第4章:65 『師弟の決着』
「――リドルを連れ去ったのは、アルネ、あんたね?」
雪の降る、薄暗い森の中。イレナは白い息を吐くと、開口一番に切り込んだ。
鋭く目を細めて、相対する女を睨み付ける。女が身に付けるのは、バレンシール修道院の修道衣だ。袖は余り、背丈に適していない。
「ええ、ええ。いい質問です。答えましょう。――その通りです」
「――ッ」
女は、一本の三つ編みに纏められた金髪を揺らし、メガネの奥に怪しげな光を湛えながら首肯。イレナの顔が、くしゃりと歪む。
否定して欲しかった。だが、その願いは届かない。現実は無情にも、イレナに残酷な事実を突き付けてくる。
――イレナの知るアルネ・ラドネスは、まやかしだったのだと。
「どうして……ッ!」
「ああ、いいですね。疑問を抱く事は、とてもいい事です。それは進化の兆し、より高みを目指して羽ばたきたいという崇高な欲求。それは狂おしいほどの衝動で、その抗い難く甘美な高ぶりを知っているが故に、私は知りたいと欲する者の求めには寛容です。教えましょう、答えましょう――っ!」
「……っ」
知らない。こんなアルネ・ラドネスは、断じて知り得ない。
勢いに気圧されて、イレナはぐっと喉を詰まらせる。だが、そんなイレナの反応などお構いなしに、アルネは口を開くと語り始めた。
「リドル君には素質がありました。それを見抜いた私は、彼を見定め、機が熟すのを待ったのです。イレナさん、貴女達の家族となって」
「…………。素質って、何の事よ?」
あの時間が、あの空間が、家族という絆が否定され、心がひび割れるような痛みを味わう。思わず声を荒げそうになるのを堪え、代わりに問いを発した。
その、己に向けられた『疑問』に対し、アルネはぶるりと体を震わせると、
「『激情』を継ぐ、器としての素質です」
「……なんですって?」
予想もしなかった回答が提示され、イレナの目が驚愕に見開かれる。
二の句が継げず、瞠目したまま固まるイレナを余所に、アルネは降り注ぐ雪の中で踊るように回りながら、両手を広げて天を仰いだ。
「舞台が整い、役者が出揃い、機は熟しました! 修道院に火を放ち、リドル君を連れ去り、イレナさん達を誘い出して、最後はあの方の死で継承がなる! 全て神の筋書き通り、無駄のないお導き! ……そうなる、はずだったのです」
熱に浮かされたように言葉を連ねていたアルネが、不意に冷めたように声のトーンを落とす。顔からは表情が消え失せ、憂いを帯びた紅の瞳が伏せられる。
「本当に驚きました。『罪人』の衝突による双方の効率的な『罪』の回収、そして最後はあの方を殺害して頂き、権威継承の条件を満たす……その為だけに配役したつもりが、あろう事か彼の方が選ばれ、『激情』を継承してしまうのですから」
「…………」
「ああ、気になります! 何故あのような結果になったのか、疑問が尽きない! もう一度お会いして、言葉を交わして、その全てを知り尽くしたい! オワリでの功績、その褒賞としてならば、神は彼との逢瀬をお許しになるでしょうか!」
うっとりと頬を染めて、まるで恋する乙女のように、アルネ・ラドネスはその歪んだ思想の対象にキサラギ・シンゴを指名する。
そんなアルネから目を逸らすように、イレナは唇を噛んで下を向く。これ以上、イレナの中にあるアルネを貶めるなと、耳と目を塞いでしまいたかった。
それでもイレナは、一度は下げた顔をぐっと持ち上げて、
「一つ、聞かせて……ッ」
「質問ですか? ええ、喜んでお答えします」
「アルネにとって、あたしは……修道院のみんなは、何だったの?」
声の震えを必死に抑えた、縋るようなイレナの問い掛け。
その問いに、アルネは一瞬きょとんとした表情を見せる。そして、「そうですね」と人差し指を顎に当てると、考え込むように視線を虚空にさまよわせ――、
「家族ごっこに興じる、憐れな方々、でしょうか?」
「――ッ」
