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虚飾のアリス ‐不死の少年と白黒の吸血鬼‐  作者: 竜馬
第4章 とある兄妹の救済
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第4章:52 『見上げる壁の高さ』

 ――真っ赤な花弁を散らすように、掻き切った首筋から鮮血が迸る。


 まるで放水の如く勢いよく噴き出る命の赤、その鮮やかで生々しい様を視界の端に入れながら、キサラギ・シンゴはまだ足りないと不足を自覚する。

 この程度では到底至らない。加え、常人なら放置すれば近付けるのに対し、吸血鬼の肉体を持つシンゴは逆に遠ざかる。


 ――『死』から、遠ざかる。


 だったら、待てば待つほど遠のくのならば、己から出向けばいいだけの話だ。

 みるみる内に塞がっていく傷口に指を突っ込み、掻き混ぜるように抉る。もはやこれが痛みなのか熱なのか快楽なのか、判別する事すら難しい。

 だけど、分かる。確実に、『死』へと近付いている事が。


 ――あと、もう一歩。


 その一歩を踏み出す寸前、己の内に宿る不死の力にふと疑問を覚えた。

 この力のトリガーは『死』だ。だが、果たして本当にそうだろうか。

 先ほど、吸血鬼達は一人も欠けずに蘇った。そして、シンゴの再生力は『真祖』を凌ぐと言われ、彼らより圧倒的に上だ。ここで、一つの仮説が生まれる。

 過去に力が発動したタイミングで、仮に力が発動していなかった場合。その先に絶命はなく、吸血鬼の再生力のみで自己蘇生できていたのではないだろうか。


 この力が常人の『死』を基準にしているのであって、吸血鬼のように異常な回復力を有する存在は想定外なのだとしたら。

 キサラギ・シンゴの場合、トリガーは『死』ではなく、一定以上『死』に近付く事――つまり、基準値以上の『致命傷』なのではないだろうか。


「――――」


 ――そんな現実逃避に近い事を考えながら、シンゴは残っていた片手で手刀を作ると、『激情』の全力で己の心臓を抉り抜いた。



――――――――――――――――――――



 次にシンゴが目を覚ました時、まず真っ先にその視界に飛び込んできたのは、月明かりも星の輝きも存在しない、暗闇に塗り潰された漆黒の夜空だった。

 背中には硬くて冷たいコンクリートの感触がある。僅かに首を傾ければ、現実では有り得ない歪な形状の建造物が立ち並ぶ、異様な街並みが遠目に望めた。


「――っ!」


 自身の置かれた状況を正しく把握したシンゴは、瞬時に飛び起きた。

 左方から、頬を焼く光と熱を感じる。しかしシンゴはそちらには見向きもせず、右方にある落下防止柵の側へと迷わず走り出した。


『ま、待て、シンゴ――!?』


 背後から驚愕を孕んだ『声』が響くが、構う事無くひた走る。やがて柵の手前にまで到達したシンゴは、そのまま足を止めずに躊躇なく柵を飛び越えた。

 全身を刹那の浮遊感が包み込み、次の瞬間、重力に引かれて落下が始まる。


「――早く」


 ――恐怖より尚、この身を焼く焦燥感の方が遥かに大きくて。


「――早くッ」


 ――刻一刻と迫る地面を睨み付け、呪詛にも似た呟きを漏らす。



「とっとと死にやがれぇぇぇ――――ッッ!!!!」



 絶叫が轟いた次の瞬間、校庭の片隅に血と臓物の赤い華が咲いた。

 その華はついぞ、散華の寸前まで花弁を彩っていた、歓喜に満ちた醜悪な笑みを自覚する事はなかった。



――――――――――――――――――――



「ぅ……」


 呻き、抉れた脇腹から桃色の臓物と血濡れた骨を覗かせながら、膝を着いたイチゴの身体がゆっくりと地面に傾いていく。――その寸前だ。

 驚くべき速さで滑り込んで来た黒い人影が、その身体を優しく受け止めた。

