第4章:22 『強引なご招待』
「……ん」
揺れるような感覚と腹部の圧迫感で、キサラギ・イチゴはゆっくりと覚醒した。
最初に視界に飛び込んできたのは、真上へと流れていく砂利道と、何者かの足が上下する光景だった。
「――?」
しばらくその不可思議な光景を眺めていたが、やがて自分が何者かの肩に担がれた状態で運ばれているのだと気付いた瞬間、背筋にぞくりとした戦慄が駆け上がり、半覚醒だった意識が急速に冷やされて完全な覚醒へ誘われた。
「い、や……っ!」
身をよじり、腰に回された何者かの腕を振り解こうと暴れるが、女であるイチゴの力ではびくともしない。
「――おや、目が覚めてしまいましたか」
「――ッ!?」
それはひどく生々しく、剥き出しの欲望が絡まった、神経を舌で舐められるような不快な声だった。
声質から男だという事は分かったが、それ以外は何も分からない。
どうして自分はこの男に担がれ、運ばれているのか。そもそも自分はどうして、こんな状況に陥っているのか。さっぱり、理解出来なかった。
「ぁ、ぅ……っ」
人間は、理解の及ばない事態に対して恐怖を抱く。恐怖は思考を停滞させる鎖となり、正常な判断力を奪い去る。
そしてそれはイチゴとて例外ではなく、動揺と混乱の渦に呑み込まれ、口から漏れるのは言葉ではなくただの音に成り下がってしまう。
やがて恐怖の束縛は精神から肉体にまで浸食を深め、逃れようともがくイチゴの身体から徐々に力が抜けていく。
そんなイチゴの様子に、男は「ふぅ」とどこか安堵したような吐息をこぼし、
「自発的に落ち着いてくださり、心底ほっとしましたよ。……でなきゃ、手荒な手段に出なくてはなりませんでしたからね」
「……っ」
物腰は柔らかくとも、男の語ったその内容は物騒極まりない。
全身の血の気が引いていき、目の前が真っ暗になるような錯覚がイチゴを襲う。
「ええ、ええ。その調子で大人しくしていただければ、キミに危害は加えません。なにせ、大事な商品ですからねぇ」
「ひ……っ!?」
男の手が臀部をなぞるように撫で上げてきて、イチゴは激しい嫌悪と不快感に思わず悲鳴を漏らす。
依然としてこの状況に理解は及ばない。だが、一つだけ明確に分かった事がある。それは、ここでこの男から逃げなければ、きっとこの先にイチゴの未来はないという事だ。
「わっ! ちょっと、もう! ボク、暴れないでって言ったところじゃないですかぁ!」
「た、たす……け……ッ!」
「無駄ですよ。ここは近くに小さな村があるだけで、基本的に人の通りはほぼありませんから」
生への強い執着が、恐怖による束縛から肉体を僅かに解き放った。
だが、いくら暴れても、男はイチゴの腰に回す手を両手にする事で呆気なく封殺。イチゴの足掻きは徒労に終わり、再び絶望の暗幕がゆっくりと下りてくる。
骨の髄まで侵し尽くそうとしてくる絶望の冷たい手の平、その隙間から漏れ落ちる光の先に、イチゴはとある光景を見た。
――否、思い出した。
迫る狂人の凶刃。狂人と相対する兄の懸命な横顔。突如として背後に生じた、虚ろで温かい兄のような気配。
その虚ろに包まれ、徐々に現世と剥離していくイチゴが最後に見たのは――。
――黒衣と白髪をなびかせ、風のように駆けてくる、紅い瞳をした少女だった。
「助け、て……」
「だぁから、無駄だと言って――」
「助けて、おにいちゃあん……!」
涙を流し、兄に助けを求めた、その瞬間だった。
ふわりと、何者かがイチゴの正面、男の背後に着地するのが見えた。
「――――」
一瞬、言葉を失った。いや、世界が止まった。
肩にかかるほどの白い髪。世界を呆然と見つめる瞳は血のような真紅。その整った美貌はどこか人形めいており、相対した者に無機質な印象を抱かせる。
最後の記憶に焼き付いていた少女と、非常に似通った容姿をした幼い少年だった。
「――誰だ!?」
少年の姿に目を奪われ、イチゴが目を見開いて固まっていると、イチゴを抱える男もまた少年の存在に気付いて振り返った。
その男の問いかけに、少年はその表情を微動だにさせる事無く応じる。
「リノア」
