第4章:23 『一日目の終わり』
「――その後は、まあ、リノの大事な客人って扱いで、この城に住まわせてもらってるってわけ」
この世界に迷い込んでから、一体どうやってこの城に招かれるに至ったのか、その経緯について語り終えたイチゴが、小さく吐息してそう締め括る。
当初シンゴは、イチゴは自分とは全く別の場所に転移してしまったのでは、と考えていたのだが、今の話を聞く限りでは、どうやらイチゴもシンゴと同じで、リジオンの村近くに転移していたようだ。
「それに、イチゴを連れて行こうとしたっていうその男……」
イチゴの話に出てきた男、その死に様は、この世界に来てシンゴが初めて目にしたあの死体の状態と一致する。おそらく、ヒィース達の弟――ヨォークと呼ばれていた男で間違いないだろう。
まさか、あれをやったのがリノアだったとは、運命の悪戯を感じずにはいられない。
「たしかリノアは、家出した先でって話だったけど、もしも偶然その場面に遭遇してなかったら……」
イチゴはそのまま、どこかへ連れ去られてしまっていただろう。
それにヨォークが死ななければ、ヒィース達はリジオンの村にやっては来なかったはずだ。そうなれば必然、ヒィースの手でシンゴが命を落とす事もなく、吸血鬼化する事もなかった。
つまり、今とは全く違った今が存在したかもしれないのだ。
しかし、それが一概にいいとは言えない。
あの瞬間、あの状況だったからこそ、シンゴは吸血鬼化に失敗しながらも成功し、不死身の権威を手に入れられたのだ。
右も左も分からず、文化も人の思想も違うこの世界でイチゴを探し続ける限り、シンゴは必ずどこかで命を落とした事だろう。そうなった場合、吸血鬼の肉体と『怠惰』の権威を獲得できたかは怪しいものだ。
ともあれ――、
「お前もお前で、凄い事になってたんだな。……つうか、よくその状況を切り抜けられたな。普通、目の前で人が殺されて、その殺した相手に友達になってくださいなんて言えねえし、そもそもそんな発想自体出てねえぞ?」
「あ、あの時はただ必死で……とにかく、気に入られれば危害は加えられないかなって、たぶんそう思って……」
「たぶんって……」
自分のした事に対して曖昧な理由付けをするイチゴに、シンゴは呆れ半分、感心半分の心境だ。
しかし実際、それでその局面を切り抜けたのだから、イチゴはシンゴが思っているより大物で、肝も据わっているのかもしれない。
「……どうした、青い顔して?」
窓から差し込む月明かりに照らされて、イチゴの横顔が青ざめている事に気付き、シンゴは慌てて声を掛けた。
するとイチゴは、シンゴの服を摘まむように掴んできて、
「……ちょっと、あの時のトラウマが、ね」
「――?」
首をひねるシンゴから視線を逸らし、イチゴは自嘲するように弱々しい笑みを浮かべると、どこか達観したような目をして尋ねてきた。
「ねえ、お兄ちゃん。パラシュートなしのスカイダイビングって、やった事ある?」
「……は? お前、急に何言って……ぁ」
イチゴの問いかけに眉を寄せるシンゴだったが、ふと記憶にあった出来事とイチゴの今の話が繋がり、小さく声を上げた。
そもそも、イチゴが北の果てにいると教えてくれたのは、王家直属近衛騎士団副団長のシャルナ・バレンシールだ。
そして彼女がイチゴの所在を知る事となった経緯、その話の内容はたしか――、
「血まみれのお前が、急に空から落ちてきたって……」
「え!? お兄ちゃんもしかして、あの金色のお姉さんのこと知ってるの!?」
「あ? あー、まあな。腕をぶった切られた挙句、切り口をこんがり焼かれた間柄だ」
「……なに言ってんの? あのお姉さんがそんな物騒な真似するはずないじゃん」
シンゴの言っている事は紛れもない事実なのだが、イチゴはシンゴが嘘を吐いていると思っているらしく、疑念の眼差しだ。
確かにイチゴからしてみれば、シャルナは命の恩人なのかもしれない。だが、実際に彼女に会ってしばし接すれば、シンゴの述べた事が何一つ偽りでないと分かってくれるだろう。
「まあ、いずれトランセルには寄ろうって考えてるから、その時に礼でも言って現実に失望すりゃいいさ」
