第4章:24 『二日目の始まり』
――囚われの身となって、二日目。
顔面に走った強烈な衝撃によって、キサラギ・シンゴの朝は始まった。
衝撃の正体は、イチゴの放った肘打ちである。シンゴの手が胸元をまさぐってきたというのが、暴挙に及んだイチゴの言い分だ。
しかし生憎、シンゴにそのような記憶もなければ、そもそも妹相手にそんな事をする動機がない。――というシンゴの反論に対し、守るように自分の身体を抱いたイチゴは、
「いい加減、その寝相の悪さを自覚して」
と、底冷えするような声音で、軽蔑の眼差しを向けてきた。
最悪の起床となった二日目の朝だったが、一階にある食堂に下りてきたシンゴを待っていたのは、見た事のない食材で作られた豪華な朝食だった。
空腹が手伝った事もあり、どれもおいしく感じられたのは確かだ。普段の調子なら、思わず感嘆の吐息を漏らしていたに違いない。しかし現在、シンゴは不機嫌な顔でスプーンを奥歯で噛み噛みし、睨むように目を細めていた。
と、いうのも――、
「あ! リノ、また野菜ばっか残して! 好き嫌いしない!」
「野菜、我の敵。食らうくらいなら、我、自決する」
「バカなこと言ってないで、ちゃんと食べる! じゃないと、もう口利いてあげないよ! それでもいいの!?」
「――――」
「都合が悪くなっても黙らない!」
そっぽを向き、むっと口を固く閉ざすリノアに、隣の席のイチゴが無理やり野菜を食べさせようと奮闘する光景が、シンゴの眼前に展開されていた。
そんな二人の後ろでは、数人の使用人と共に、ガルベルトが控えている。その彼の口元が微笑ましそうに緩んで見えるのは、シンゴの目の錯覚ではないだろう。
「……ふう」
その、兄として決して見過ごす事の出来ない光景を前に、シンゴは口元をナプキンで拭うと小さく吐息。そしてゆっくり目を開けると、ぼそりと呟いた。
「――よろしい、ならば戦争だ」
「急になに物騒なこと口走ってんの、お兄ちゃん? ……もしかして、再発した?」
「イチゴの兄、そういうお年頃?」
シンゴの発した言葉を聞き付け、二人が揃って不名誉な病気を疑ってきた。
確かに、セリフの選択を間違ってしまった自覚はある。ただ、それほどまでに目の前の光景が衝撃的だったのだから、仕方ないだろうとシンゴは心の中で言い訳。
遅れてやってきた後悔と羞恥を咳払いで誤魔化し、シンゴは腕を組むと、見下ろすような角度でリノアを睨み――、
「おうこら。まずは兄である俺の了承を得るのが道理だろ? ――まあどのみち、了承なんざ絶対やらねえけどな!」
「――?」
「あー、リノ。あれはほっといていいから。……というか、お願いだからほっといて」
首を傾げるリノアの横で、イチゴが恥ずかしそうに顔を覆う。
そんなイチゴの反応を余所に、シンゴはリノアに向けて「がるる」と牙を剥き、威嚇のダメ押しも欠かさない。
そうやって、シンゴが妹に付く悪い虫の駆除に勤しんでいると、顔を覆って震えていたイチゴがゆっくりと顔を上げた。手の平の下から覗いた眼光は、それはもう睨み殺さんばかりの凄味を帯びていて――、
「それ以上やったら、今後お兄ちゃんのことは『シンゴさん』って呼ぶ」
「リノア。今後とも、イチゴのよき友でいてやってくれ」
「――? 無論、言われなくとも」
シンゴの手の平を返すような言葉に、リノアは頭の上に疑問符を浮かべつつも快い返事を返してきた。
ちらりと窺うと、イチゴは不満げな様子で眉間に皺を刻んでいたが、どうやらこれ以上のお咎めはない様子だ。
その事にホッと安堵して、シンゴは無色透明に透き通ったスープを口へ運ぶ。
改めて、そのうまさに満足の吐息をこぼすと、考え込むようにスープの湯気を凝視して硬直。やがて意を決するように腹の下に力を入れ、努めて親しげな笑み浮かべて隣を向いた。
「このスープ、めちゃくちゃうめえよな!」
「――――」