胸の奥で、辛うじて繋ぎ止めていた糸が、ぶつりと切れる音が聞こえた。
キッと、イレナは涙を滲ませながら、鋭い眼差しで『敵』を見据える。その明確な敵意を受けて、アルネは静かに目を閉じると、そっとメガネを外し――、
「『星屑・二等星』――アルネ・ラドネス」
その名乗りは、線引きだ。自分がどちら側なのか、立場を明確にする為の。
完全に、袂を分かつ為の宣言。ならば、イレナも応じなければならない。それがせめてもの、かつて信じた家族の絆に対する、イレナなりの誠意だ。
涙を乱暴に拭って、深く息を吸い込むと、イレナも名乗りを上げた。
「あたしは! バレンシール修道院出身! イレナ・バレンシールよッ!!」
――それが、合図となった。
「「アイス・ズ・メイク――ッ!!」」
詠唱が重なり、互いの手元に生み出された氷剣が中央で切り結ぶ。
火花を散らし、至近距離で睨み合う。だが、それが出来たのは一瞬だけだ。想像以上の膂力に弾かれて、イレナの体が後方に吹き飛ばされる。
吸血鬼の並外れた身体能力、その圧倒的な力に押し負けたのだ。
「――アイシクル・ズ・インジェクション」
「――ッ!」
詠唱が紡がれた瞬間には、イレナは体勢を立て直し、全力で地面を蹴っていた。
放たれた無数のつららが、イレナを貫かんと勢いよく迫り来る。その威力、速さ、弾数、全てがイレナの使う魔法より上だ。
初見であったなら、何発か被弾していたかもしれない。だが、相手はアルネ――かつて、イレナに魔法の手ほどきをしてくれた、魔法の師匠だ。
その時の経験が、体が覚えている記憶が、イレナの体を突き動かした。
「アイス・ズ・ジャベリン――ッ!!」
「アイス・ズ・メイク」
走りながら、イレナは一本の氷槍を生み出して射出する。真っ直ぐ飛翔する氷槍は、しかしアルネが造形魔法により生成した分厚い氷の盾に阻まれてしまう。
だが、これでいい。攻撃を妨害して、防御行動を取らせる事が出来た。これで一瞬だが、反撃の猶予が生まれる。
イレナの使う氷魔法は、全てアルネから教わったものだ。長所も短所も相手は知り尽くしている上に、その質はイレナの方が遥かに見劣りする。
対して相手は、吸血鬼の特性に加えて、まだ見ぬ魔法も隠し持っているはずで、長引けば確実にこちらの分が悪くなる。――故に、狙うは短期決戦だ。
「ゼロ・シフト――ッ!!」
唯一、アルネの知らない魔法にして、奥の手である切り札を躊躇なく切る。
空間を跳躍し、イレナは一瞬でアルネの背後を取る。だが、まるでそれを読んでいたかのように、アルネの上半身が鋭く反転――氷剣の刺突が放たれた。
不意を突いたつもりが、逆に不意を突かれた形――しかし、イレナは焦らない。氷剣の側面に右手の甲を当て、外側に流すようにして捌いて見せた。
対応されると思っていなかったのか、アルネの瞳が小さく見開かれる。
その意識の間隙を縫い、イレナは左足を滑らせながら深く踏み込む。左の拳を右手で包み込んで支えると、突き出した左肘をアルネのみぞおちにそっと添えた。
そして、ふッと鋭く呼気を吐き出すと、踏み込み時の体重移動を利用――全体重を左肘に乗せて、一気に捩じり込んだ。
「かふっ……!?」
「確かに、魔法はアルネに習ったわ……でも、体術は別口よッ!!」
叫び、イレナはすかさず前進。吹き飛ぶアルネとの距離を保ちながら、手元に氷棒を生成して、その先端で目にも止まらぬ連打を放っていく。
氷棒を地面に突き立て、それを支柱にしての飛び蹴り。跳躍して、空中で真横になりながら鋭く回転すると、反撃の為に持ち上げられたアルネの両腕を氷棒と足を使って同時に叩き落とす。そして着地すると、回転の勢いを殺さずに利用し、胸の中央に強力な突きを放つ。そのまま一気に押して、木の幹に叩き付けた。
吸血鬼を倒すには、命尽きるまで殺し続けるか、その意識を奪うしかない。
前者は、実力的にも体力的にも現実的ではない。故にここは、意識を奪って無力化するのが最善の選択だ。
