第4章:38 『口の中の苦み』
「リノア……ッ」
「――――」
戦慄に震えるシンゴの声を聞いても、悠然と佇むリノアの立ち姿、及びその『無』に染まった表情は微塵も揺るがない。
その波紋の一つすら許さない水面のような在り方を受け、シンゴは逆に、激しく動揺していた自分の心が写し鏡のように落ち着きを取り戻していくのを感じた。
そうして幾分かの余裕を取り戻したシンゴは、ふっと微笑を浮かべると、気さくげに片手を掲げて、
「なんだ、お前も読書か? 実は俺も暇で暇でしょうがなくてさ。普段は絶対に手を出さない読書に手を出そうとした訳だけど、ダメだわ。字、全く読めねえ」
「――――」
「無断で書庫に入ったのは悪かったよ。でもほら、勝手に入られちゃ困る所なら、鍵くらい掛けとくべきだぜ? ま、入ったのが俺みたいな人畜無害で助かった訳だ。これが下心に塗れた奴なら一大事だかんな」
「――――」
「おいおい、さっきからだんまりかよ。それじゃ友達なんか出来ねえぞ? まずは会話! これが友達作りの大前提だ!」
「――――」
「だからさ、ほら……えっと、な? あれだよ、あれ……」
「――――」
「……っ」
ぺらぺらと、よくぞここまで回ってくれたものだ。そう自分の口を褒めてやりたい――などとは、残念ながら微塵も思えなかった。
なにせこれは、回りはしていても、ただの空回りだから。それを自画自賛したところで、ただ惨めなだけだ。
そうして一人で勝手に空回りするシンゴを、少女はただ無言で、頬をぴくりとも動かさずに見つめてくる。
その眼差しは言外に、そんな戯言が聞きたいのではないと、そう告げていた。だからシンゴは敗北を認め、苦渋を呑み込み、少女が求める言葉を口にする他ない。
「なんで、お前がいるのと、この三階に誰もいねえ事が、繋がんだよ……?」
「――至極簡単。我は、強い。我は、鋭い。我は、最優。故に、他者は不要」
ようやく口を開いたリノアは、淡々と、自分が『最も』である事を羅列する。
しかしそれだけで、納得するには十分だった。吸血鬼の中で最強かつ最高に位置するリノアが居れば、それだけで事が足りてしまう。
付け入る隙も、反論を挟む余地も、どこにも見当たらない。至極簡単とはよく言ったものだ。シンプル故に、歪みが存在しない。
「……掃除とか、どうすんだよ?」
「論点、違う」
「――っ」
どうにか無い頭を絞り、勇気も振り絞って発したシンゴの的外れな指摘は、自覚した通りに的外れだと一刀両断された。
三階に人がいないのは、一階が生活スペースで、二階が寝室と考えれば、この階に特に人が訪れる理由が存在しないからだとおぼろげに推測は可能だ。
他にも、今日は偶然この階に用事がある者がいなかっただとか、掃除は隔日ごとで既に昨日終わっているだとか、理由をこじつけようと思えば幾らでも出来る。
しかしそれでも、現在この城には来訪者がいる。取り分けシンゴは警戒されており、用事が無いからと言って、階を丸ごと無人にするのは無警戒が過ぎる。
だがそれも、リノア・ブラッドグレイがいるから、それだけの理由で『大丈夫』へと変わる。無論それは向こうの都合であり、シンゴからしてみれば『最悪』の一言だが。
つまり何が言いたいかといえば、この三階はリノア・ブラッドグレイがいるので、他の吸血鬼は特に理由が無ければ上って来る必要が無いという事だ。
そして現在、彼ら彼女らのその考えが正しいのだと、キサラギ・シンゴは身を以て証明してしまっていた。
「――はぁ」
静かに、シンゴは小さな吐息をこぼす。それは暗に、降参の意を示していた。
だってそうだろう。あの夜はどうにか誤魔化せたが、今回は決定的だ。言い逃れも出来ないくらい、気持ちいいほどに現行犯。――つまり、詰みだ。
だが、諦めるにはまだ早い。ここから望みを繋げる事は出来る。
シンゴの考え、起死回生案――それは、例えるなら将棋に近いだろうか。
『……何をするつもりだ、シンゴ?』
『けっこう最初の段階で思い付いて、でもリスクが大きすぎるからって理由で頭の片隅に追いやってた。でも、もう後がない。だから、もう賭けるしかない』
『待て。何を――』
リスクが大きいのは確かだ。しかしその分、成功した時は完全勝利が確定する、そんなデッド・オア・アライブな大博打。
将棋の面白い所は、討ち取った相手の駒を自分の駒に出来る事だ。シンゴが今からしようとしているのは、それに近しいもので。
その博打とは、即ち――、
『――リノア・ブラッドグレイを、味方に引き込む』
『――っ!?』
シンゴが明かした賭けの概要に、ベルフから鋭く息を呑む気配が伝わってきた。
それも無理ないと思う。シンゴ自身、突拍子もない事を言っている自覚はある。
しかし、だ。リノアは、最高の地位と最強の力を有している。その最高の地位は絶対的な命令権という『矛』となり、最強の力はあらゆる不測の事態を強引に捻じ伏せる『盾』となり得る。
つまり、交渉や脅迫といった『矛』と、もしもの場合の自衛手段という『盾』、この二つの代役が、リノア・ブラッドグレイたった一人で務まってしまうのだ。
いや、むしろ、本来の『矛』と『盾』よりもその確実性は盤石だ。それこそ、あらゆるモノを貫く矛に、あらゆるモノを防ぐ盾の如く。
そんな、ほぼ王将に匹敵する駒を持ち駒に出来れば、この城からの解放など容易に等しいだろう。
