第4章:37 『本の著者』
――本、本、本。
見渡す限りの本の山を前に、キサラギ・シンゴは途方に暮れていた。
書庫の中は広く、奥には上層へと通じる階段の姿が窺える。その階段を視線で上になぞると、そこには下層に負けず劣らずの量の本棚が並んでおり、収められる本と本の間には隙間がほとんど見当たらない。
「冗談じゃ、ねえ……」
額に手を当てて、シンゴは深いため息を吐き出した。
本とは言わば、情報の山である。それはまさしく、シンゴが最も欲していたもので、それがこれだけ眼前にあるのだ。本来なら両手を上げて喜ぶ場面だろう。
しかし、宝の山を前にしたはずのシンゴの心は、重く沈んでいた。それもそうだろう。なにせ――、
「これ調べんのに、どんだけ時間かかると思ってんだよ……!」
もしも、この書庫を初日の探索で発見出来ていれば、また話は違っただろう。しかし、今日を含めてあと四日だ。算数の苦手なシンゴでも、残された時間内にここに存在する本の全てに目を通す事が不可能である事くらい分かる。
しかも、一日中ここに居座る訳にもいくまい。最低限、食事の時くらいは姿を見せねば、怪しまれるのは確実だ。
「運よく目的の情報にぶつかるのを祈って、ダメもとで片っ端から読んでみる……か?」
そう言って、試しに近くにあった本に手を伸ばす。表紙にも、背表紙にも何も書かれていない、真っ黒の本だ。
もともと活字に対してアレルギーを持つシンゴにとって、元の世界では漫画以外の本など無縁の存在だった。しかし、文句など言える立場でも状況でもない。
シンゴは二度目の深いため息を吐き出してから、その黒い表紙を開いた。
そこに書かれていたものは――、
「……全部、漢字?」
そこに記されている文章は、全て漢字だけで構成されていた。
パラパラとページをめくるも、やはり漢字以外の文字は見当たらない。漢字、それ自体は理解出来ても、それらによって綴られた文章を解読するのは無理だった。
「……まさか」
『何か分かったのか、シンゴ?』
記憶の底に沈んでいた一つの可能性を掘り当て、シンゴは驚きに目を見開く。そんなシンゴに、今まで沈黙していたベルフが問いかけてきた。
しかしシンゴはすぐに返答せず、自身の記憶と照らし合わせるように、漢字だけで構成された文章に目を走らせる。
そうして確認作業を終えたシンゴは、自分の考えが間違っていなかった事を確信。その驚愕を舌に乗せ、震える声で告げた。
「たぶんこれ……中国語だ」
『……それは、お前の世界の言語か?』
「……ああ」
ベルフの確認に短く返しつつ、おそらく中国語であろう言語で書かれた本を元の棚に戻して、今度はその隣の本を手に取る。
その本は黒と白の二色で彩られており、今度は表紙に金色の文字が刻まれていた。その文字を見ただけで察しは付いたが、念の為に中にも目を通す。
そこに記されていたのは、先の漢字とはまた別の文字で――、
「間違いない……英語だ」
白紙を黒く染めるアルファベットの群れに、本を持つ手に自然と力が込もった。
この世界に英語という言語が存在している事は、かなり初期の段階で認知済みだ。しかし、その他の言語が存在する可能性は一切考慮していなかった。
他には――と、次々に本を手に取り、中に目を通していく。そこには英語や中国語はもちろん、他にも様々な言語が文章を形成していた。
ただ悲しいかな、学業に関しては妹が神に匙を投げるほどのシンゴの頭脳だ。元の世界の文字や言語だろうと推測は出来ても、それがどこの国の言語なのかまではさっぱり理解する事が出来なかった。
「……おかしい」
そうして、読めない言語に頭痛を感じつつも、次々に本の中身に目を通していたシンゴは、その数が十冊を超えたあたりで眉を寄せる。
『何がだ?』と問うてくるベルフに、シンゴはどことも知れぬ国の言語で書かれた赤い表紙の本をぱたんと閉じると、元の場所に返しながら答えた。
「日本語で書かれた本が、一冊もない」
『日本語とは確か、この世界の標準語と同じ、お前の世界の言語の名称だったな』
「補足すると、俺の暮らしてた日本って国の言語だ。……つか、やっぱりこの世界の標準語って、日本語なのな」
