第4章:42 『最後の部屋』
――時は、数時間ほど前にまで遡る。
日が傾き始め、窓から差し込む光が朱色に変わる夕暮れ時。その、夜の訪れを告げる残光に顔を赤く染められながら、シンゴはベッドの上で横になっていた。
瞼は閉じられていないが、その瞳に力はなく、ただ虚空を見つめるばかりで、本当に現実に焦点が結ばれているのか疑わしい。
事実、その瞳は現在ではなく、過去の後悔を映していた。
繰り返し頭の中で上映される、白銀の世界を背景とした彼女とのやり取り。一体自分は何を間違えたのか。彼女の流した涙の意味は、一体何だったのか。
疑問は延々と頭の中で回り続け、そして最後には必ず同じ解へ辿り着く。
「分からねえ……」
小さな呟きが、静寂が満ちた部屋の中に虚しい波紋を刻んだ。その、自分自身が発した音さえも、今のシンゴは認識出来ていない。
思考が再び、あの後悔に彩られた白銀の情景へと引き戻される。
それは、考え続けなければならない、という脅迫観念にも似た使命感故に。そして、終わらない自問自答の渦に、シンゴは意識を溺死させていき――。
『――諦めるのか?』
「――――」
繰り返される自問自答、そこへ今まで沈黙を貫いていた『声』が問いを投じた。
生まれた波紋は思考を掻き乱し、長らく過去をさまよい続けていたシンゴの意識を久方ぶりに現実へと引き戻した。
「あき、らめる……?」
『抗う事を止め、この城でお前の妹とアリス・リーベ、そして同族に囲まれて生きていく。――ああ、それもまた、一つの答えなのだろうな』
「…………」
目を閉じれば、瞼の裏にその未来が浮かび上がってくる。
存外、悪くないと思えた。別に誰が死ぬわけでもなし、むしろ衣食住が充実した素晴らしい生活ではないか。
イチゴにはよき友がいて、アリスも同族に囲まれている。そんな二人を、キサラギ・シンゴは頬杖を突きながら、微笑み交じりに見守るのだ。
ああ、それはなんて――、
「なんて、腐りきった未来なんだよ……ッ」
奥歯を軋らせて、シンゴは激しい嫌悪に顔を歪めた。
表面上なら幸せに見えても、そこに本当の意味での幸せは存在しない。
イチゴの浮かべる笑みは無理に引き攣り、アリスの笑みはどこか諦念にも似た虚しさが滲んでいる。そんな、腐った未来予想図が脳裏に再生された。
実際にそうなると断言は出来ない。だが、二人が浮かべる笑みは限りなく、シンゴの想像と近しいものになるだろう。
イチゴは本当に、祖父母との永遠の別離に耐えられるのか。アリスは本当に、望んでこの城での永住を選んだのか。
おそらくその二つには、“否”が当てはまるはずだ。
シンゴがここで諦めれば、その“否”の未来が確定してしまう。許容など絶対に出来ない。受け入れるなど断じて不可能だ。
そこまで考えて、シンゴは既に答えが出ている事に気が付いた。
ゆっくりと身体を起こし、肺の中の空気を全て吐き出す。そうして、白銀の後悔をそっと胸の奥に仕舞い込んで、シンゴは顔を上げると――、
「最後の最後まで、抗ってやる……ッ」
『それでこそ、だ。……生憎、私の提案する作戦は軒並み成果を結んではいない。そんな不甲斐ない私が出来るのは、精々こうやってお前を励ます事くらいだ』
「……そう卑下すんなよ。こっちはマジで助かってんだから」
再起の火種を貰い、それを見事に燃え上がらせる事に成功した。しかしその火種を譲ってくれた当人――当鳥が、今度はその火勢を弱らせる。
火の鳥がそれでどうする、と苦笑したシンゴが励ます側に回ったタイミングだった。不意に扉がノックされ、シンゴはぎょっとして扉に目をやる。
咄嗟に身構えるシンゴだったが、しかし訪ねてきたのは――、
『――お食事の用意が出来ました』
「ぉ……あ」
夕食の時刻を告げる使用人の声に、シンゴはハッとして窓の外に目を向ける。ちょうど、夕日が完全に山の向こう側へ沈み切る瞬間だった。
薄暗くなる部屋の中、その淡い闇に包まれながら、シンゴはようやく時間の流れを正確に認識する。
貴重な時間をドブに捨ててしまった。そんな新たな後悔が沸き上がる寸前、再び使用人の声が扉を叩いた。
『あの、お食事の用意が……』
「あ、すいません! 今行き――」
咄嗟に腰を上げ、しかしシンゴは途中で言葉を呑み込んだ。
それを不審に思ったらしく、使用人が『どうされましたか?』と尋ねてくる。
その問いかけに対し、シンゴは数秒ほどの沈黙を挟んでから、先ほど口にしようとしていたものとは別の返答を口にした。
「……あの、俺、あんまりお腹空いてないんで、今日はいいです」
『――分かりました。では、そのように伝えておきますね』
そう言い残して、足音が徐々に遠ざかって行く。やがて、完全に足音が聞こえなくなったタイミングで、ベルフが問いかけてきた。
『シンゴ、なぜ断ったのだ?』
「……動くなら、このタイミングだと思ったからだ」
夕食――そのワードを聞いて、一つ気付いた事があったのだ。
「リノアは、今まで食事の席には必ず顔を出していた。だったら、今夜もその例に漏れないはずだ。――つまり」
『三階は今、お前の悪意感知が有効に働く可能性の高い吸血鬼達が見張りについている、という事だな?』
「ああ」
三階を探索するなら、この瞬間に動くのがベストなタイミングなのだ。
