第1章:12 『旅立ち』
「だぁ――……」
キサラギ・シンゴは気の抜けた声を出しながら、ベッドの上で伸びをした。
体の疲れもあるのだが、それよりも精神的な――もっと言えば、頭の中がごちゃごちゃしていて非常に落ち着かない。
「けどま、こうしてると日常がどんだけ大事かってのが、よ~く分かるってもんだよなぁ……」
シンゴは両腕を頭の裏に回して即席の枕にすると、自分が経験したあの事件のことを回想した。
シンゴ、アリス、カズの見事なコンビネーションによりヒィースを打倒したあと、カズの体に絡み付いていた鉄線を利用し、ヒィース、フゥーロ、ミィートの三人を縛り上げた。
しかしいざ縛り上げたはいいものの、どうやって村まで運ぶかということになったのだが、幸いアリスが三人を軽々と持ち上げたので、女の子に重いものを持たせるのは心苦しかったが、三人を運ぶ役目はアリスに一任することとなった。
股間が剥き出しになったフゥーロから嫌そうに、それも懸命に顔を逸らすアリスには重ね重ね申し訳なかったが、シンゴとカズは先に村へと帰らせてもらった。
すぐにでも確認しなければならないことがあったからだ。
カズに案内してもらって村に辿り着くと、大勢の村人たちが出迎えてくれて、心配そうな声と優しい声をかけてもらった。
しかしシンゴは軽く手を振って「大丈夫!」と答えると、すぐさま両手を合わせて「ごめんなさい!」と謝罪を述べ、カズと共にフレイズ家を目指した。
玄関扉を壊しかねない勢いで開け、靴もそのままに階段を駆け上がり、とある一室に転がり込むようにして入った。
突然のことに驚いた顔を向けてくるのは、ケイナ・フレイズだ。そんな彼女の近くのベッドでは、今のどたばたで目を覚ましたらしいユリカ・フレイズが上体を起こそうとしていた。
どうやらユリカは、シンゴがヒィースたちを引き連れて鬼ごっこを繰り広げている間に自力で森を抜け、そこで偶然にもカズとアリスに遭遇して保護されたらしい。
その際にシンゴの危機を伝え、結果シンゴは危機一髪のところでアリスに救われた。
その後ユリカはカズに抱えられ、近くで捜索をしていた村人に預けられて現在に至る。
ケイナとカズに背中を支えられながら体を起こしたユリカは、未だに苦しそうだが、ある程度は落ち着いた様子だった。
その事実にカズ共々ほっとするが、まだ最大の懸念事項が残っていた。
このことを無暗に蒸し返されるのはユリカにとって非常につらいことだろうが、一人で抱え込んでしまうよりはよほど良いと判断して、カズは覚悟を決めた顔で問いかけた。
あいつらに、何をされた――と。
身構えるシンゴとカズだったが、しかしユリカの反応はきょとんとした顔で首を傾げるというものだった。
不審に思いながらカズと顔を見合わせ、今度はシンゴが改めて質問してみた。結果、返ってきた言葉は――、
ユリカ、なにもされてないよ――だった。
ぽけっと馬鹿面を晒す二人を見て、ユリカはけらけらと楽しそうに笑った。
ここで初めて二人は、ヒィースが言い放ったあの言葉はただカズを煽って逆上させるためだけの『嘘』だったのだと、ようやく理解した。
理解した瞬間、シンゴとカズはその場でぐったりと座り込み、深々と安堵のため息を吐いた。そんな二人の完全にシンクロした動きを見て、ケイナにまでも「ご、ごめんなさい……ふふ」と笑われる始末。
別に何ごともなかったのだから別に笑われてもよかったのだが、何とも釈然としない気持ちにはさせられたものだ。
その後、張り詰めていた糸が切れた途端、すぅ――と今まで辛うじて繋ぎ止めていた意識が遠のき、シンゴはその場で気を失った。
次にシンゴが意識を取り戻したのは、既に見慣れてしまったベッドの上だった。
慌ててベッドから飛び降りたシンゴだったが、タイミングよく部屋に入ってきたケイナに見付かり、休みなさいと怒られた挙句、シンゴの目覚めの報告に飛んできたユリカを除いた面々にも休めと言い渡され、現在こうしてごろごろと惰眠を貪っている訳なのだ。
