第4章:50 『女王様と椅子と牛』
「ぎッ……ぐっ、おぁ……ッ」
自分の意思とは関係なく、自らの首を掻き切ろうとした右手を左手で掴み止め、シンゴは歯を食い縛りながら必死の抵抗を試みていた。
頭の中を支配するのは、何が何でも首を掻き切らねばならない、という断固とした使命感だ。それを気力で捻じ伏せ、シンゴは懸命に自害の衝動に抗う。
「――ほう、余の権威に気力だけで抗うか。見上げた精神力よのぅ。さては、貴様が『色欲』の権威に抵抗したと言う小僧かぇ? ――『答えよ』」
「そ、う……だ……ッ」
額に青筋を浮かべて必死に抵抗するシンゴを、楽しげに細めた金眼で見つめる女が、どこか感心した風な声を漏らしてそんな事を聞いてきた。
その声には不思議と抗い難い強制力があり、自害を食い止めるのに全力を注いでいるシンゴは、勝手に応じる口を止める事が出来ない。
そして、生じた微かな動揺で集中力が削がれてしまい、爪先が深く首に食い込み始める。鋭い痛みと共に、一筋の血が肌を伝い――、
「シンゴ――ッ!!」
「――!?」
不意に少女の鋭い声が耳朶を打ち、その直後、自らを死に至らしめようとしていた右手が華奢な手に掴まれ、強引に首から引き剥がされた。
今のシンゴの腕力は『激情』で底上げされている。それを物ともしない力にシンゴは驚愕に息を詰め、見開いた目を細い手の主に向けた。
そこには、シンゴのよく見知った少女の切迫した顔があって――。
「アリス……!」
「――――」
シンゴを望まぬ自害から救ってくれたのは、この寒さで白い吐息を漏らす白髪紅眼の少女――アリス・リーベだった。
アリスの無事を確認できた事で思わず破顔するシンゴだったが、当のアリスはどこか複雑そうな眼差しをこちらに送ってくるだけだ。
その視線で思い出す。アリスとの和解はまだ途中なのだという事を。
アリスからしてみれば、シンゴは裏切り者のままで、だと言うのに、アリスはシンゴの事を助けてくれた。
その優しさが胸に痛く、シンゴは気まずさから視線を逸らす。
「――ッ!?」
直後、シンゴはハッと喉を詰まらせ、驚愕に目を押し開いた。
逸らした視線の先で、偶然それらを見付けてしまったのだ。
――血塗れで倒れ伏す吸血鬼の中に、ガルベルト・ジャイルとリノア・ブラッドグレイの両名が倒れている姿を。
「なるほどのぅ。余の権威を受け付けぬどころか、そこな小僧に掛けた権威すらも打ち消すか。加えて、あの鬱女に酷似した風貌……貴様が『虚飾』かぇ?」
「――っ!?」
何やら納得したような口ぶりの声に振り向くと、あの華美な女がシンゴ――ではなく、隣のアリスに興味深そうな眼差しを向けていた。
そして、その質問を受けたアリスはと言うと、女の口にした『虚飾』という単語に鋭く息を詰め、驚愕の表情で大きく目を見開いている。
「……キミは、ボクの知らないボクの事を、何か知っているのかい? だったら……だったら、教えて欲しい! ボクは……私は、いったい……ッ」
アリスは自らの胸元を掻き毟るように押さえると、必死の面持ちで、喘ぐように切実な問いを吐き出した。
そのアリスの魂からの求めに対し、女は――、
「――つけ上がるなよ、小娘。質問しているのは余で、質問していいのも余だけぞ。それ以上余の機嫌を損ねてみろ。そこな小僧諸共、すり潰すぞぇ?」
「……ッ!?」
笑みから一転、女は不機嫌そうに顔を歪め、アリスの問いを容赦なく拒絶。その無情な女の回答に、アリスの顔が絶望に染まる。
そんなアリスの横顔に、シンゴは無性に胸の奥を掻き毟りたくなるような、ひどく不愉快な感情が沸き上がってくるのを感じた。
それは、女に対する恐怖で萎えかけていたシンゴの心に再び熱い火を灯し、全身に巡る『激情』の力をより強める結果となる。自分がより強化されたのを感じながら、シンゴはその紫紺と真紅の双眸で鋭く女を睨み付けた。
そんなシンゴの敵対的な視線に、女がふと何かに気付いたように眉を上げ、
「その紫紺の瞳……そうか、貴様が新しい『激情』かぇ?」
「……だったら、何だよ?」
「ハッ! この状況でそんな目が出来るかぇ! ――気に入った。貴様の名を余に明かす事を許そうぞ。喜びに打ち震え、感涙しながら名乗るがよい」
