第4章:39 『バッドアンサー』
「クソッ……クソがぁ――ッ!!」
大声を張り上げ、拳が割れるのにも構わず、ひたすらに壁を殴り続ける。
全てが上手くいかない。その積み重ねに堪らず心が悲鳴を上げ、こうでもしなければ気がどうにかなってしまいそうだった。
「はぁ……はぁ……ッ」
『落ち着いたか? なら、そこまでにしておけ。見ている私が辛い』
やがて、殴り疲れて壁に手を着き、肩で息をするシンゴにベルフが落ち着いた声音で語りかけてきた。
三階の探索を断行し、書庫を発見したまでは順調だった。しかし直後にリノアに見付かってしまい、一か八かの賭けに踏み切るも大敗。最終的に情けを掛けられて見逃され、シンゴは屈辱感に塗れながら退散を余儀なくされた。
そうして現在、場所はシンゴに割り当てられた部屋の中。幸い防音性能は高いらしく、喚いて壁を殴っても、誰も何事だと訪ねては来ない。
いや、そういえば確か、隣の部屋はどちらとも空室だったか。
そんな今更過ぎる事に思考を割けるほど、シンゴの心は余裕を取り戻してきていた。つまり、先のストレス発散行為にも少しは意味があったという事だ。
「まだ……俺はまだ、諦めねえぞ……ッ」
『――だが、具体的にはどうするつもりだ?』
今後の具体案を冷静な『声』に求められ、シンゴはベッドにどっかりと腰を下ろすと、そのまま目を閉じて考えを纏める作業に入る。
こうして目を閉じていると、先のリノアとのやり取りが鮮明に蘇ってきて、心がささくれ立って集中できない。
だが、今は私怨に拘っている暇はない。深く息を吸い込み、吐き出す呼気と共に頭の中身を一度全て空っぽにする。
「――――」
――そうして黙り込んでから、どれだけ過ぎただろうか。やがてゆっくりと瞼を持ち上げて、シンゴは深く吐息した。
「とりあえず、三階でまだ調べられてない所を調べる。さっきの今でってのはさすがに無理だから、ある程度は時間を置くしかねえけど……」
『書庫はどうする? 放置するのか?』
「いや、書庫も再調査する。――ただし、やるのは俺じゃない」
日本語以外はさっぱりのシンゴが再び書庫に行ってもただの無駄足だ。だから、日本語以外の言語にも精通している人物に代行してもらう。
代行を任せられる人物は、ぱっと思い浮かぶだけで二人いる。その内の一人は、妹のイチゴだ。
「でも、イチゴはダメだ。あいつじゃ、三階の書庫にまで辿り着けねえ」
首を横に振り、イチゴへの協力要請をシンゴは自分で却下する。
悪意感知が可能なシンゴが一緒でも、最終的に物を言うのは素早さだ。イチゴは別に足は遅い方ではないが、それでも求められる水準には遠く及ばない。
そうなると、あとはもう消去法で彼女しかいないのだが――、
『――アリス・リーベ、か』
「…………」
どうやらベルフもアリスに白羽の矢を立てたらしい。しかし、同じ見解に至ったはずのシンゴの顔は難しいものだった。
別に、アリスが役者不足という訳ではない。むしろ適任だと思う。
過去の言動で、アリスが英語に詳しい事は分かっている。他にも幾つかの言語に精通していても不思議ではない。加え、その吸血鬼としての常人離れした身体能力は健在だ。まさに、打ってつけの人材と言えるだろう。
――ただ、アリスの協力を得るには、越えねばならない壁があって。
「仲直り、か……」
越えねばならない壁の高さに、シンゴは鬱屈としたため息を吐き出した。
アリスに協力を申し出るには、まず彼女と和解する事が大前提だ。無意識に遠回りしてき案件に、とうとう挑まねばならない時がきたのだ。
しかし、アリスの怒りの原因は未だに分からない。それが分からない限り、アリスとの和解など不可能だろう。
「それでも、今は四の五の言ってられねえ。まずは会話だ。今回は、どれだけ無視されてもアタックし続ける」
『アリス・リーベとの和解の件はお前に任せよう。しかしだ、シンゴ。いくら時間を置いたとしても、リノア・ブラッドグレイの警戒は依然として高いはずだ。そして自らが語っていたように、『真祖』としての鋭い五感は侮れない。悪意感知の出来るお前がアリス・リーベと共に行動したとしても、それでもやはり即座の対処には少なくない遅れが生じるだろう。……その小さな遅延が命取りにならないとも限らない』