ちなみにヒィースたち三人は無事アリスが村まで運び、今はこの村の地下にあるという地下牢にぶち込まれているらしい。
何でも、王都から迎えの騎士がくるのまで地下牢で監禁するとのこと。
ここでふと気になることがあり、シンゴはカズに尋ねた。魔法を使われでもしたら、簡単に脱獄されるのでは――という旨だ。
そんなシンゴの質問に、カズは首を横に振りながら、「ほんと、何も知らねぇのな」と苦笑し、脱獄の心配はないと告げた。
なんでも、『魔封石』なるもので作られた手錠があり、それを付けておけば魔法は使用できないとのこと。
案外魔法も万能じゃないんだな――というシンゴの呟きに、カズは「――ったりめぇだろ」と嘆息しながら答えると、「ほんと、無知にもほどがあるなぁ……」と何やら難しい顔で考え事をしながら部屋から退出して行った。
カズが出て行って話し相手がいなくなったシンゴは、ひたすらベッドの上で『高速ローリング』を繰り返していた。
パッと見、馬鹿なことをしているように見えるが――いや、確実に馬鹿に見えるが、シンゴは何も考えていない訳ではなかった。
シンゴが考えているのは、あの神社で沢谷優子に襲われた一件から、現在ここに至るまでのことだ。
――本当に、短い間に色んな経験をした。
アリスと出会い、初めて死体を見て、『死』への生々しいまでの恐怖を体感し、フレイズ一家の温かい歓迎を受け、ユリカに怒られ、森で命がけの鬼ごっこをした――。
元の世界でそのまま過ごしていたら、決して経験することのないであろうものばかりだ。
しかし、それらの中で異彩を放つことがある。それは――キサラギ・シンゴの吸血鬼化だ。
まさか首を刎ねられても再生するとは、はっきり言ってデタラメな体である。
当初は便利な右目に、傷の治りがめちゃくちゃ速い体――くらいにしか認識していなかったが、ことここに至れば、その認識は改めなければならないだろう。
何故なら、シンゴの体は文字通り――『不死身』になったのだから。
アリスが与えてくれたこの体は、ゲームで言えばチートもいいところ。ゲームバランスを崩壊させるレベルのものだ。しかも暗視能力のおまけ付きときた。
ただ残念なのが、ゲームを攻略するのに欠かせない『力』が、シンゴには欠落していることだ。
これではただ単にゲームオーバーからのリスタートの手間を省いただけにすぎない。
ようは、そんなの普通にリトライすればいいだけじゃん――である。
『攻』が皆無になる代わりに面倒くさいリスタート作業を省ける。これではあまりにも釣り合わない。
先ほどからゲームに例えているが、実際問題ゲームで例えた方がしっくりくるような状況なのだから仕方がない。違うのはセーブ機能がないくらいだろうか。
「ゲーム……そうだよ、ゲームだ!」
シンゴがいるこの世界は確かにゲームに例える方が手っ取り早いが、所謂ステータスなどは当然のことながら存在しない。故に、敵を倒せば筋力が上がるなんてこともない。
だが、しかし――、
「あるんだよな……一つだけ、俺のメインウェポンになりそうなのが!」
シンゴは天井に片手を伸ばすと、何かを捕まえるように手の平をぐっと握り、
「ズバリ――魔法!!」
最初の顔合わせこそ最悪の一言だったが、だからといって習得しないなどといった選択肢は存在しない。
シンゴもそこまで意固地ではないというか、身を持ってその威力を経験した分、魔法への憧れは強くなった。
今回の一連の騒動で確認されただけでも、礫を撃ち出すもの、風を纏わせるもの、硬質化――などといったものが目の前で展開された。正直どれも魅力的である。
「ぐ……ぐふふ」
布団をがばりと頭まで被り、胸中に溢れ出す期待と希望と少しの中二心に、ぐふぐふと気持ち悪い笑みを漏らしていたときだった。
