第4章:41 『せめて、十より先くらいは』
「アリスさんとは別の、もう一人の吸血鬼……ですか?」
「キミの住んでいた、あの町でね」
目を丸くするイチゴに首肯しつつ補足の言葉を述べ、アリスは乾いた喉をいったん果実水で潤すと、ほっと小さく吐息した。
半ばまで減った果実水、その水面に映る自分の顔に視線を落としながら、アリスはあの時に受けた衝撃を思い返す。
「黒い外套を纏っていて、顔も、性別も分からなかった。でも、あのフードから覗く紅い瞳は、間違いなくボクと同じ……吸血鬼のものだったんだ」
「でも、吸血鬼はこの世界の……」
「うん。だからボクも、あの時は凄く驚いたんだ」
自分のような存在が他にもいた、その事実に強い高揚感を覚えたのだったか。
その、息が詰まるほどの興奮をどうにか呑み込み、アリスはその吸血鬼に問いを投げ掛けた。キミは何者で、自分は何者なのか、と。
しかし、その吸血鬼は――、
「ボクの質問には何も答えず、そのまま立ち去ろうとしたんだ」
「……追いかけたんですか?」
「人目も憚らず、吸血鬼としての脚力をフルに使って追いかけたよ。……だけど」
「――?」
「あの吸血鬼は、忽然とその姿を消したんだ。――ボクの、すぐ目の前でね」
あれは、動きが速すぎて見失っただとか、そういう次元の話ではなかった。闇に溶け込むように、存在が消失してしまったのだ。
あの時は、眼前で起きた超常の現象に理解が及ばなかった。だが、この世界にやって来て、魔法という奇跡に触れた今なら話は別である。
吸血鬼であるアリスが魔法を使えるのだ。同族であるあの吸血鬼が魔法を使えたとしても、なんら不思議ではない。
なによりアリスは、あの現象と同じものを見て、そして実際に体験している。
そう、あれは――、
「イレナの『ゼロ・シフト』に似ていた」
確信を持って言い切り、アリスは過去の疑問に対する答えを出す。
ただし、イレナが代償として多大なる体力を消費するのに対し、あの吸血鬼は一度も疲れた素振りなど見せていなかったが。
そう、一度も。つまりそれは、二度目以降があるという意味で――。
「あの吸血鬼は、その後も何度もボクの前に姿を現したんだ。そしてその度に、あと一歩で追い付くというタイミングで消える……その繰り返しさ。だいたい十回を超えた辺りで、もう数えるのが億劫になって止めちゃったよ」
「なんでそんな事……ぁ」
「何か気付いたのかい!?」
雲を掴むような追跡劇、その追われる側である吸血鬼の不可解な行動に対し、疑問を口にしようとしたイチゴが小さく声を漏らした。
それを聞き付けたアリスがぐいっと顔を寄せると、その剣幕に目を丸くしたイチゴが軽く身体をのけ反らせながら、
「や、その……アリスさんの話に出てきた吸血鬼についてじゃなくて、あの時の“噂”の方で得心がいったと言いますか……」
「……噂?」
――――、
――――――――――、
――――――――――――――――――――。
「――という噂が、あの町で広がってたみたいなんです」
人差し指を立てたイチゴが、件の“噂”についての説明をそう締め括る。
自分でも語ったように、人目も憚らず、吸血鬼の全力で昼夜問わずの追いかけっこを繰り広げていたアリスは、やはりあの町でかなり悪目立ちをしていたらしい。噂が立つのも仕方のない事だと思う。
――だけども、だ。
「どうして、そんな恥ずかしい言い回しなのさぁ……」
顔を両手で覆い、アリスは深い嘆きの言葉を吐き出した。
それもそうだろう。なにせアリスの事を語る噂は、大げさに、そして尊大な語り口調で伝えられていたのだから。
噂される事までは覚悟の上だったが、これは完全に想定外だ。
