第4章:64 『――どうか、よき今を』
――悲劇に嘆き、絶望に喘いで、狂気に翻弄される兄の姿が見える。
幾多の世界が巡る。必ず誰かが死ぬ世界が。兄は、その『誰か』に一番多く該当していた。――いや、違う。自ら進んで、その枠に己を捻じ込んでいるのだ。
死を見ない為に、死を引き受ける。自己犠牲、それは尊い事ではある。でも、兄のそれは違う。ただの自己満足で、ただの逃避でしかない。
そして、あの世界は、兄のその在り方を認めない。
否定され、また始まる。世界が巡る。終わりの見えない地獄が繰り返される。
――千を越え、万に達し、億にまで至る。
とにかく、数えるのも億劫になるほどに、気が遠くなる時間を繰り返す。世界が巡る度に、兄の心は傷付き、擦り減っていく。
それでも、決定的な崩壊は訪れない。自分が同じ立場なら、壊れてしまった方が遥かにマシだ。でも、兄は壊れない。正気を保って、世界を繰り返す。
――誰か、兄を救って欲しい。
誰か、誰か、誰か。誰でもいい。兄を、助けて下さい。
祈り、願い、訴える。だが、誰も兄に手を差し伸べてはくれない。
――また、兄がその命を捧げた。世界が、次に巡る。巡り続ける。
終わらない。どこまでも、空虚な死が積み重なっていく。
見守る事しか出来ないのか。このまま終わりなき世界を繰り返す兄を、ただ見届ける事しか出来ないのか。
――嫌だ。ダメだ。そんなの、絶対に許さない。
否定する。断固、拒絶する。受け入れないと、否を掲げる。
誰も兄を助けてはくれない。それなら、話は簡単だ。
――キサラギ・イチゴが、助けるのだ。
――――――――――――――――――――
「――――」
気が付くと、透き通るような空の中にいた。
上も、下も、前も後ろも、見渡す限り、果てのない空が広がっている。
『――行くなのですか?』
不意に、どこからともなく『声』が聞こえた。幼い、女の子の声だ。
その『声』に、イチゴは無言で頷く。決意は揺るがないと。
『分かっているはずなのです。その選択の先に、未来は続いていないと。……それでも、行くなのですか?』
再び問うてくる『声』に、それは違うよ、と首を振る。
「未来を惜しんで、今を切り捨てちゃったら、それこそ幸せな未来なんて絶対に来ないよ。今と全力で向き合って、今をがむしゃらに生きて、そうして今を積み重ねた先にこそ、未来は広がっていて……そして、その未来もすぐに、今になる。だから、ただの繰り返し。後悔の無い今を、ただ無我夢中で、繰り返すだけ」
『……強い、なのですね』
「強くないよ。だから強く在ろうとするの。見栄を張って、高すぎる理想を掲げて、精一杯に背伸びするの。……じゃないと、心配かけちゃうからね」
おどけるように笑って、振り向く。そこには、小さな女の子がいた。
清らかで透き通るような金髪、無垢と知性を宿した金眼は優しく微笑み、黄金色のワンピースの裾を風に揺らす、神秘的な雰囲気を纏った黄金の少女だ。
その人ならざる神々しさに、時を忘れて見惚れてしまう。そうして固まるイチゴを見て、少女がくすりと小さく微笑んだ。
『その前向きなところは、アナタの方が似ているかもなのです』
「――?」
誰かと比べられた、というのは分かった。だが、一体どこの誰と比べられたのかは全く見当が付かず、自然と眉間に皺が寄ってしまう。
「……貴女は、誰なの?」
『――リン。もしくは、バランサー。他にも色々と呼び名はあるのですが、個人的には気軽にリンと呼んで欲しいなのですよ』
そう言って、黄金の少女――リンは、年相応の無邪気な笑みを向けてくる。
不思議な包容力を持つ少女だ。その十歳前後に見える幼い見た目に反して、全てを包み込むような、大空のように深い慈愛に満ちている。
心が安らぎ、自然と口元が綻ぶのが分かる。母の温もりは覚えていないが、きっとこんな感じなのだろうかと、ふと考えてしまった。