「まだ、そんなに具合が悪いのかい……?」
「――――ッ!?」
布団の中だったためにくぐもって聞こえたが、この声の主はシンゴの予想が正しければ――、
「…………」
シンゴは恐る恐る布団から顔を出す。最初に視界に入ったのは――白と黒。
これだけ察した。シンゴは羞恥で悶えたいのを必死に堪え、何ごともなかったかのようにすっと体を起こすと、白い歯をきらりと輝かせながらサムズアップを闖入者――アリスに向け、
「なんのことかね?」
全力でシラを切ることにした。しかし、アリスは心配そうな視線をシンゴへと向けながら、その華奢な腕を伸ばすと、そっとシンゴの額に当て、
「熱は……ないみたいだね」
「…………はい、すこぶる元気でヤンス……」
滂沱の涙を流すシンゴに、アリスはおろおろと慌てながら、
「やっぱりどこか変なのかい? それにさっきの気持ち悪い声……もしかして呼吸器官が――」
「もうやめてアリスさん!?」
アリスの場合、善意百パーセントなのがまた質が悪い。
シンゴは「うおぉぉ……」と顔を覆って軽く絶望し、慌てて背中をさすってくれたアリスの優しさに再び泣いた。
ようやく落ち着きを取り戻してきたシンゴは、ため息と共にアリスを見やり、聞かねばならないことを問いかけた。つまり――、
「アリスさん、一体いつからそこに……?」
「えっと……布団の中からぐふぐふって変な声が聞こえてきた辺りから、かな」
「うっわ、超ピンポイント……」
元の世界よりも不運の度合いが強くなっているように感じ、シンゴはこの世界の神を心の中で盛大に――それはもう口汚く罵倒した。
天に向かって中指を突き立てながら連続で舌打ちするシンゴに、アリスは疑問符を浮かべながら頭をこてんと可愛らしく傾ける。しかしすぐにはっと何かを思い出した様子で、「シンゴ」と声をかけてくる。
シンゴはその声に吐息すると、諦念が宿った目でアリスの真紅の瞳を見返し、
「すんませんアリスさん。俺いま金持ってないから、口止め料は払えないっすわ」
「……ねえ、シンゴ。君はボクをなんだと思ってるのさ?」
えっ、違うんすか――と目を見開くシンゴに、アリスは肩を落とし、はぁ――と深いため息を零す。
そのまま顔を伏せて固まってしまったアリスに、シンゴはさすがにからかい過ぎたかなと反省し、冗談だと告げようと口を開こうとしたときだった。
突然アリスが「よし」と呟きながら勢いよく顔を上げた。
上げられたアリスの顔は、何やら覚悟を決めたような真剣な表情に彩られていた。
その様子を受け、シンゴは背筋を正す。アリスが何か真剣な話をこれからしようとしているのは、周りから何かと馬鹿だと言われるシンゴでもさすがに察しがついた。
己を真剣に見詰め返してくるシンゴに、アリスは何度か言葉を発しようとして言い淀むを繰り返し、口を魚のようにパクパクさせる。だが、やがて腹を括った様子で、意を決して口を開いた。
「――シンゴ、大事な話があるんだ。君の……体のことについて」
「……分かった」
頷くシンゴに、アリスは「あのとき――」と前置きし、シンゴが吸血鬼の体になった事件の詳細について語り始めた。
「ヒィースに剣で貫かれたとき、君は瀕死の状態……あのままだと一、二分もしない内に絶命しかねない状態だったんだ」
「マジ、か……」
薄々予想していたことではあったが、改めてそうだと告げられると、背筋がすぅ――と冷たくなるのを感じる。
「うん、マジだよ。すぐに治療を施そうにも、流れ出た血の量があまりにも多すぎた。正直、あの状態の君を救うのは不可能だった。――ただ、“あの方法”を除いてだけど……」
「……つまり、その方法ってのが」
「うん……君の――吸血鬼化だよ」
やはりそうだったのだ。あのときシンゴはヒィースの手によって死にかけ、そんなシンゴを救うためにアリスが吸血鬼の特性を利用した――これが事の顛末なのだ。
しかし、腑に落ちないことがあった。それは――、
