第4章:40 『仲間外れの短き寿命』
「――ん」
扉を叩く音で、アリス・リーベの意識はゆっくりと覚醒を迎えた。
枕に埋めていた顔を上げ、割り当てられた部屋の中――そのベッドの上で、自分がうつ伏せの体勢となっている事を把握。
一方で、頭の芯は鉛のように重く、汚泥を流し込まれたのかと錯覚するほどに、胸の奥がひどく気持ち悪かった。
――つまり、最悪の目覚めである。
「ぁ……」
か細く声が漏れたのは、寝落ちする前に何があったのかを思い出したからだ。
次々と蘇るあの少年とのやり取りに、アリスの心は重く沈んでいく。
ふと頬に触れてみれば、そこには乾いてしまった涙の痕跡があって。それを自覚した事で、アリスの憂鬱は更に深みを増していく。
「――っ!?」
再び扉を叩く音が響いた事で、誰かを待たせていた事をハッと思い出す。
慌てて涙の痕を袖で拭い、ベッドから飛び降りたアリスは、早足に扉へと駆け寄り――鍵を開けようとした手を途中でピタリと止めた。
「…………」
今までも、この扉を叩く音は何度も聞いた。そのほとんどは、この城の使用人である吸血鬼の女性が食事や入浴の時間を知らせるものだった。
そういえば一度だけ、あの銀髪が愛らしい双子が遊びに誘いに来た事があったか。でも、とても遊びに興じられる精神状態ではなかった為、断ってしまった。
――そして、その精神状態はまだ続いている。むしろ悪化したと言っていい。
その原因となった少年――キサラギ・シンゴがこの扉の向こうにいるのでは、そんな可能性が脳裏を過り、アリスは手を止めてしまったのだ。
今のぐちゃぐちゃした精神状態で彼と対峙すれば、自分がどんな事を口走り、どんな行動に出るか分かったものではない。とてもではないが、自分自身を制御出来る自信がなかった。
「……アリスさん? そこにいるんですか?」
「――!」
不意に、扉越しにくぐもった声が問いかけてきた。
声はあの少年のものではなく、その事実に安堵を覚える。が、聞き覚えのあるその声は意外な人物のもので、アリスは軽く目を見開いた。
躊躇わせたままだった手を動かし、鍵を開ける。そして、ゆっくりと扉を開けば、そこに立っていたのは――、
「――あ。どうも、こんばんはです!」
「……イチゴ?」
えへへ、と頭に手をやって笑うキサラギ・イチゴの姿に、アリスは丸くした目をぱちくりと瞬かせるのだった。
――――――――――――――――――――
「アリスさん、夜ご飯を食べに出てこなかったから、大丈夫かなーって思いまして。……ついでにお兄ちゃんもいなかったけど、アレの事はどうでもいんで、こっちに来ました次第ですはい」
「そ、そうなんだ……」
早口に言ってくるイチゴに苦笑して頷き、アリスは自分が思っていたよりも長く眠りこけていたらしい事に内心で驚く。
と、時間の流れを正確に把握し、そして『夕食』というワードに身体が反応したのか、アリスのお腹がくぅと情けない音を鳴らした。
「ぁ……こ、これは……!」
「――と、思いまして!」
頬を赤くして咄嗟に誤魔化そうとするアリス、その眼前にイチゴがバスケットらしき物を突き出してきた。
受け取り、中を覗き込むと、パンが二つと干し肉が一切れ、そして透明な液体で満たされた瓶と杯が二つ入っていた。
これには思わず――、
「……キミは、本当にシンゴの妹なのかい?」
「気遣い上手が行き過ぎて兄との血縁関係を疑われる事は確かに少なくないです。というか結構頻繁にあります。ですが! 私、キサラギ・イチゴは正真正銘アレと血を分けてるんですよ! いやはや、本当に自分でも信じ難い事に……」