 所々が破けた黒い制服、雪が付着した茶色い頭髪、右肩に炎翼を揺らめかせる少年――キサラギ・シンゴだ。


「――すぐに、治すよ」


 囁くように、優しい声音でシンゴが語り掛けたその直後、片翼しか存在しない右肩の炎翼が蠢き、イチゴの抉れた脇腹をそっと撫で付けた。

 炎に撫でられた箇所が燃え上がり、肉の焼ける音と煙が上がり始める。しかし、実際に起こっている現象は本来の炎が起こすものとは真逆だ。


 炎に焼かれた傷口はみるみる内に治癒していき、死人同然の青紫色だった頬に薄っすらと赤が差し込んで、徐々に生気が蘇っていく。

 そして呼吸のリズムが安定し始めた頃には、その脇腹に空いていた穴は傷跡一つ残す事無く綺麗に塞がっていた。


「あ、あぁぁ……!」


 直後、悲痛な声を上げ、傷の完治したイチゴに縋り付いて来る少女がいた。操られていたとはいえ、イチゴの脇腹を抉ってしまったリノアだ。

 その取り乱し方は尋常ではなく、無表情かつ無感情な印象が常だった普段の彼女からは想像も出来ない、激しい感情の発露がそこにあった。


「イチゴ……我は……我は……っ!」


 ぽろぽろと涙を流し、気を失ったイチゴの頬を撫でるリノア。

 そんな二人に背を向けて、シンゴは静かに立ち上がった。こきり、と首の骨を鳴らして、閉じていた瞼を一気に押し開く。

 大きく開かれた紫紺の両眼が見据えるのは、嘲弄の笑みを口元に浮かべる許されざる敵――イナンナ・シタミトゥムだ。


「この濃密な殺気……『激情』に選ばれるのも納得のプレッシャーよなぁ」


「……あんたは、僕の家族を殺そうとした。楽に死ねると、思うなよ?」


「ハッ! 誰に向かって抜かすぇ! そこまで言うからには、貴様はあの老骨よりも余を楽しませる、無様で滑稽な舞を披露する自信があるのよなぁ!」


「……殺す」


「舞ってみせぇ!」


 双方の間で殺意が高ぶり、言葉の応酬の果てに最高潮に達する。

 怒りと憎悪で瞳を濁らせながら、未だかつてない程に膨れ上がった『激情』に身を浸すシンゴは、低く腰を落として身構えた。――が、そこで動きが止まる。


「……なんのつもり?」


「――――」


「アリス」


 シンゴのすぐ目の前、両手を広げたアリスが立ち塞がっていた。

 水を差されたシンゴは、紫紺の目を細めてアリスにその行動の意味を問い質す。

 一瞬、シンゴの眼力に気圧されたアリスが喉を詰まらせるが、それでも歯を食い縛ってシンゴを睨み返してきた。


「今のキミを、戦わせる訳にはいかない――ッ!」


「どうして?」


「キミは今、まともじゃない! 仮にそうでなくても、一人じゃ絶対に勝てない! 闇雲に突っ込んでも、意味がない!」


 キッと、鋭く細められた真紅の瞳がシンゴを真っ直ぐ射抜いてくる。

 そのアリスの眼差しと言い分を正面から受け止めて、シンゴは眉一つ動かす事無く、静かな声音で返答を口にした。


「家族が、殺されそうになったんだよ? なのに君は、何もするなって言うの? ただ指を咥えて、この酷い虐めを見過ごせって?」


「ボクは、そんな事……っ!」


「――――」


「あっ……!?」


 シンゴの返しに顔を歪めてたじろぐアリス。そんな彼女の真横を、シンゴは強力な『激情』で底上げされた脚力を用いて一気に抜き去った。

 アリスの声を後ろに置き去りに、シンゴは低く疾走しながら敵に肉薄する。

 そんなシンゴの直線の突貫を受け、イナンナの眉が不機嫌そうに歪められた。


「――!」


 そのタイミングで、あの何度も経験した言霊、それが放たれる時と同質の悪意を感知――シンゴは躊躇なく、両耳に指を突き入れて鼓膜を潰した。

 脳髄を貫くような激痛が頭蓋の中で反響する。視界がぐらつき、猛烈な吐き気が込み上げてくる。だが、指を抜けば瞬く間に鼓膜は再生してしまう。故に、耳から指を引き抜く訳にはいかない。


