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虚飾のアリス ‐不死の少年と白黒の吸血鬼‐  作者: 竜馬
第4章 とある兄妹の救済
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第4章:63 『そしてまた、巡り始める』


 ――夢を見ていた。途方もなく長大で、鮮烈に記憶に焼き付く、そんな夢を。


 辛くて、苦しくて、痛い思いをたくさんした。それでも、よき仲間に巡り合えた事だけは、本当に幸運だったと思える。

 だが、それも最早、遠い夢の彼方。きっとこの頬を伝う涙は、決別を惜しんだ心が流したものに違いない。


「ひ、ふふ……はは……っ!」


 深い安心感と、胸の奥を締め付けるような寂寥感に包まれる。心は千々と乱れ、感情は制御を失い、無秩序に溢れ続ける。


「あー、先生―。俺、こいつを保健室まで連行して来まーす」


「……そうだな。頼めるか、前田?」


 と、挙手する前田の提案に、担任の高木が深刻そうな面持ちで頷く。

 そして、「立てるか?」と聞いてくる前田に支えられながら、シンゴはそのまま教室を退出しようと――、



『――山田さんがいらっしゃいました。生徒の皆さんは、お出迎えの準備をして下さい。繰り返します。山田さんがいらっしゃいました。生徒の皆さんは、お出迎えの準備をして下さい』



 前田が扉に手を掛けたタイミングで、不意に校内放送が鳴り響いた。

 シンゴを含め、生徒たちは揃ってその不可解な放送内容に首を傾げる。だが、教師である高木だけは反応が違った。顔を青ざめさせて、目を見開いている。

 そして、すぐにハッと我に返ると、焦燥感を滲ませた表情で口を開いた。


「今すぐ避難だっ! 校内に侵入者が――」


 高木が言い切る前に、遠くで誰かの悲鳴が聞こえた。悲鳴は次々と連鎖し、数を増やしながら、徐々にこちらに近付いてくる。

 最初に悲鳴を上げたのは、メガネを掛けた気弱そうな女子生徒だった。その悲鳴を合図に、パニックは瞬く間に伝染して、教室は混乱と恐慌に支配される。


 そんな阿鼻叫喚の中、シンゴは悲鳴に混じる異質な音の存在に気が付いた。

 それは聞いた事のある音で、しかし現実では一度も聞いた事のない音だった。この平和な日本において、日常を過ごしている限り、聞く機会など訪れない音。


「……銃声?」


 そうシンゴが呟いた、次の瞬間である。目の前の扉が勢いよく開け放たれた。

 立っていたのは、一人の男だった。痩せこけて、頬の落ち窪んだ相貌。焦点の合わない血走った目を爛々と輝かせ、口から荒い吐息と涎を垂れ流している。

 一目で異常だと分かる男、その眼球がぎょろりとシンゴに向けられる。

 言い知れぬ迫力に気圧されて、シンゴの喉が凍り付く。そのまま硬直するシンゴから視線を外し、次に男が目を向けたのは――同じように固まる前田だった。


「ぉ、あー」


 呻くような声をこぼしながら、男はおもむろに片腕を持ち上げる。その手には、生まれて初めて目にする本物の拳銃が握られており――。


「ぁ――」


 小さな声が、前田の口からこぼれ落ちる。それが目前に迫った死を悟ってのものなのか、それともただ反射的に出てしまったものなのかは分からない。

 ただ確実なのは、前田の首には今、死の鎌が添えられているという事で――。


「――――」


 死ぬ、友達が死ぬ。キサラギ・シンゴの大切な存在が、奪われようとしている。

 その理解が脳内で弾けた次の瞬間には、シンゴは強く床を蹴っていた。


 肩からぶつかるようにして、思い切り前田を突き飛ばす。

 吹き飛ばされながら、前田の目がちらりとシンゴに向けられた。その瞳に映るのは、自分の顔だ。果たして、どんな表情をしていたのだろうか。

 それを認識する前に、耳元で暴力的な音が破裂して、存在が消し飛ぶかと思うほどに甚大な衝撃が側頭部を呑み込む。




 ――そこで、キサラギ・シンゴの意識は『無』へと滑落した。



――――――――――――――――――――





【――穢れ無き心を証明せよ――】





――――――――――――――――――――



「っ……ぁ……?」


 最初に感じたのは、ひどい喉の渇きだった。

 その感覚を起因として、次に胃がねじ切れんばかりの空腹を自覚する。

 全身を尋常ではない疲労が支配しており、足は鉛のように重い。まるで、何日も飲まず食わずで歩き続けたような状態――いや、現在進行形で歩いていた。


「ここ、は……?」


 霞む視界を凝らせば、そこが木々に四方を囲まれた見知らぬ森の中だと分かる。

 むせ返るような湿気に混じり、緑の香りが鼻を突く。平素ならその匂いは心に安らぎをもたらすのだろうが、今は嗅ぎ飽きたような嫌悪感しか覚えない。


 ――どうして、森の中を歩いているのだろうか?