改めて公言されると驚く。まさか慣れ親しんだ日本語が、異世界では標準語として扱われ、しかもその他の国の言語まで輸入されている始末だ。
いや、まだ輸入されたと断言は出来ないか。しかし、この世界とシンゴの居た世界に何かしらの繋がりがある事は、もはや疑いようがないだろう。
――ともあれ。
「なんで日本語で書かれた本だけねえんだよ……」
手の込んだ嫌がらせ、という線はまずないだろう。
いや、そもそも――、
「なあベルフ、中国語で書かれた本を見た時さ、なんか中国語を知らないみたいな口ぶりだったけど、お前が知ってる言語って今見たやつの中でどんだけある?」
『お前の世界で言う、日本語と英語しか知らない。そして後者に関しては、多少単語が理解出来る程度であって、文章の解読が出来るほどの知識は私にはないらしい』
「……まじかよ」
本来の意図とは別に、ベルフが英文を読めないという驚愕の事実が発覚。英語に関してはベルフに任せるつもりだったので、その悲報にシンゴの顔が落胆で陰る。
もしかすると、理知的な振る舞いをしている割に、ベルフのIQはシンゴと大差ないのではないだろか。
『……シンゴ。全て聞こえているぞ?』
「げっ」
心の中の呟きが全て筒抜けになっていたらしく、そこを指摘されてシンゴは『やらしかした』の顔。
そんなシンゴに嘆息しつつ、ベルフが『それで、本来の意図とは?』と話の本筋を戻すように続けてきた。
そのベルフの温情に「あ、ああ、その事な!」と遠慮なく乗っかるシンゴは、
「いや、この世界に来てから俺が見聞きした言語って、日本語と英語だけだったからさ。それ以外の言語で書かれた本がこうして出てきて、ちょっと疑問に思ったんだよ」
『……なるほど。そして今の私の回答で、二つの可能性が浮上した訳だな?』
「ご明察。日本語と英語以外の言語はこの世界では浸透していないのか。それとも――」
『この書庫に収められた本の中にのみ存在するのか、か』
最後の部分を引き取ったベルフの『声』に頷いて、シンゴは自身を取り囲む本の山にぐるりと目を向ける。
様々な考察が頭の中を駆け巡るが、やがて小さな吐息と共にかぶりを振って、シンゴは途中で思考を打ち切った。
この世界と元の世界の関係性を紐解く事は、巡り巡って元の世界に帰還する為の手掛かりに繋がるかもしれない。
しかしそれは、今のこの状況をどうにかした後の話で、現状、『後』にかまけている余裕はない。そうでなくても、『今』だけで手一杯なのだから。
「……ん?」
『――? どうした、シンゴ?』
「いや……これ……」
シンゴが指差すのは、先ほど返却した赤い本の隣にあった別の本、その最後のページに記されていたとある一文だ。
本文の方は相変わらずシンゴには読めない言語だったが、ふとシンゴが発見した一文だけが何故か日本語とカタカナで構成されていた。
「【著:ツウ・レッジ・ノウ】……?」
『……その名は確か、トランセルの……』
シンゴの読み上げた一文は、この本を書いた著者の名前だった。
そしてそれに続いたベルフのセリフで、シンゴも埋没していた記憶のサルベージに成功。その人物について知った時の情景が一気に蘇ってきた。
あれは確か、旅の途中でイレナから聞いた『トランセル王国』の歴史、その中で出てきた――、
『トランセル王国の建国者にして、『金色の巫女』の異名を冠した初代女王――ツウ・レッジ・ノウ』
「そう、それだ!」
先に答えを述べてくれたベルフに、シンゴは指をパチンと弾いて破顔する。が、そのすぐ直後にシンゴは「あれ?」と怪訝な表情となり、
「なんでトランセル王国の王女様が書いた本が、こんな北の果てに……それも、吸血鬼が住む城の書庫にあるんだ?」
『……言われてみれば、妙な話だな。……シンゴ、他の本はどうだったのだ?』
首を捻るシンゴに同意の言葉を述べたベルフは、次にふと思い至ったようにそんな事を尋ねてきた。残念ながら最後のページまで目を通したのは先の一冊だけで、他の本は最後まで確認していない。