「『曰く』ってなにさ……これ考えた人、絶対にバカだよぉ……」
「えっと、その……今の恥ずかしがってるアリスさん、凄く可愛いですよ!」
「……それ、慰めてるつもりかい?」
予想外の精神的ダメージで意気消沈するアリスへ向け、イチゴがぐっと握り拳を作って励ましの言葉を掛けてきた。
しかしそれは火に油を注ぐだけであり、指の隙間から覗くようにしてジロリと睨み付けると、イチゴが「ぅひっ!?」と喉を引き攣らせる。
そんな、ほぼ八つ当たり同然の非難を浴びて狼狽えるイチゴを見て留飲を下げたアリスは、深い嘆息と共に“噂”の件をひとまず頭の片隅へと追いやった。
「それで、話の続きだけど……と言っても、この後の展開は、賢いキミならもう分かるだろう?」
「うぐっ……微妙に棘のある言い方なのが胸に痛い……っ」
アリスの皮肉を受けて胸を押さえるイチゴだったが、すぐに真面目な顔つきとなり、「でも、はい」と頷くと、
「その吸血鬼を追っていたアリスさんは、やがてあの神社に辿り着いて、私とお兄ちゃんのピンチに遭遇する……そういう流れですよね?」
正解、と相好を崩して首肯する。
ふと、脳裏に蘇る光景があった。それはあの次元の穴を見た時に感じた事だ。アリスは何故か、あの穴の先が別の世界に通じている事を知っていた。シンゴにも言ったように、あれは『勘』に近いものだった。そう、まるで、己の内側から何かがそう囁くように。
ぎゅっと、胸を掻き毟るように押さえる。そこでイチゴの不審げな眼差しに気付き、アリスは誤魔化すように肩を竦めると、
「まあ、その後にこうしてこっちの世界に来ちゃった訳だから、結局あの吸血鬼については何も分からないままなんだけどね」
そう冗談めかして言って、アリスは話の最後を結んだ。
と、何やらイチゴが物言いたげな視線を向けてきている事に気付き、アリスは目で先を促してみる。
するとイチゴは、「えっと」と前置きしてから、その疑問を口にした。
「さっきの吸血鬼の件、お兄ちゃんには?」
「……いや、話してないよ」
「どうしてですか?」
「それは……」
目を逸らし、一瞬だけ言い淀むアリスだったが、今更イチゴに対して隠し立てする必要もないと判断し、逸らした目を前に戻した。
どうしてアリスが、シンゴに対してあの吸血鬼の事を伏せたのか。その理由は、少し複雑だ。
「シンゴから、あの吸血鬼と似たような雰囲気を感じたからだよ」
「お兄ちゃんから……ですか?」
「うん。理由はボクにも分からないけど、初めてシンゴと対峙した時、あの吸血鬼を前にしているような、そんな不思議な既視感に襲われたんだ」
仮に、キサラギ・シンゴがあの吸血鬼本人だった場合、下手に刺激を加える事でどんな反応が返ってくるか、全く予測がつかなかった。
故にアリスは、真実を曖昧にしたのだ。しかし、その疑惑もすぐに晴れる事となる。他でもない、アリス自身がシンゴを吸血鬼化させた事で、だ。
これにより、謎の吸血鬼との邂逅、キサラギ・シンゴの吸血鬼化、この二つの出来事が前後してしまい、時間的な矛盾が生じる。
「それに、あの吸血鬼は両目が紅かった。――シンゴは、右目だけだ」
ダメ押しの証拠を提示し、シンゴに対する疑惑を完全に打ち消す。
これだけの証拠が出揃えば、事情を知らぬ者でも納得する他ないだろう。
あとは単純に、アリスの気持ちの問題である。この真実をシンゴに伝えるという事は、シンゴを疑っていたと白状する事と同義だ。
なかなか踏ん切りがつかず、ずるずると先延ばしにして、やがて様々な問題に直面する事で記憶の底に埋没し、現在に至るという訳である。
「……そういえば」
「――?」