早口にまくし立て、腕を組みながらうんうんと頷くイチゴ。その滑らか過ぎるほどによく回る舌と、引いてしまうほどの勢いにアリスは苦笑いだ。
しかし、この気遣いは本当にありがたい。ここは厚意に甘えて、少し腹の虫を退治させてもらうとしよう。
――そうして、イチゴの持参した食料をアリスがちょうど食べ終えた時だった。
「こうして、二人きりでお話しするのは初めてですね」
「……うん、そうだね」
アリスが食べ終えるまで邪魔にならない程度に軽い雑談を振ってくれていたイチゴが、果実水の注がれた杯に視線を落としながらそんな事を言ってきた。
それにアリスが頷くと、イチゴは杯から持ち上げた視線をアリスに向け、唐突に深く頭を下げてきた。
「き、急に何を……」
「――改めて、お礼を言わせて下さい」
突然の事に目を白黒させるアリスに、イチゴは落ち着いた声音でその行動の理由を明かした。しかし、その『お礼』が何に対するものなのかすぐには理解出来ず、アリスは頭の上に疑問符を浮かべ眉を寄せる。
その困惑の気配を察したらしく、イチゴは短いポニーテールを跳ね上げながら顔を上げると、そのまま頬を緩めるように微笑した。
「あの夜、あの神社での事です。私を助けようとしてくれて……お兄ちゃんを助けてくれて、本当にありがとうございます」
「そ、その事はもういいよ! ボクはただ、当然の事をしただけで……!」
「はい、だから改めて、です。それに、当然の事って平然と言いますけど、刃物を持った人を相手に、その当然が出来るのは凄い事だと思いますよ?」
「あ、ぅ……っ」
真っ直ぐ、青みがかった瞳で見つめられ、アリスは自分の頬が急激に熱を持っていくのを自覚した。
こういうのはあまり慣れていないのだ。気恥ずかしさと照れ臭さで、イチゴの目を正面から見る事が出来ない。
堪らず顔を俯かせるが、イチゴから小さく笑みを漏らす気配が伝わってきて、アリスの羞恥心は更に加速する。
「――そういえば、アリスさんはどうしてあの神社に?」
「え……?」
唐突な話題転換にアリスが顔を上げると、イチゴは立てた指をどこかおどけるような仕草で「いえいえ」と揺らして、
「単純に気になったってのもあるんですけど、もっとアリスさんの事を知りたいなーって思ったんです。……迷惑じゃなければ、ですけど」
「――――」
小さく目を見開くアリスを、イチゴがちらりと上目遣いで伺い見てくる。
その、子供が不安がるような仕草に呆気に取られていたアリスだったが、やがてふっと笑みをこぼすと、「そうだね」と遠い過去を懐かしむように目を細めた。
「ボクはずっと、フィーア・リーベって女性と一緒に色んな国を旅してたんだ」
「フィーアさん、ですか……?」
首を傾げるイチゴに、アリスは「うん」と首肯して目を閉じる。
「厳しくて、怒ると凄く怖かったけど、それ以上に優しくて……血は繋がっていなかったけど、ボクにとっては本当のお母さんみたいな人だったんだ」
「…………」
「――!」
フィーアに対する想い、それを聞いたイチゴが黙り込んだのを受け、アリスはハッとして自分の口を手で塞いだ。
だが、既に手遅れだ。イチゴは気付いてしまっている。フィーアの事について語るアリスの口ぶりが、過去の人に対するものだと言う事に。
「……そうだよ。フィーアはもう、この世にはいない」
「……ご病気、だったんですか?」
観念して白状するアリスに、イチゴがフィーアの死因について尋ねてきた。
しかしアリスは首を横に振り、イチゴのその推測を否定する。
「じゃあ……事故、ですか?」
「――寿命だよ」
「寿命……ぁ」
否定の代わりに提示された答え――フィーア・リーベの死因を受け、イチゴが小さく声を漏らして目を見開いた。