ずっと、この温もりに包まれていたい。そんな誘惑に、心の中で首を振る。
「私、もう行かなきゃ。お兄ちゃんが、待ってるから」
『――――』
無言で、リンが悲しそうな微笑みを返してくる。
他にも、道はあるのかもしれない。でも、現時点でイチゴの前に伸びる道で、イチゴが望む未来に続いていると確信できる道は、これ一本だけなのだ。
「――――」
目を閉じて、胸に手を当てる。思い出すのは、リノアと初めて会った時の事だ。
あの時、様々な選択肢が脳裏を駆け巡った。その中から、イチゴは友になる道を選び取り、他の選択肢は全て切り捨てた。その選択に、後悔などない。
ただ、今再び、その切り捨てた選択肢の中から一つを拾い上げる。その道の果てに、どんな未来が待ち受けていようとも、今を、決して後悔しない為に。
『――どうか、よき今を』
振り返り、歩き出すイチゴの背に、リンの『声』が届く。そのエールに、イチゴは振り向く事無く、ただ兄に倣って、親指を立てた。
「――――」
空を歩く。どこまでも続く大空を。まるで、己が進むべき道が分かっているかのように、迷いなき足取りで、歩いて行く――。
――――――――――――――――――――
「ん……」
小さく呻き、重い瞼を持ち上げる。何度か瞬きを繰り返して、イチゴは自分がベッドに横たわっている事に気が付いた。
掛け布団を剥がし、上体を起こす。ふと隣に目を向ければ、そこにはもう一つベッドがあり、見知らぬ少女が眠っていた。
くすんだ金髪の少女だ。そしてその傍らには、眠る少女と同じ色の髪を持つ少年が寝息を立てている。少年の目元には、流した涙のあとが見えて。
「……行かなきゃ」
そう呟くと、イチゴは二人を起こさないように、ゆっくりとベッドから下りる。
ここはブラン城の中、その空き部屋の一つらしい。自分がここに運び込まれる事になった経緯は、おぼろげだが思い出せる。
「リノ……」
城の前で起きた一連の出来事、リノアが自分の意思でイチゴに危害を加えるはずがない。だからこそ、彼女が心配だ。自分を責めていなければいいのだが。
「――?」
友の事を心配していると、ふと部屋の外から話し声が聞こえてきた。
扉にそっと近付き、耳を押し当てる。息を潜めて、耳に全神経を集中させれば、どうやら部屋の外で数人の吸血鬼が話しているらしい事が分かった。
『どう……今……!』
『どこ……ったの……トゥ……様は……!』
『……消え……!』
『……目の……で……こつぜ……!』
「……?」
ひどく取り乱し、切迫した様子の会話が聞こえてくる。ただ、扉越しで声がくぐもっており、その詳細までは上手く聞き取る事が出来ない。
やがて、慌ただしく足音が散らばって行くのが聞こえた。だが、最低でも二人、まだ扉の前に陣取っているのが話し声で分かる。
しばらく待っても、気配がそこから動く様子はない。
「――――」
無言で、イチゴは押し付けていた耳を離す。そして、そのままジッと扉を凝視。静かに目を閉じると、大きく息を吸い、深く吐き出した。
速いリズムを刻む心音が、徐々に遠ざかっていく。そして、イチゴはゆっくりと瞼を持ち上げると、扉の取っ手に指を伸ばし――、
――詠唱した。
「――アドバンス」
――――――――――――――――――――
「ガイア・ド・ウォール……ッ!」
詠唱に呼応して、目の前に岩の壁が築かれる。だが、その岩壁は全力時の半分以下の大きさと厚さしかなく、飛来する炎弾に呆気なく砕かれてしまう。
幸い、岩壁の後ろには様々な属性の壁が形成されており、炎に焼かれて焼死するという最悪の事態だけは避けられた。
「クソッ……! もう、フィラが……!」
毒づき、カルド・フレイズは額に流れる汗を乱暴に拭う。