「俺の体さ、吸血鬼になったって言ったけど、中途半端っていうか……何か色々と欠けてないか?」
シンゴの体は確かに吸血鬼となったのだろう。しかし、その状態というのが中途半端なのだ。驚異的な再生能力はまあよしとしても、吸血鬼特有の紅い瞳は右目のみしか発現していない。その不死身性に隠れているが、吸血鬼の特性の一つである人知を超えた怪力に至っては、「怪力」の「か」の字すらシンゴには備わっていなかった。
ちなみに現在シンゴの右目は普段の彼の瞳に戻っており、どうやらアリスと違ってオンとオフが可能のようだ。その点もこの中途半端な状態に起因しているのは間違いないだろう。
そんな中途半端――もしくは不完全な吸血鬼化を遂げた己の体に対するシンゴの疑問。しかしその疑問を投げかけられたアリスは難しい顔で少しばかり思案するように間を取るが、やがてぽつりと小さな声で――、
「……分からない」
「……は?」
目を丸くし、己の耳を疑うシンゴだったが、次にアリスが申し訳なさそうな声音で告げた言葉で、今のが決してシンゴの聞き間違いではなかったと証明された。
「分からないんだ。……そもそもボクが吸血鬼に変えたのは、君が初めてなんだ。だから君のその不完全な吸血鬼化は、もしかしたらそれで正しい状態なのかもしれないし、何か不具合が生じた結果なのかもしれない。でも……ボクは後者だと思う」
「…………」
シンゴが無言のまま視線でその先を促すと、アリスはその淡いピンクの唇をきゅっと引き結び、今にも泣きだしてしまいそうな表情で告げた。
「ボク……失敗、したんだ……」
「…………え?」
口を開けて目を丸くするシンゴの反応を受け、アリスは顔を伏せて服の裾をぎゅっと握り締めた。
そんなアリスに、シンゴは動揺を隠せないままその言葉の真意を問いかけた。
その問いかけに対し、アリスは顔を伏せたままで吸血鬼化について説明を始めた。
「まず、吸血鬼化についてなんだけど……これは誰かから教わったとかじゃなくて、そういう“体の機能”として生まれたときから理解しているものなんだ」
「それって……」
眉を寄せて理解に窮するシンゴに、アリスは「ようは呼吸みたいなものだよ」と分かりやすい例えを提示する。
「どうやって呼吸してるのか、何でそれを教わってもいないのに知っているのかなんて、普通は答えられない。それと同じように、ボクには他者を吸血鬼に変える方法が誰に教わるでもなく、最初から理解できていたんだ」
アリスは伏せていた顔を上げると、「これを見て――」と、その小さな口をあーんと開け、常人より鋭く長い犬歯を指で指し示してから口を閉じ、
「吸血鬼化は、この犬歯に通う特殊な血管から他者の体にボクの血――吸血鬼の血液を送り込んで、体の構造を一から作り変えるって方法なんだ」
「へ、へぇ……」
シンゴが興味深そうにアリスの口元を見ていると、アリスはその視線が恥ずかしかったのか、頬に少しだけ朱を差しながらふいっと顔を逸らし、
「そ、そもそも体を遺伝子レベルで組み替えるなんて、そう簡単にできるものじゃない。吸血鬼化の成功率はかなり低いと思うんだ。でも……あの状況ではこの方法に頼るしかなかった。そしてこれも最初からそうなるって知識が頭の中にあったんだけど、もし失敗した場合――吸血鬼になり損ねた者は、体が灰になって消えちゃうんだ……」
「…………ッ」
アリスの口から告げられた衝撃の事実に、シンゴは思わずごくりと生唾を飲み込む。
そんなシンゴの様子をちらりと紅い瞳で窺い見ながら、アリスは続ける。
「あのとき……君にボクの血を注入したとき、本能的に確信したんだ。失敗した――って……」
「……でも」
「うん……本来なら君の体は灰になって消えていたはずなのに、こうして不完全ではあるけど吸血鬼になって、ちゃんと生きてる。それに、ボクが失敗したって思った瞬間……“アレ”が現れたんだ」