 朦朧とする頭で思考する。喉を干乾びさせ、空腹に腹を潰し、疲労で感覚さえ曖昧な肉体に鞭を打ってまで、わざわざ森の中を歩くこの状況について。

 いや、そもそも、さっきまで自分は教室の中にいたはずだ。不穏な校内放送に続き、連鎖する悲鳴、そして現れた不審な男。その後、どうなったのだったか。


「……!」


 状況を呑み込めないまま、されど足を止める事も出来ず、何もかもが不明瞭な状態で進んでいると、ふと前方に自分以外の誰かが歩いている事に気が付いた。

 ふらふらと、シンゴ同様におぼつかない足取りで草を踏み締めながら先行する後ろ姿――どこか見覚えがあるような気がして、シンゴは目を細める。


「……前田、か?」


 その呼びかけに、前を歩く男からの反応はない。だが、間違いない。シンゴの前を歩いているのは、つい先ほどまで一緒にいたはずの前田だ。

 限界を訴える足を叱咤し、シンゴは無理に歩行速度を上げると、この不可解な状況について尋ねるべく、後ろから前田の肩を掴んだ。


「おい、前田……! 何で俺達、こんな森の中にいんだよ……?」


「…………」


「確か、さっきまで教室にいたよな? そんで、あの男がお前に銃を向けて……俺が咄嗟にお前を庇って、それでさ……!」


「…………」


「……おい、なんでさっきから無視して」


 乾く唇を無理やり引き剥がし、必死に言葉を紡ぐシンゴだったが、一向に反応を示さない前田に苛立ちを覚え、声のトーンが低くなる。

 だが、その言葉が最後まで紡がれる事は無かった。理由は簡単だ。いきなり振り向いた前田が胸ぐらを掴み、そのまま木の幹に叩き付けてきたからだ。


「っ、てぇ……ッ!」


「…………ぞ」


「あ?」


 突然の暴挙に顔を顰めていると、前田が俯きながら言葉を吐き出した。しかし、その声が小さくて聞き取れず、聞き返すシンゴの声にも苛立ちが混じる。

 質問しただけでこんな仕打ちを受けたのである。シンゴの怒りは当然であり、正当な権利だ。それなら仕方がないと、納得できるだけの弁明をこの男が持ち合わせているかどうか、返答次第ではこちらも相応の対応に――、


