第4章:46 『白黒と雷光の介入者』
「え、えっと……これは……ッ」
「――――」
恐ろしくドスの効いたアリスの低い問いかけを受け、シンゴはしどろもどろになりながら必死に言うべき言葉を探して狼狽える。
そんなシンゴを見つめるアリスの目は感情の一切が凍え切っており、その頬はぴくりとも動かない完全なる無表情だ。
「こ、これはアリスが思ってるような事じゃなくて、むしろ前向きな状況で……」
「――――」
ありのままの事実を伝えればいいのは理解している。しかし動揺が強すぎて、シンゴは何をどう話せばいいのか上手く言葉を纏められない。
そして、そんなもたもたするシンゴを悠長に待ってくれるほど、アリスの我慢は長続きしなかったようで――、
「――シンゴ」
「は、はい!?」
感情の抜け切った静かな呼びかけに、シンゴは気付けば『気を付け』の姿勢。
そんな直立して固まるシンゴに、アリスは無表情のまま――その慎ましやかな胸の前で、固く握りしめられた拳を掲げた。
「……アリスさん? その握り拳には、一体どのような意味が……」
「――今からボクは、割と本気でキミを殴る」
「――ッ」
宣言の直後、拳を掲げたアリスが本当に突っ込んできた。
慌てて『激情』を発動させ、恐怖という感情により強化された脚力を頼りにシンゴは全力で真横に飛ぶ。
次の瞬間、一瞬前までシンゴのいた場所――その床が爆散した。
そして、その破壊を成したアリスが、尻もちを着きながら驚愕に目を押し開くシンゴの眼前で、床に突き刺さっていた拳をゆっくりと引き抜く。
「……どうして、避けるのさ?」
「……っ」
ゆっくりと幽鬼めいた動作で振り返ったアリスが、その真紅の瞳に影を差しながら、困ったように眉尻を下げて小首を傾げる。
その言い知れぬ迫力に当てられ、シンゴは戦慄に喉を詰まらせた。
『何をしているシンゴ! 早く誤解だと伝えろ! あまり大きな物音を立てられては吸血鬼がやって来るぞ!』
『あ、ああ……ッ』
ベルフの『声』で我に返ったシンゴは、とりあえず誤解だと伝えるべく、素早く立ち上がろうとして――。
「あ、りす……?」
片膝を着いた状態で硬直するシンゴの視線の先――無表情に徹していたその仮面が剥がれ落ちるように、アリスの眉尻が下がり目元に涙が滲んでいた。
やがて俯いたアリスは、溢れる涙がこぼれ落ちないよう手の甲で拭いながら、小さな嗚咽をその声に混じらせて、
「仲直り、したくて……なのに、こんな……っ」
「――違う。アリス、誤解だ」
裏切られた悲しみに満たされたアリスの独白を聞き、シンゴは咄嗟にはっきりとした口調で誤解だと告げていた。
そのシンゴの否定の言葉に、アリスがゆっくりと顔を上げる。
涙に濡れる瞳を見て、シンゴは自分を殴り付けたくなる衝動に駆られた。
仲直り――きっとアリスは、シンゴと和解する為に自ら訪ねて来てくれたのだ。
その歩み寄りを、その勇気を、意図的ではないとはいえシンゴは踏み躙った。
どんな言い訳があろうと、これは許されてはならない事だ。それくらいは、シンゴでも分かる。だから――、
「アリス。俺も――!?」
仲直りがしたい。まず、その意思をはっきりと伝えようとしたシンゴは、強い敵意を感知してセリフを中断――全力で床を蹴った。
発動したままだった『激情』の力で絨毯ごと床板を踏み砕きながら、シンゴはそのたった一蹴りで目的地に到達。驚きに目を見張るアリスの顔をすぐ間近に見ながら、シンゴは両手を大きく広げた。
「ぁがっ――!?」
「――シンゴ!?」
背中の中央からやや右に逸れた位置に鋭い激痛が走り、直後にそこを中心にして電流を流されたかのような痺れが全身の自由を縛った。
苦鳴を漏らし、痺れにより踏ん張りの利かなくなったシンゴは、膝から崩れるようにしてその場に倒れ込む。
一拍置いて、床に這い蹲るシンゴにアリスが駆け寄ろうとして――静電気が弾けるような音と共にその足が止まった。
「――動くな。さもなくば、シンゴ殿の首を刎ねる」
「――っ!」
アリスの喉元に短刀を突き付け、冷酷な眼差しでそう告げるのは、全身に雷を纏った老執事――ガルベルト・ジャイルだ。
まるでイレナの『ゼロ・シフト』のように忽然と、ガルベルトはアリスとシンゴの間に出現した。しかしそれが瞬間移動ではなく、目にも止まらぬ速さで移動した結果なのだとシンゴは知っている。
「て、めえ……わざと、アリス……を……ッ」
「効率を優先させたまででございます。事実、シンゴ殿はこうして呆気なく床に伏し、アリス嬢は迂闊に身動きが取れない」
痺れる口をどうにか動かし、シンゴは紫紺と真紅の瞳でガルベルトを睨む。
