第4章:61 『【激情】の真価』
「既にこの時点で、調子のいい時の『僕』の十倍はありますか……。本当に、『激情』の器となるべく生まれてきたとしか思えませんね」
ぐるりと肩を回し、その場で軽く飛び跳ねて体の調子を確認しながら、シンゴは呆れたように苦笑を漏らす。
そうして、準備運動を兼ねた一通りの確認作業を終えると、屈伸運動の体勢から両手を組み、ぐっと大きく背伸びをした。
――直後、その視界を巨大な黒い影が覆う。
一瞬で距離を詰めてくるのは、拳を腰だめに構えたグガランナだ。
先ほどのアリスと全く同じ状況である。だが、アリスが真正面からの迎撃で切り抜けたのに対し、シンゴは大きくのけ反る事で凶悪な拳を紙一重で躱す。
そして、鼻先を掠める巨腕を両手で鷲掴むと、そのまま膝蹴りを叩き込んだ。
「――――――――ッッ!?」
「どうして僕の攻撃が有効打になるか、疑問ですか?」
あらぬ方向に折れ曲がった腕を押さえ、グガランナが激痛に絶叫を上げる。
その間に素早く後退して、シンゴは穏やかな声で問いを口にした。しかし、その問いはどこか、ここにはいない誰かに向けられているようで――。
「『激情』が大幅に強化された、という訳じゃありません。歪み、不安定な貴方の心を映して、それなりに強化されてはいますが、今の段階ではこの化け物に大したダメージは通りません。――そもそも、前提が間違ってるんですよ」
「……………………ッ!」
苦鳴を漏らすグガランナ、その腕がごぎりと異音を鳴らし、一瞬で治癒する。そして、完治した腕で鳥居をもぎ取り、こちらに向けて投擲してきた。
飛来する鳥居を、シンゴは最小限の動きで回避。その隙を突いて、恐るべき速さで肉薄してきたグガランナが、発達した脚を鋭く薙ぎ払ってくる。
それをシンゴは、右肩の炎翼を真下に強く羽ばたかせて、生じた浮力を使い強引な跳躍で回避。その間も、独り言のような解説は続けられる。
「本来であれば、僕はこの化け物の速さに反応できない。悪意は読めても、こうも速く動かれては捉え切れません。だけど実際、僕は余裕を以て躱せている。――まず、『激情』がただ筋力を強化するだけの権威である、という認識を改めて下さい。それでようやく、スタート地点です」
跳躍を終えて、着地した瞬間、猛烈なラッシュが襲ってくる。放たれる拳、脚、頭突き、どれもが一撃必殺であり、到底、目で追えるような速度ではない。
だが、シンゴはそれを涼しげな顔で次々と回避していく。勘で避けている、のではない。その紫紺の瞳は忙しなく動き、グガランナの挙動を全て追っている。
「――中枢神経系の強化。貴方が考えているより、『激情』の強化範囲は広い」
そして、と言葉を繋げたシンゴは、死の嵐――その僅かな隙間に体を捻じ込んで、グガランナのがら空きの腹部に鋭い拳を叩き込んだ。
ごぼりと、口から胃液を吐き出して、苦悶の声を漏らすグガランナが背を丸める。その、下がってきた顎に、渾身のアッパーが突き刺さった。
「これは貴方も、今までに無意識で何度かやっています。権威を全身に付与するのではなく、強化したい部位に全て集中させる。そうすれば、同じ『激情』でも発揮できる力は桁違いになる」
真下から顎を殴られ、僅かに宙に浮いたグガランナは――その巨大な体躯で軽やかな後方宙返りを打ち、危なげなく距離を取って着地した。
そして、その真紅の瞳がちらりとリノアに向けられる。
「もちろん、させませんよ」
今度は逆に、シンゴが一歩の踏み込みでグガランナの懐に潜り込む。
そのまま、超至近距離での殴り合いが始まった。攻撃を全て避けるシンゴに対し、グガランナは頑丈さと再生力に物を言わせた無防御の戦闘スタイルだ。
そこに、余人の入り込む余地など存在しない。
