第4章:51 『猛威を振るう言霊』
二人の『罪人』と黒い牛の化け物。敵の力は底が見えず未知数で、その圧倒的な戦力差は火を見るより明らかだった。
そんな絶望的な状況に、一筋の――いや、二筋の光明が差し込んだ。
シンゴが知る限り、最強の吸血鬼が二人、傷の再生を終えて復活してきたのだ。
雷光の如き神速を有する老執事――ガルベルト・ジャイル。
唯一無二の存在である『真祖』の少女――リノア・ブラッドグレイ。
二人の最強は、二人の最凶と、真っ直ぐに対峙する。
その立ち姿に怯えの影は微塵もなく、敵対関係にあった事も忘れ、シンゴはその頼もしい二つの背中に緊張と恐怖が和らぐのを感じた。
「四皇魔……黒牛鬼……?」
と、疑問の声を漏らすのは、先ほどまで戦慄に言葉を失っていたアリスだ。
アリスのその疑問は、復活した二人が最初に牛の化け物を見て、それぞれ発した単語についてである。
「四皇魔ってのはねー、西の端にある『パンデモミアの魔境』に生息する、最強の魔物四体の総称だよー」
「グガランナ。それが、『金角の黒牛鬼』と呼ばれる眼前の化け物の名です」
その疑問に答えたのは、楽観的な口調と丁寧な口調、二つの声だった。
ハッとその声のした方に顔を向けると、二人で銀髪をそれぞれ片側ずつ結んだ、瓜二つの顔を持つ二人の少女が立ち上がってくるところだった。
「ラミア! レミアも!」
「二号くん、ラミア達が完全に死んじゃった、みたいな驚き方してたよねー。ラミア達がこれくらいで死ねる訳ないじゃーん」
復活した双子の吸血鬼、その姉の方であるラミアが雪を払いつつ、先のシンゴのリアクションに対して不満げに唇を尖らせてくる。
確かにラミアの言う通り、これくらいで吸血鬼が死ぬはずがない。ただ、それを疑ってしまうほどに、吸血鬼全員が血の海に沈む光景が凄まじかったのだ。
「――――」
「レミア……」
ふと視線を感じてそちらを見てみれば、妹のレミアが半身で振り返り、シンゴを表情の読めない無言の眼差しで見つめていた。
シンゴは双子とガルベルトの仲を改善させようと、二人を騙すような形で食事の席に誘い、盛大に失敗。結果、二人の不況を買った。
それでも、ラミアは以前と変わらずにシンゴに接してきてくれたのだが、レミアとはあれ以降は一度もまともな会話を交わせていない。
「――雑談はそこまで。これより、最優先事項の確認に入る」
静かな、しかし誰もが耳を傾けさせられる、そんな不思議な力強さを孕んだ声でそう切り出してきたのは、眼前の敵を鋭く睨み付けるガルベルトだ。
ガルベルトは、グガランナの上に優雅に足を組んで腰掛けるイナンナと、雪の上に無言で正座したままの捏迷歪を油断なく見据えて言い放った。
「如何様な手段を用いて、『選別の境界』を突破した?」
「ハッ、知れた事よ。あの妙な柱が結界の起点になっておる事は阿呆でも分かる。――故に、破壊した。ただ、それだけの事よ」
かつてシンゴ達にも聞いたように、ガルベルトは『選別の境界』を突破した方法について眼前の二人に問いを向けた。
一方、それに答えたのはイナンナだ。鼻を鳴らし、嘲弄するように見下した笑みを浮かべて、当たり前の事実を告げるようにそう返してきた。
しかし、その当たり前が難しい事をシンゴは知っている。
シンゴ達も『選別の境界』を突破すべく金柱の破壊を試みたが、金柱は物理攻撃も魔法攻撃も寄せ付けず、結局イレナの『ゼロ・シフト』に頼るしかなかった。
その金柱を本当に壊したのなら、敵はそれだけの力を有している事になる。分かってはいるが、警戒のレベルを更に上方修正する必要があるだろう。
「金柱……そうか、この雪……!」
ハッと空を見上げ、シンゴはこの不可解な降雪の原因に思い至る。
思い出されるのは、中庭でのリノアとの会話だ。リノアは『豊穣の加護』が金柱によって展開していると語った。そしてその金柱が破壊された今、『豊穣の加護』は消滅。結果、温暖な気候は崩れ、外の冷気が流れ込んできたのだろう。