ベルフの憂慮はもっともだ。今まではシンゴ一人――いや、二人で一人だったが故に、どうにか監視の目を掻い潜ってこられた。
シンゴとベルフだからこそ成し得た、念話による穏便かつ迅速な連携という強み、それを今回は活かす事が出来ないのだ。
しかし、シンゴも何も考えていない訳ではない。
「イチゴに頼んで、どうにかリノアを三階から引き離してもらう。そうなったら多分、三階が無人って事はなくなると思うけど……それでもリノアを相手にするよりはよっぽどマシなはずだ」
あの時は明確な殺意を向けてきたリノアだが、今までの傾向からしてそれが常時だとは限らない。書庫でリノアの接近に気付けなかったのだから、尚更、常に警戒心を持っているとは断言出来ないだろう。
対して、三階から離れるリノアの代わりに上がってくるであろう吸血鬼達、彼ら彼女らの目的は明確だ。
「当然、無人になる三階を警戒する為に上がってくる。だったら上がってくる吸血鬼は全員、ほぼ確実に俺の悪意感知の対象だ」
『なるほど……数が増えるのは厄介だが、確実に感知出来ると考えれば、確かにその方が幾分かマシだな』
納得の声を漏らすベルフに頷き、シンゴは「それに」と繋げる。
「今までリノアは俺に敵意らしい敵意を向けた事はなかった。なのに、あの書庫でだけ、リノアは俺に明確な敵意を向けてきた。つまりそれは……」
『あの書庫……もしくは三階に、秘すべき何かが存在する事の裏返し、か』
そう、そこに気付けたからこそ、まだ希望は潰えていないと分かったからこそ、シンゴはまだ諦めないと己を奮い立たす事が出来たのだ。
立ち上がれたのなら、あとはもう足を前に踏み出すだけだ。歩みを止めない限り、道は先へと続いているはずだから。
「――よし!」
鋭く吐息し、気合の一声と共にベッドから腰を上げる。
新たな作戦は形を成した。ならばあとは、それを順番に消化していくだけだ。
差し当たり、最初に取り掛かるべきは――、
「――アリスを、探さねえとな」
決意をその胸に宿し、シンゴは部屋の扉を勢いよく開け放つと、アリスを探して廊下へと飛び出した。
――――――――――――――――――――
その開放的な空間に足を踏み入れた瞬間、そよりと吹いた風に優しく頬を撫でられ、シンゴはその心地よさに思わず目を細めた。
城壁からせり出したバルコニーからは幻想的な白銀の世界が一望でき、最奥に陣取る『冥現山』の雄々しい立ち姿は、大自然の雄大さを心に刻み込んでくる。
「――――」
その、白銀世界と偉大なる山を背景に、背を向けた少女は風に揺れる真白の髪を押さえながら、手すりの前に静かに佇んでいた。
処女雪のように白い髪と、闇夜のベールを纏ったかのような黒い装い。白と黒、相反する二色で成り立った、白黒の体現者だ。
「――アリス」
「――――」
この儚い一瞬を壊してしまう事への忌避感、それを呑み込んで発したシンゴの呼び掛けに、名を呼ばれた少女――アリス・リーベがゆっくりと振り返る。
振り向いたアリスの瞳は本来の真紅に染まっており、新たに紅を迎えた三色が織り成すその美しさに、シンゴは時を忘れて呆然と見入ってしまう。
しかし、凍ってしまったその一瞬は、他ならぬ凍らせた本人の一声で融解した。
「――何の用だい?」
「――っ」
その声が鼓膜を震わせた瞬間、シンゴは鋭く息を詰めていた。
自分を見て、自分に対し声を向けられたのは、不思議と随分に久しぶりな気がする。だからだろうか、これほどまでに驚いてしまったのは。
だけどそれよりも、喜びの心情が勝っていて――。
そんな単純な自分に内心で苦笑し、シンゴは軽く深呼吸を挟んで仕切り直すと、
「仲直りをしに来た」
「…………」
真剣な面持ちで告げたシンゴの率直すぎるその用件に、アリスの真紅の眼差しが無言で細められる。
その眼差しを真っ直ぐに受け止め、しかし直後にシンゴは「あー」と間延びした風に声を漏らして頭を掻いた。
「実はさ……どう仲直りすればいいのか、考えても分からなかった。んで、俺が悪いってのは重々承知の上で、情けなくて図々しいお願いすんだけど……」
歯切れ悪くそう前置きし、逸らした視線をアリスに戻すと、シンゴは弱り切った顔で提案を持ち掛けた。
「どうすれば許してくれるか、教えて欲しい」