「時間までまだ少しあるようですので、ここからは応用編です。先ほど説明した『激情』の性質を利用して、必要な部位に必要な分だけ配分、それを継続的に繰り返していけば、ただ全身を強化した時よりもパフォーマンスは大きく向上します。……まあ、変化する状況に合わせ、常に動きながらである以上、制御は非常に困難を極めますので、かなり高等な技術を求められますが」
流動する水をイメージして下さい、と助言を付け足しながら、一度シンゴは後ろに飛び退って距離を取る。
その一方で、グガランナは大きく迂回するように走り出していた。徐々に加速しながら、やがてシンゴを中心に黒い円が描き出される。
「攪乱して、僕の隙を突くつもりですか……」
それなら、と呟いたシンゴは、静かに目を閉じた。
ゆっくりと範囲を狭めてくる黒円、その中央でシンゴは大きく息を吸い込むと、小指を両耳に刺し込んで鼓膜を躊躇なく破壊、そして――、
「ぁ――――ッッ!!!!」
次の瞬間、七時の方角に振り向き、一気に声を爆発させた。
その大咆哮は『冥現殿』を振動させ、視界の端でアリスがぎゅっと耳を塞ぐ。
そして、シンゴの視線の先には――大音量を至近距離で浴び、耳から血を垂れ流して苦悶に悶えるグガランナが、その足を完全に止めていた。
「僕の悪意を読み取る力と、声帯を同時に強化しました」
耳からの流血を蒸発させながら、シンゴがグガランナの前に移動する。
そして、口角の端を持ち上げると、大きく足を開き、深く腰を落とす。
「――“これ”の応用は、オマケです」
冷たく微笑むシンゴ、その右肩で揺らめいていた炎翼が形を変えていく。
やがてそこに現れたのは、炎で形作られた巨大な拳で――、
「こんな便利なモノを肩の上で遊ばせておくなんて、勿体ないですよ」
次の瞬間、炎拳が唸りを上げて、グガランナに叩き込まれた。
炎でありながら熱を有さず、物理的に触れる事が可能。そして過去、その形状を変化させて、身を守る盾にもなった。その特性を利用した、強力な一撃だ。
これを喰らえば、いくら頑丈なグガランナといえど、ひとたまりも――、
「……少々、貴方を見くびり過ぎていたみたいですね」
微かな驚愕を滲ませて、シンゴの微笑に戦慄の色が加えられる。
目の前、僅かに後方に押し戻されながらも、グガランナはその二本の太い腕で炎拳をしっかりと受け止めていた。
その直後、一筋の雷撃が降り注ぐ。――グガランナに向けて。
「これは……」
落雷を受けたグガランナは帯電し、その姿が霞むように掻き消える。ここで初めて、今までずっと浮かべられていたシンゴの笑みが消えた。
辺りから響いてくるのは、静電気が弾けるような音と、床が踏み砕かれる音だ。
かつて、これと同じ状況にキサラギ・シンゴは陥った事がある。そして、今回もその時と同様に、紫紺の瞳は雷を捉え切れずに右往左往するばかりで。
「権威を全て目に集中させれば、辛うじて見えますが……見えたところで、回避の為に他の部位へ力を回すだけの余裕はないですね」
そう、見えていても、認識に体が追いつかない。故に、『激情』による強化が必須なのだが、肉体の強化に僅かでも力を割けば今度は目が追いつかない。
そして、目に集めた力を肉体強化に回そうにも、おそらく間に合わない。はっきり言って、これは想定外の事態だ。嬲り殺される未来しか見えない。
だが、この状況を打破できる可能性は、僅かながら存在する。それは確証もない、他人任せの希望ではあるが――。
「――ちょうど、一分」
そう呟いた直後、シンゴの体が途方もない衝撃を浴びて吹き飛ぶ。床に触れる事無く一直線に飛んで、そのまま氷壁に大穴を空けて突き刺さる。
おそらく、グガランナの攻撃を受けたのだろう。しかし、それを確かめる余裕などシンゴにはない。というより、認識する為の頭部が弾け飛んでいた。