「金柱は『選別の境界』の内側に存在する。それを如何にして破壊したのか……その方法を問い質したところで、答えはしないのだな、貴様らは」
「無論。わざわざ手の内を明かしてやる義理もないでのぅ」
「ならば、優先事項を繰り上げる。――この神聖なる『金色の神域』に、一体どのような無粋な理由があって入り込んで来た、この咎人ども」
刻一刻と気温が下がっていく中、涼しげな顔で金の扇子を扇ぐイナンナに対し、凄みを利かせたガルベルトが重ねて問いをぶつける。
後ろに立つシンゴですら身震いしそうになるほどの迫力に、しかしイナンナは余裕の笑みを崩さず、扇子をパチンと音を立てて閉じると、
「それこそ、わざわざ答えてやるまでもなく、よぅく分かっておるはずぞぇ?」
「……やはり、貴様らの目的は」
「――『錫杖』は、どこぇ?」
毒々しくも美しい、そんな危うさを孕んだ妖艶な微笑で口元を歪め、イナンナが『錫杖』という聞き慣れない物の在り処を問うてきた。
その、問いを問いで返すイナンナに対し、ガルベルトは険しくしていた表情をふっと緩めると、静かに瞑目――次の瞬間、袖口に仕込んでいたらしい短剣を手の中に落とすと、素早く雷を纏わせ、躊躇なくイナンナの顔面目掛けて投擲した。
まさに早業と呼べるガルベルトのその不意を突く攻撃に対し、イナンナは反応する事も出来ず顔面を串刺しに――、
「――!?」
「そのような姑息な手段が、余に通ずると本気で思うてかぇ?」
驚愕に目を押し開くガルベルトに、無傷のイナンナが嘲るような笑みを向ける。
それは、あまりに一瞬の出来事だった。ガルベルトの投擲した電流を帯びた短剣は、何の因果か、天から降り注いだ一筋の雷撃によって消し炭となったのだ。
ふと見れば、イナンナが腰掛ける魔物――グガランナの双角が激しく放電し、青白いスパークを散らしていた。先の不自然な落雷は、あの魔物の仕業か。
「――『瞬雷』」
落雷をも操る敵の常識破りの力に慄くしかないシンゴだったが、奇襲を防がれた当のガルベルトの動揺は一瞬だった。
瞬時に全身に雷を纏ったガルベルトの姿が掻き消え、パリ、パリ、という静電気が弾けるような音が周囲に鳴り響く。
その音はかつて、朝霧の世界にて聞いた事がある。ガルベルトは今、目にも止まらぬ速さで動き回り、仕掛けるタイミングを窺っているのだ。
実際にこの神速に翻弄されたシンゴだから分かる。これを躱すのも、防ぐ事も、断じて不可能だ。――その、はずだったのだが。
「甘いわ」
「なにッ!?」
背後から振り下ろされた短剣、その死角からの一撃を、イナンナが振り返りもせずに金色の扇子で受け止めていた。
「貴様ら暗殺者どもの陰険な習性くらい熟知しておる。それに、雷鳴が背後に轟いた瞬間には命を刈り取られておると言われる、“後雷のジャイル”――その師ともなれば、背後からの奇襲を読むなど容易いわ」
「こちらの素性は調査済みという訳か……ッ」
歯軋りし、すかさず宙返りで距離を取るガルベルト。その着地と同時に、イナンナから明確な攻撃の意思をシンゴは感知した。
イナンナの口が開かれるのを見て、またあの絶対命令とでも言うべき言霊がくる事を予感。咄嗟に注意を促そうと口を開くが――、
「ほぅ?」
眉を上げたイナンナが驚嘆の声を漏らすのを見て、シンゴは警告を中断。イナンナの見つめる先を見て、驚愕に目を押し開く。
そこには、両耳に小指を突っ込み、自らの鼓膜を潰すガルベルトの姿があって。
「耳は十秒もすれば治癒するだろうが……」
指を引き抜き、耳の穴から血を垂れ流すガルベルトが、更に短剣をもう一本取り出す。そして、二振りの短剣を逆手に構えて低く腰を落とすと、
「貴様を屠るのに、三秒もあれば十分!」
真紅の双眸を鋭く細め、ガルベルトが踏み込む足に力を込めた――その瞬間だ。笑みに口端を裂いたイナンナが、その唇から力ある言葉を紡ぎ出した。
「『吹き飛べ』」
「無意味!」