そう自らの名を告げた少年の声は、どこか諦念にも似た感情に満ちていて。
その紅い瞳には、まるで生きる事に疲れてしまったような、空虚で冷たい光が揺れていた。
「その瞳……まさか、吸血鬼ですか?」
息を詰め、少年の事を吸血鬼と称した男の声は、ひどく震えていた。
いや、震えているのは声だけではない。その身体もまた、声に劣らぬほど震えていた。
それは恐怖を発端とした震えだ。では、何に対しての恐怖なのか。それは、考えるまでもない。
「ど、どうなんだよぉッ!?」
恐怖が限界に達したのか、男は唾を飛ばして取り乱す。
一方、問われた少年はというと――、
「どうでもいい」
男ではなく、当然イチゴにでもなく、少年は何もない空間に視線を逸らし、本当にどうでもいいかのように応じた。
しかしその返答は、言外に肯定しているようなものだ。そもそも、答えなど聞かなくとも、この少年が吸血鬼であるという事実は、その紅い瞳が証明している。
「ああ……ああああ、クソがぁ!!」
「きゃっ!?」
がしがしと乱暴に頭を掻き毟ったかと思うと、男はイチゴを脇道に投げ捨てるように放り投げた。
突然の事に受け身も取れず、イチゴは悲鳴を上げて地に打ち付けられる。
そんなイチゴには見向きもせず、男は恐怖で顔を引き攣らせ――、
「アンタらは、北の果てに引きこもってるはずですよね? それがどうして! なんでボク達兄弟は、二度も吸血鬼に遭遇するかなぁ!?」
「知らぬ」
「知らぬのはこっちですよ!? くそ、クソクソクソッ! 冗談じゃない! アレですか!? この女がご所望ですか!? なら、勝手に連れてってくださいよ! はは……ボクもどうかしてる。見てくれはイイから売れるかもとか、変に欲を出すからこうなっちゃうんだ。あんな薄気味悪い穴から現れた時点で怪しむべきだったんだ。だからボクは、いつも兄ちゃん達に迷惑ばっかかけちゃうんだよ。ううん、違う違う。ボクは喜んで欲しかったんだ。力になりたかっただけなんだよぉ! もっと稼いで、四人で暮らせる家を買おうって……だからボクはァァァ――ッ!!」
男はぶつぶつと長い独り言をまくし立て、最後には目を血走らせて吠えた。
情緒不安定、そんな言葉が真っ先に浮かんだ。気が短いだとか、恐怖でおかしくなっただとか、そんな類のものではない。これはこの男生来の、歪な精神の在り方――その一端だ。
「煩い」
「はぁッ!?」
少年が顔色一つ変えずに放った一言に、男は過剰なまでに反応する。
そして唾を飛び散らせながら、「お、おおああンたァ!?」と、まるで糾弾するように少年へと指を突き付け、
「どんな教育受けてんですか!? 吸血鬼にも親はいますよね!? いるよねぇ!? 子が子なら、親も親だァッ!! いいなぁ、いいよなぁ! ボクのパパとママは、悪い人らにぐちゃぐちゃにされちゃったのにさァ! でもでも、ボクには優しいお兄ちゃんが三人もいる! だから、寂しくなんかないんだよぉ?」
「ひ……っ」
えへへ、と笑う男に、イチゴは生理的嫌悪を感じて思わず後ずさった。
もう、本当に、なんなのだろうか、この状況は。
理解できないし、したくもない。この男をこれ以上、それこそ一秒ですら、認識していたくなかった。
「――我にも、姉がいた」
「……あ?」
不意に、少年がぽつりと呟いた。
その声は、その声だけは、しかと感情が滲んでいて。だけど、それはひどく哀しい声音で――。
「……知りませんよ、アンタの姉とか。どうせ売女のような淫乱で、反吐が出るほどに女くさいだけの」
急に冷静になった男が、白けたような面差しで罵倒を口にしようとして――次の瞬間、男の姿が掻き消えた。
「へ?」
「――ッ!?」
疑問げな男の声が聞こえて、イチゴは慌てて振り返り――咄嗟に口を両手で塞いだ。そうしなければ、喉が張り裂けんばかりに悲鳴を迸らせるところだったから。
押し開かれたイチゴの目線の先、男の視線がゆっくりと下がり、己の状態を確認した瞬間、その黒目がぐるりと真上を向いた。
いつの間にか男は、近くの木の幹にもたれかかるようにして座っていた。そして、そんな男の前に、あの少年がイチゴに背を向けるように立っている。