先ほど感知した敵意はガルベルトの物だ。そしてその敵意は間違いなくシンゴに向けられていた。しかし、狙われたのはアリスだった。
シンゴがアリスを庇う事を見越して、ガルベルトはアリスを狙ったのだ。
「発信源であるこの部屋に慌てて駆け付けてみれば、よもや――」
そう言って、ガルベルトがその鋭利に細められた真紅の瞳を背後に向ける。
そこには、ガルベルトに無言で手の平を向けるトゥレスの姿があった。
「――久しいですな、トゥレス。実に、八百年ぶりですかな?」
「私は、貴方の事なんて、知らない。それよりも、一心を解放して」
「……まさか、記憶が?」
知り合いらしい再会の言葉を投げかけるガルベルトだったが、トゥレスは記憶喪失だ。知らないと首を振り、戦意を宿した目を細める事で返答とする。
そんなトゥレスの反応に訝しげな顔をするガルベルトだったが、すぐさまトゥレスが記憶喪失である事を看破――驚愕に目を見開いた。
「――警告は、した!」
瞠目して黙り込むガルベルトの態度を敵対行動と見なしたらしく、トゥレスの手の平に小さな火炎が生まれ、ガルベルトに放たれた。
その火球がガルベルトの顔面に着弾する寸前――静電気が弾ける音と共にガルベルトの姿が消失。火球は床を焦がすだけに終わってしまう。
「記憶と共に、戦い方も忘れたと見える――」
「――!?」
真上から響く冷静な声音にトゥレスが顔を上げるのと、天井に逆さに足を着いたガルベルトがその天井を蹴るのは同時だった。
抵抗する暇も与えず、トゥレスの背後にベッドを軋ませながら着地したガルベルトが、短刀を手の平でくるりと回し、その柄をトゥレスの首に押し付けた。
「っぁ――!?」
次の瞬間、刹那だけ電流のようなものが短刀を通して流され、か細い悲鳴を漏らしたトゥレスが意識を手放して前のめりに倒れる。
その隙に、自由を得たアリスがシンゴに駆け寄ろうと動いた。
「――動くな、と申し上げたはずですが?」
そのガルベルトの低い声と同時に、床に倒れるシンゴを正方形に囲むようにして、四つの短刀が床に突き刺さった。
先ほどトゥレスの攻撃を躱すべく天井に飛んだ際、ガルベルトが予め空中に置いておいた短刀が落下してきたのだ。
そして、その短刀が描き出す正方形の中へアリスが足を踏み入れた瞬間――、
「ぅあ――――ッ!?」
まるで見えない電気柵に触れてしまったかのように、全身を電流に貫かれたアリスが目を見開いて悲鳴を上げる。
見れば、シンゴを取り囲む短刀は静かに放電しており、その放電が四つの短刀同士を繋いで正方形の陣を形成していた。
「――『雷鳴の陣』」
「アリス……ッ!」
身体の痺れも忘れて叫ぶシンゴの眼前で、アリスがゆっくりと床に倒れる。
どうやら意識はあるようだが、全身が痺れて動けない様子だ。そして、吸血鬼の再生能力は電流による苦痛を消せても、身体に残る痺れまでは消せない。
電流による拘束を受けるのが二度目であるシンゴは、その事をよく知っている。
「吸血鬼を打倒するのに有効な手段を、同じく血吸いの鬼である私が熟知しているのは当然。――我々は、拘束に弱い」
「て……めぇぇ……ッ!!」
目の前でアリスが倒れた。その光景が、シンゴの中に嚇怒の炎を生じさせる。
その熱は全身に伝播し、麻痺に苛まれる筋肉を無理やりに駆動させた。
「――その状態で動かれますか。さすがは『激情』の権威。その名に恥じぬ、呪われた力でございますな」
「――!? 俺の権威を、知って……ッ」
床に手を着き、ゆっくりと身体を持ち上げるシンゴを見て、目を細めたガルベルトがきっぱりとその権威を言い当ててきた。
驚きに目を見開くシンゴに、ガルベルトはベッドから床に下りながら、
「長く生きております故、『罪人』と相見える機会も過去に何度かございました。『激情』とは二度ほど。――無論、両者共に首は刎ねましたが」
「――ッ」
シンゴの眼前で立ち止まったガルベルトが、冷ややかな視線で見下ろしてくる。
怒りで底上げされた『激情』だが、やはり立ち上がるのは難しい。シンゴに出来る事と言えば、ただガルベルトを見上げるようにして睨む事だけだ。
そんなシンゴの反抗的な目つきに、ガルベルトは静かに目を閉じると、
「シンゴ殿には、色々と尋ねたい事がございます」
「……断る、って言ったら?」
「無論、それでも構いません。――自ら自白したくなるよう、私が協力して差し上げるまでの話だ」
電流を帯びた短剣が追加で数本投じられ、シンゴの背中に突き刺さる。その痛みに喘ぐ暇もなく、シンゴの意識は呆気なく刈り取られた。