「……貴様は、ろくに学習も出来ん阿呆なのかぇ?」


「――っ!」


 そんなシンゴの対処を受け、怒りに顔を歪めたイナンナが何か言ってくる。しかし読唇など出来ないシンゴには、何を言われたのか全く理解できなかった。

 と、次の瞬間だ。イナンナの悪意に微妙な変化が生じた。

 その小さな変化に違和感を覚えつつも、敵のすぐ目の前にまで接近していたシンゴは、無視しようとして――そこでハッと息を呑んだ。


 この微妙に変化した悪意と同じ物を、一度だけ感知した記憶がある。

 これは、この悪意は、そう――シンゴ同様に鼓膜を潰したガルベルトが、右半身を吹き飛ばされた時に感じた悪意と、全く同質だ。


「『跪け』、メー」


「っぁ――ッ!?」


 直後、不可視の力が真上から圧し掛かってきた。

 まるで重力が何倍にも膨れ上がったかのように、苦悶の声を漏らしたシンゴは膝を屈して堪らず両手を着く。その体勢はまさしく、女王に跪くかのようで――。


「う、ぁが……ッ!?」


 顔が、腹が地面に着かないよう堪えるだけで精一杯だった。ここから身体を持ち上げる事は、残念ながら叶いそうにない。

 これだけ強い『激情』でも駄目なのか。いくら身体能力が強化されようと、所詮は土台が凡人であるシンゴにはこれが限界なのだろうか。

 この『力』を手に入れて、以前よりは多少マシになった自覚があった。それでも、眼前の壁を越えるには力不足で、今のままでは駄目だと言うのなら――、



 ――新たな『力』が、必要だ。



 大事な存在を無傷で守り抜き、立ち塞がる障害を悉く薙ぎ払えるだけの、他を寄せ付けない圧倒的な『力』が必要だ。

 何も、無形の希望に縋っている訳ではない。ちゃんと、当てはある。それも、己自身の奥底に。未だ産声を上げずに眠っている、未知の『力』が。



 ――『激情』と対を成す、もう一つの権威が。



「――つまらん。もう飽きたぇ」


「――!?」


 己の内に眠る『力』を如何にして引きずり出すかを考えていると、どこか白けたような声音がシンゴの再生した鼓膜を震わせた。

 謎の重力に抗いながら苦心して顔を上げると、先ほどまで好戦的な笑みを浮かべていたイナンナが、シンゴではなく別の方向を見ていた。

 その視線の先には、先ほどの言霊による自害から再生を終えて復活してきたらしいガルベルトの姿があり――、


「老骨、『『錫杖』の在り処を吐け』」


「――ッ。冥現、山の中……冥現殿、に……ッ」


「その、冥現山と言うのは、後ろの氷山の事かぇ? 『答えよ』」


「そう、です……ッ」


 歯を食い縛り、必死に抵抗しようと顔の皺を増やすガルベルトだったが、言霊による強制力によって呆気なく『錫杖』と呼ばれる物の在り処を白状してしまう。

 そして、必要な情報を得たイナンナは静かに瞑目し、持っていた金の扇子で腰掛けているグガランナを小突いた。


「行くぞぇ、グガランナ」


「なっ……待、て……ッ!」


 何やらこの場から立ち去るような雰囲気を見せ始めたイナンナに、目を見張ったシンゴは咄嗟に「待った」の声を絞り出す。

 しかし、返ってきた返答は素っ気ないものだった。


「貴様程度では話にもならんぇ。知恵を巡らせる訳でもなければ、不意を突く隠し玉もない。ただ闇雲にも突っ込んで来るだけなど、芸がないにも程があるぇ。加えて、『憤怒』も使えぬときた。呆れて殺す気も失せるわ」


 グガランナが立ち上がるのに伴い、その上に腰掛けるイナンナも上昇する。

 自然と見上げるような形となるシンゴを、イナンナが興味を失ったような表情で、その獅子を思わせる金色の瞳で一瞥してくる。


「阿呆にも分かるように言ってやる。余は、見逃してやると言っておるのぇ」


「――ッ」


「忘れるでないぇ、貴様らは余の気まぐれでその矮小な命を繋ぐ事を。この余の寛大さに感謝し、敬服し、生の喜びを噛み締めながら震えて蹲っておれ。貴様らのような下等種には、それがお似合いよ。分不相応、というやつよなぁ」