しかし、座り込む男の身体は何かが欠如していた。それは本来、欠けてはならないもので――。
――男の首から上が、存在していかなかった。
失われた男の首、その行方は、少年の右手の中だ。
捩じ切ったのだと理解するのに、驚愕の絶頂にあるイチゴの頭でも、そう時間はかからなかった。
「――――」
少年は何も言わないまま男の亡骸をしばらく見つめていたが、やがてその手に掴んでいた男の首を無造作に放り捨て、ゆっくりと振り返る。
逃げなければならない。そう本能が警鐘を鳴らしている。しかしそれを実行する身体が、全くもって脳の命令を受け付けない。
探す。懸命に探す。逃れる方法を、生き延びる手段を。
全身に意識を巡らせる。完全に竦み、動かない肉体。しかし一ヶ所だけ、動く箇所を見つけた。口だ。だから、動かした。
だけども――、
「ともだ、ちに……なって、ください」
どうしてそんなセリフを選んだのか、自分でもよく分からなかった。
この状況で、目の前で人を殺してみせた相手に対し、イチゴの言葉は明らかに場違いで、見当違いだ。
すぐに後悔が津波となって押し寄せてきた。今ならまだ撤回が間に合うだろうか。間に合ったとして、次はどうする。一体、何を言えば――、
「……ともだち?」
「――ッ!」
不思議そうに小首を傾げる少年の反応を見て、動揺と混乱は吹き飛んだ。
そして、イチゴは直感的に確信する。自分は数ある選択肢の中で、数少ない正解を引き当てたのだと。
それからの判断は、自分でも驚くほどに早かった。
頭の中に浮かんでいたその他の選択肢、それら全てを放棄。目の前に開けた小さな希望、そこに全霊を集中させる。
「……そう、友達。私と、友達になってください」
「……分からない」
「……っ!?」
思い切って博打に踏み切るも、返ってきた言葉は否定的なもので、心臓が跳ねるように嫌なリズムを刻む。
しかし直後、イチゴは自分の胸元を掻き毟るように押さえ付けると、深く息を吸って強引に動揺を鎮静させる。
そして、肺を満たしていた空気を一息に吐き出すと、改めて顔を上げた。
「分からないって、どういう意味?」
「……我、ともだち、知らない」
努めて優しい声音で問いかけると、少年は首を横に振りながらそう答えた。
それを受けて、イチゴは「そっか」と穏やかな笑みを浮かべると、少年へと語り聞かせるように言葉を紡いだ。
「友達っていうのは、一緒に笑って、怒って、泣いて、楽しんで、色んな事を分かち合える……そんな存在の事を言うんだよ」
友達というものの定義は、言ってしまえば十人十色だ。イチゴの持つ友達の定義が、必ずしも他者に当てはまるとは限らない。
だからこそ、なのかもしれない。イチゴの友達の定義とは、即ち感情の共有だ。最初から分かり合えないと見切りを付けるのではなく、お互いを知って、そこで初めて結論を出す。
相手のイイ部分を知り、ダメな部分を知り、そうして理解を深めていって、その先で友情を結べれば、それはとても素晴らしい事だ。
だけど今は、ただ自分が助かる為だけに、その定義をいいように利用している。とてもではないが、胸を張れない。
だけど――、
「それでもやっぱり、お互いを理解しなくちゃ何も始まらない。私は、君の事が知りたいの。だから、友達になって欲しい」
真っ直ぐ、少年を見据えて、イチゴは改めて告げた。
そして、自分の胸に手を当てると――、
「私の名前は、キサラギ・イチゴ」
「……リノア。リノア・ブラッドグレイ」
名を告げるイチゴに続き、少年――リノアも自らのフルネームを明かした。
これを受け、イチゴは確かな手応えを得る。だが、まだ足りない。あと一歩、リノアの中に踏み込まなければならない。
思い出せ。リノアの言葉、態度、感情の揺らぎを。そうして得た情報を精錬し、言葉と成して、リノア・ブラッドグレイの心を手繰り寄せるのだ。
「――私には、お兄ちゃんがいるの」
「……兄?」
「うん。バカで、間抜けで、どこにでもいるような普通の男の子。だけど、私が困ってたら、必ず助けてくれる、そんなかっこいいお兄ちゃん」
「…………」