「“アレ”……?」
アリスは首を傾げるシンゴの背後――“右肩”付近に視線を向ける。
「紅蓮の炎でできた、片側だけの“翼”だよ」
「――――!!」
アリスの告白に、シンゴの手は意識せず己の右肩へと伸ばされる。
突如シンゴの体から生じた炎の片翼。あれが、シンゴの吸血鬼化が失敗した瞬間にも現れたとアリスは言うのだ。
「そっか……!」
「――――?」
ふと、シンゴの脳裏で一つの疑問が答えを得て氷解した。
シンゴは首を傾げるアリスとの距離を詰めるように少し身を乗り出すと、
「ほら、ユリカが俺のこと『とりのおにいちゃん』って言ってじゃん? その意味がようやく分かったんだよ」
村人たちからも度々言われた「鳥」という呼称。今思い返せば、あのときあの広場には、ここの村人たちのほとんどが集まっていた。
それはつまり、その場でシンゴの体から生じたあの翼を皆が目撃していたということだ。
「……んでも、あの翼がなんだってんだ? あれも吸血鬼の特徴の一つみたいなもんじゃないのか?」
吸血鬼の逸話にも、コウモリなどに変身するものがある。なら、鳥みたいな翼が生えても不思議なことではないのでは、と考えるシンゴだったが――、
「ボクは、あんな炎の翼なんて……“知らない”」
「――え?」
もう何回驚いているのか分からないが、それほどまでにこの会話はシンゴの予想をことごとく裏切り、そして大きな衝撃を与えてくる。しかしそれも仕方ないだろう。そもそも吸血鬼のことなど、伝説や伝承に出てくるレベルの、さらにその表面くらいの知識しかシンゴは持ち合わせていないのだから。
「少なくとも、ボクにはあんな翼を出すことはできないし、見たこともない」
そう断言するアリスに、シンゴは自分の置かれた状況がどれほど特殊なものなのかをようやく――薄々ではあるが理解できてきた。
シンゴは目を閉じると眉間にしわを寄せ、人差し指をこめかみにぐりぐりさせながら、
「えっと……じゃあ、つまるところ……とりあえず俺は吸血鬼にはなれたけど、中途半端な状態。それに加え、本来は灰になるはずが何故かこうして生きてて、そこへさらに得体の知れない翼が付いてきたってこと、か?」
シンゴは片目を開くと、確認するような視線をアリスに向ける。
アリスはその視線に「うん」と頷いて答え、
「君は吸血鬼化に“失敗”しているのも関わらず“成功”もしている――いわば、矛盾した状態なんだ。でも、その矛盾が君のその中途半端な状態の原因かもしれないと、ボクは考えてるんだけど……」
「……確かに、その考えが一番妥当ではあるけど、そうなると今の俺の状態は――」
「うん、正直イレギュラーすぎて意味が分からない。分かるのは、君が中途半端ではあるけどボクと同じ吸血鬼――ううん、“半”吸血鬼になったってことくらいだよ」
「半……か」
“半”吸血鬼――確かに今のシンゴの状態を表すのにこれほど適した言葉はないだろう。
ふとここでシンゴは、吸血鬼といえば――と、その代名詞ともいえる『吸血行為』が脳裏を掠めた。
幸いと言っていいのか、今のところシンゴは吸血衝動に襲われてはいない。だが、いずれこないとも限らない。
他人の生き血を吸う――そう考えただけで、何かうすら寒いものが首裏あたりを撫でるのを感じた。
「なあ、アリス……」
「なに?」
シンゴは胸中に湧き上がる不安を吐き出すようにアリスに尋ねた。
「俺って……いずれ人から血を吸わなきゃ駄目なのかな……」
考えるだけで、自分が人間ではなくなってしまったのだと突き付けられるような気がして、シンゴは表情を曇らせる。
しかしアリスの反応はシンゴが予想していたどれとも違っていた。アリスはシンゴの問いかけに対し、きょとんと目を丸くさせると、
「別に大丈夫だと思うよ?」
「…………へ?」
気の抜けた声を上げて呆けた顔になるシンゴを見て、アリスはくすくす笑いながら言った。