 割れんばかりに奥歯を噛み締めて睨み上げるシンゴから、イナンナは今度こそ興味を失ったように視線を切り、「ゆけ」とグガランナに命令。

 その主の命を受け、低く唸ったグガランナが走り始める。そして驚くべき事に、雪を踏み締めるその足が徐々に浮き始め、やがて空中を駆け始めた。

 空を駆ける黒牛鬼の姿に唖然とするシンゴ。と、そのグガランナの背に立ち、ズボンのポケットに手を入れながらこちらを見下ろす男が一人いた。


 シンゴと同じ黒い制服に身を包む、もう一人の『罪人』――捏迷歪だ。


「いやはや、ちょっと集団自害に巻き込まれて人が死んでる間に、気が付けば活躍の機会を逃して僕何しに来たの状態……全く、ひどい話だぜ」


 やれやれ、と肩を竦めてため息を吐いた歪は、やがてその暗く淀んだ黒い瞳を這い蹲るシンゴに向けてきた。

 そして、その口元に薄ら寒い微笑を浮かべて――、


「――相棒。その体勢、滑稽で笑えるぜ?」


「いが、みぃ……ッ!」


 胸の奥からザラついた熱が込み上げてきて、ほんの少しだけ『激情』が強化された。しかし、それで出来た事と言えば、『冥現山』へと飛び去って行く二人と一匹に向かって手を伸ばす事くらいだった。

 やがて、その姿が豆粒ほどの大きさにしか見えなくなり、どう足掻いても追いつけない事を悟った瞬間、今までシンゴを支えていた『激情』が気の緩みに呼応するように解けて、重力に負けたシンゴの全身が雪に沈む。


「ぢく、しょうが……ッ」


 途方もない無力感が心に重く圧し掛かり、口の中に入った雪をすり潰しながら、シンゴは奥歯を噛み締めて拳を固く握り込む。

 イチゴを傷付けたあの女に一矢報いる事が出来なかった。それどころか、懐に潜り込む事さえ。加え、敵は他にもいる。最強の魔物の一角と称されるグガランナ。そして最後、這い蹲るシンゴを嘲弄の眼差しで見下ろしていた捏迷歪。

 今更ながら、その途方もない壁の高さを実感させられた。


「――ぁ?」


 失意とやるせなさに唇を噛んでいると、不意に背中に誰かの手が触れた。その直後、継続的にシンゴを圧し潰していた重力が嘘のように霧散する。

 軽くなった顔を上げて振り返ってみれば、そこには複雑な面持ちのアリスがいて、ちょうど視線を逸らすところだった。

 アリスに触れられて正気に戻ったのは、これが初めての事ではない。この引っ掛かるような既視感に対してあと少しで答えが出る、その寸前の事だ。


「だずけ、で……ぐだざい……ッ!!」


「――!?」


 不意に響いた嗚咽交じりの助けを求める声に、シンゴはハッとして振り返った。そして、そこにいた人物の姿に鋭く息を詰める。

 クセのあるくすんだ金髪を乱れさせ、涙と血で頬を汚した、ぜぇぜぇと荒い息を吐く少年――ゴン・サウンドがそこにいた。


「なんで、お前がここに……?」


 と、疑問の声を漏らしたシンゴは、ゴンの身に纏う質素な衣服がおびただしい量の血で汚れている事に気付き、喉を凍り付かせた。

 が、すぐにそれが、ゴン自身の血ではない事に気付いて目を見開く。


「おい、まさか……」


 震える声で呟くシンゴの視線の先――だらりと腕を垂らしながら、ゴンに背負われている一人の少女の姿が目に留まった。

 ゴンと同じくすんだ金髪と、死人と見紛うほどに真っ青な横顔。どうやら、ゴンの衣服を真っ赤に染める血は、全て彼女のものらしい。

 愕然と目を見開くシンゴに、ゴンは涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、改めてその切実な願いを口にした。


「おねぇぢゃんを……助けでくだざい……ッ!!」


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