おそらく寿命と聞いたイチゴは、吸血鬼と人の寿命のズレに行き着いたのだろう。だとしたら、本当に察しのいい子だ。
しかし残念ながら、その答えは外れている。
「死んだ時のフィーアは、まだ三十代だったからね」
「え? でも、寿命って……え?」
「『ボクは失敗作だ』。――それが、フィーアの口癖だったよ」
悲しげな目をして、そう自分の事を揶揄するフィーアの横顔を、アリスは今でもはっきりと思い出す事が出来る。
そして、その口癖の後に決まって続けられる、あの一言も。
「失敗作である自分は先が長くない……当時のボクはただの冗談だと思っていたよ。口癖の数と同じだけ聞かされたからね」
「アリスさん……」
どこか申し訳なさそうな顔を向けてくるイチゴに、気にしなくてもいい――そう口にしようとしたアリスだったが、寸前で言葉を呑み込んだ。
そして一瞬の間を挟み、改めて開かれたアリスの口から語られたのは、先ほど言おうとしていた言葉とは全く別の物で――。
「――『心』、『知識』、『器用』、『愛』、『身体』」
「――?」
羅列された五つの単語、それを聞いたイチゴが疑問げに首を傾げるのを受け、アリスは「あ、ごめん」と自分の非を詫び、
「ふと、フィーアがそんな事を言ってたのを思い出したんだ」
あれは確か、夜中にいつも隣にあるはずの温もりが感じられず、不安を感じて目を覚ました時の事だったか。
幼い自分は慌ててフィーアの姿を探し、窓辺に肘を預けながら物憂げな顔で夜の景色を眺めるフィーアを見付けて、心の底から安堵したのを覚えている。
そして、その時にフィーアがこぼしたのが先の五つの単語だった。当時のアリスは幼心に、なぞなぞのようだな、と思ったものである。
「そう思って印象付いたからこそ、こうして思い出せたのかもしれないね」
「なぞなぞ……それって、『愛』だけが仲間外れって事ですか?」
「……それは、どうしてそう思ったんだい?」
顎に手をやり、そんな推察を口にするイチゴに、アリスは驚きに目を見張りながらその真意について問い返した。
それを受け、イチゴは「だって」と顔を上げると、
「心、知識、器用、身体は、感覚的な問題になりますけど、それぞれが大きな枠を現しているじゃないですか? でも、『愛』だけは『心』の一側面……つまり、限定的で狭い範囲しか指し示していないなって、そう不思議に思ったんです」
「――――」
少し強引ですけど、と最後に一言付け足して苦笑するイチゴ。
イチゴの解説はアリスにとって目からウロコで、胸の内に違和感なくすとん、と綺麗に収まるような納得感をもたらした。
もしそれが本当に正解ならば、その『愛』が指し示す物とはつまり――、
「――ごめん。少し、話が逸れたね」
ゆるゆると首を振り、アリスはそれ以上の考察を打ち切った。
フィーアの寿命が尽きた原因、『失敗作』という口癖の意味が判明したところで、結局のところフィーアが生き返る訳でもないのだ。
そんなアリスの心情を察してか、イチゴもそれ以上は深く追及してこない。
その気遣いに心の中で感謝しつつ、アリスは脱線していた話を本筋へと戻すべく、その淡い桜色の唇を開いた。
「フィーアが息を引き取ったあと、ボクはかつてフィーアと一緒に巡った国をもう一度見て回る事にしたんだ」
それはまるで、大切な思い出を拾い集めるような旅で。
哀愁を胸に、様々な国の大地を、アリスは噛み締めるように踏み歩いた。
そしてその足先は、やがて日本と言う島国へと向き――、
「――ボクは、見知らぬ吸血鬼と出会ったんだ」
「……え?」
――それは、長らく語る機会を逸していた真実で。
――かつてあの神社で、あの少年に対して偽ってしまった真実だった。