「――――」
情けないと公言した通り、本当に情けないシンゴの頼み。それを聞いたアリスの瞳が微かに見開かれる。
その反応が純粋な驚きからくるものなのか、はたまた別の理由からくるものなのかは分からない。それでも、もはや本人に尋ねる以外に、シンゴはアリスとの和解に繋がる道を見出す事が出来ない。
どれだけ考えても、アリスの怒りの原因には辿り着けなかった。――本当に、情けない話である。
「……キミは」
「――――」
「キミは、痛みに対して何を思う? ――死を、どう捉えているんだい?」
真っ直ぐ、シンゴの目を見据えて発せられたアリスの問いかけ。
まさか本当に答えてくれるとは思っておらず、しばし呆気に取られていたシンゴだったが、すぐにハッとして質問の方に意識を向ける。
耳に残った声を頭の中で反芻し、遅れて正確に言葉として受け止めたシンゴは、その問いの意図――アリスの本意を図り切れずに眉を顰める。だけど、アリスの目は真剣そのもので、シンゴは同等以上の姿勢で臨まねばと覚悟を胸に目を閉じた。
「…………」
自分自身の心に今一度、先ほどの問いをぶつけてみる。そこに生じた反応を見定め、聞き定め、嗅ぎ定め、舐め定め、触れ定め、全霊を以て観測を試みる。
誤魔化しも、嘘偽りも許されない。求められるのは、本心からの解答だけだ。
「俺は……」
呟き、ゆっくりと瞼を半ばまで持ち上げる。
そして、ぽつりぽつりと、自分の言葉を慎重に確かめながら、シンゴは問いに対する答えを口にし始めた。
「痛いのは、嫌だよ。苦しいし、泣きなくなる。今まで何度も痛い目は見てきたけど、それで慣れるほど簡単に割り切れるものじゃない」
そして――、
「……死は、めちゃくちゃ怖ぇよ……ッ」
死に対して答える声は震え、やがてその震えは全身に伝播していき、シンゴは猛烈な寒気を覚えて己の肩を抱いた。
死とは死であり、それ以上でもそれ以下でもない。表も裏もなければ、意味すらも存在しない。強いて言えば――『無』だ。
不死身の権威を持っていようとも、やはり死に対する定義が覆る事はない。
シンゴのこれは、死を否定するものではなく、死を肯定する事が前提となっている。生き続けるのではなく、死を迎えて初めて生き始まるものなのだ。
一度限りの生を無限にするのではない。一度限りの死を無限にするのだ。
故に、キサラギ・シンゴは誰よりも死を恐れ、死を呼び寄せる痛みを忌み嫌う。
死の匂いを嗅ぎ付ければ、全力で顔を背けて口鼻を覆う。自身に迫る死を見つければ、背を向けて必死の逃げを選択する。
――だけど。だけども、だ。
もしも死が、その矛先を別の誰かに向けたとしたらどうだろう。例えばそれが、シンゴの身近な誰かだとしたならば。
矛先が変わった事に安堵し、ほっと胸を撫で下ろすのか。見て見ぬふりをして、傍らに倒れ込む死体を横目に生を噛み締めるのか。
――否だ。断じて、否である。
死を知るが故に、死の虚無を魂に刻み覚えているが故に、それと同じモノを大切な人が経験するなど断じて見過ごせはしない。
知恵を絞り、力を振り絞り、勇気も絞り出して、全身全霊で阻止してみせる。
だが、それでも足りず、遠く及ばなかったら。この、無限の死を受け入れられる自分が身代わりになれば救われる、そんな状況があったとしたら――。
「――俺は、喜んで死を受け入れるよ」
その答えを口にした瞬間、身体の震えが嘘のように止まった。
この世界に来る際に立てた誓いは、誓うべき対象が増えた事以外は何も変わらぬままで。たとえ一度しか死を受け止められなかったとしても、この覚悟が揺らぐ事だけは決して有り得ない。
だから――、
「――ぇ?」
ふと顔を上げたシンゴは、眼前の光景に小さく声を漏らした。
凝然と目を見開くシンゴの視線の先、そよぐ風に白髪を揺らすアリス――その、触れる事すら躊躇われる白い頬を、一筋の透明な水滴が伝っていた。
「あ、りす……?」
「――っ」
その呼びかけが、奇しくも決定的な決壊を招いてしまった。
整った相貌がくしゃりと歪み、溢れる事を許された涙が滂沱と流れ落ちる。その涙をせき止めようとでもしたのか、アリスの両手が全てを覆い隠してしまい――、
「ばか……キミは、ばかだぁ……ッ」