「状況、考えろ……ぶっ殺すぞ」


「――っ」


 聞いた事もない、恐ろしく低い声音が、前田の喉から絞り出された。

 生気のない淀んだ瞳、しかしそこには、冗談では済まされない本気の殺意が爛々と輝いており、今にも襲い掛かってきそうな危うい迫力を備えていた。

 これにはシンゴも、息を呑んで目を見開くしかない。友の、未だかつて見た事のない剥き出しの感情に晒されて、ただ口を引き結び絶句する。


「――待って、やめて!」


「……ちっ」


 本当に、このまま殺されるのでは、そう本気で思った瞬間だった。第三者の鋭い声が横から割り込み、前田が小さく舌打ちしてシンゴから乱暴に手を放す。

 圧迫感から解放されて、シンゴは知らぬ間に詰めていた息を深く吐き出す。そして、遅れて気付いた。今の声、その少女の声が、一体誰のものなのかに。


「……イチゴ、なのか?」


 驚きの表情で振り返ると、そこに立っていたのは、見間違えるはずもない――シンゴの最愛の妹、キサラギ・イチゴだった。

 土埃に汚れた衣服、憔悴の滲んだ面持ち、疲労困憊なのが痛いほどに伝わってくる様相だが、しかしその瞳にはしっかりとした生気が感じられた。


「大丈夫、お兄ちゃん……?」


「あ、ああ……」


「そっか、よかったぁ……」


 ほっと胸を撫で下ろし、イチゴが硬くしていた頬を緩める。

 そして、その安堵の笑みを隣に向けると、


「うん、お兄ちゃん、大丈夫だって。だから、心配しなくてもいいよ。――おじいちゃん、おばあちゃん」


「……え?」


 祖父と祖母もここにいるのか、とシンゴは目を見開いて振り向く。だが、イチゴの笑みの先には人影など一つも存在せず、ただ樹木が二本あるだけだった。


「……イチゴ?」


「――なに、お兄ちゃん?」


 ぞわりと、寒気に似た何かが背筋を這い上がる。

 胸の奥で、何か嫌な予感が渦を巻き、存在を強く主張してくる。だが、シンゴは極力それを見て見ぬふりをして、掠れた声で妹の名を呼んだ。

 応じる声は、いつものイチゴの声だ。怪我、らしきものも見当たらない。ただ、その青みがかった瞳の奥に、得体の知れない仄暗さが垣間見えて――。


「……シンゴ」


「まえ、だ……」


 妹の微笑に、初めて覚える戦慄に戸惑うシンゴ。その背後から、幾分か落ち着きを取り戻した前田の声が呼び掛けてきた。

 振り向くと、前田は痛ましげな面持ちでイチゴを見ていて、次にシンゴへと向けられたその眼差しには、どこか恐怖に怯えるような揺らぎが見て取れて。


「……頼む。お前まで、壊れないでくれ……っ」


「――――」


 縋るような、痛切な懇願だった。だが、その願いに、自分は一体どんな言葉を返せばいいのか、シンゴには分からなかった。

 ただ一つ言える事は、前田にこの状況について説明を求めるのは酷だという事で、ましてやイチゴに聞くのは――より一層、憚られた。


「……暗くなる前に、さっさと行こうぜ」


 何も答えないシンゴに何を思ったのだろうか、前田は唇を噛んで俯くと、そのまま背を向けて歩みを再開した。

 遅れて、シンゴもその背中を追いかける。今は、歩き続けるしかない。吐き出せない疑問を胸に抱えたまま、ただ、歩き続けるしか出来なかった――。



――――――――――――――――――――



「――――」


 あれから、二日が経った。朝、目が覚めると、前田が冷たくなっていた。

 生気の抜け落ちた土気色の顔を叩き、何度も呼び掛けたが、閉ざされた瞼が再び開かれる事はついぞ無かった。


「ぅ、おぇ……ッ」


 見慣れた友人の死に顔に、堪らず嘔吐する。しかし、ここまで何も入れていない胃には吐き出す物など残っておらず、ただ無意味な収縮を繰り返すだけだ。

 ようやく胃の痙攣が終わった頃には、どっとした疲労が押し寄せてきて、シンゴは膝を着いた状態のまま上半身を折り、冷たい土に頬をこすり付ける。


「……ぅ?」


 瞼が完全に閉じ切ろうとしたその寸前、木々の隙間から漏れ落ちた朝日を反射して、何かが視界の端できらりと輝いた。

 必死に落ちようとする瞼をこじ開けて、その光の反射に目を凝らす。前田の亡骸、そのすぐ脇にそれは落ちていた。


「……ほう、ちょう?」


 吸い寄せられるように手を伸ばし、手に取って握る。包丁だと思ったそれは、どうやら果物ナイフのようで、落ちていた場所から前田の持ち物に違いない。

 何故、こんな物が落ちているのだろうか。用いる対象など存在しない刃物を持ち出して、前田は一体何をしようとしていたのか。


「…………」


 そんなもの、決まっている。この状況で、自決以外に用途など存在しない。

 きっと、これを一晩中握り締めて、悩みに悩んだのだろう。しかし、決断が出ないままに、やがて命の灯は自然に吹き消えてしまったのだ。


「ま、ぇだぁ……っ」


 口の中に入り込んだ砂利を噛み潰し、シンゴの喉が嗚咽に震える。