そう判断して、イレナは氷棒を放り捨てると、巨大な氷槌を生成した。狙うは頭部、この一撃で確実に意識を刈り取る。
「――っ」
が、氷槌を振ろうとした瞬間、視界が歪み、全身からふっと力が抜け落ちた。
今まで気合いで誤魔化してきたが、度重なる『ゼロ・シフト』使用の反動が、今になって一気に押し寄せてきたのだ。
だが、ここで膝を折る訳にはいかない。何としてでも、この一撃は届かせろ。
「ぅ、ああああああああああああああああああああああああああああッ!!」
喉をこじ開け、気合の声を迸らせると、イレナは氷槌の側面を蹴り上げた。
斜め下からの軌道で、氷槌が勢いよく跳ね上がる。全身全霊を込めた一撃、それは寸分の狙い違わず、真っ直ぐアルネの側頭部に吸い込まれ――、
――そのまま頭部を、『すり抜けた』。
「――ぇ?」
「教えたはずです。奥の手は、ここぞと言う瞬間まで取っておくべき、と」
空振り、体勢を崩すイレナの眼前、口から流した血を蒸発させながら、アルネ・ラドネスの体が『霧』に変じていた。
「これは、トライデント。――水の上位魔法です」
「じょう、い……まほう?」
受け身も取れず、雪の上に顔面から倒れ込む。そのまま憔悴した顔を傾け、掠れた声でセリフを復唱しながら、イレナはアルネを見上げる。
口から血の塊を吐き、腹を押さえて、木の幹にもたれかかるアルネは、しかしその満身創痍に反して、己に向けられた『疑問』に恍惚の表情を浮かべていた。
「昔、イレナさんには教えましたね。水魔法は『状態変化』という性質を持ち、四属性の中で唯一、二つの属性を有すると。バランスの取れた『水』を基本に、より攻めに特化した『氷』……しかし、実はもう一つ、イレナさんには教えていなかった『状態変化』が存在します。それは『水』から『氷』へ変化させるよりも遥かに難しく、習得できる者はひどく少ない」
「それ、が……っ」
「――そう、『霧』です」
教師が、生徒に教えるように――否。師匠が、弟子に教えるように、四肢を着くイレナに向けて、アルネが丁寧に水魔法の特性について解説してくる。
上位魔法、その存在は知っていた。だが、上位魔法を操れる者は、特殊魔法を有する者より遥かに少なく、自分には無縁と、イレナは知ろうとしてこなかった。
それがまさか、こんな形で知る事になるとは思いもよらなかった。対処の仕方など、知る由もない。それとも、聞けばアルネは教えてくれるだろうか。
「ぅ、く……っ」
いや、それを聞いたところで、この状況をどうにかしなければ意味がない。
奥歯を噛み、苦悶の表情で立ち上がろうとする。だが、腕に力が入らない。起き上がる事が、どうしても出来ない。
何か、何かないか。せめて、この詰みの状況から脱するだけでいいのだ。考えろ、考えろ、もっと、深く、考えろ。
「先ほどの体術、お見事でした。さすがの私も少し焦りましたが……確か、イレナさんには体術の手ほどきをして下さった、もう一人の師匠がいたはずですね?」
「なに、よ……気に、なるの……っ?」
少しでも会話を続けて、時間を稼ごうとイレナはアルネに話を合わせる。
だが、そんなイレナの思惑は、あっさりと打ち砕かれた。
「いえ、そのもう一人のお師匠様に関しては、既に知っています。なので、私が気になっているのは――」
「ぇ……ひっ!?」
――思わず、喉から引き攣った声が出た。
うつ伏せに倒れるイレナの眼前、膝を着いたアルネが、冷たい雪に頬を押し付けながら、互いの鼻が触れ合うほどの距離でイレナの顔を覗き込んでいた。
顔にかかる吐息は興奮で荒く、血走った真紅の瞳は爛々と輝きながら、瞬きもせず一心不乱にイレナを凝視している。
「先ほどの、私の背後を取った『アレ』は、一体何ですか?」
「……ッ」
喉が、恐怖で凍り付く。何か言わなければ、そう急かす意識とは裏腹に、口は無駄な開閉を繰り返すだけで、掠れた声しか出ない。
狂気が、目の前にある。それを、痛いほどに実感する。答えるまでは生かしておいてもらえる、そんな楽観的な保証はどこにも存在しなかった。