「だって、ボクも血なんて一度も吸ったことないからね」
「え……それって、その……栄養不足とか禁断症状とか現れたりも――」
「しないよ」
「そう、ですか……」
ほっと息を吐くシンゴに、アリスは安心させるように優しく微笑みかけながら、
「栄養に関しても、ボクは普通に人間と同じ食事で大丈夫だよ。だから、特殊な状態とはいえシンゴを吸血鬼にしたのはボクだから、いわば“親”であるボクとそこは同じはずだと思うよ、君も」
しかしそこで言葉を切ると、アリスは再び真剣な表情を纏い直し、
「君のその不自然で矛盾した状態は、正直ボクじゃなんとも言えない。だから、君も会うべきだ――“彼ら”に」
「……それってつまり、吸血鬼に……ってことか?」
「うん」
頷くアリス。そんな彼女の提案に、シンゴは「そういえば――」と浮かび上がってきた記憶を言葉にした。
「アリス……ってさ、この世界に来た理由が自分のことを知るためだって話してたけど……やっぱ、あれって嘘じゃなくて……」
「……うん、ボクはこの世界に自分のことを知るためにやってきたんだ。君に初めて会ったあの神社でボクが言っていたのは、つまりそういうこと」
「……じゃあ、アリスは元々――」
元々この世界にいたのでは――というシンゴの考えを肯定するでも否定するでもなく、難しい顔になる。
「ボクは生まれも育ちも元の世界――地球だよ。でも、ボクのような存在は他に見たことがない。その辺りも含めて、ボクは本当のことを知りたいんだ。自分が一体、何者なのかを……ね」
「…………」
聞きたいことは他にも沢山あった。どうしてアリスはこの世界の存在を知っていて、何故あの裂け目が生じるタイミングで、まるで予感していたかのように現れたのか。
本当に聞きたいことはいっぱいだ。そこには当然アリスの過去だって含まれる。
だけど――、
「分かった。俺もアリスが自分のことを知るための手伝いをする。いや、させて欲しい。だってさ、アリスはイチゴのこと一緒になって探してくれるって言っただろ? だったら俺にアリスの手伝いをする権利はあると思うし、そうするのが義務だと思う」
「――――ッ」
少し驚いたように目を見開いているアリス。そんな彼女の反応にシンゴは思わずといった様子で苦笑を零し、少しおどけ気味に告げる。
「まだ足りないけど、これで少しは対等な関係になれそうだしな! ぶっちゃけ俺の負い目が軽減されるのが一番嬉しい!」
以前もそう決めたように、シンゴはアリスが今回のように自分からアリス・リーベのことを話してくれるの待つ。過去とは、おいそれと他人に提示できるものではない。それは人それぞれが持つ優しくて温かい記憶であり、辛くて悲しい記憶で、他人には推し量ることのできない、個々人が持つ重みなのだから。
己のことをもっと知ってもらいたい。この人なら己の時間を共有してもいい。そうアリスに思ってもらえるように、これから頑張っていけばいいのだ。だから、今は――、
「これからもよろしくな――アリス!」
にかっと歯を見せて笑いながら、手を差し出す。
アリスはしばしきょとんと固まっていたが、やがてその視線を目の前に差し出された手に落とすと――、
「――うん!」
弾けるような笑みを浮かべて、その手を握り返した――。
――――――――――――――――――――
「みんなに話がある――聞いてくれ」
アリスに吸血鬼化のことについて説明してもらったあと、すっかり元気になったユリカがあのときの焼き直しのように勢いよく扉を開け、晩御飯の時刻を告げた。
何やら完全に懐かれてしまったらしく、シンゴはユリカを腰にぶら下げながら階段を下りた。そして食卓に着いてしばらく経ったときだった。
突然、箸をばしっとテーブルに置いたカズが、真剣な面持ちで全員を見渡してそう口を開いたのだ。
皆もその真剣な様子を受け箸を置くと、シンゴもそれに倣って魚をほじくる手を止めてカズへ顔を向ける。