しかし、今の状況は当初の思惑からかなりズレてしまっている。協力者を得る事に失敗した今、書庫の再調査は断念せざるを得ないだろう。
とは言え、それだけで三階の探索自体を中止する理由にはならない。
「まだ書庫以外に調査し切れてない部屋があるはずだ。書庫は諦めるにしても、他は今日中に回っておきたい」
『ならば、すぐに動いた方がいいだろうな。食事を終えたリノア・ブラッドグレイが、三階に戻ってくる前に』
そんなベルフの主張に頷き、シンゴは膝に手を着いて立ち上がると、そっと扉を開けて行動を開始した。
――――――――――――――――――――
――この隠密行動にも、随分と慣れてきたものである。
道中、何度か危ない場面はあったが、どうにか突破する事には成功した。やはり、『悪意感知』により吸血鬼の動きを正確に把握出来るのが本当に大きい。
このタイミングで行動を起こしたシンゴの判断は正しかった訳だ。
そして――、
『ここで、最後か……』
最後の未調査部屋を前に、シンゴは思念にてそう呟いた。
見張りの目を掻い潜りながら、残りの未調査エリアを調べていったシンゴだったが、全く成果は上がらず、残す未調査エリアはこの部屋だけとなっていた。
もしかしたら、始まりの時点で勘違いをしていたのかもしれない。
吸血鬼に対して交渉、もしくは脅迫を可能とする何かが、この城のどこかに眠っていると信じ込んでいた。
それは、そうあって欲しいという願望が生み出したただの空想で、実際はそんな都合のいい何かなど最初から存在していなかったのではないだろうか。
証拠に、その何かは一向にシンゴの前に姿を現してくれない。
見落としていた可能性も十分にある。この城に隠しギミックが存在しているのは事実なのだ。それはおいそれと人目についてはならないから隠されているのであり、そう簡単に見つからないよう巧妙に隠されていて然るべきはずなのだ。
そして口惜しい事に、引き返して探し直す時間はもうほとんど残っていない。
この部屋で最後なのだ。ここを外せばもう、この計画は捨てるしかない。
別の計画など全く頭になく、練っている時間もなければ、それを実行して実らせるだけの時間はもっとない。だからシンゴは願うしかないのだ。願望が生み出した空想が、希望に繋がる現実として目の前に在ってくれる事を。
『――シンゴ』
『ああ、分かってる。……開けるぞ』
ベルフの『声』に顎を引き、シンゴは意を決して扉を開いた。
シンゴを出迎えた最後の部屋、そこは――、
『――礼拝堂?』
どこか、神聖な雰囲気を感じる場所だった。
中央に敷かれた赤い絨毯は真っ直ぐ奥まで伸び、それを左右から挟む形で木製の長椅子が等間隔に並べられている。
そして一際目を引くのが、中央奥に鎮座する美しい女性を象った金色の像だ。
「――――」
呆然と、シンゴは像に吸い寄せられるようにして歩き始めた。
赤い絨毯を踏み締め、ゆっくりと像に向けて歩みを進める。
やがてその像の前で立ち止まったシンゴは、その像をすぐ間近で見上げて思わず感嘆の吐息を漏らした。
後ろにあるステンドグラスは夜にも拘わらず七色の光を放ち、その多色な光を一身に浴びながら、金色の像は凛然と佇んでいる。
決して人が侵してはならない神聖さを放ちつつも、優しく万人を迎え入れてくれるような、そんな不思議な温もりを感じた。
「金色……」
ふと、リノアとの会話で出てきた一文が口を突いて出ていた。
だが、何かが足りない。そんな違和感を覚えてシンゴは眉を寄せるが、その違和感の正体にはすぐに辿り着いた。
しかし、改めてその不足分を口にしようとした瞬間だ。
『――シンゴ。像に見入っている暇はないぞ』
『あ、ああ……悪い、ベルフ』
ベルフの注意で我に返ったシンゴは言いかけていた言葉を呑み込むと、意識を切り替えるように頬を張ってから振り返った。
長椅子、赤い絨毯、ステンドグラス、そして金色の女性像。それらの他にも、簡単に見渡しただけでも怪しい箇所がいくつか見受けられる。
早急に取り掛からねば、本当にリノアが戻ってきてしまう。いや、三階に来てからもう随分と時間が過ぎているのだ。もしかしたら、とっくに――、
「いくらここを調べても無駄なのですよ?」
「――ッ!?」
その声は唐突に、何の前触れもなくシンゴの思考に割り込んできた。
ぎょっと息を詰まらせ、驚きに顔を強張らせたシンゴは、声の出所である自分の真後ろへと勢いよく振り返った。
――そこにはいつの間にか、一人の少女が立っていた。
くすんだ金髪に、サファイアのような碧眼。華奢な身体を包む衣服は質素なもので、整った相貌に浮かべられた微笑は穢れの一切を知らぬ無垢の境地だ。
人ならざる気配、とでも言うのだろうか。少女はそんな、どこか得体の知れない人外めいた雰囲気を纏いながら、金色の女性像の前に佇んでいた。
「――は?」
「どうかしましたなのです?」
突然、無理解の声を漏らしたシンゴに、少女が不思議そうな顔で小首を傾げる。
シンゴのそれは、突如として少女が現れた事に対する驚きから出たものではない。いや、その驚きも決して小さくはないが、しかし“その事実”と比較すれば、少しばかり見劣りしてしまうのだ。
何故なら目の前の少女は、ここに存在するはずのない人物だからで――。
「なんで、お前がここにいんだよ……リン?」
集落にいるはずの少女――リン・サウンドがそこにはいた。