――逃げなければ。
思考を放棄し、生存本能の訴えに従う。座標も滅茶苦茶に、安全も保障されていない場所で気絶する危険性も考慮せず、イレナは『ゼロ・シフト』を試みた。
だが、動揺と混乱を極めた精神状態での『ゼロ・シフト』は、当然ながら不発に終わる。その事実が、より一層イレナから冷静さを奪い去る。
思考が混濁し、眩暈に襲われる。動悸が激しくなり、意識が遠のいて行く。
果たして、この小刻みな体の痙攣は、寒さからくるものなのか、それとも恐怖からくるものなのか、今のイレナには判断のしようがなかった。
「――――」
「……ぃ」
そんなイレナを、粘つくような視線がジッと見つめ続ける。
頬を引き攣らせ、イレナは必死に距離を取ろうとした。だが、ぬっと伸びてきた両手に優しく肩を掴まれる。――逃げられない。
恐怖に、心が屈する。こんな弱腰な自分は、生まれて初めてだ。
いや、違う。きっとこれが、人の本質なのだ。イレナはただ、誤魔化して、目を逸らす事が、他人よりも少しだけ上手かっただけ。
今まではそれでよかったのかもしれない。でも、今は違う。八方塞がり、完全な詰み、どうしようもない現実が、軟弱な心を浮き彫りにする。
思い知る。自覚させられる。自分は所詮、どこにでもいるような、ちっぽけな一人の女の子に過ぎないのだと。
「た、す……け……っ」
涙を流し、ついに、イレナの口から助けを求める声がこぼれ落ちた。
だが、ここにはイレナと狂人しかおらず、他には誰もいない。みんな戦っているから。だから、こんな遠くまで、助けに来てくれる人なんているはずがない。
遠すぎて、イレナの声は、決して届かない。――その、はずだった。
――イレナの声に、応じる者がいた。
「――ッ!」
不意に、アルネがハッと横に振り向き、慌ててその場から飛び退いた。
次の瞬間、アルネがいた空間を鋭い風刃が両断する。眼前で雪煙が舞い上がり、イレナは咄嗟に顔を手で覆う。そして、ゆっくりと顔を上げれば――、
「……大丈夫?」
そんな言葉と共に、木々の奥からゆっくりと人影が歩み出て来た。
肩を軽く覆う長さの茶色い髪に、こちらを心配そうに見つめる青い瞳。イレナと全く同じ色の髪と瞳を持つ、見知らぬ女性だった。
「ぁ……」
その女性を一目見た瞬間、イレナの見開かれた瞳に熱い涙が溢れた。
恐怖からの解放、その安堵から流れた涙ではない。胸の内を満たすのは、温かくて優しい、そしてどこか切ない、深い哀愁だった。
「あの、立てる……?」
そう言って、屈んだ女性が手を差し伸べてくる。吸い寄せられるように、イレナは緩慢な動作で、眼前の手に向けて手を伸ばした。
指が、触れる。その、瞬間――、
「「――ッ!?」」
全身を、魂を、不可解な衝撃が貫く。咄嗟に、弾かれるように手を離す。
自分の奥深くで、何かが緩む感覚があった。それは今この瞬間まで意識した事も――否、認識できなかった、『鎖』のようなものだ。
それに伴い、頭の中がやけにクリアになるのを感じる。どこまでも遠くを見通し、どこまでも深く潜れそうな、そんな全能感に満たされる。
「ぅ……くぁ……ッ!?」
「――!」
その呻き声にハッと顔を上げれば、女性が頭を抱えながら蹲っていた。
激しい頭痛に見舞われているのか、その顔は苦悶に歪み、大量の汗が額を濡らしている。よく見れば、青かったその瞳は真紅の長円瞳孔へと変化していた。
あの城に住む、吸血鬼だろうか。そんな疑問が首をもたげるが、冷静になった頭脳が待ったをかける。乱雑していた情報が整理され、必要な判断を下す。
「……何者ですか?」
距離を取り、突然の乱入者を無言で観察していたアルネが誰何を尋ねる。その声音には警戒の色が窺えるものの、やはり興奮の色味が勝っている。
完全に、アルネ・ラドネスの意識は、突然の乱入者に向けられていた。
「――――」