己の馬鹿さ加減に心の中で呆れていると、不意にそんな呟きが聞こえた。
自責に溺れるのを中断して顔を上げると、呟きをこぼしたイチゴが何かを思い出そうと苦心するように、何やら難しい顔で眉間に皺を刻んでいて――、
「……少し、お兄ちゃんの話をしてもいいですか?」
「それは、別に構わないけど……」
イチゴの真意が読めず、アリスの了承の声に困惑の色が混じる。
そんなアリスに向け、イチゴが「実は……」と深刻そうな顔で切り出してきた。
「昔のお兄ちゃんは、精神的に物凄く不安定で……普段は何ともないんですけど、ひとたび感情が高ぶると、そのまま我を忘れて暴れるような事がよくあって……」
「――!」
弱り切ったように眉尻を下げるイチゴ、その口から語られたキサラギ・シンゴの意外な過去に、アリスは静かに瞠目した。
しかし、事はアリスの想像を遥かに上回るもので――、
「当時、通っていた幼稚園でも大暴れして……園児はおろか、止めに入った大人にも大怪我を負わせちゃって……病院にも行ったんです。でも、どこにも異常は見付からなくて、精神的に未熟な子供だから仕方がないって……成長するにつれて、発作はなくなるだろうって言われたんですけど……」
「――――」
「小学校に上がってからも、同じような発作が続いて……お兄ちゃん、学校を転々として……っ」
服の裾を強く握り締め、イチゴは今にも泣きだしそうな顔で兄の過去を語る。
何か言葉を掛けるべきだ、そう思うが、何一つとして言葉は出てこなかった。それほどまでに、アリスの受けた衝撃と動揺は大きく――。
「――そんなある日でした。おじいちゃんが、自分のやり方でお兄ちゃんの発作を治すって言い出したんです」
「おじいさんが、かい……?」
何も言えずにアリスが固まっていると、目元を拭って顔を上げたイチゴが、新たな展開を告げてきた。
それにアリスが問い返すと、「はい」と頷くイチゴ――だったが、直後に苦虫を噛み潰したような表情となり、
「実は、おじいちゃんのお父さん……私から見て曾祖父に当たる人が、太平洋戦争を生き延びた軍人なんです。それでおじいちゃん、その曾祖父の影響を強く受けて育ったらしくて、かなり厳格な性格で……」
「……もしかして、荒療治になった?」
「……はい」
先読みして発せられたアリスの言葉に重々しく頷き、イチゴがその“荒療治”とやらについて詳しく語ってくれる。
その話を聞いていく内に、アリスは自分の顔から徐々に血の気が失われていくのを感じた。なにせ、それは下手をすれば――、
「はい。虐待と取られてもおかしくない、かなりグレーな試みだったと思います」
アリスの表情から察したらしく、イチゴが思考を先取りしてくる。
つい先刻とは真逆の展開にアリスが言葉を詰まらせていると、「でも!」とイチゴが訴えかけるような必死の眼差しを向けてきて――、
「おじいちゃんを誤解しないであげて下さい! おじいちゃんは、心の底からお兄ちゃんの為を想ってそうしたんです! 証拠に、お兄ちゃんの“治療”に自分も一緒になって取り組んで……お兄ちゃん以上に、いつもぼろぼろになって帰って来て……だからっ!」
「――大丈夫。キミのおじいさんの事を悪く思ってはいないよ。少し、過激な内容に驚いちゃっただけさ。誤解させてしまって、ごめんね」
「――!」
首を横に振り、誤解だとアリスが優しく微笑みかけると、ハッとしたイチゴは「すみません……」と恥じ入るように俯いた。
この少女がここまで言うのだ。実際に会った事はないが、その祖父はとても人格者であり、そして少し不器用な人なのだろう。
「――それで、その荒療治の結果は?」
