第4章:29 『中庭の秘密』
「くそっ、ここも外れかよ……ッ」
床下に備え付けられた収納庫、その中に備蓄されていた酒類を見て、シンゴは堪えきれない苛立ちを舌に乗せて小さく毒づいた。
現在シンゴがいるのは一階の厨房だ。ここに来るまでに、食堂、応接間、浴場、食糧庫や武器庫などを調べてきたが、どこにも有益な情報は転がっていなかった。
『焦るな、シンゴ。この城は三階構造だ。まだ三分の一しか調べられていない。それに、この一階も全て見て回った訳ではないだろう』
焦燥感を滲ませるシンゴに、ベルフが宥めるように声を掛けてくる。
その冷静な声を聞いて、シンゴは自分が少々熱くなっていた事を自覚。深めに息を吐いて心を落ち着かせると、立ち上がりながら『わりい……』と頭を掻き、
『一階に来るのにあんだけ苦労して、なのにここまで見事に空振りすると、さすがに精神的にくるもんがさ……』
『それは私も同じだ。しかし、いつまでも後ろ向きでいては前には進めない。悔しさも焦りも置き去りに、今はひたすら前進あるのみだ』
『……敵わねえな、お前のそのポジティブ精神には』
どこまでも前向き過ぎるベルフに、シンゴは思わず苦笑をこぼす。
そして「よし!」と小さな声と共に頬を張り、気合を入れ直すと、見張りの悪意に警戒しながらそっと厨房を出た。
『つっても、目ぼしい部屋はだいたい調べたし、あと残ってんのは……』
『――中庭だ』
――――――――――――――――――――
『見張りは……いねえ、な』
中庭へと繋がる通路、その壁から顔だけを覗かせ、悪意の感知だけでなく目視でも見張りの有無を確認してから、シンゴは満を持して中庭へと足を踏み入れた。
上を見上げれば、城壁を枠組みにして切り取られた夜空が望める。降り注ぐ月明かりのおかげで、右目の暗視能力に頼らずとも中庭一帯が見渡せるほどだ。
『さて、昼間にも来たけど、これといって怪しい場所は……』
眉を寄せ、きょろきょろと視線を辺りにさまよわせながら、シンゴは城壁に沿ってまず隅から調べて行く。
試しに城壁にも触れてみるが、あからさまに他と色が違っている部分も見付けられず、やがて一周して元の位置にまで戻ってきてしまう。
『やっぱ、ここも外れ、か……』
『…………』
『――なあ、ベルフ。ここに来てからずっと黙ってっけど、せめて相槌くらい打ってくれよ。じゃねえとほら、頭の中での独り言とはいえ、俺、なんか痛い奴みてえじゃねえか』
中庭に来てからというもの、何故かベルフは一言も言葉を発していない。その事についてシンゴが苦言を呈すると、ようやくベルフから返事が返ってきた。
しかしその返事の内容は、思いもよらぬもので――。
『――やはり、私はこの場所を知っている』
「……は?」
思わず疑問の声をこぼしてしまい、シンゴは慌てて口を塞ぐ。その状態のままで、シンゴは今しがたベルフの告げた言葉の処理に取りかかった。
それほど間を置かず、言葉の意味はすぐに理解する事が出来た。ただ、その真意についてはさっぱり理解が及ばず――、
『知っているって……そりゃ、どういう?』
『……うまく、言葉には出来ない。だが、私は確かにこの景色を知っているのだ』
『……何か、証拠でもあんのかよ?』
すぐに、意地の悪い質問をしたと後悔した。どうやらまだ、シンゴは焦りを拭い切れていないらしい。しかしだからと言って、その苛立ちをベルフにぶつけるのはお門違いもいいところだ。
咄嗟に謝ろうと、頭の中に謝罪の文句を思い浮かべるが、それが念話として昇華されるよりも早く――、
『そこの井戸に向かって歩け』
『悪い、今のは俺が……え?』
『この既視感が真実か否か、それを証明すると言っている。――シンゴ、井戸へ』
呆気に取られるシンゴに、ベルフが二度目の移動を促してくる。
それを受け、シンゴは半ば呆然としながらも、中庭の中央にある井戸へと言われるがまま足を向けた。そして井戸の前にまで来た所で、ベルフから次の指示が言い渡される。
『井戸の中に……そう、血だ。お前の血を垂らせ』
『血を、か? なんで、そんな事……』
『私の言う通りに。――おそらくそれで、道が開く』
『…………』
そう告げるベルフの声には言いようのない迫力があり、反論はおろか了承の言葉すら紡ぐ事が出来ず、シンゴはただ押し黙るしか出来なかった。
それに、いきなり血を垂らせ、などと言われても、その注文には必然的に自傷行為が伴う。今まで何度も傷を負ってはきたが、だからと言って自傷に対する恐怖心が無くなる訳ではない。
