第4章:67 『――おかえりなさい』
すみません、前話に引き続き短めです。
叩き付けるような雪が降る中、その一帯だけが不思議と木々が生えておらず、ぽっかりと穴が空いたように広く開けていた。
そこで繰り広げられているのは、およそこの世のものとは思えない壮絶な光景――半透明の蛇のような尾を振り回す恐ろしく巨大な『黒い亀』と、その亀に襲い掛かるミノタウロスの如き異形を誇る存在が複数体、そしてそのミノタウロスに抱えられた過剰なまでに華美な女が、半透明の蛇に追い回されている。
「――――」
勢いを増す吹雪から顔を手で庇いながら、キサラギ・イチゴはその異常な光景に足を止め、目を見開いてただただ圧倒されていた。
この世界にやって来て、イチゴの常識が通じない非常識は何度も目にしてきた。だが、これはその中でも群を抜いている。脳が現実を処理し切れず思考停止を起こし、再起動するのにそれなりの時間を要したのも仕方がないだろう。
「あれは……」
再起動してすぐに、イチゴの目は空中に浮遊する二つの人影を捉えた。
ここからでは少し遠く、吹雪が見通しを悪くしている事ではっきりとは見えないが、間違いない――あの二人は、リノアとアリスだ。
「お兄ちゃん……!」
唯一、その姿が見当たらない兄をさがして、イチゴの目が眼前の白い景色をなぞるようにして忙しなく動く。
雷を纏い、霞むように駆けるミノタウロス。そのミノタウロスに担がれて、執拗に追ってくる半透明の蛇から逃げ続ける華美な女。そして、群がるように攻撃してくるミノタウロスを意にも介さず、山のように微動だにしない『黒い亀』――。
「――あそこだ」
確信と共に呟き、イチゴの青みがかった瞳が『黒い亀』を映す。
心臓が早鐘のように高鳴り、浅い呼吸に息苦しさを覚える。が、それらを深呼吸で強引に捻じ伏せて、イチゴは覚悟を決めた面持ちで足を前に踏み出した。
一歩、二歩、三歩目からは駆け足になり、やがて全力疾走へと変わる。ひたすら前だけを、『黒い亀』を見据えて、キサラギ・イチゴは雪の上を駆け出した。
いつからイチゴの存在に気付いていたのか、その無謀な行動を見た空中の二人が、慌ててこちらに向かって飛んでくるのが見える。
だが、イチゴが戦場に足を踏み入れる方が圧倒的に速い。そしてこのまま進めば、華美な女を担いだミノタウロスとの衝突は避けられないだろう。
あれほど高速で動く巨体ともなれば、軽く接触しただけでもイチゴの小さな体など一瞬で挽き肉だ。あの半透明の蛇にしても、触れただけでアウトだろう。
しかし、そうと理解していながら、イチゴはあくまで直進、最短コースを走る。そして、凡人が介入する余地のない攻防の真っ只中へと――、
「アドバンス――ッ!!」
ミノタウロスが雪に足を滑らせて転倒し、イチゴとの衝突コースから外れる。
「アドバンス――ッ!!」
今度はイチゴが足を滑らせて転倒、その頭上ギリギリを半透明の蛇が通過する。
「アドバンス――ッ!!」
振り落とされたものの、危なげなく着地した華美な女が森の方に顔を向けて何事か声を発した。すると、木々の奥から白い熱線のようなものが何本も放たれ、半透明の蛇に直撃――大木の如き蛇の長躯がイチゴのすぐ横に倒れ込む。
その衝撃でイチゴの体が雪の上を滑り、やがて滑走が終わって顔を上げれば、目的地まで障害物は何も存在しない。立ち上がり、再び走り出す。
「アドバンス――ッ!!」
『黒い亀』に接近するイチゴに、二体のミノタウロスが気付いた。敵と判断されたのか、二体のミノタウロスが激しい雷を迸らせながらイチゴに突撃してくる。
それを、空から降り注いだ二本の黒い矢――リノアとアリスの奇襲が炸裂し、ミノタウロスをそれぞれ不意打ちの蹴りで吹き飛ばす。
「アドバンス――ッ!!」
そこで、残り三体のミノタウロスもイチゴに気付き、振り返る。が、その内の二体を、今まで全く動く事のなかった『黒い亀』の極太い足が踏み潰す。
そして、唯一その踏み潰しを免れた最後の一体は――イチゴの横を素通りして、主の方へと目にも止まらぬ速さで走り去って行った。
「はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」
息を弾ませて、足をもつれさせながら、ただ前だけを見て走る。走って、走って、走り尽くして――体ごとぶつかるように、『黒い亀』の足に抱き付く。
ふと足元を見れば、踏み潰されたミノタウロスの血と臓物が飛び散り、雪が赤黒く染まっていた。思わず悲鳴が漏れそうになるが、それを寸前で噛み殺し、
「負け、ないで……っ」
願いを、祈りを、訴えを、兄を想うこの気持ちを、キサラギ・イチゴのありったけを詰め込んで、その全てを届かせる為に――叫んだ。
「負けないで、お兄ちゃん! ――アドバンスッ!!」
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【――穢れ無き心を証明せよ――】