現在この朝食の席には、シンゴの他に、イチゴとリノア、そしてもう一人いる。
それが、シンゴの隣で黙々と朝食を口に運んでいる少女――アリスだ。
知っての通り、現在シンゴはアリスと些か険悪な関係にある。ただ、シンゴには微塵もそんな感情はなく、アリスから一方的に避けられているというのが正しい。
「えっと……アリスって確か、甘い物好きだったよな! よかったら、俺の分のデザートも食う?」
「――――」
七色の果実が乗せられた皿を掲げてみせるシンゴだったが、アリスからの返答はなし。しつこく目の前に皿を掲げ続けていると、ふいっと顔を背けられた。
取り付く島もないとはこの事か。がっくりと肩を落とすシンゴに、イチゴから嘆くような深いため息が落とされる。
「――ごちそうさまでした」
「あ……」
撃沈はしたものの、その後もめげずに話しかけていたシンゴだったが、アリスはそれら全てを黙殺。
やがて朝食を食べ終えたアリスは席を立つと、シンゴには一瞥もくれる事無く食堂から退出して行った。
「……お兄ちゃん、不器用すぎ」
「…………」
イチゴのその辛口の評価に対し、呆然とアリスの背中を見送るしかなかったシンゴは、何も反論する事が出来なかった。
――――――――――――――――――――
「失敗した……」
シンゴは顔を覆い、気落ちした声で嘆くように呟いた。
現在シンゴは、朝食での失敗を引きずってふらふらとしていた際に偶然発見した中庭、そこにあった木製のベンチに深く腰掛けていた。
綺麗に整えられた芝生に、お茶を楽しむ為の白い丸テーブル、中央にはレンガで組まれた井戸が見える。
ベンチの脇には木が生えており、その影が直射日光を凌げてほどよく涼しい。
とても落ち着ける場所、というのがこの中庭に対するシンゴの感想だ。
「――よし」
一息に腹に力を込め、背もたれにだらしなく預けていた背中を持ち上げる。
アリスとの一件を引きずるのはここまでにして、今はやるべき事に早急に取りかからなければならない。
両手で頬を叩いて意識を切り替えると、シンゴは腕を組んで思考に集中する。
「まずは、今後の行動方針だな……」
目的は決まっているが、そこに至る為にどういった道順を辿ればいいのか、それが現段階では全く定まっていない。
こんな初歩の段階で躓いているようでは、一週間などあっという間に過ぎ去ってしまう。とはいえ、焦りは禁物だ。ここでじっくりと、今後の行動方針を固めてしまうのが理想――なのだが。
「やっぱり俺、こういうのガチで向いてねえんだよな……」
嘆くように呟き、シンゴは深々としたため息を吐き出した。
昨夜、イチゴに賢くなったと言われはしたが、やはり頭を使った作業は依然として苦手分野なのだ。
『――ならば、二人ならどうだ?』
「――!」
己の頭の悪さに頭を悩ますという本末転倒な自己嫌悪に陥っていると、不意に頭の中で『声』が響いた。
その『声』にシンゴはハッとなり、指をパチンと鳴らして破顔すると、
「そうか、俺にはお前がいたな――ベルフ!」
声を掛けてきたのは、シンゴの中に居座る半身のみの炎鳥――ベルフだ。
確かにベルフは、口調や言動、その性格からして博識なイメージがある。そのベルフが相談役となってくれるのであれば、非常に心強い味方だ。
『まずは、この一週間でお前が成さなければならない目的の確認だ』
「えっと……」
『口に出すのは避けた方がいい。どこで誰が聞いているか分からないからな』
成すべき目的、それを口にして列挙しようとした途端、ベルフに遮られた。
出鼻を挫かれてどもるシンゴだったが、ベルフの言い分はごもっともだ。こんな凡ミスで計画が頓挫すれば、それこそ笑えない。
しかしそうは言っても、口に出さねば話し合う事も――。
「あ、そっか!」
『思い出したか?』
ポンと手を打つシンゴが思い出したのは、昨夜のベルフとの会話だ。状況に流されて記憶の底に埋没していた内容だが、今の流れで掘り出す事が出来た。