「人に名前を聞く時は自分から名乗るのが礼儀だって、そんな基本的な事も親に習わなかったのかよ、クソ野郎がッ!」
名前を明かすように言ってくる女に中指を突き立て、今度はシンゴがその要求を突っぱねてやる。アリスの心情を慮れば、これでもまだやり足りないが。
そんなシンゴの挑発的な返しを受け、女は嘲弄するように鼻を鳴らし、
「そんな物、余をこの世に産み落とした時点で用済みよ。余が言葉を発し始めた時期に、早々に処分してくれたわ」
「この、異常者が……ッ」
「それを貴様が言うかぇ? 自己犠牲に興奮を覚える、異常性癖の貴様が」
「……あ?」
「ハッ! これは傑作よ! 無自覚とは、滑稽を通り越して呆れるわ! その愉悦に歪んだ不快な笑み、この余でも怖気が走る! ほれ、『虚飾』の小娘。黙っておらず、貴様も言ってやればどうぇ? “ボクを理由に使って自慰に耽るのは気色が悪いからやめてくれ”とのぅ!」
「て、めぇ……ッ」
女の煽るような言葉に、シンゴは額に青筋を浮かべて奥歯を軋らせる。
しかし女は、そんなシンゴの怒気を涼しげな顔で受け流し、
「で、何かぇ? 余に先に名乗れと? その気概は気にったが、それはあまりに傲慢ぞ。それにのぅ、貴様ら下等な阿呆共に名乗るほど余の名は安くはない。そうよなぁ……余の事は、女神様、とでも呼び称えるがよいぞぇ?」
「ッ……言わせておけば……アリス?」
重ねられる女の挑発的な言葉に、シンゴが堪らず言い返そうとした時だ。
隣のアリスから息を呑む気配が伝わってきて、シンゴは寸前で怒声を呑み込み、訝しげに振り向いた。見れば、アリスは驚愕の面持ちで女を凝視しており――、
「女神……金色の、豪奢な身なり……まさか、時読みの……?」
何かに勘付いた様子のアリスがぶつぶつと独り言を呟くが、その声は小さく、内容も断片的にしか聞き取れなかったので、詳細については分からなかった。
と、シンゴが片方の眉を上げながらアリスを見ていた時だ。この緊張の張り詰めた空気をぶち壊す、ふざけた声が突如として割り込んできた。
「女神様? ノンノン! どっちかと言うと、女王様!」
「この、声は……!?」
「やっほー、相棒! ひっさしぶり〜! あ、こっちでーす!」
聞き覚えのある声へ視線を向ければ、女がずっと腰掛けていた椅子が、何やらこちらに向けて手を振っているのが見えた。
ずっと女にばかり注意を向けていて、こんな場所に椅子が存在する違和感に気付けなかった。いや、そもそも、人に腰掛けているなど誰が思うだろうか。
そう、女が今まで腰掛けていたのは、椅子などではなく――、
「歪か……ッ!」
「はーい。いつまで経っても相棒が気付いてくれなくて、手の平が霜焼けになっちゃった、女王様の忠実な奴隷椅子こと、捏迷歪さんでーす!」
四つん這いになり、女を背中に乗せる男――捏迷歪がそこにいた。
あの『ウォー』での一件、この男が生きているであろう事は分かっていた。だが、まさかこんなふざけた形で再会するなど、誰が予想できようか。
加えてこの男は、リノアと同様に悪意を抱かない。感情が存在しない訳でない事は、あの副団長――賀茂龍我とのやり取りで判明している。
だが、今回はそのような例外は起きなかったらしい。それが、こうして対面するまで捏迷歪の存在に気付けなかった理由だ。
「ようやく僕の存在を認識してくれたお礼に、さっきの相棒の質問には僕が代わりに答えて上げるぜ!」
「お礼、だと……?」
「そう、お礼さ。僕の背中に素晴らしいお尻を押し付けてくれちゃっているこの人は、相棒もお察しの通り『罪人』だ。『高慢』と『傲慢』を司り、『V』の称号を右手に冠する――ごぶぅッ!?」
「――!?」
お礼と抜かし、勝手にペラペラと頼んでもいない女の情報を語り出した歪は、セリフの途中で喉から苦鳴を漏らすと、目を見開いて身体をくの字に折り曲げた。
それは、立ち上がった女が躊躇なく歪の腹を蹴り上げたからだ。歪の身体は地面から一メートル以上は浮いており、とても女が出せる脚力ではない。
そして、歪の身体の上昇が終わり、自由落下に入る寸前――その黒い物体は、歪の真上に大質量を伴って落ちてきた。