カズは己に皆の意識が集まったのを確認すると、強い決意を瞳に宿しながら告げた。
「オレも、シンゴとアリスに同伴する形で、王都に――『トランセル』に行こうと思う」
「…………はあッ!?」
カズの突然の決意表明に、思わずシンゴが驚きの声を上げながら立ち上がる。
しかし自分以外は誰も驚いてはおらず、シンゴはなにごともなかったかのように、素知らぬ顔で無言のまま着席した。
ふと何かくぐもった声が聞こえ、隣へ目だけを動かす。すると何やら隣でアリスが俯いて震えている。どうやら今のシンゴの一連の行動が彼女のツボに入ったらしい。
今すぐ叫んで手で顔を覆いたい衝動を必死に堪え、アリスが「ご、ごめん……」と顔を赤くしながら謝罪したのを見届け、カズは苦笑しながら再び口を開く。
「今回シンゴとアリスには、でかい恩をつくっちまったからな。それに同じ妹を持つ兄として、今度はこっちが恩を返したい。だからよ――」
カズはシンゴに視線を向けると、
「お前の妹探しを手伝いてぇ。オレも一緒に連れて行ってくれねぇか……?」
ちらりと周りの面々を窺ってみるが、どうやらシンゴが部屋でごろごろしている間にカズは皆には既に話しを通していたらしい。そして彼らの反応を見る限り、了承は取れている様子。残るは当事者であるシンゴの返答のみということだろう。
別に一緒に来てくれるというなら彼ほど心強い者はいないだろう。
しかしシンゴは「えっと……」と頬を掻きながら、
「俺……そんな大したことしてないんだけど。ほとんど森の中を走り回ってただけで、今回の事件を解決したのはアリスとカズだったような……」
「なんだ……そんなことか」
シンゴの謙遜とも取れる言葉を受け、カズはにやりと口元に笑みを浮かべると、
「お前がいてくれなきゃ、ユリカがどうなってたか分からねぇ。縛られてた縄を解いて、動けないユリカを背負って森の中を歩いてくれたって話じゃねぇか」
「ああ……まあ……」
縄を解いたのはシンゴではなく、あの不思議な白い少女だったわけで、シンゴの返答は曖昧なものになってしまう。
そんなシンゴに、カズは「それとも――」と、その笑みを少し悪いものに変え、
「道中でもし『魔物』にでも遭遇したらどうするつもりだ?」
「は? 魔物!?」
ここにきて新たな物騒な単語の登場に、シンゴは頬を引き攣らせながら目を剥く。
そんなシンゴの様子に「魔物も知らねぇのか……」と驚きつつも、カズは『魔物』について軽く説明を挟む。
「『魔物』ってのは、文字通り“魔なる物”って意味だ。まぁようするに、おっかねぇ化けもんのことだ」
「……マジか」
「ああ、マジだ。確かにアリスがいりゃ、ある程度はなんとかなるだろうが、それでも群れてる奴らだった場合、シンゴ。お前、絶対に食わ――」
「これからよろしくな、カズ!」
顔を引き攣らせながら手を差し出すシンゴに、カズはにやりと笑ってその手を握り返すと、
「ああ、こっちこそよろしく頼む!」
まんまとカズの策略にはめられた気がするが、おそらく『魔物』という存在は実在するのだろう。であれば、カズのように強い奴が付いてきてくれるのは大変ありがたい。
それに、イチゴの捜索にも協力してくれるみたいなので、断る理由も見当たらなかった。
――こうして、カルド・フレイズの同行が決定した。
――――――――――――――――――――
――翌朝。
肌を撫でる朝の空気はひんやりと冷たく、頭の芯に残っていた眠気を完全に吹き飛ばしてくれる。
キサラギ・シンゴはその場でぐっと背伸びをすると、青く澄み渡った空を仰いだ。
「待ってろよ、イチゴ――!」
この澄んだ空の下のどこかにいる妹を意識し、シンゴは改めて決意を口にする。
必ずイチゴを探し出し、元の世界に帰る方法を見付ける。その道のりは決して楽なものではないだろう。だが、それは諦める理由にはならない。
「そうだね……必ずイチゴを見付け出そう。ボクも彼女と話してみたいしね」