リンとゴンの姉弟を逃がす為に囮となったカズは、八人もの『星屑』を引き連れながら、地獄と化した集落を必死に逃げ回った。
道中、どこをどう走ったのかも覚えていない。後ろを振り返る事無く、牽制の魔法を背後に乱発しながら走り続けて、気付けば“ここ”に辿り着いていた。
――西の食糧庫。
迫り来る『星屑』の猛威に抵抗する、住人達によって築かれた防衛線だ。その住人を指揮する男がカズに気付き、迎え入れるよう『道』を作ってくれたのだ。
もしも、気付いてもらえていなければ、防衛線に辿り着く前に飛び交う魔法の流れ弾を受けて、呆気なく雪上に屍を晒していた事だろう。
問題は、ここに来るまでに多量のフィラを消費し過ぎた事だ。その所為で、この防衛線におけるカズの貢献は微々たる結果となってしまっている。
力不足、その事実がカズの心に爪を立てる。奥歯を噛み、俯いて、しかしそこでカズは顔を上げる。もう、俯いて立ち止まりはしないと、そう誓ったから。
「ぉ、ぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおー―ッッ!!!!」
気合を迸らせて、残り少ないフィラを絞り尽くす。最後まで、決して諦めない。“その時”が来るまで、何としてでも耐え抜いて見せるのだ。
一人、また一人と、フィラを使い果たした者が倒れていく。壁は目に見えて数を減らし、ついに、最後の一枚が破られ――視界を、炎が埋め尽くした。
――その時だった。
後ろから防衛線の頭上を飛び越えて、小柄な人影が二つ、業火の前に躍り出た。
美しい、銀色の髪を持つ二人の少女だ。右に立つ少女は赤いリボンで右の髪を結び、左に立つ少女は左の髪を青いリボンで結んでいる。
左右非対称、そんな言葉がぴったりと当てはまる、まるで鏡合わせのような二人の少女は――飛来する炎弾を真正面から見据えて、構えた。
「やるよー、レミアー!」
「はいッ!」
姉の掛け声に、妹が声高に応じる。
次の瞬間、二人の少女の体が淡い金色の輝きに包まれた。そんな二人へ向けて、無慈悲な炎弾の嵐が殺到する。
目を覆いたくなるような惨劇を予感したカズだったが、起きたのは目を疑うような不可解な現象――金色の光に触れた瞬間、炎弾が霧散した。
二人に触れた炎弾のことごとくが消滅していく。その驚くべき光景に瞠目していると、またもや頭上を飛び越えて現れる人影が、多数。
現れたのは、執事服やメイド服に身を包んだ者達――吸血鬼だ。彼らは姉妹と同じように、淡い金色の光で全身を覆うと、次々と炎弾の嵐へと突貫してく。
――紅蓮の熱波を、黄金の波が呑み込んでいく。
「――間一髪、と言ったところでしょうか」
「アンタは……!」
すぐ隣から声が聞こえて振り向くと、そこには鋭い眼差しで戦場を見据える老執事――ガルベルト・ジャイルがいた。
その老執事を見て、呆気に取られていたカズもようやくこの状況を理解する。吸血鬼の援軍が、駆け付けたのだ。
「――ッ! リンとゴンは!?」
「あの姉弟でしたら、二人とも無事でございますよ。姉の方に関しましても、シンゴ殿の尽力により命に別状はございません」
「そう、か……そうか……っ!」
二人の無事を知り、カズは力が抜けたように雪の上に膝を着く。まだ戦いは続いているというのに、胸の内を安堵と喜びが満たしていく。
「災難、でございましたな。早々にここを立ち去っておけば、このような事態に見舞われる事もございませんでしたでしょうに」
「……そりゃ、結果論ってもんだ。アンタも、この状況を予見できた訳じゃねぇだろ。あと、間一髪とか抜かしやがったが、既に大勢の人が死んでんだぞ?」
「分かっております。――分かって、おりますとも」
もっと早くこの事態に気付き、駆け付ける事は出来なかったのか。そんな意味を持たせたカズの苦言、それをガルベルトは静かに目を閉じて受け入れる。