――無論、失敗すれば、そこで終局なのは論ずるまでもないが。
『……勝算は、あるのか?』
『一応、な』
既に王手を掛けられている状況なのだと、改めてその事実を理解したのか、ベルフも動揺を鎮めてシンゴの博打に肯定的だ。
そんなベルフの問いに頷き、逸る鼓動を密かに深呼吸で落ち着かせると、シンゴはぐっと腹の下に力を込めて、決意を固めた。
そうして、リノアの紅い双眸を真っ直ぐに見据えると――、
「――単刀直入に言う。リノア、俺に協力して欲しい」
「――?」
「俺は、この城から……いや、この『金色の神域』から出たいんだ。もっと言えば、元の世界に帰りたい」
こてん、と小首を傾げるリノアに、シンゴは偽りない本心を明かす。
当然ながら、こんな泣き落としが通じるとは思っていない。
刹那、胸を圧迫するような強い罪悪感が押し寄せてきた。しかしそれを飲み下し、シンゴは卑劣な手段に打って出る。
「イチゴがな……帰りたいって、言ってんだよ」
「――ッ」
イチゴの名と、その願いを口にした瞬間、リノアが息を詰まらせた。
表情には相変わらず変化は見受けられないが、その瞳が激しい動揺に揺れるのをシンゴは見逃さなかった。
畳みかけるならここだ。そう判断したシンゴは、その場で深く頭を下げて――、
「頼む、リノア。イチゴの為に、協力してくれ。――友達を、助けると思って」
「…………」
自分の言葉に、思わず猛烈な吐き気が込み上げてきた。
イチゴが帰りたいと言ったのは事実だ。しかしあれは、シンゴがそう言うように仕向けたに等しい。
シンゴを困らせまいと、そんな気遣いから出た言葉だとちゃんと理解した上で、シンゴは気付かないふりをした。
自己嫌悪に苦しむ資格などない。被害者ぶるなど、おこがましいにも程がある。
自覚し、自戒しなければならない。キサラギ・シンゴは立派な加害者であり、他人の想いを踏み躙る外道であり、罪深い『罪人』なのだという事を。
「我、は……」
「…………」
逡巡に瞳を揺らし、動揺に揺らぐ言葉を紡ぐリノアを、シンゴは無言で見守る。その口から告げられる返答次第で、この先の運命が決まるのだ。
いつまでも続くように感じられた重苦しい沈黙。しかしそれも、やがて終わりを迎える。他ならぬ、リノアが返事を口にする事で。
「――我は、協力出来ない」
「……は?」
逡巡を振り払い、動揺を鎮めた様子のリノアが、真っ直ぐこちらを見据えて、はっきりと拒絶の言葉を紡ぎ出していた。
ノー、と言われる事も想定していたつもりだった。しかし実際にそれを突き付けられて、シンゴの頭の中は空白に塗り潰される。
「な、んで……」
そう一言、発するので精一杯だった。
目を見開き、声を震わせるシンゴに対し、リノアが述べた拒絶の理由は――、
「我、イチゴとお別れ、嫌」
「――――」
その幼稚すぎる理由に、シンゴは絶句する。
友達ならば、友達の事を最優先に考えるはず――そんなシンゴの浅はかな決めつけを、リノアのその言葉は粉々に打ち砕いた。
「嫌って……それはお前の都合で、イチゴは帰りたいって……」
「嫌」
「――ッ!!」
頑なに、その子供じみた発言を曲げようとしないリノアの態度を受け、シンゴの眦が鋭く吊り上がる。
焦り、動揺、苛立ち、それら感情が混濁し、激情となって込み上げてくる。知らずして、左目が紫紺に染まった。
胸の内を焦がす汚濁の如き烈火の炎に突き動かされ、シンゴはその足を一歩、強く前に踏み出すが――、
「――――」
「――ッ!?」
スッ――と、リノアの目が細められた瞬間、暴力的なまでの殺意が一気に膨らみ、シンゴの戦意を易々と圧し潰した。
今までリノアから悪意を感じる事は無かった。しかし今回、初めて向けられた悪意――殺意は、ただ相対するだけでシンゴに尻餅を着かせるほどで。
「ひ……っ」
喉から引き攣った恐怖の声が漏れる。全身が強張り、震えが止まらない。
その殺意の質量を受け止め切れず、心という器の許容を超えたのではない。これ以上踏み込めばどうなるか、その先に待ち受ける強すぎる『死』のイメージに、その明確すぎる絶望の未来図に、ただシンゴの心が屈しただけの話だ。
「この件、我は他言しない。……イチゴが、悲しむ故」
「……?」
膝を折り、座り込んだままのシンゴに視線を合わせるリノア。その口から告げられた言葉の意味がすぐには理解できず、シンゴは眉を寄せる。
しかし徐々に、その言葉の意味が脳に浸透していき、やがてその言葉の裏に隠された真意に気付いた瞬間、シンゴの色違いの双眸が大きく見開かれた。
「――ッ」
強く噛み締められた奥歯が割れ、口の中に血の苦みが広がる。
企てを全て暴露し、そして拒絶された今、シンゴの敗北は確定したにも等しかった。しかしリノアは、今の話は誰にも言わないと言うのだ。
――情けを掛けられ、見逃された。
これほどの屈辱感に塗れようとも、しかしシンゴは一切の反論を口に出来ない。
期せずして繋がった望みを自ら断ち切ってしまう愚行を犯すくらいなら、こんなちっぽけなプライドなど喜んで捨てるべきだ。
だから――、
「あり……がとう、ございます……」
感謝の言葉と共に、シンゴは額を床に擦り付ける。
砕けた奥歯は既に治癒し、血の味はどこかへ消えていた。そのはずなのに、口の中には未だ消えぬ苦みが微かに残り続けていた――。