微笑を引っ込め、アリスは“荒療治”の結果について真面目な声音で言及する。
対し、イチゴは俯かせていた顔を上げると、ゆるゆると首を横に振った。
「お兄ちゃんの発作は、それでも治りませんでした……」
「……でも、今のシンゴは……」
知り合ってから、感情を高ぶらせるシンゴの姿など何度も見てきた。しかし話に聞くような、我を忘れて暴れるような所は一度も見た覚えがない。
そんなアリスの、現在と過去の相違に対する指摘に、イチゴはまるで解法が謎のまま解答を提示されたような、そんな複雑そうな表情で頷いた。
事実、アリスのイチゴに対する所感は的を射ており――、
「確かに、お兄ちゃんの発作は治りました。でも、いまいち判然としないと言うか……」
「……一体、何があったんだい?」
事の経緯についてアリスが尋ねると、イチゴは自分の分の果実水に口を付け、乾いた唇を舌で舐めて湿らせる。
そして小さく吐息すると、視線を自分の足元に落とし、ここではないどこか遠くを見つめるような眼差しで、ゆっくりと口を開いた。
「あれは、いつものようにおじいちゃんと“治療”に出かけて行って、そしていつものように二人してぼろぼろになって帰って来た日の事でした。お兄ちゃんが、急に意味の分からない事を言い出したんです」
「意味の、分からない事……?」
「――生き別れの兄に出会って、発作を治す薬を貰った、って」
イチゴはそう言って、きゅっと形のいい眉を中央に寄せる。きっと自分も、イチゴと似たような表情になっている事だろう。
だって、生き別れの兄が、特異な病状にピンポイントで効果を発揮する薬を持って現れるなど、あまりにも都合がよすぎて胡散臭い。
「でも、実際にお兄ちゃんは不思議な石みたいな物を持っていて……これを粉末状にして服用すれば、発作はなくなるんだって言うんです」
「――まさか、本当に飲んだのかい?」
「はい、飲みました。あの時はみんな、私自身も含めて、藁にも縋りたい気持ちだったんだと思います。でも、何より……」
そこで一旦言葉を区切り、静かに目を細めたイチゴは――、
「“あの”おじいちゃんが了承した事が、決定打でした――」
その後、その奇妙な石の粉末を服用したシンゴは、高熱を出して三日三晩うなされたらしい。そしてその熱が下がった後は、後遺症等も特に現れる事無く、それどころか以降は本当に一度として発作は起こらなかったのだと言う。
そしてイチゴの祖父は、その生き別れの兄と名乗る男については固く口を閉ざし、一度も詳細については語ってくれなかったらしい。
「――そもそも、どうしてこの話をボクに?」
先ほど自分が語った過去の話から、どうしてシンゴの過去に話が繋がったのか、その理由が分からずアリスは首を傾げて疑問を口にする。
そんなアリスの疑問を受け、「それは」と前置きしたイチゴが、どうしてシンゴの過去を語る必要があったのか、その理由について教えてくれた。
「アリスさんの話に出てきた、謎の吸血鬼とお兄ちゃんの雰囲気が似ていた、って部分を聞いて、もしかたら、って思ったんです。お兄ちゃんとおじいちゃんの前に現れた、生き別れの兄を自称するその男の人が――」
「ボクの遭遇した吸血鬼と同一人物かもしれない、かい?」
「ぁ、はい!」
結論を引き継ぐアリスの言葉に、イチゴが笑みを湛えて短く肯定した。
なるほど、もしもその兄を自称する男が本物だった場合、キサラギ・シンゴに近しい雰囲気を有していてもおかしくはないだろう。
しかし、それだけの理由では、その兄を自称する男と謎の吸血鬼を結び付け、同一人物だと断定するには些か説得力が足りない。
「だから、ちょっと答えを出すのは難しい……かな」