「メー」
「――ッ!?」
読唇だろうか、イナンナの言葉を正確に読み取ったガルベルトが無駄だと切り捨てるが、次にイナンナが発したヤギの鳴き声のような一言を受け、鋭く息を詰めたガルベルトがその場からすかさず姿を消す。
再び仕掛けるべく、あの神速に至る高速移動に入ったのだとシンゴは思った。だが、その認識が勘違いであった事を次の瞬間に悟らされる。
「ぐッ……!」
「――え?」
呻き声が聞こえて、そちらを見たシンゴは呆けた声を漏らして目を丸くする。
攻撃も仕掛けず、何故か途中で高速移動を中断して、少し離れた位置で荒い息を吐きながら片膝を着くガルベルト。――その右半身が、大きく抉られていた。
「――ガルベルト」
「問題……ありません、リノア様……直に、治ります……っ」
ちらりと視線を送ってくるリノアに、ガルベルトが問題ないと応じる。しかしその傷は甚大で、抉れた胴体からは脈動する臓器や骨が顔を覗かせていた。
「どういう、事だよ……?」
満身創痍のガルベルトを見て、シンゴは戦慄を孕んだ疑問の声を漏らす。
あの時、ガルベルトは確実に音を遮断していた。それにも拘わらず、イナンナの『吹き飛べ』という言葉通りの現象がガルベルトに起きている。
今、ガルベルトの身体は再生を始めているが、シンゴの再生と比べれば格段に遅い。潰れた鼓膜が再生し、音を拾ってしまったという可能性はないだろう。
となると、奴の言霊は耳に届かずとも発動するのか、それとも――、
「――ふむ。さすがに再生が終わる頃合いか」
「――!」
片目を閉じ、小さく息を吐くイナンナの言葉で気付く。倒れ伏していた他の吸血鬼達が、一人、また一人と立ち上がってきていた。
その様子をしばし眺めていたイナンナは、ほとんどの吸血鬼が起き上がり、臨戦態勢に入るのを確認してから、
「『自害せよ』」
――再び、あの言霊を発した。
首を掻き切り鮮血を散らす者、舌を噛み切り血で溺れる者、自らの武器で腹を掻っ捌く者、拳で自らの頭蓋を割る者、手刀で心臓を抉り出す者、両手で首の骨をへし折る者、次々と、自ら生命活動を停止させていく。
あの惨状が再演される中、イナンナの悪意を事前に察知していたシンゴは、咄嗟に自らの耳に雪を詰め込んでいた。
だが、音を完全に遮断できなかったのか、それともやはり声を遮断しても意味がないのか、シンゴも再びあの強烈な自害衝動に襲われる。
「ぐッ……く、そぁ……っ!」
しかし他の者と違って、シンゴはその自害の衝動に抵抗できていた。これも、最初に『首を掻き切れ』と言われた時と同じだ。
加えて、一度経験したからだろうか。最初よりも、今はこの衝動を抑え込められそうな気がする。――その、小さな光明を打ち砕く声が再び響いた。
「『自害せよ』」
「ぐ、ぅ……っ!?」
「『自害せよ』『自害せよ』『自害せよ』『自害せよ』『自害せよ』『自害せよ』『自害せよ』『自害せよ』『自害せよ』『自害せよ』」
重ねられる言霊に、シンゴの意識が呑み込まれていく。必死に抗おうとするも、その抵抗を更なる自害衝動が塗り潰していく。
そしてとうとう、自らを滅ぼせという命令に屈しかけた、その瞬間だ。突然、意識がふっと明瞭になり、自害衝動が嘘のように消え失せた。
「なん、だ……?」
何が起きたのか理解できずに困惑するシンゴだったが、ふと肩に誰かの手が乗せられている事に気付き、ハッと横を見る。
そこには、焦燥を孕んだ面持ちで、シンゴの肩に触れるアリスがいた。
そのままアリスは、シンゴが正気を取り戻したのを見届けると、眉間に皺を寄せながら引き戻した自分の手の平に視線を落とす。
「……やっぱり」
神妙な面持ちで、何かを納得したように小さく頷くアリス。そんな彼女から視線を前に戻せば、シンゴの眼前には最初と全く同じ凄惨な光景が広がっていた。
その光景の中には、ガルベルトとリノア、そしてラミアとレミアの姿も見て取れて、あの四人も言霊を防げなかった事実にシンゴは衝撃を受ける。