その間に、イレナは行動を起こす。ひどく澄み渡った思考、それはこの状況を覆す案を記憶の中から的確に拾い上げていた。
悟られないように息を殺し、イレナは上着の内ポケットに意識を向ける。そこにあるのは、丸くて硬い感触――ゴンに頼んで譲ってもらった、例の秘薬だ。
「――ゼロ・シフト」
最小限の音量で、詠唱する。次の瞬間、口の中に丸い感触が飛び込んで来た。それを躊躇なく噛み砕き、広がる苦味に顔を顰めながら、一気に飲み込む。
効果はすぐに現れた。じわじわと、全身に力が戻ってくるのが分かる。それを確認してから、イレナは一息に跳ね起きた。
急に復活したイレナを見て、アルネが目を丸くする姿が見える。そんな彼女から自分の手元に視線を移し、イレナは調子を確認するように手の平を開閉すると、
「よく、分からないけど……」
「――?」
「ぜんっぜん! 負ける気がしないわ――ッ!!」
「――ッ!?」
不敵な笑みで顔を上げるイレナを見て、その変化を感じ取ったのか、鋭く息を詰めたアルネが一切の表情を消して構える。
そんな臨戦態勢のアルネに対し、イレナは笑みを崩さぬまま指を突き付け――、
「行くわよ、新技――ッ!」
高らかに宣言した直後、イレナの姿が一瞬にして虚空に消える。
イレナが現れたのは、アルネの背後だ。しかし、またしてもアルネは、その背後からの奇襲に反応して見せた。
今なら分かる。これは積み重ねた戦闘経験が成せる業に違いない。そこに既知であるイレナの性格等の情報を加え、正確無比な予測を成立させているのだ。
――改めて、師の偉大さを実感する。
だが、感動している暇などない。完璧なタイミングで放たれた回し蹴りが、すぐ目と鼻の先まで迫っている。それも、吸血鬼の脚力によって、だ。
文字通り、一撃必殺。これを喰らえば、イレナの華奢な体など砂を蹴り砕くように呆気なく粉砕されるだろう。――だが、そうはならない。
「なっ――!?」
アルネの回し蹴りが、何もない空間を横に切り裂いた。その空振りを受けて、アルネは驚愕の声を漏らすが、すぐに氷剣を生み出し、頭上を斬り付けた。
その斬撃は、二度目の空間跳躍にてアルネの真上に出現したイレナを痛撃――いや、二本の氷剣を巧みに使い、受け流す。そして、すぐさま空間を跳躍。
今度は真横に現れ、イレナは手に持っていた氷剣を投擲。躱されるが、再び空間を跳躍し、投げた氷剣を受け止めると、そのまま二本の氷剣で斬りかかる。
だが、斬撃はアルネの体をすり抜ける。『トライデント』だ。しかしイレナは構わず、即座に空間を跳躍。斜め後ろに屈んで現れ、死角からの足払いを仕掛ける。
空間を跳躍する。空間を跳躍する。跳躍する。跳躍する。跳躍、跳躍、跳躍跳躍跳躍跳躍跳躍跳躍跳躍跳躍跳躍跳躍跳躍――――。
「マルチ・シフトぉ――ッ!!」
「ぐ……ッ!?」
跳躍に跳躍を重ね、その間隔を徐々に狭めながら、ついには無数の残像を生むイレナの連撃が、四方八方からアルネ・ラドネスを攻め立てた。
攻撃の届く回数が増えていく。だが、『霧』に変じるアルネにダメージはない。それでもイレナは空間跳躍を繰り返し、攻撃の手を少しも緩めない。
苦悶に歪んだアルネの表情を見て、まるで別人のように冴え渡ったイレナの頭脳は、とある仮説を組み立てていた。
『霧』の力で防御が不要なら、そのまま攻撃に専念できるはずで、なんなら自分を巻き込んでの自爆、強力な範囲魔法を使ってもいいはずだ。
アルネの技量なら、魔法の同時使用も不可能ではない。実際にイレナは、アルネが二種類以上の魔法を使っているところを見た事がある。
しかし、アルネは一向に他の魔法を使う素振りを見せない。
――つまり、『トライデント』の制御で手一杯なのだ。
アルネ自身、言っていたではないか。『霧』の『状態変化』は非常に難しいと。
確かに『トライデント』は凶悪だが、魔法である以上はフィラを消費する。つまり、このまま『トライデント』を使わせ続け、フィラ切れを狙えばいい。