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【――穢れ無き心を証明せよ――】
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【――穢れ無き心を証明せよ――】
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【――穢れ無き心を証明せよ――】
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【――穢れ無き心を証明せよ――】
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【――穢れ無き心を証明せよ――】【――穢れ無き心を証明せよ――】【――穢れ無き心を証明せよ――】【――穢れ無き心を証明せよ――】【――穢れ無き心を証明せよ――穢れ無き心を証明せよ――穢れ無き心を証明せよ――穢れ無き心を証明せよ――穢れ無き心を証明せよ穢れ無き心を証明せよ穢れ無き心を証明せよ穢れ無き心を証明せよ心を証明せよ心を証明せよ心を証明せよ心を証明せよ証明せよ証明せよ証明せよ証明せよ証明証明証明証明証明証明証明証明証明証明証明証明証明証証明証明証明証明証明証明証明証証明証明証明――――――――――
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一体、何度目だ。世界は、何度巡った。次の世界は、何度目の世界なのだ。
分からない。もう何も、分からない。自分と世界の境界線すら、もはやひどく曖昧だ。本当に己を確立できているのか、それすらも分からない。
歪んで、凹んで、擦り切れて、捻じ曲がって、錆び付いて、腐っている。
なのに、折れない。それでも、壊れない。どうしても、死んでくれない。
――折れろ。折れてくれ。折れて下さい。
――壊れろ。壊れてくれ。壊れて下さい。
――死ね。死んでくれ。死んで下さい。
これだけ強く願い、これだけ必死に祈り、これだけ激しく訴えているのに。
何故、折れない。何故、壊れない。何故、死なない。
――何故、こうまでしぶとく、この『心』は生き続けるのだ。
正気で向き合えと、そう言うのか。そんな残酷を、まだ強要するのか。
これ以上、何を差し出せばいい。これ以上、何を犠牲にすればいい。
分からない。何も、分からない。分からないのに、なのに――。
【――穢れ無き心を証明せよ――】
ああ、また、次の世界が来る。世界が、次に巡る。
守らなければ。救わなければ。失われる命を、死から庇わなければ。
――盲目的な使命感に支配されながら、その魂はゆっくりと、覚醒した。
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「――――」
扉だ。目の前に、扉がある。それも、よく知っている扉が。
それは、屋外と屋内を隔てる扉ではなく、廊下と部屋を区切る為の扉だ。
開く時に妙な抵抗感があり、それなりに力を込めなければ開かない。音も、何かを引き摺るような、そんな鈍い音がする。
そう、知っている。よく、知っている。何度、この扉を開いたと思っている。幾度、この扉を潜ったと思っている。
しかし、懐かしさなど感じない。既にこの扉は、巡る世界の中で何度も開き、幾度も潜ったのだから。だから、何の感慨も湧いてこない。
「――――」
無表情で、無感情に、ただ作業的に、シンゴはその扉を開けた。我が家の、木更木家のリビングへと通じる、その扉を。
この先で、本気で殺し合う家族を見た。不審者に人質に取られる妹の姿も、首を吊ろうとする祖母の姿も、壁に頭をぶつけ続ける祖父の姿も、様々を、見た。
結局、この扉を潜った先でシンゴがするべき事は変わらない。今まで通り、死に絡め取られる大切な誰かの代わりに、シンゴがその死を引き受けるのだ。
救えない命もあった。数え切れないほどに。だから、速さが問われる。即座に状況を理解し、『死』を見極め、的確に無駄なく己へと誘導する。
判断が迅速であればシンゴが死に、遅ければ別の誰かが死ぬ。それが、数え切れないほどの世界を巡って得た、この移り行く世界の不変のルールだ。
機械的であれと、己に言い聞かせる。いや、もはや、言い聞かせる必要がないくらいに、無駄な贅肉は削ぎ落とされている。自然と在り方は、機械そのものだ。
果たして、今回は、一体どのような死の抱擁が、キサラギ・シンゴを出迎えてくれるのだろうか――。
「――おかえりなさい」
「――――」
久方ぶりに、感情が動いた気がした。
だって、シンゴを出迎えた、その、優しい声音と、柔らかい眼差しは――、
「……かあ、さん?」
――木更木・真護、その人だったのだから。