「――――ッッ!?!?」
それは捏迷歪を踏み潰し、大量の雪煙を巻き上げながら着地した。
雪上に血と臓物が弾け、一瞬、歪の断末魔らしき声が聞こえた気がしたが、それも黒い物体の着地の轟音に掻き消されてしまう。
突然の事態に絶句し、固まるシンゴとアリスの眼前――もうもうと立ち込めていた雪煙が次第に晴れていき、その黒い物体の全容が顕となった。
光を呑み込む程に真っ黒な体表、天を突くほどに巨大な金色の双角。血に飢えて爛々と輝く血走った眼は、吸血鬼の瞳に酷似した真紅の長円瞳孔。
それを一言で表すならば、象の如き巨大な体格を有した、漆黒の牛だ。無論それは、象の中でも最大級の大きさを誇る個体を基準にした例えだが。
「うぷっ」
莫大なストレスに胃が絞り上げられ、シンゴは咄嗟に口を手で塞ぐ。
そのストレスの原因は、漆黒の牛が放つ剥き出しの殺意である。
人は理性ある生き物だ。それ故に、その感情を抑制する事が出来る。しかし、相手が動物となれば、その限りではない。女の方も未だ底が知れないが、今この瞬間に限って言えば、この化け物のような牛が発する純粋かつ無遠慮な敵意は、今までシンゴが感知した悪意の中で最凶だった。
「ひどいなー、どうせ踏み殺されるなら、こんなマッチョの牛じゃなくて、その美脚で踏み殺して欲しかったぜ。あ、今からでもウェルカムですよ? ――イナンナ・シタミトゥム様」
「歪……!?」
何事も無かったかのように、牛の背後から歪が平然と軽口を叩きながら姿を現した。見れば、雪の上に巻き散らされた血と臓物はそのままだ。やはり、歪のこの復活は吸血鬼の再生とは別物らしい。
と、先ほど歪を宙に蹴り上げた女――イナンナ・シタミトゥムが、その豊満な胸を持ち上げるようにして腕を組み、小さく嘆息した。
「結局、余の素性を全て明かしおって……貴様のその見下げ果てた道化根性には、さすがの余も呆れて殺す気も失せるわ」
「そんな! 一度は牛に殺させておいて、そりゃないですよ! 一回も二回も変わんないんだし、絞め殺すくらい別にいいじゃないですか! 僕はまだ、その豊満なバストで窒息死させて貰った事がない――ッ!!」
「阿呆が。殺され方がより下心に塗れた方に変わっておるではないかぇ。全く、貴様と話しておると阿呆が移るわ。――『しばしの間、口を噤んで座っておれ』」
「――――」
イナンナが頭痛を堪えるように目頭を揉みながらそう命令すると、歪が口をぎゅっと固く引き結び、その場で正座をした。
とてもではないが、殺し、殺された者同士のやり取りではない。はっきり言って、理解不能の領域にある異常性だ。
しかし、歪のおかげでいくつかの情報が手に入ったのは嬉しい誤算だ。
ただし、イナンナという女が『罪人』である、という当初の当たって欲しくない予想が的中したのは、出来れば誤算であって欲しかったが。
「それに――」
シンゴが警戒の眼差しを向けるのは、今もこちらを睨み続けている黒い牛だ。
あの二人の会話と、こちらにばかり殺意を向けてくる様子を鑑みるに、あの牛は向こう側の味方であり、こちらの敵で間違いないだろう。
二人の『罪人』に加え、得体の知れない黒い牛の化け物。極悪極まりない二人と一匹を相手に、勝てるビジョンなど全く見えようもなかった。
「――『金角の黒牛鬼』とは、また厄介な魔物を持ち出してきましたな」
「四皇魔の一角、非常に厄介」
「――!?」
彼我の戦力差にシンゴが苦渋の表情を浮かべていると、今この瞬間においては非常に頼もしい二つの声が聞こえた。
その声のした方に顔を向けると、そこには再生を終えてゆっくりと立ち上がる、長身と小柄の二つの人影があり――、
「リノア! ガルベルトさんも!」
「シンゴ、顔面蒼白。情けない」
「シンゴ殿が何故この場にいるのかは疑問ですが、それは眼前の最優先排除対象を片付けた後で、ゆっくりと聞かせて頂く事にしましょう」
ふりふりと首を振り、頭に積もる雪を落とす少女――リノア・ブラッドグレイ。
執事服に付いた雪を優雅な所作で払う老執事――ガルベルト・ジャイル。
――この絶望的な戦力差を覆す、最強の吸血鬼二人の戦線復帰だった。