だが、何故か追撃はこなかった。おかげで再生の余裕を得たシンゴは、氷の破片を散らしながら穴から這い出す。そして、その先の光景にふっと笑った。
「どうやら、時間稼ぎの甲斐はあったみたいですね……」
前方、全身に激しい電流を走らせながら、グガランナが巨腕を振り抜いたままの、不自然な体勢で硬直している。
ちらりと視線を横にずらせば、リノアがその小さな口を開け、何やら歌うように喉を震わせているのが見えた。――ただし、音は何も聞こえない。
何か、人には聞こえない音域の音でも発しているのだろうか。理屈は不明だが、リノアがグガランナの動きを封じてくれた、というのは確かなようだ。
「……僕も、そろそろ時間ですね」
「シンゴ――っ!」
ぐらりと膝を着くシンゴの下に、アリスが駆け寄ってくる。
アリスに支えられて立ち上がるシンゴだったが、その瞳から紫紺の輝きは消え失せており、荒い息を吐く顔には疲労の色が濃い。
「俺は……いい、から……グガランナを……ッ」
「……っ」
息も絶え絶えに、シンゴは支えてくれるアリスの腕を押しやる。
一瞬、アリスの瞳が悲しげに揺れたのが見えた気がしたが、それも瞬きの間に消え去る。そして、その真紅の瞳が硬直するグガランナに向けられた。
シンゴから離れて、アリスがグガランナの下まで移動する。
「……悪いけど、キミを倒させてもらうよ」
「……………………」
目を細め、アリスが小さく声を掛ける。だが、グガランナがその声に反応を示す事は無い。というより、目の前に立つアリスを認識できていないように見える。
吸血鬼と同じ真紅の瞳は焦点が定まっておらず、開かれた口からは呻くような吐息と糸を引く唾液がこぼされるのみだ。
「――――」
――そこからは、一方的な展開だった。
舞を踊るかのように、アリスの鮮やかな連撃がグガランナを削っていく。
拳が肉を抉り、蹴りが骨を砕く。再生を、破壊が塗り潰していく光景――。
「――――――――」
やがてそこには、四肢を失った化け物が一匹、虫の息で転がっていた。
だが、未だにその再生力が尽きる事は無い。死ぬ事を許されないその姿が、シンゴには死を剥奪された吸血鬼に重なって見えた。
見れば、息を切らせながら、アリスが辛そうな顔で唇を噛み締めていて――。
「――あとは、我が」
そんなアリスの腕を引き、代わりに前に進み出るのは、グガランナを拘束し続ける必要がなくなり、自由になったリノアだ。
静かに、リノアがグガランナを見下ろす。その表情が、同情に揺れるような事はない。ただ無言で、鋭利な黒翼を振りかぶる。
――次の瞬間、黒刃が無数に閃いた。
無慈悲に、情けも容赦も一切なく、黒い翼がグガランナを斬り刻む。
いくら頑丈でも、どれだけ再生力があろうとも、この状況では何の意味もない。その無表情を返り血で濡らしながら、リノアは黒翼を振るい続けた。
やがて、数センチしかない肉片にまで解体されたところで、ようやくグガランナの再生が止まる。――もはや、原型すら分からなかった。
「――なかなかに見応えがあったぞぇ、貴様ら」
閉じた扇子を掌に打ち付けて拍手してくるのは、満足げな笑みのイナンナだ。それは屈託ない笑顔で、純真な子供が見せるような無邪気なものだった。
そして次の瞬間、その笑みが窒息しそうなほどに妖艶な色香を纏う。ぞっと悪寒が背筋を這い上がるのを感じて、シンゴは呑まれまいと歯を食い縛り、再び『激情』の力を全身に巡らせていく。
紫紺の輝きを取り戻す左目と、鋭い金眼が交差する。が、不意にその金眼があらぬ方向に逸れた。その先には、グガランナの亡骸が――。
「『グガランナは絶命していない』。メー」
「――!?」
紡がれた力ある言葉。最後の結びの句からして、言霊の権威ではない。