深い悲哀に満ちた涙声が、キサラギ・シンゴの心を容赦なく斬り刻んだ。それはシンゴの胸を致死的に抉り、悔悟の沼へと叩き落とす無慈悲の刃だ。
事実、シンゴの受けた衝撃は途方もなく甚大で。ともすればそれは、死すらも凌駕する絶大な痛みをシンゴにもたらした。
「――ッ」
「ぁ……まっ……!?」
嗚咽を噛み殺して走り出したアリスに、愕然としていたシンゴは反応が遅れる。
咄嗟に手を伸ばすが、真横を走り抜ける白黒は風のようにシンゴの指先をすり抜け、そのまま城の中へと姿を消してしまう。
伸ばした手をそのままに、唖然として固まるシンゴだったが、数瞬ほど遅れて、胸中を狂いそうなほどの焦りが満たしていき――、
「アリス――ッ!!」
「あ〜あ、悪いんだー。女の子を泣かすなんて、ひどいんだー」
叫び、遅すぎる追跡に足を動かそうとした時だった。不意に割り込んだ少女の声が、シンゴの足をその場に縫い付けた。
急制動を掛けたシンゴは驚きに息を詰め、城の中からバルコニーへと姿を現した少女に目を見開く。しかしすぐに、その少女の嘲るような笑みを鋭く睨み付け、
「ラミア……ッ」
「うっわ、二号くん、こっわー。……私、何か的外れな事でも言ったかしら?」
「――っ」
シンゴの非難の視線を受け、乱入者――ラミアがわざとらしく驚いてみせる。
しかしその直後、冷ややかなセリフと共に鋭い冷笑を浮かべ、妖艶な仕草で首を傾げてくるラミアに、シンゴは喉を詰まらせて勢いを欠く。
たじろくシンゴをしばし眺めていたラミアだったが、やがてふっと鼻で笑うと目を閉じ、次の瞬間には幼げな少女の仮面を被り直して言う。
「自分を棚に上げて、ラミア達に仲直りしろーってのは、それはちょっと傲慢で恥知らずだよねー?」
「――はい、ラミアお姉さまの言う通りです」
「――!?」
手の平を上に向け、両手を胸の高さで掲げて肩を竦めるラミアの言葉に、起伏に乏しい少女の声が賛同の意を示した。
ぎょっとして声のした方へ目を向けると、ラミアの背後から瓜二つの顔――否、ラミアのそれと比べると、些か表情に乏しい少女が姿を現した。
ラミアの双子の妹――レミアだ。
「あんな無様を晒すような人が、どうして他人の事情に首を突っ込もうと思えたのか、レミアは不思議でなりません。はっきり言って、神経を疑います」
「だよねー」
「……ッ」
辛辣なレミアの言葉、しかしシンゴはそれに何も言い返す事が出来ない。――正論過ぎて、言葉が見つからなかった。
奥歯を軋らせ、悔しげに俯くシンゴだったが、続くラミアの言葉で更なる衝撃に見舞われる事となる。
「ねー、イチゴもそう思うよねー?」
「――!?」
同意を求めるラミアの声を聞き、シンゴはハッと顔を上げた。
後ろを振り返る双子、その二人の視線の先から、最愛の妹が――キサラギ・イチゴがゆっくりと姿を現した。
「い、いちご……」
「…………」
掠れた声で妹の名を呼ぶシンゴ、その顔が激しい動揺に歪む。
そんな、悪戯を咎められた子供のような顔をするシンゴに、イチゴは無言のまま感情の一切を消した表情で歩み寄り、そして――、
「この、バカ兄――ッ!!」
怒声と共に振り抜かれたイチゴの平手が、シンゴの頬を鋭く痛打した。
全く予期していなかった事もあり、頬を張られたシンゴはその衝撃でバランスを崩し、よろけるように足をもつれさせて転倒した。
「づ……ッ」
「――さっきのは、アリスさんが悪いと思う」
頬を押さえて呻くシンゴを見下ろしながら、イチゴは静かな怒気を孕んだ声で、先の一件はアリスに非があると告げた。
その思いもよらぬセリフに、シンゴは頬の痛みも忘れて呆然と妹を見上げる。
理由は未だに分からずとも、それでもアリスとの一件は自分が悪いのだと、シンゴはそう認識していた。そう、思っていて――、
「――でも」
そう継ぎの言葉を述べ、混乱するシンゴに背を向けたイチゴは――、
「お兄ちゃんの方が……もっと悪い」
「――――」
苛烈な糾弾の言葉を言い残し、城の中へと戻って行くイチゴ。その後ろに、ラミアとレミアが続く。
やがて、三人の姿が完全に城内へ消えると、一人とり残されたシンゴは、治癒の力ですっかり熱の引いた頬にそっと触れ――、
「……痛ぇ」
存在しないはずの痛みに呻き、深く俯くのだった――。