その掘り当てた記憶とは、即ち――、
「――念話、だよな」
『そうだ』
シンゴの確認する声に、ベルフが頭の中で相槌を打つ。
念話――つまりそれは、誰にも聞かれる事無く、秘密裏に意思の疎通が可能という事だ。この状況では、まさに打って付けのスキルと言える。
「こ、こうか……?」
シンゴは目を固く瞑ると、頭の中に強く言葉をイメージした。
試しにシンゴが思い浮かべた言葉、それが上手く伝われば、ベルフから何かしらリアクションがあるはずだが――。
『……待て。なんだ、その、奇妙かつ長大な呪文は。最初の『じゅげむ』の以外ほぼ聞き取れなかったぞ?』
「うし、成功!」
ベルフの困惑する声を聞いて、シンゴは会心の笑みを浮かべてガッツポーズ。
シンゴが頭の中で唱えた『じゅげむ』は、冒頭部分から余すことなくしっかりとベルフに伝わったようだ。
『んで、目的の再確認だったよな?』
『……ああ』
さっそく念話で話しかけるシンゴに、ベルフは先ほどの『じゅげむ』の困惑が抜け切っていない様子で応じる。
そんなベルフに苦笑してから、シンゴは『んーと』としばし思考に時間を割き――、
『大まかに分けると、二つ……いや、三つか?』
『この城から脱出する為に、吸血鬼と交渉する。その交渉に必要な情報の入手が一つ目。そして、交渉に際して高確率で起こり得る口封じ、それに対する防衛手段の確立が二つ目。最後に、三つ目は……』
「――アリスとの、仲直りだ」
分かりやすく成すべき目的を整理してくれたベルフ、そんな彼が詰まった三つ目、それをシンゴは口に出して告げた。
頭の中で言葉を交わす念話、その普段とは違った会話の在り方に、うっかりしてしまったというのもある。しかしそれ以上に、意気込み過ぎたのが原因だ。
どうやら朝食時の失敗を、シンゴは自分が思っている以上に引きずっているらしい。
『……本当に、それが正解なのだろうか』
「それは――『それは、どういう意味だよ?』
口で言いかけ、シンゴは寸前で念話に切り替えてベルフに問い返す。それを受け、ベルフは『いや』と前置きを入れてから、一瞬の沈黙を挟むと――、
『アリス・リーベは、吸血鬼の事を……己自身の事を知る為にここまでやって来た。しかしその本質は、寂しさにあったのではないかと私は思うのだ』
『……寂しさ?』
『ああ。私はアリス・リーベの過去を知る訳ではないが、お前の元いた世界では、吸血鬼など伝承の存在だったのだろう? ならばそれは、アリス・リーベはたった独り……言ってしまえば、世界の異分子のような存在だったと言える』
『それは……』
確かに、シンゴはアリスと出会うまで、本物の吸血鬼になど会った事はない。そしてそれはおそらく、他の全人類も共通のはずだ。
何故ならアリスは、元々はこの世界の住人だからだ。発祥がシンゴの世界でないのなら、吸血鬼という存在は、アリスという例外以外は存在し得ない。
だとしたら、アリスは自分が吸血鬼だと自覚した瞬間、一体どれほどの孤独を味わったのだろうか。
『そこから吸血鬼の事が知りたい、自分の事が知りたいと思っても不思議じゃない……そう、お前は言いたいのか?』
『そうだ』
「……だったら」
――だったら、同族がいるこの城で暮らす事こそが、アリスにとっての本当の幸せなのではないだろうか。
『あくまでこれは、私の勝手な憶測に過ぎない。どうするかは、この一週間……厳密には今日を含めた六日間の中で、お前自身が決める事だ。私の先の憶測は、判断材料の一つとして使って欲しい。くれぐれも真には受けるな。――本当の意味での正解など、どこにもないのだから』
「…………分かった」
ベルフの言葉を噛み締めるように、シンゴは固く閉じていた目を薄く開けると、神妙な面持ちで頷いた。
この件に関して答えを出す為には、そもそも仲直りする為にも、やはりアリスとは一度ちゃんと話し合わなければならないだろう。