『代わるか?』
『……いや、自分でやるよ』
見かねたベルフが代行を申し出てくるが、シンゴは首を振ってそれを断った。
たとえ『憑依』状態でも、シンゴは五感から受け取る情報をそのまま知覚出来る。無論、痛覚に関してもその例に漏れない。
となれば、自分のタイミングでいけない分、むしろ恐怖はそちらの方が上だ。
『まあ、感覚的には注射に近いのかもしれねえけど、それでもなあ……』
そう思念で呟くと、シンゴは深々と嘆息。そのまま腕を組み、目を閉じた。
眉間に皺を寄せ、難しげに唸るシンゴが悩んでいるのは、自傷の手段だ。
今のシンゴは『激情』を発動した状態であり、その手首を掻き毟る事など造作もないのだが、やはりそれは怖すぎるので、出来れば最終手段にしたいところだ。
何か、細い針のような物があればいいのだが――、
『――あ、そういや』
ふと思い至り、シンゴは上着を、次にズボンのポケットを探り始めた。そして目的のブツを見つけると、『あった!』と安堵の笑みをこぼして取り出す。
シンゴが取り出したのは、どこにでもあるようなただの安財布だ。中の硬貨や紙幣は使い物にならないが、その他に家族の写真やお守りなどが入れてあり、一応、肌身離さずに持ち歩いていたのだ。
『それが無駄じゃなかったって事が、たった今こうして証明された訳だ!』
『それは……クリップか?』
シンゴが財布の中から取り出したクリップに、ベルフが怪訝そうに尋ねてきた。
そのベルフの質問に対し、シンゴは慣れた手つきでクリップを伸ばしながら、『そ、俺の必需品だ』と答える。
『クリップが、必需品……?』
『ああ。イチゴを怒らせて家から追い出されると、あいつ決まって家の鍵を全部閉めてくんだよ。だから、これがねえと家の中に入れねえ』
『…………』
おかげで今では、ピッキングはシンゴの十八番技能の一つだ。
一度、自分のピッキングの腕前がどれほどなのか試してみたくなり、鍵付きの金庫を五個ほど購入してピッキングしてみたのだが、それほど苦労せず金庫破りは成功してしまった。
『まあ、ケチって安いのばっかだったってのもあるけど、さすがに自分の家以外でのピッキングは封印しようって心に誓ったもんだぜ』
『賢明な判断……賢明、か?』
何やら失礼な事を言われた気がしたが、今は血を出す事の方が先決だ。
伸ばしたクリップの先を人差し指に向ける。恐怖は変わらずあるが、手首を掻き毟るよりはマシだと自分に言い聞かせ、一思いにぐさりといった。
「づ……ッ」
クリップの先端を指先から引き抜くと、遅れて玉のように血が滲み出てきた。
『急げ! 吸血鬼の治癒ですぐに蒸発するぞ!』
『分かってるっつの……ッ』
痛みに顔を顰めながら、シンゴは滲み出てきた血が蒸発してしまう前に、指先をもう片方の手で絞るように圧迫。そのまま井戸の中に向け手を二、三度ほど振ると、一滴の血がシンゴの指先を離れ、ゆっくりと井戸の中の暗闇へと吸い込まれていった。
『……今更だけど、こんな少ない量で大丈夫なのか?』
『大丈夫だ。それに、いざとなれば手首を――』
『それはまじで勘弁――!?』
今ので足りていてくれ、と切に祈りながら変化を待つが、いつまで経っても変化は訪れず、シンゴはさっと顔を青くし、
『まさか、途中で蒸発した……?』
最悪の可能性を想像して、シンゴはごくりと生唾を呑み込む。しかしその直後、それが杞憂だという事をベルフが教えてくれた。
『――シンゴ、後ろだ』
「え?」
言われるがまま後ろへ振り向くと、いつの間にかそこには――、
「かい、だん……?」
振り向いた先、目を見開くシンゴから数メートル離れた位置に、芝生を四角く切り抜くようにして、地下へと続く階段が音もなく出現していた。
『――どうだ? これで私の言葉を信じる気になったか?』
『それは、もう疑ってねえけど……この下、どうなってんだ?』
驚愕を唾と一緒に呑み込み、シンゴは階段の下をそっと覗き込む。
階段は途中で曲がっており、右目の暗視能力を以てしても、その奥底がどうなっているのか窺い知る事は叶わない。
しかし、こんなギミックの存在を知っているのだ。この下に何があるのかもベルフは知っているはず、そう思ってのシンゴの質問だったのだが――、
『すまないが、私が知っているのは、この地下へと続く階段が吸血鬼の血に反応して現れる、という事だけだ』
『……マジっすか?』
『本当にすまないが……マジっす、だ』
肝心肝要な部分については分からないと言うベルフ。だが、吸血鬼の血を井戸に垂らす事を条件として出現する階段など、ベルフがいなければ見つける事は出来なかったはずだ。