「……なんか、物凄く不穏なんだけど?」
「それは実際に会ってからのお楽しみって事で。……それより、血まみれってお前、さっきの話でそんな情報全く出てこなかったけど?」
シャルナの語ったイチゴと、イチゴが語ったイチゴ自身の状態、その二つの齟齬についてシンゴは言及した。
するとイチゴは、「あ、あー……」と気まずそうに視線を逸らし、
「実は、私も後で気付いたんだけど、どうやらあの男の人の返り血を盛大に浴びてたみたいなんだよね。でも、正直あの時の記憶は結構曖昧な部分も多くて、さっきの話は省略したり勝手な補完を付け加えたりって具合に、実際に起きた事とは食い違ってるところが多々あるというか……」
歯切れ悪く白状するイチゴだが、それも仕方のない事だ。
いきなり非日常に放り込まれ、あれだけの対応が出来た方が凄いのだ。少しくらい記憶が混濁していようと、それを責める事は出来ないだろう。
「俺だったらたぶん、記憶を丸々飛ばす自信があるしな」
「それ、自慢げに言う事じゃないからね?」
すかさずツッコミを入れてくるイチゴに、シンゴは苦笑いで応じた。
脳裏に過るのは、今までに経験してきた様々な死と、その死には及ばずとも、堪えきれないほどの苦痛を被った忌々しい記憶たちだ。
先の冗談のように、本当に全て忘れる事が出来れば、どれほど幸せだろうか。
「……っ」
「ど、どうしたの?」
思わず身震いするシンゴに、イチゴが心配そうな声を掛けてくる。が、シンゴはすぐにかぶりを振り、苦労して過去から視線を逸らした。
そして、気丈な笑みをまとい、肩を竦めながら自分の腰辺りを指差し、
「ちょっと、息子の位置が気になっただけ」
「……へえ、そうなんだ。じゃあ、私が手伝ってあげようか?」
「じ、自分で出来るからいいっす……ッ」
笑顔で協力を申し出てくるイチゴだが、その目は笑っておらず、声には何の感情も込もっていなかった。
身の危険を感じ、丁重にお断りしてから、シンゴは咳払いを挟んで話を本筋へと戻す。
「んで、どうして落っこちたんだ?」
「……その、私が暴れちゃったのが原因で」
空へと連れ去られたイチゴは恐怖のあまり暴れてしまい、リノアの手から滑り落ちて、シャルナに受け止められたらしい。
そしてその後、シャルナが目を離した隙に再びリノアによって連れ去られ、ここへやって来たのだと言う。
「お前が空から落ちてきた経緯は今ので分かった。でも、一個だけ腑に落ちない事があんだよな」
「え?」
「いや、ほら、『選別の境界』の件。お前って人間だろ? なのに、こうして神域の中に入れてんじゃん。そこんとこ、一体どうなってのかなって」
イチゴの件については例外だと、ガルベルトはそう言っていた。
話しを聞く限りでは、イレナの『ゼロ・シフト』も十分に例外の範疇だが、イチゴは魔法など使えない。そもそも、兄であるシンゴに魔法の素質が皆無なのだから、当然である。
しかし、それでもイチゴはここにいる。その例外を知る事が出来れば、今後この城を抜け出した後に待ち構える『選別の境界』、その突破に使えるかもしれない。
そんな思惑を裏に潜ませたシンゴの問いかけ、その隠しきれない期待を向けられたイチゴは、「ああ」と声を漏らすと、
「なんかね、リノの黒い翼がぐわーって広がって、私を丸ごと包んだの。そしたらもう、この神域に入ってた」
「…………」
横になっている為か大きなジェスチャーが難しいらしく、イチゴは顔の前で両手を小さく広げて『ぐわー』をなんとか表現する。しかしそれを聞いたシンゴはというと、梅干しを食べたような酸っぱい反応だった。
今の説明で例外の正体を看破出来る者がいれば、それは一握りの天才だけだろう。そして悲しいかな、キサラギ・シンゴは『天才』というワードとは無縁なのである。
「あ。そういえばリノ、内容物と誤認させたとか言ってたよ?」
「最初からそう言えや」
「うっ……」
肝心肝要な情報を遅れて提示した妹に、兄の容赦ないツッコミが炸裂。こればかりは言い返せないと思ったのか、イチゴが気まずげに目を逸らす。