「そう、ですよね……」
アリスの出した結論に、イチゴが仕方ないと言った風に微笑する。と、ここで会話が途切れてしまい、二人の間に沈黙が横たわる。
特段、アリスは沈黙が苦手な方ではない。だが、イチゴがこの部屋にやって来てから初めて訪れた長めの沈黙は、何故かとても居心地悪く感じられて。
「――アリスさんって、お兄ちゃんの事が好きなんですか?」
「――へ?」
一瞬、何を言われたのか全く理解出来ず、アリスは呆けた声を漏らしていた。
あれこれ考えていた頭の中身が跡形もなく綺麗に吹き飛び、小さく口を開けたままの状態で目を点にするアリスは、完全にその時を凍り付かせる。
そんな氷像状態のアリスを見て、イチゴは「?」と首を傾げたあと、今度は少し言い方を変えて――断言するように言ってきた。
「アリスさんは、お兄ちゃんに惚れてるんですよね?」
「な……ぅ、え? 惚れ……ぇえっ!?」
間違えようのないイチゴの言い直し、それを受けてアリスは激しく取り乱す。
頬が火傷するほどに熱くなり、咄嗟に引き寄せた手が触れた自分の胸、その奥から激しく脈打つ心臓の律動が伝わってきた。
目は泳ぎ、まともな呼吸が出来ているのかも怪しい。そんな平静を失うアリスに対し、イチゴが更なる追撃を仕掛けてきた。
「アリスさん、ずーっとお兄ちゃんのこと見てましたよね?」
「――ッ!?」
「食事中の時とかもそうですし、他には廊下ですれ違った時とか、あとは中庭でお兄ちゃんが考えごとしているのを物陰からこっそり覗き見てたり……」
「わ、わぁー!? わぁぁぁ――っ!?」
指折り数えるイチゴに、アリスは咄嗟に耳を両手で塞いで大声を上げると、そのまま近くにあった枕に勢いよく顔を押し付けた。
頭の中がぐるぐると回り、見られていた、という事実に羞恥心が加速する。
実際のところ、イチゴにこうして指摘されるまで、アリスは自分がシンゴの事を目で追っていた自覚は全くなかった。
しかし、改めてこの城に来てからの自分を振り返ってみれば、確かにずっとシンゴの事を目で追っていたような気がしないでもない。
いや、心当たりはそれよりも前から――、
「〜〜〜〜ッ!!」
「あ、アリスさん!? 大丈夫ですか!?」
声にならない声を上げるアリスに、イチゴから心配の声が上がる。
そうして、枕に顔を埋めたまましばし悶絶していたアリスだったが、やがて幾分か落ち着いてきて、枕を持ったままゆっくりと身体を起こした。
そして恐る恐る、枕から目元だけを露出させ――、
「……忘れて」
「は、はい……?」
「今の、私の醜態……」
「あ、ええ、それはまあ……へ? “私”?」
アリスの一人称の変化を受け、イチゴが疑問げに首を傾げた。
話題が別の方向に向いたのを好機と受け取り、アリスは相変わらず枕に顔の半分を埋めたままこくりと頷いて、
「実は、ボクのこの喋り方は、フィーアの真似なんだ……」
「そ、そうなんですか?」
「……うん」
だいぶ冷静な思考が出来るようになってきた。このまま話題を別の方向へと流していけば――そんなアリスの策略は、呆気なく打ち砕かれた。
「それで、さっきの答えの方はどうなんですか?」
「――っ!?」
強引に話を戻され、アリスは思わず喉を詰まらせる。
堪らず視線を逸らすも、立ち上がったイチゴはわざわざ正面に回り込んできて、ジッと真っ直ぐにアリスの目を見つめてくる。
それを何度か繰り返され、やがて観念したアリスは深いため息を吐くと、顔を隠していた枕を膝の上に置いた。
「……どうしても、言わなきゃダメかい?」
「はい、ダメです! 私がここに来たそもそもの目的を果たすには、それを聞かない事には始まりませんから!」
