く閉ざしたはずの心の扉を開き、窺うように覗き見てしまった。
その視線に対し、贋作はただ優しく笑って、両手を大きく広げると――、
「――おいで、心護」
「……っ!!」
――気付いた時には走り出していて、そのまま母の胸に飛び込んでいた。