胸に手を当て、たった一人の兄について語る。
あの神社でも、兄はイチゴを助けてくれた。それこそ、その身を挺して。
安否が気になって仕方ないが、不思議と大丈夫だという確信があった。何故ならきっと、あの人が兄を救ってくれているから。
だから兄は――キサラギ・シンゴは、必ず助けに来てくれる。
今はただ、信じるしか出来ない。だけど、待つだけでは駄目だ。信頼を形にする為に、イチゴ自身も足掻かなければならない。
その覚悟を胸に、信頼を託す兄を思い浮かべて、イチゴは最後のカードを切った。
「リノアのお姉さんの事、私も知りたいな」
「――!」
イチゴのその言葉を聞いて、息を詰めたリノアが大きく目を見開いた。
それを見て、イチゴはゆっくりと立ち上がると、目を丸くするリノアに歩み寄り、その眼前にそっと片手を差し出して言う。
「私と、友達になってください」
「――――」
差し出された手をしばし無言で眺めていたリノアだったが、やがて、ゆっくりとその手が持ち上がり、イチゴの手を握り返した。
それが意味するところは、つまり――。
「受けた。我と、そなた、ともだち」
「――っ」
安堵のあまり、思わず膝が崩れ落ちそうになった。
これでひとまず、あの男の二の舞になる事だけは避けられたはずだ。
よくもまあ、こんな危ない橋を無事に渡り切れたものである。自分で自分を盛大に褒めてやりたい気分だ。
「ともだち、一体、何をする?」
「……へ?」
身の安全がとりあえず保障された事と、難局を乗り越えた事の達成感で、完全に気を緩めていたところに、その質問は不意打ちに近かった。
故に、完全に動揺してしまった。そして、ジッと見つめてくるリノアの視線に、動揺は更に加速。イチゴは視線を泳がせながら、咄嗟に――、
「え、えっと……遊んだり、一緒にご飯食べたり、あとは……」
この時の自分は、本当に迂闊だった。ここで止めておけば、もしかして事は違う展開を見せたかもしれなかったのに。
列挙する例にこくこくと頷くリノアへ、イチゴは友好的な笑みを必死に維持しつつ、指を立てて小首を傾げながら――言ってしまった。
「お互いの家に、お呼ばれしたりとか?」
「――分かった」
次の瞬間、繋いだままだった手を引っ張られた。
引く力は強く、また、全く予想していなかった事も手伝い、イチゴはつんのめるようにして前方へと体勢を崩す。
あわや、リノアを巻き込んで転倒――とはならなかった。
「うえっ!?」
気付けば、イチゴはリノアに抱き締められる体勢で、受け止められていた。
いくら相手が年下とはいえ、兄以外の男子とここまでの密着は初めての経験で、イチゴの口から意図せず上ずった声が漏れる。
驚愕と羞恥がない交ぜになった複雑な感情に翻弄され、イチゴは頬を赤くしながらあわあわと狼狽えていたが、ここでふと違和感に気付いて眉を寄せた。
「ん? ……んん?」
数瞬前までの狼狽など完全に忘れ、イチゴは逆にリノアの背に手を回し、ぐっと自分の方へと引き寄せた。
そうしてより密着した状態となった事で、イチゴの中で疑念は確信へ、そしてその事実に驚愕というプロセスを辿る。
「……うそ。リノア、まさかあなたって」
しかしその先は、別の驚愕に塗り潰されて言葉にならなかった。
何故なら突然、リノアの背中から一対の黒い物体が展開されたからだ。
ぽかんと口を開け、イチゴはそれを見上げながらしばし硬直。やがてそれが黒い翼であると認識すると、非常に嫌な想像が脳裏を過り、頬が強張った。
「イチゴ、我の城に、ご招待」
どうか外れて欲しいというイチゴの願いも虚しく、リノアはそう抑揚のない声で告げると、背中の黒翼を羽ばたかせた。
ふわりと重力が遠ざかり、浮遊感がイチゴを包み込む。ついでに、恐怖と絶望、そして先の自分の迂闊さに対する後悔にも包まれた。
そうして、全身の血の気が引くのと同時に――、
「きゃああああああああああああああああああああああああああああっ!?」
イチゴの絶叫を置き去りに、二人は天高く飛翔――そのまま雲を突き抜ける勢いで高度を稼ぐと、やがて直角に折れ、北を目指して砲弾の如く加速した。