「……?」
ぐっと両拳を握り込み、有無を言わせぬ迫力で言い切るイチゴ。
言葉の意味はよく分からなかったが、とりあえずこの拷問のような会話からさっさと抜け出したい、その気持ちが何よりも勝った。
幸いにして、答えはもう出ている。いや、答え、という言い方は少し語弊があるかもしれない。何故ならば――、
「正直、自分でもよく分からないんだ。シンゴに対する、自分の気持ちが……」
「――――」
答えが分からない、それがアリスの答えだった。
しかし、イチゴからは何も反応が返ってこない。ただジッと、真っ直ぐにアリスの事を見つめるばかりだ。
その青みがかった瞳は、そこから“先”を待っているようでもあり――。
「ボク、は……っ」
「――――」
喘ぐように言葉を絞り出し、アリスは苦悶に顔を歪める。
自覚のないままに、片手が胸元を掻き毟るように押さえていた。言葉を紡ごうとしては失敗し、口が意味のない開閉を繰り返す。
やがて目尻に薄っすらと涙が滲み、そして一気に溢れ出した。濡れる視界は曖昧にぼやけ、そしてその霞の奥に白銀の情景が重なる。
――あの少年の横顔が、鮮明に映し出された。
白い悪魔に囲まれて、自分は近付く死の足音にただ怯える事しか出来なかった。しかしあの少年は、そこへ一切の躊躇もなく自らの命を割り込ませたのだ。
最初は驚いて、すぐに心配した。でも、それ以上に凄いと思った。そして、不謹慎ながら――少し、嬉しかった。
それが勘違いで、ただの思い上がりであると気付かされたのは、その直後だ。
「……笑ってたんだ」
「――――」
「ボクを庇って、笑ってたんだ……ッ!」
他人の為に命を張る、その行為を尊いとアリスは思える。だがその尊敬は、決してキサラギ・シンゴに向けられる事はない。
あの狂気に満ちた禍々しい笑みは、他人を想う際に滲み出てはいけないものだ。
自己犠牲ではなく、ただの自己満足。他人の為に命を投げ打つ、その行為自体に快感を覚えてしまった狂人が浮かべる、最低最悪の笑みだ。
だから、だから――、
「ボクは、今のシンゴが大嫌いだ――ッ!!」
嗚咽交じりの、限りなく慟哭に近い叫びだった。
今しがた盛大にぶちまけたのは、ずっと胸の奥に抱えてきたもので。それは巨大な鉛のように重く、アリスの心を圧し潰し続けていた。
それがこの瞬間、少しだけ軽くなったような気がしたのだ。その事実に頬を伝う涙が勢いを増し、込み上げてきた灼熱が喉を焼き塞ぐ。
「――今の、お兄ちゃんには?」
「……え?」
その声には、確かな怒りが滲んでいて。涙を拭う事も忘れて顔を上げたアリスは、声の主――柳眉を逆立てたイチゴ、その怒りの表情を見て瞠目した。
そんなアリスに向け、イチゴが静かな声音で語り掛けてくる。
「たった今、私に対してアリスさんが話してくれた事って、お兄ちゃんにもちゃんと話したんですか?」
「…………」
緩慢な動作で首を振り、話していない、とアリスは伝える。
その答えを受け、苛立ち交じりの深いため息を吐いたイチゴが、キッと鋭く細めた眼差しを向けてきた。
「そんな大事な事も告げずに、一方的に理解を求めるだけ。それって、ちょっと傲慢が過ぎるんじゃないですか?」
「――ッ!?」
「身勝手で、自分本位なただのワガママ。理論なんか全部無視して、感情だけで物を語る子供と全く一緒。それで理解が得られなければ、今度は怒って口も利かない? ――それこそまさに、子供の癇癪とどこが違うんですか?」
「ぁ……ぅ、ッ」
一切の手加減なし、容赦のない苛烈な糾弾がイチゴの口から放たれた。