普段はこの妹に責められる事の多いシンゴだが、今回は珍しく立場が逆転した。この優越感をもう少し楽しみたいのが本音だが、今は目先の問題解決の方が先決だ。
「内容物って事は、つまり、食った物って意味だよな? 吸血鬼の腹の中に収まったもんは、それはもう吸血鬼の身体の一部だろって事か。んで、リノアはそれを疑似的に再現した、と。……賢いんだか、脳筋なんだか、判断に苦しむな」
「そういうお兄ちゃんは、なんていうか……ちょっとだけ賢くなった?」
「お兄ちゃんのガラスのハートを引っ掻いて、そんなに楽しいかい? 我が妹よ」
「そ、そんなつもりじゃないんだけど……なんか、ごめん」
素直に非を認めて謝罪してくるイチゴだが、それが深刻な追撃となっている事に彼女は気付いていない。
とはいえ、イチゴの指摘もあながち間違いではないのかもしれない。
というのも、シンゴはこの世界にやって来てから、幾重もの死線を経験している。それこそ、その一線を文字通り幾度も踏み越えて、だ。
そんな経験をしていれば、それらから逃れる術を探そうとするようになるのは、至極自然な事だろう。
――考えること。
それが大事だと、最近のシンゴは感じ始めている。
難局を乗り越える為にはどうすればいいのか、そもそもそんな局面に遭遇、発展しない為にはどう立ち回ればいいのか。観察し、思考し、取捨選択を徹底する。
そう心がけていれば、元がバカのシンゴだ。最も身近にいたイチゴがその変化を感じ取れるくらいには、成長していても不思議ではない。
「まあ、今のところそれが功を成した事は一度もねえけどな」
自嘲するように肩を竦め、シンゴはこの思考に区切りを付ける。
そんな事をしている間に、先ほど寝たにも拘わらず、再び睡魔がゆっくりと頭の芯を侵食してきた。
その抗い難い欲求に身を委ねる前に、最後に一つだけ、イチゴに確認しておきたい事があった。
それは――、
「――なあ、イチゴ。最初は打算だったんだろうけど、今はどうだ?」
「……リノの事?」
「ああ。そうやってあいつを愛称で呼ぶくらいには、もう本当の友達になってんだろ?」
仮初の友情が、本物になるくらいには、イチゴがこの城に滞在した期間は決して短いものではない。
そんなシンゴの問いかけに、イチゴはその口元を笑みで彩ると、無言で頷いた。
それを受け、シンゴは次に言おうとしていた言葉を喉元で躊躇させる。が、こればかりは確認しておかなければならない。
意を決し、とどめていたその言葉を吐き出す。
「その友達との別れを、お前は許容できるか?」
「――っ」
シンゴの放った言葉に、イチゴが息を呑んで目を見開いた。
リノアとの別れ、それはこの城から、最終的にはこの世界からの脱出を目的に掲げる以上、避けては通れない道だ。
意地悪な質問をしている自覚はある。きっと、イチゴの答えに拘わらず、シンゴはこの城からの脱出を諦めないつもりでいるのだから。
「……きっと、ううん。絶対に、辛いと思う」
儚げな笑みと共に、イチゴがそう切り出した。
その声は弱々しく、悲哀に満ちていて、それを聞いたシンゴも胸が締め付けられるような痛みを感じて顔を顰めた。
しかしイチゴは、「でも」と目を閉じると、次には覚悟を宿した瞳でシンゴの目を真っ直ぐ見返してきて――、
「私は帰りたい。私の、私とお兄ちゃんの世界に、帰りたいよ」
「――――」
それは、イチゴの心の底からの願いだった。
仮初から本物となった友情、それを切り捨ててでも、イチゴは元の世界に帰りたいと、そう言った。否、違う。
――シンゴが、言わせたようなものだ。
「――安心しろ、イチゴ」
イチゴをそっと抱き寄せて、その耳元でシンゴは誓う。
言いたくない事を言わせて、考えたくもなかった未来を無理やり押し付けて、そうしてイチゴの心に傷を負わせてしまった自分は、兄として失格だ。
だから、せめて――、
「絶対に、お前をあの世界に帰してやる」
その心の傷に報いるだけの、懸命の努力をしようと。
誓いを成す為ならば、己の全てを捧げようと。
「――――」
たとえ、魂が擦り切れて、その形を変えてしまおうとも――。
必ず守り抜くと、キサラギ・シンゴは己自身に、静かに誓った。
――一日目、終了。