それを思えば、これ以上は高望みが過ぎるというものか。
『つか、なんでこんな吸血鬼しか知らねえような事をお前が知ってんだよ?』
『さっきも言ったが、私自身にもよく分からない。ただ、この城に……いや、この『金色の神域』やって来てからというもの、既視感にも似た感覚をずっと覚えていたのは事実だ』
『……既視感、ね』
実のところ、シンゴには心当たりがあった。
その心当たりとは、シンゴがカワードから意図せず引き継いだ、あの悪意を読み取る力の存在だ。
カワードは、『激情』の権威の前任者だ。そしてその一部をシンゴが引き継いだ事実から、似たような事が『怠惰』の方に起きていても不思議ではない。
つまり、『怠惰』の前任者の一部――この場合は、その記憶の一端をベルフは引き継いでいる可能性がある。
『まあ、『罪人』がどういう原理で選出されてるかなんて知らねえし、過去に『怠惰』の権威を手に入れた奴の中に吸血鬼が居ても不思議じゃないだろ。……ってか、俺以前に『怠惰』を持ってた奴の事、お前は覚えてねえのか?』
『残念だが、お前以前の宿主の記憶は私には存在しない』
『そう、か……』
一応、納得を示しはしたが、完全には腑に落ちないでいた。
理由としては、『激情』を司るイブリースからは、ベルフのように前任者の事を覚えていない印象は受けなかったからだ。
となれば、考えられる可能性として真っ先に思い浮かぶのは――、
『――『堕落』、か』
目を細めて呟いてから、シンゴはこんな考察に時間を割いている場合ではないと静かにかぶりを振った。
はっきり言って、この階段の下からはヤバい匂いがぷんぷん漂ってくる。吸血鬼を脅せるような特大ネタが待っている、そんな予感がしてならない。
『……行くしか、ねえよな』
短く息を吐き、腹の底に力を入れると、シンゴは意を決して足を踏み出した。
足を一歩、階段に下ろすと、地上よりも冷たい空気が足元を包むのをはっきりと感じた。その冷気に臆する心を叱咤し、二歩目、三歩目と下りていく。
まるで、冷たい水の中に身体を沈めて行くようだ。
そんな感慨を抱きながら、とうとう全身が地上より下へ潜り、そして――、
『『――っ!?』』
不意に辺りを暗闇が支配し、シンゴとベルフは揃って息を詰める。
そして慌てて振り返り、真上を見上げると、今しがた潜ってきたばかりの入り口が存在せず、そこにはただ無機質な天井があるのみだった。
「ふ、ふざけんな――ッ!?」
色の違う両目を見開き、天井を叩くも、閉じた入り口は一向に開く気配がない。
焦り、恐怖、不安、奇しくもそれらが『激情』の権威の効力を底上げし、全身に更なる力が巡る。その強化された力を拳に溜め、シンゴは真下から天井に向け打ち放った。――が、
「がっ……ぁ!?」
『シンゴ――!?』
「かっ、たすぎ、る……ぐ、ぅぅ……ッ」
天井はびくともせず、シンゴは拳を抱えるようにして階段に座り込んだ。
反動の全てを被った右手は激しく痛み、視界が白く明滅する。おそらく拳は、目も当てられない状態になっているのだろう。吸血鬼の力ですぐに回復するとは言え、わざわざそのグロテスクを視界に収めて精神的なダメージを負う理由もない。
「はぁ……はぁ……ッ」
『大丈夫か、シンゴ?』
「ああ……なんとか、痛みは引いた。手も……よし、治ってんな」
心配してくるベルフの声に、シンゴは脂汗を顔に浮かべながら、回復した手の平を開閉して問題ないと応じる。
そうして、乱れた呼吸を整えたシンゴは、その弱り切った目で閉じた天井をゆっくりと見上げた。
「……どうすんだよ、これ」
『今のお前の『激情』で壊せないとなると、この地下を構成する石の材質は特殊な物なのか、それとも何か怪しげな術式でも組み込まれているのか……ただ一つ言えるのは、もはや引き帰す事は叶わないという事だ』
「やっぱ、そうなんのかよ……」
ベルフの言葉を受け、シンゴは引き攣った顔を階段の下へと向ける。
意識した瞬間、シンゴは肌寒さを覚えて二の腕を抱いた。頭の中では、危険を知らせるアラートがひっきりなしに鳴り響いている。
この下には恐ろしい何かが待ち受けている。だが、後戻りは出来ず、そしてシンゴの求めるモノがこの先にあるのなら――、
「進むしか、選択肢はねえよな……」
覚悟を決め、壁に手を付きながら立ち上がると、シンゴは一歩一歩、段差を確かめるように踏み締めて、地下へと続く階段を下り始めるのだった――。