次に起きた現象をありのままに言うならば、まるでコマが切り替わるように、血と臓物で出来た池が五体満足のグガランナに変化していた。
「ボクが――ッ!」
真っ先に我に返ったアリスが風を纏って飛び出す。この形態のグガランナにも引けを取らない、恐るべき速さで一気に距離をゼロにする。
そのままアリスは、復活したグガランナに飛び付くように触れた。その行為でシンゴも思い出す。アリスには権威を無効化する力がある事を。
「――――――――」
「なっ――!?」
が、グガランナには何の変化も起こらず、アリスの瞳が驚愕に見開かれる。
そして、その停滞を見逃してもらえるはずもなく、まるで転がるボール蹴り飛ばすように、グガランナの極太い脚がアリスに突き刺さった。
「アリス――ッ!?」
シンゴは咄嗟に走り、蹴り飛ばされたアリスを受け止める。炎翼を黒い床に突き立て、十メートル近く後退したところでようやく静止した。
慌てて腕の中のアリスに目を向ければ、どうやらギリギリのところで防御していたらしく、幸い上半身が吹き飛んでいるなどという事はなかった。
意識もはっきりしている。だが、その防御した腕が酷い状態だ。ぐちゃぐちゃに捻じ曲がり、赤黒く変色した腕からは、砕けた骨が乱雑に飛び出ている。
「だい、じょうぶ……治る、から……ッ」
顔面を真っ青にして、アリスがか細い声を絞り出して気丈に微笑んでくる。その言葉の通り、言い終わる頃にはほとんど治癒が終わっていた。
だが、やはりアリスはこういった重い負傷には慣れていない。全身が小刻みに震えており、顔には大量の冷や汗を掻いている。
「……ッ」
痛ましげに顔を顰めて、シンゴは込み上げてくる自責の念に奥歯を噛んだ。
完全に気を抜いていた。シンゴも一緒に走り出していれば、この事態は避けられたはずだ。これは、キサラギ・シンゴの怠慢が招いた結果に他ならない。
強く、己の中で何かが脈打つ感覚がある。全身に巡る『激情』が強まるのを実感しながら、シンゴは憎悪を宿した瞳でイナンナを睨み付けた。
「『グガランナは、それぞれ異なる性質を有した十体に分裂した』。メー」
「……は?」
呆けた声を漏らすシンゴの眼前で、“それ”は起こった。
めきりと、怖気の走る音を響かせて、グガランナの背中が大きく隆起する。そこから生じるのは、九つの牛の頭部だ。
目を見開いて絶句するシンゴを余所に、その九つの頭部はもがくように這い出てくる。やがて、そこに現れたのは――十体のグガランナだった。
「「「「「「「「「「――――――――ッッッッ!!!!」」」」」」」」」」
「……ふざ、けんなよ」
十体のグガランナが同時に咆哮を上げ、耳障りな不協和音を奏でる。その絶望的な光景を前に、シンゴは戦慄の声を落とすので精一杯だった。
そんなシンゴとアリスを守るように、リノアが小さな体を割り込ませてくる。そしてそのまま、喉を震わせてあの無音の歌を紡ぎ出す。
――が、その歌に反応したのは、たった一体だけだった。
「貴様のそれは、対象の情報物質を摂取する必要がある。――違うかぇ?」
「――っ」
イナンナの指摘を受け、リノアがぐっと喉を詰まらせながら口を閉ざす。
よく見てみれば、十体のグガランナはそれぞれ体型や色が違う。注意して観察しなければ分からないような差異だが、リノアにとっては致命的だったらしい。
つまり、あの無音の歌による拘束は、最初に吸血した個体以外には効果がないのだ。有効にするには、一体ごとに血を吸う必要がある、という事だろう。
「さて、これにて余興は仕舞いぇ」
音を立てながら金の扇子を閉じて、イナンナがゆっくりと腰を持ち上げる。
そして、その獰猛な肉食獣を思わせる金眼でこちらを睥睨し――、
「――喜べ。余を満足させた褒美に、貴様らには余が直々に手を下してやるぇ」
背筋が凍るほど、美しくて危うい笑みを向けてくるのだった――。