シンゴと違い、事前に攻撃の意思を感知できないのだから対処のしようがない。故に仕方がない――とは、残念ながら割り切れないのが現実だ。
そもそも、分かっていようとも防げないのだ。声を遮断する方法では意味がない事はガルベルトが身を以て実証済み。ならばあとはもう、直接イナンナの口を塞ぐしかこの言霊から逃れる方法は残されていないのではないだろうか。
だとしても、イナンナの口を塞ぐまでの道のりは非常に険しい。
最強の魔物が、もう一人の『罪人』が、何より到達するまでに言霊が飛んでくる。立ち塞がる壁の高さが、あまりにも高過ぎる。
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ……ッ」
奥歯を軋らせ、八方塞がりの状況にシンゴが呻いた時だった。
このタイミングでは決して聞きたくなかった声が、キサラギ・シンゴを絶望の奈落へと叩き落とす可能性を秘めた、最愛の声が響いた。
「……お兄ちゃん?」
――最悪。ただ、最悪の一言に尽きた。
首の骨が軋む勢いで振り返ったシンゴが見たのは、城の玄関扉から半分だけ顔を出してこちらを窺う、不安そうな表情のイチゴだった。
そして、シンゴの脳裏に過った最悪の展開が、現実の物となる。
「『自害せよ』」
「ぁ」
中に戻れとシンゴが口を開くよりも早く、あの言霊がイチゴに自害を命じた。
その絶対命令に、イチゴが目を見開き、小さな声を漏らす。そして、その目から意識の光が消失し、鉤爪のように曲げた手が自らの首に押し当てられ――、
「俺の目を見ろイチゴぉ――ッ!!」
「――っ」
イチゴが首を掻き切る寸前、シンゴは喉が張り裂けんばかりの叫びを上げ、右の紫紺の瞳でイチゴの青みがかった目を射抜いた。
幸いにして、イチゴはシンゴを見ていたようで、兄妹の視線が交わる。その瞬間、イチゴの肩がビクンと震え、そのまま小刻みに震えながら動かなくなる。
微かに爪が食い込んだ首筋から一筋の血が流れるのを見て、シンゴは敵に背を向けるのも厭わず全力で駆け出していた。
「『白髪の吸血鬼、あの小娘を殺せ』」
「――っ!?」
背後からイナンナの声が聞こえた次の瞬間、走るシンゴの真横を小さな白黒の人影が風のように追い越した。
その白黒の人影は、真っ直ぐイチゴの下へ向かっており――、
「やめろ、リノアぁ――ッ!!」
どうやら真っ先に復活していたらしいその少女――リノア・ブラッドグレイの小さな背中に、シンゴは必死に手を伸ばす。
焼けただれる程に熱く、狂おしい程の熱量で胸の内を焼き焦がしてくる焦燥感に突き動かされ、より力を増した『激情』で懸命にその背中を追いかける。
だが、距離は一向に縮まらない。どころか、離れる一方だった。
「や、やめ……っ」
間に合わないと悟り、シンゴの表情が絶望に歪む。――そのすぐ真横を、今度はそよ風のように優しい一陣の風が追い抜いた。
その風は尋常ならざる速さでリノアに追い縋り、やがてリノアの手がイチゴに届く寸前で、その華奢な腰に全力で飛び付いた。
――アリスだ。
アリスが風の魔法を纏い、リノアの凶行をタックルで阻止したのだ。
驚いたのは、その速度である。風を纏った彼女が速いのは知っていたが、今のは明らかに過去のどれよりも――、
「こぷっ」
「……は?」
気泡が弾けるような、小さな音が聞こえた。
アリスのおかげで安堵したからだろうか、走る速度を緩め出していたシンゴは、雪で足を滑らして派手に顔面から雪に突っ込む。
顔面に刺すような冷気を直接感じながら、シンゴは倒れ込む寸前に見えた光景に心の中で首を傾げた。だって、あれが、見間違いでないのなら――、
「そんな……っ」
悔悟の滲むアリスの声を聞いて、シンゴはゆっくりと顔を上げる。
そこには、右の脇腹を抉られ、吐血しながら膝を着くイチゴの姿が――。
「――――」
その光景を見た次の瞬間、シンゴは自らの意思で、己の首を掻き切った。