喉を詰まらせ、涙に潤む瞳を大きく見開くアリスは、しかし何も言い返す事が出来ない。それらが全て正論であると、己自身が認めているからだ。
「――!?」
次の瞬間、不意に伸びてきた手に両頬を掴まれた。
咄嗟の事に何も反応できず、アリスはただ目を白黒させるしかない。
その、困惑するアリスの瞳を覗き込むようにして見据え、キサラギ・イチゴは優しく諭すように言ってきた。
「いいですか? お兄ちゃんは、バカなんです」
「ば、か……?」
オウム返しすると、イチゴは「そうです」と小さく微笑んで、
「ただ頭が悪いって意味じゃないですよ? 呆れるほど察しも悪い、そんな大バカ野郎って意味です。だからちゃんと、言葉にして伝えてあげなきゃダメなんです」
「――――」
「――アリスさんは、ずっとこのままがいいですか?」
「……だ。……嫌だ!」
真っ直ぐ、イチゴの薄青い目を見返して、アリスは否定の言葉を口にする。
ちゃんと仲直りしたい。以前のような関係に戻りたい。心の傷をどうにかしてあげたい。元のシンゴに戻って欲しい。そして、それが成った暁には――、
――自分の、本当の気持ちを確かめたい。
「だったら言わなきゃダメです。思ってること全部、言葉にして伝えなきゃダメです。――死んで喜んでんじゃねーって、ガツンと言ってやって下さい!」
「……うん。――うん!」
グッと拳を握るイチゴに、アリスは涙を袖で拭って、力強い笑みで頷いた。
イチゴの言葉は一切の手加減がなく、実のところ本当に泣きそうになった。既に泣いていた事もあり、追加の涙が混じっていたかは自分でも分からない。
――だが、おかげではっきりと目は覚めた。
自分の気持ちをちゃんと伝えもせず、相手がそれを理解していると勝手に決め付けて、そして望まない結果に怒り心頭する。
ああ、まさしく、ただの子供の癇癪ではないか。
それに自力では気付けず、あろう事か答えを与えて貰っている始末だ。なんと愚かで、そして恥知らずな女なのか。
そんな自分を、今は全力でぶん殴ってやりたい気分だ。
「――はい! それじゃ、今すぐにお兄ちゃんの所へ行って下さい!」
「……えっ? 今すぐに、かい……?」
パンと手を叩き、にこりと微笑むイチゴが首を傾げながら提案してきた。
確かにアリスは、シンゴとちゃんと向き合う覚悟を決めた。しかしそれに伴って、心の準備の方も完了しているかと言えば、全然そんな事もなく――。
「えっと……さすがに、今すぐは……」
「善は急げ! 思い立ったが吉日! です!」
「いや、でも……」
言葉を濁し、渋りに渋るアリスだったが、不意に立ち上がったイチゴがビシッと部屋の扉を指差して――、
「つべこべ言ってないで、さっさと行く――ッ!!」
「は、はい――ッ!?」
身体の芯に響くほどの怒声を受け、アリスは反射的に背筋を正して起立。慌てて扉まで駆け寄り、ドアノブに手を掛けた。
しかしそこで動きが止まり、やがて、未練がましく後ろを振り向こうと――、
「しつこい――ッ!!」
「ひぅっ!?」
振り向く寸前に背後から鋭い叱責が飛んできて、アリスはビクリと肩を跳ねさせると、今度こそ扉を開け、逃げるように廊下へと飛び出した――。
――――――――――――――――――――
「――ふぅ」
アリスの背中を見送り、イチゴは残っていた果実水を一気に呷ると、張り詰めていた糸を緩めるように吐息した。
自分の仕事はここまでだ。これより先に、イチゴが干渉する事はない。
いや、厳密に言えば、しても意味がないのだ。何故なら――、
「私の前だと、お兄ちゃんは『お兄ちゃん』の仮面を被っちゃうから……」
人が人と対峙する時、相手によって“異なる自分”を誰しもが演じる。それはまるで鏡のようでもあり、その映し出された像を曲げる事は容易ではない。