「うお――ッ!?」
真横から同意するようにかけられた言葉に驚き、その場で飛び上がる。
隣ではいつの間にそこにいたのか、アリスがシンゴの奇行に対し不思議そうな顔をしている。
神出鬼没というか、まるで意識の隙間にするりと入り込んでくるようなアリスの行動に、シンゴはうるさく鼓動する心臓の上に手を置き、ほっと吐息する。
そしてアリスの後ろを見れば、荷物とあの錆びた大剣を背負ったカズが見送りに来たケイナ、ジース、そしてユリカと別れの挨拶をしている。
「――っと、そうだそうだ。危うく忘れるとこだった」
「――? どうしたんだい? 何か忘れ物でも――」
「ああ、忘れ物――というより、やり損ねたことが」
アリスの問いかけにそう答え、シンゴは足をフレイズ一家の元――もっと言えば、ユリカ・フレイズの元へと向ける。
シンゴはユリカの前まで来ると、少し腰を落としてその顔をぐいっと突き出した。
「ユリカ! あんとき川でやり損ねたやつ、頼む!」
「わかった!」
ユリカはシンゴの言わんとすることを即座に理解。
何をするのだと首を傾げる面々の前で、その手をぐっと引き絞り――、
「…………」
ふと途中でその動きを止め、一瞬だけ何かを考える素振りを見せる。
すると、ユリカはにこっと笑い、不審げに己を見ていたシンゴに「目、とじて――」と促し、拳をぎゅっと握り締めた。
「お、おう……!」
「――――」
シンゴは言われるまま目をきつく閉じ、来たるべく衝撃に備えた。
おそらくかなりキツイのが来るだろう。痛いのは嫌だが、これはちゃんとしたケジメであり、これから先に進むための一種の儀式である。
しかし、頬を抉るような鉄拳が飛んでくることはなく、代わりに頬には柔らかくも温かい何かが少しだけ触れた。
「――え?」
想像していたものとは全く違った感触に、シンゴは思わず目を開ける。
すると眼前には、にこにこと笑みを浮かべるユリカ。そんなユリカとシンゴを微笑ましげに見詰めるケイナとジース。そしてその隣には――鬼がいた。
「シンゴ、お前はここでオレが殺す。だが安心しろ、遺骨はオレが責任もってお前の妹に届けてやる」
「え、ちょっ、何故に!?」
今にも大剣で斬りかかってきかねないカズに、シンゴは何故このような事態になったのかを素早く思案する。視線をさまよわせながら、先ほど頬に触れた感触について考え――、
「あ」
シンゴの視線がユリカの小ぶりな唇で止まる。
まさか――という感慨と共に、尋常ではない冷や汗が噴き出す。
そんなシンゴの視線を感じたのか、ユリカはぺろっと悪戯が成功したとでも言わんばかりに、小さく舌を出した。
「な!? ユリカ、おま――」
「オイ……覚悟はいいな?」
「よくねえよ!?」
何やらカズから恐ろしい黒いオーラが湧き出してきているように感じ、シンゴは咄嗟に蒼白な顔を背後の救世主――アリスへと向けた。
「あ、アリスさん助け――」
振り向いた先にいたアリスは、聖母ように優しく微笑み――、
「“私”はアリスなどではありませんよ?」
「その嘘はかなり無理あるだろ!?」
一人称まで変えて他人のフリをするアリスは、そのまま顔をふいっと背けてしまう。
最後の希望だったアリスに見放されて絶望するシンゴの肩に、ぽん――と鬼の手が置かれた。
「ちょ、待てカズ……ユリカだってそういうつもりじゃなくて、というか確信犯――ま、やめ、ぎゃあああああああああああああああああああああああああああ――」
――早朝の『リジオン』の村に絶叫が木霊する。
奇しくもシンゴの望んだ“ケジメ”は、頼んだ相手である少女の裏切りにより、その兄の手でつけられることとなった。
そんな悲痛な絶叫をバックに、アリス・リーベは「ふん」と鼻を鳴らすと空を仰いだ。
少女はまだ見ぬ地への期待に高鳴る胸の上にそっと手を置くと、その口元を淡い笑みに彩らせるのだった――。