責任を感じている、そんな態度に見えるが、果たして本当にそうだろうか。油断していたのでは、警戒を怠っていた結果なのでは、そう思えてならない。
だが、そんなカズの考えを否定するように、
「言い訳にもなりませんが、こちらも少々、厄介な客の相手をしておりました」
「厄介な客……?」
「『罪人』でございます」
「――ッ!?」
ガルベルトの告白に、カズは目を見開いて息を呑む。
嘘を疑うも、それはすぐに否定された。あの時は、状況が状況でそこまで考えが至らなかったが、シンゴの炎翼は死が発動条件だったはずだ。
リンが助かったという事は、シンゴが確実に一度は死んでいる事を意味し、それは命を落とすような事態が向こうで起きていた事の証明に他ならない。
「長話が過ぎましたな。これより私も、『星屑』の掃討戦に加わります。貴方は、氏子の者らと共に食糧庫へ避難――」
「――?」
避難を促そうとしたガルベルトの言葉が、途中で中断される。見れば、ガルベルトは鋭く目を細め、食糧庫への避難を開始する住人達の方を凝視していた。
カズも振り返り、住人達の方を見る。だが、何もおかしなところはない。ガルベルトの方に頭を下げながら、住人達は順番に避難を――。
「あ、れ……?」
不意に、声が漏れた。カズの声ではない。女性の声だ。
避難する住人、その中の一人――あの、特殊魔法を操って、『星屑』を翻弄していた女性が立ち止まり、顔を両手で覆いながら俯いていた。
そのまま女性は、ゆっくりと雪の上に膝を着く。そして、顔から手を離した。
「――っ」
思わず、喉を引き攣らせてしまった。現れた女性の顔――その目から、鼻から、口から、滝のように大量の血が流れ落ちていたから。
「な、に……こ、れ……?」
自身の身に起きている事が理解できず、女性が疑問の声を漏らす――その直後、ダムが決壊するように、尋常ではない量の血が一気に噴き出した。
一目で致死量であると分かる血を体外に放出しながら、女性は膝を着いたままの体勢で痙攣し、やがて、ゆっくりと雪の上に倒れ伏した。
皆が揃って絶句する中、ガルベルトが真っ先に女性の下へと駆け寄る。そして、その首に指を当てて脈を確認――首を、横に振る。
「――――」
――一体、何が起きた?
あまりに唐突で、不可解な女性の死。
何故、死んだ。誰が、殺した。いや、そもそもこれは、他殺なのか。
いや、待て。確か、特殊魔法の中にはリスクを伴うものもあると聞いた。
だが、特殊魔法を持つ者は、その特性を生まれながらに把握しているはずだ。先の反応を見るに、特殊魔法の乱用が原因とは考え難い。
そうなるとやはり、女性は外的要因で死亡したと考えるのが妥当で――。
「あはは、ひどい目にあった。まさか、あんな高さから突き落とされるなんて、危うく死ぬところだったぜ。――ま、死んだんだけどさ」
――答えは、自分の方から姿を現した。
そのふざけた声に振り向けば、ちょうど森の中から一人の少年が歩み出て来た。
見覚えのある黒い制服に身を包み、黒髪の上に積もった雪を払いながら、濁り、淀み、昏いナニかを黒瞳の奥に蠢かせる、黒で統一された少年だ。
異物感が、凄い。どこに在っても違和感が際立つような、世界から孤立するような、そんな在り方。――何より、その実像が曖昧で、本質が全く掴めない。
動けず、喋れず、ただ警戒するしか出来ない。他の者も総じてそうだ。
そんな警戒と不審の眼差しに晒されながら、その少年はきょとんとした面持ちで立ち止まると、次に血で雪を赤く汚しながら倒れる女性を見て、
「ありゃりゃ、たったの一人か。ハズレもハズレ、大ハズレだ。さすがの歪さんもこれには超ショック。――全員、僕を全力で慰めてくれちゃっていいんだぜ?」
両手を広げ、薄っぺらい笑みを浮かべながら、歪な少年は質量の全く伴わない空虚な言葉を並べ立てるのだった。