つまり、キサラギ・イチゴが“妹”である限り、その言葉は“兄”を演じるキサラギ・シンゴの心に、本当の意味で届く事はないのだ。
だから――、
「お願いします、アリスさん。どうか、どうかお兄ちゃんを――」
目を閉じ、祈りを捧げる聖女のように手を合わせ――、
「助けてあげて下さい……っ」
イチゴは、美しい白黒の吸血鬼に願いを託すのだった――。
――――――――――――――――――――
長い廊下は薄暗く、一定間隔で備え付けられた『陽石』の淡い光だけでは、その闇の全てを払い切るには些か不十分だ。
しかしそれは、ここの住人からしてみれば些細な問題でしかない。いや、むしろ不要と言い切っていいだろう。
つまり、この『陽石』たちは光源としての役割を求められている訳ではなく、どちらかと言えば風情を醸し出す為の一ピースなのだ。
「――――」
そんな益体のない事を考えている内に、アリス・リーベは目的地に到着した。――到着、してしまった。
アリスが足を止めたのは、とある部屋の前だ。そして用があるのは、この中に居るはずの少年――キサラギ・シンゴに対して、である。
「すー……はー……」
深呼吸を試みるが、喉の震えが吐き出す呼気にまで伝わってしまい、かえって緊張している事実を自覚させられてしまう。
だが、いまさら後戻りは出来ない。決してあの少女の叱責が怖いのではなく、アリス自身がそう覚悟を決めてここに立っているからだ。
「少し、情けない手順を踏んで、だけどね……」
自嘲するように呟き、アリスは小さく唇を緩める。
ここに立つ覚悟を決めはした。しかし、あの少女が背中を押し、尻を叩いてくれなければ、これほど早くここには来られなかっただろう。
一から十までお膳立てしてもらって、おんぶに抱っこの情けない話である。
だからせめて、十より先くらいは、自分だけの力で――。
「――よし」
意を決し、扉を叩く。一言、「入るよ」とだけ告げ、アリスは扉を開けた。
まず、何から話そうか。いや、考える必要はない。正直に、自分の気持ちを全て言葉にして伝えればいいだけだ。伝わるまで、何度も、何度も、何度も――。
「や、夜分遅くに失礼するよ。少し、キミと話したい事が……あっ……て?」
部屋に足を踏み入れ、事前に準備しておいた口上を述べようとしたアリスだったが、その言葉は尻すぼみに掠れ、最後には疑問形へと成り果てた。
目を丸くして、ぽかんと口を開けて絶句するアリス、その紅い瞳の先には――、
「――一心。この人は?」
「…………」
肩を軽く覆うくらいの茶髪を揺らし、首を傾げるのは見知らぬ一人の女性だ。
その瞳は真紅に染まっており、彼女が吸血鬼である事は間違いない。だが、アリスが驚いたのはそこではなく、女性のその出で立ちの方だった。
女性が身に着けているのは、肩から羽織った黒い制服――たった一枚だけ。
素肌のほとんどを外気に晒し、剥き出しの太ももの上に枕を乗せて要所を隠しているだけの、ほぼ全裸と言って差し支えない格好だった。
そして、その女性が奇妙な呼び方で疑問を投げかけた少年――キサラギ・シンゴは、その女性に向けて手を伸ばしかけて途中で止めたような、そんな不格好な状態で完全に動きを停止させていた。
硬直するアリスに対し向けられた目は、その動揺を表すように不規則に揺れており、青ざめた顔面からは大量の汗が滲んでいる。
――以上の状況把握を終え、アリスは小さな吐息を一つこぼすと、可憐な花が優しく綻ぶように笑って、言った。
「これは一体、どういう状況なんだい?」
――自分で思ったより、かなりドスの効いた声が出ていた。