たはは、と誤魔化し笑いでお茶を濁し、シンゴはすぐさま棚から一冊、そして下段からも本を一冊、合計二冊引っ張り出し、最後のページをそれぞれ開いた。
「うわ、完全に見落としてた。こっちにも書いてあるわ、『ツウ・レッジ・ノウ』の名前……」
『シンゴ……』
呆れを孕んだ吐息をこぼすベルフに、「わり」と簡潔に謝罪を述べたシンゴは、他の本棚に収められた本も確認する事に。
そうして手近な本棚から無作為に抜き取った五冊の本を脇に抱え、それらをすぐ近くにあった木製の机の上に並べると、全て最後のページを開く。
そこにはやはり――、
「……書いてあるな、初代女王様の名前」
『……の、ようだな』
開いた五冊の本には全て『著:ツウ・レッジ・ノウ』と記されていた。もちろん全て『著』が漢字で、『ツウ・レッジ・ノウ』はカタカナだ。
だと言うのに、本文の方はそれぞれ全く別の言語で書かれており、これには何らかの意図を感じずにはいられない。
「つっても、それが分かったところで、ここの本が一冊も読めない事実は何も変わらねんだよな……」
気力ごと吐き出すように、シンゴは肩を落として盛大なため息。
改めて顔を上げれば、まるで巨大な壁の如く、無数の本棚がシンゴの事を嘲弄するように見下ろしている、そんな風にも感じられた。
「――――」
もしも、この壁を形成する全てのピースが『ツウ・レッジ・ノウ』の手掛けた物ならば、それは初代女王様が、シンゴの元居た世界に深く関わりがあった人物であるという決定的な証拠に他ならない。
つまりシンゴは、期せずして手に入れたのだ。『ツウ・レッジ・ノウ』という過去の偉人の存在が、元の世界への帰還に繋がるという有益な情報を。
――ただしそれも、ここに永住する事が確定した時点で宝の持ち腐れとなり、やがて記憶の底に沈んで色褪せて終わりだろうが。
『――読めないのであれば、ここに長居して時間を食い潰すのは愚行だろう。この三階層にはまだ未探索の部屋があるはずだ。この書庫の存在はいったん保留にし、そちらを先に当たるのが賢明だと思うが、どうだ?』
「ん、んー……」
ベルフの提案は正しい。無駄な時間の浪費をするくらいなら、まだ探索が終わっていない他の部屋を調べるべきだ。
しかし、惜しいと思い後ろ髪を引かれるのも仕方がないだろう。言うなればこれは、RPGにて宝箱を見付けたはいいが、それを開ける鍵を持ち合わせておらず、渋々先に進むしかない時の心情に近い。あとで戻って来られるとは理解していても、一度は諦めるという選択をしなければならない、まさに苦渋の決断である。
――しかし、シンゴは失念していた。一度立ち去ればもう戻れない、そんな初見殺しのエリアだってあるという、ゲームを嗜む者として当たり前の常識を。
「はぁ……そうだな、まずは先に他の部屋を調べるか」
机に並べた本を元の棚に返しながら、シンゴはため息と共にベルフの提案に賛成。と、そのタイミングで、すっかり忘れていた懸念事項の存在を思い出した。
「そういえば、この階の道程は超簡単だったよな……」
以前にベルフも言っていたが、常日頃から悪意を抱いている者は少ない。そして夜を除けば、この城に住まう吸血鬼も昼間はそれに該当する。
なので、この三階層にて悪意を一切感じない事も不自然ではない。昼間なのだから、尚更である。ただし、腑に落ちない点が一つあるのだ。
それは、今までの生活で、他の階の昼間の様子を知っているからこそ抱いた疑問で――。
「他の階と違って、昼間なのに誰とも廊下ですれ違わないってのは、なんでだ……?」
「――それは、我がいるから」
「――ッ!?」
口にした疑問に返答があり、心臓が痛みを感じるほどに大きく脈打った。
鋭く吸い込んだ空気を吐き出すのも忘れ、シンゴは全身の汗腺が一気に開くのを意識しながら、勢いよく声のした方へと振り向いた。
眼球が飛び出んばかりに押し開かれた双眼が、いつの間にか開け放たれた書庫の扉――そこに佇む小さな人影を捉える。
「リノ、ア……っ」
「――――」
無言で、無表情で、大神官――リノア・ブラッドグレイが、戦慄に声を震わせるシンゴの事をジッと見つめていた。