「無策で挑んでもさっきの二の舞になるだけだし、それまでにちゃんと何か考えておかねえとな……」
『それも大事だが、シンゴ。今は目先の問題を片付けるのが先決だ』
『ああ、分かってる。……つっても、具体的にどうするよ?』
改めて、シンゴが取り組まなければならない三つの課題は理解した。しかし、その解き方――公式については依然としてさっぱりだ。
何かしら目星があれば、それに絞って行動できるが、残念ながらそんな都合のいいヒントは一つもない。
『と、なると……』
『しらみ潰し、だな』
「やっぱ、そうなんのか……」
念話の呟きに対しベルフにそう結ばれ、シンゴは天を仰いでため息を吐いた。
この限られた時間の中でそれだけは避けたかったが、方法がこれしかないのであれば、シンゴに選択の余地は残されていない。
「……まあ、しょうがねえか」
自分に言い聞かせるように呟き、シンゴは切り替えるように両手で頬を張った。
鋭い痛みで一瞬、頭の中が白くなる。そうして脳内をリセットしたシンゴは、「よし!」と腹に力を込めて上体を起こし、
「上等だ……やってやるよ、総当たり!」
気合いを入れるシンゴに、ベルフからも『ああ』と賛同の声が上がる。
ただ、一言で総当たりと言っても、やはりある程度は調べる対象を絞らなければ効率も悪くなるし、なにより時間が足りない。
しかしその点に関しては、頼りになる相棒が助言をくれた。
『総当たりの対象は、この城の内部。――そして、吸血鬼だ』
『吸血鬼……?』
城の内部をくまなく調べるという案に関しては、ゲームなどで言うところのダンジョン探索に当てはめればすんなりと理解出来る。しかし、後者に関してはいまいちピンとこない。
困惑に首をひねるシンゴに、ベルフは『簡単だ』と苦笑をこぼし、
『ようは、聞き込みによる情報収集だ』
「……ああ、そういう事な」
イベント進行に必要なヒント探し、これもゲームに当てはめれば、NPCに聞き込みをして情報を入手する事は定番中の定番である。
整理すると、城内の探索と吸血鬼に対する聞き込み、この二つを総当たりで行う事が、この城からの脱出という目的、その達成に必要なプロセスという訳だ。
『そうなると、城内の探索は夜中にやった方がいいか。聞き込みの方は会話の中にさりげなく探りを混ぜればどうにか誤魔化せるけど、さすがに城の中を堂々と調べ回ってるのを見られちゃ、どうやっても言い訳のしようがねえしな』
『ならば、昼間は吸血鬼に対する聞き込みに専念。夜は城の中の探索。この二つで得た情報から、交渉に使えそうなものと口封じ対策になりそうなものを取捨選択する。……方針としては、こういう形でどうだ?』
「……ん、おっけ! それで行くか!」
しばし考え込んだ後、手の平に拳を打ち付けて、ベルフのまとめてくれた総当たりの行動方針をシンゴが威勢よく採用した――その、直後だ。
「どこへ行くってー?」
「――ッ!?」
その声は、シンゴのすぐ真横から発せられた。
ぎょっとして顔を隣に向けると、いつ間にかそこには、美しい銀髪を右サイドのみで括った一人の少女が座っていた。
こちらを見る少女の目は紅く、抑え切れない好奇心を宿してキラキラと輝いている。
双子の吸血鬼姉妹、その姉の方――ラミアだ。
「ラミアお姉さま。先ほどからぶつぶつと意味の分からない独り言を呟きまくっているこの不気味な人とは、あまり喋らない方がいいと思います。レミア、何か身の危険を感じます」
今度は反対側からも声が聞こえ、シンゴはまたもぎょっとして振り返る。
そこには、銀髪を左サイドのみで括った無表情な少女――ラミアの双子の妹、レミアが自分の身体を抱くようにして、シンゴから若干身を引きながら座っていた。
「――ッ」
まるで鏡合わせのように、いつの間にか両隣を吸血鬼の双子に占拠されており、シンゴは戦慄と驚愕に息を呑むのだった。