そして、どういう訳か、イレナの方は『ゼロ・シフト』を使っても全く体力を消費しなくなっている。いや、原因はおそらく、あの女性との接触だろう。
その事はまた後で考えるとして、今は戦いに集中だ。少しでも気を抜けば、カウンターを受けてそこから一気に崩されてしまう。油断は、出来ない。
「何故、何故何故何故ッ!? 私は何故、こうも追い詰められているのですか!? 何より、この魔法は一体何なのですか!? ああ、イレナさん! どうか私にお慈悲を下さい! この身を焦がす『疑問』に、答えをぉ――ッ!!」
「そんなの、自分で考えなさいってのよ――ッ!!」
叫び、振り抜いた氷剣がアルネの実体を捉えた。右肩から噴き出す鮮血、その傷を吸血鬼の再生力が癒しにかかるが、触れる、その事実さえあれば十分だ。
フェイントの空間跳躍を何度か挟み、イレナは空中に上下逆さで出現すると、そのまま真下に向けて手を伸ばし――アルネの肩に触れる。
そして、そのまま、吠えるように詠唱した。
「エグザイル・シフト――ッ!!」
「ぁ――」
大きく目を見開き、小さな声を漏らすアルネ・ラドネスが、虚空に呑み込まれ、やがて――世界から消失した。
それはかつて、カワード・レッジ・ノウに対して使用された、まさに一撃必殺と呼ぶに相応しい、『ゼロ・シフト』を応用したこの次元からの追放。
例外がない限り、追放された者が再びこの世界に舞い戻る事は有り得ない。追放された者がどうなるのか、それはイレナ自身すら知り得ない事だ。
「はぁ……はぁ……っ!」
着地して、肩で息をしながら、イレナはアルネの消えた虚空を見つめる。
勝利の実感は、全くない。ただ、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような、そんな空虚な感慨だけが広がっていて――。
「……さよなら、アルネ」
別れを告げるその言葉は、冷たい森の中に溶けて、静かに消えていった。
そうして、はっきりと言葉にした事で、ようやく実感が芽生える。終わったのだと、終わらせてしまったのだと、途方もない虚しさが、込み上げてきた。
――だからこそ、油断してしまった。
「あ、ぇ――?」
突如、世界が回った。疑問の声を漏らした口は、気付けば冷たい雪に押し付けられており、背中には何者かが圧し掛かる重みを感じる。
咄嗟に『ゼロ・シフト』で緊急離脱を試みようとするが、不意に全身を鉛のように重い虚脱感が支配し、猛烈な吐き気と眩暈に襲われる。
この感覚には覚えがあった。これは、例の秘薬を使った事による副作用だ。しかも、以前より遥かに強く、症状が現れるのが格段に速い。
「ぅ……」
――最悪のタイミングだ。
しかし、嘆いても既に遅い。意識が、闇に落ちていく。
必死に繋ぎ止めようとするも、抵抗虚しく、イレナの意識は途絶した。
――――――――――――――――――――
「――っ」
頭蓋の奥に居座る痛み、その残滓に女は顔を顰めた。
耳鳴りがして、視界の奥がちかちかと明滅している。しかし、女はそれら体調不良を無視して、己の下でうつ伏せになって倒れる少女を見下ろした。
「……どうして、この子が、『バタフライ・リリーフ』を?」
その問いかけに、気を失った少女が答える事はない。
女はスッと目を細めると、少女の横顔を無言で見つめる。その瞳の奥には様々な感情が渦を巻くが、やがて深い瞑目の下へと押しやられた。
「やっぱり、そういう事なんだね、ツウ……」
何かに納得したように呟くと、女は立ち上がり、少女を優しく抱き上げた。近くの木の幹にもたれかからせてやり、自分の上着をそっとかけてやる。
女は、しばらく名残惜しそうに少女を見ていたが、やがて背を向けると、吹雪の奥に霞む巨大な氷山――『冥現山』を見据えた。
「……どうして、戻って来たの?」
深い悲しみと、激しい怒りを滲ませた問いかけ――その呟きが漏らされた直後、女の姿は忽然と、虚空に溶けるようにして消えたのだった。