 貴重な水分を目から垂れ流し、少し大きめの石を奥歯で噛み砕く。噛み砕き切れず、奥歯が欠けて、歯茎が切れたのか鉄臭い苦みが口の中に広がった。


「…………」


 やがてシンゴは、おもむろにナイフを持ち上げると、顔の前まで移動させた。頬を地面に押し付けたまま、ジッとその綺麗な刀身に目を奪われる。

 危うく、それでいて魅力的な鋭い輝きに、瞬きすら忘れてひたすら見入る。腕力など必要ない。刃を上にして、その上に喉を落とせば、己の体重で事足りる。


「ぅ、ん……」


「――ッ!?」


 小さな呻き声が聞こえて、シンゴはハッと我に返った。そして、その声のした方に目を向ければ、寝苦しそうに身じろぎするイチゴが見えて――。


「ぃ、ちご……いちご……ッ!」


 這って、イチゴの下まで辿り着いたシンゴは、そのままイチゴを抱き締める。嫌そうに顔を顰めるイチゴ、その頭部を胸の中に抱き入れた。

 この温もりだけは守らなければならない。何があっても、己を薪にして火にくべてでも、この命の灯だけは消してしまってはならないのだ。

 その責務を全うするまでは、何があろうとも、死ぬ訳にはいかない。


「お、れが……ッ」


 強く、誓う。全霊を賭して、宣言する。


「俺が、絶対に、お前を、生かしてやる……!」




 ――新しい朝が、また始まる。



――――――――――――――――――――



 ――あれから更に、四日が過ぎた。


「……ぅ、え」


 キサラギ・シンゴは、貪り食われていた。

 夢中になって肉に歯を突き立てて、溢れ出る血を必死に啜るのは、森の中を徘徊していた肉食動物――などではない。


「く、ぇ……ッ」


「――――」


「ぐ、ぇ……いぢ、ぉ……ッ!!」


「――――」


 最悪の、光景だった。妹が、兄の血肉を、無我夢中で喰らっていた。

 シンゴに抵抗の意思はない。自分に覆いかぶさり、その体を齧る妹を抱き締めて、この結末を受け入れている。恐怖などなかった。あるのはただ、自分の命が妹を生き永らえさせる為に消費されていく事への悦び、そして幸福だけだ。


「っ……ぁ……」


 気が付けば、痛みは感じなくなっていた。それどころか、全身の感覚が曖昧だ。

 耳は既にその機能を消失し、瞳が映す世界からは色が消え失せている。命が、刻一刻とこぼれ落ちていく感覚だけが、魂を支配していた。


「…………」


 ついに、呻く事さえ出来なくなった。掠れ、闇に呑まれていく意識の中、シンゴはふと、地面に突き立った果物ナイフに目を向けた。

 その刀身には、青白い頬を己の血に塗れさせた、一人の男が――、


「――――」




 ――醜く、引き攣った笑みを浮かべながら、シンゴの事を見ていた。



――――――――――――――――――――





【――穢れ無き心を証明せよ――】





――――――――――――――――――――



 最初に感じたのは、またしても喉の違和感だった。

 しかし今回は、喉の渇きからくる違和感ではない。もっと危機的で、それこそ命に係わる逼迫した状態――息が、出来ない。


「か、ふ……っ!?」


 命の危機を察知した生存本能に、無理やり意識を叩き起こされる。目を限界まで押し開き、必死に現状の把握に全霊を傾けた。

 目の前に、二本の腕が伸びているのが見える。その腕の先に視線をずらしていけば、そこにはよく見知った少女の顔があって――。


「な……ん、で……ッ!」


「――――」


「い……れ、な……ぁッ!」


 馬乗りになり、シンゴの首を絞めていたのは、イレナ・バレンシールだった。

 何故、こんな状況になっている。分からない。全く、理解が追いつかない。だが、一つだけ分かる事がある。このままでは、殺されてしまう。


「――ごめんなさい」


 抵抗を試みようとしたシンゴの鼓膜に、謝罪の言葉が滑り込んだ。

 見れば、イレナは大粒の涙を流し、その顔をくしゃくしゃに歪めていて。


「殺して……あたしを、止めてぇ……ッ」


「ぉ、ぐ……ぁ!?」


 悲痛な声を上げ、滂沱と涙を流しながら、イレナは己を止めろと――殺せと懇願してくる。だが、その願いとは裏腹に、シンゴの喉には深く指が食い込んでいく。

 矛盾している。意思と行動が相反している。だが、少なくともイレナは、自らの意思でシンゴを殺そうとしている訳ではないらしい。


 ――殺意の有無が判明したところで、状況は何も変わらないが。


「お願い、殺したくない……殺してよ、しんごぉ……っ!」


「……ッ」


 このままでは、シンゴは死ぬ。だが、どうすればいい。脳への酸素の供給が滞り、思考が上手くまとまらない。徐々に意識が、砂嵐に侵食されていく。

 だが、それでもやはり、イレナの要求を呑む事など出来ようもない。イレナを殺して生き延びるくらいなら、このまま絞め殺された方が遥かにマシで――。



 ――果たして、本当にそうだろうか?



 ふと疑問が生まれ、それをきっかけに、死に瀕した脳が生存への道を過去に求めたのか、ここに至るまでの軌跡を遡るようにして脳裏に映し出す。

 記憶をなぞり、その果てに、一つの結論に辿り着く。この世界は偽りで、一度は夢幻だと切り捨てた、あの世界こそが真の世界なのだと。

 ならば、この世界は一体何だ。分からない。分からないが、世界が切り替わる時、必ず通る道筋がある。――それは、シンゴの死だ。


 ――この得体の知れない偽りの世界は、キサラギ・シンゴの死によって、次なる偽りの世界へと切り替わっている。


 だとしたら、だとすれば、だ。この世界を終わらせる為には、その逆の行動を取ればいいのではないだろうか。

 キサラギ・シンゴの生存。それが成れば、この世界はきっと終わる。いや、終わらせなければならない。その為には、すぐそこに迫った死から逃れなければ。


「ぉ、おお、ぉ……ッ!!」


「――ッ」


 躊躇を捨て去り、命の危機で外れたリミッターを駆使して、シンゴは喉に食い込むイレナの指を引き剥がす。気道が確保され、久方ぶりの酸素が肺を満たした。

 視界を覆っていた靄が晴れていき、全身に僅かだが力が戻ってくる。これを好機と見て、シンゴは大きく体を捩じった。暴れて、もがいて、気が付けば――、


 ――シンゴとイレナの位置が、逆転していた。


「ご、ぅ……っ!?」


「ごめん……シンゴ、ごめん……っ!」


 逆転、したはずだった。しかし逆転したのは互いの上下だけで、イレナの手は変わらずシンゴの首を絞め続けており、状況自体に変化はなかった。

 一度は確保された気道が再び塞がれて、今度こそ死の指先が触れるのをはっきりと自覚した。拡散し、霧散する意識で、シンゴはイレナの腕に爪を立てる。

 柔らかい、女の子の肌だ。その柔肌を、シンゴの爪はあっさりと抉り、溢れ出した鮮血が重力に引かれて落下――苦痛に歪むイレナの顔を赤く染める。


「ころ、して……殺して、ぇ……っ!」


「う゛っ、ぅう゛ぅぅぅ……っっ!!」


 獣のような声を閉じた喉から絞り出し、シンゴは目尻に涙を浮かべながら、肉片と血に塗れた手の平をイレナの首に向けた。

 脳に巡るはずの酸素は著しく不足し、脳の正常な機能を奪い去る。生への強い渇望と執着、その衝動だけが肉体を突き動かす。


「ぶ、ぅ……ぉぉッッ!!」


「か、はぅ……っ!?」


 互いの喉を締め合う。二対の瞳に映るのは、殺すべき相手の顔だけだ。

 爪を食い込ませ、頚椎をへし折らんばかりに、全力で首を絞める。それはもう、無我夢中で。ただ本能に任せて、少女の細い首を絞め続けた。

 そして、そして、そして――、


「はぁっ……ッ、はぁ……ふっ、はぁ……い、れな……?」


「――――」


 気が付けば、喉の圧迫感は消えていた。意識が徐々に明瞭になるのを感じながら、シンゴはゆっくりと現実を直視する。

 だらりと、力なく地に投げ出された二本の細腕。口の端から白い泡を吹きながら、瞳孔の開き切った虚ろな眼差しがシンゴを見上げている。



 ――イレナが、死んでいた。



「ふ……ふふ、はははっ!」


 何かが、胸の奥で音を立てて壊れる音が聞こえた。その崩壊の音を聞いて、シンゴは天を振り仰ぐと、イレナの亡骸の上で狂ったような笑声を響かせる。

 殺した。殺してしまった。それも、大切な仲間を。自らの命を盾にして守ると誓った存在の内の一人を、よりにもよって己自身の手で。


「ははは、いやいや、違う違う! これは嘘だ! 嘘の世界だ! だから、こいつも嘘! 本物じゃねえ! だから俺は、誰も殺しちゃいねえ!」


 引き攣った笑みを浮かべて、流れ落ちる涙をイレナの亡骸に落としながら、シンゴは自分の行動の正当性を大声で喚き散らす。

 そう、そうだ。シンゴは生き残ったのだ。これで、こんな世界とはおさらば――本物のイレナが生きる世界に、帰還できる。


「戻せよ! さっさと! 元の世界に――ッ!!」


 両手を広げて、天に向かって吠えながら、シンゴは早急な解放を要求する。

 果たして、それが聞き届けられたのだろうか。不意に電源を落とすように、キサラギ・シンゴの意識は暗転した。



――――――――――――――――――――





【――穢れ無き心を証明せよ――】





――――――――――――――――――――



「……だ」


 意識の覚醒と同時にシンゴの耳が捉えたのは、甲高く響く踏切音だった。

 警告を告げる赤い光の点滅が見える。危険地帯と安全地帯を隔てるのは、黒と黄の縞模様で彩られた、遮断機という名の境界線だ。

 その境界線の向こう側――踏切内にて、長い白髪を風に遊ばせながら、黒一色の衣服を身に纏う少女が一人、こちらに背を向けて佇んでいた。


「……嘘だ」




 ――そしてまた、巡り始める。


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