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虚飾のアリス ‐不死の少年と白黒の吸血鬼‐  作者: 竜馬
第4章 とある兄妹の救済
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第4章:17 『行きはよいよい、帰りは――』

「ぁ……ぇ、と」


「――もう一度、お尋ねします。何故、人間の貴方が、吸血鬼でない貴方が、『選別の境界』を越えて、この『金色の神域』にいらっしゃるのですか?」


 再度、ガルベルトが問いを投げかけてきた。

 笑みを崩さず、穏やかな声音で、真摯な瞳でシンゴの事を見てくる。しかし、纏う空気だけが剣呑なものに変わっていた。

 答えによっては容赦しない、言外にそう言われている気がして、シンゴはごくりと生唾を飲み込んだ。


「――お兄ちゃん」


「――っ!」


 不意に声を掛けられ、シンゴは肩を跳ねさせる。そしてその声のした方へと顔を向けると、イチゴが真っ直ぐこちらを見ていた。

 そして目が合うと、イチゴはぐっと握った拳をシンゴに向けて突き出して、


「大丈夫だよ。何があっても、私はお兄ちゃんの味方だから!」


「――――」


 ――力強く頷くイチゴの姿を見て、シンゴはいつの間にか、自分の身体の強張りが解けている事に気が付いた。


 震えの止まった自分の手の平に視線を落とし、やがてぐっと握り込むと、シンゴは顔を上げた。

 そして、拳を突き出したままのイチゴの方へと拳を掲げ、ふと届かない事に気付いて一瞬だけ硬直。が、すぐにニッと笑うと、拳を合わせる代わりに親指を立てる事で返事とした。


「――うん、それでこそ私のお兄ちゃんだ」


「ああ、あんがとな、イチゴ。おかげで眠気が吹っ飛んだぜ!」


 再び頷くイチゴに、シンゴも頷き返す。最後に添えた誤魔化しの一言にイチゴの眉がぴくりと反応するが、言及される前にシンゴはガルベルトへと顔を向けた。


「俺がここにいる理由、でしたよね? 簡単ですよ。――俺は、吸血鬼だ」


「――!」


 不敵な笑みと共に、右目を真紅に染め上げて告げるシンゴ。そんなシンゴに、ガルベルトは小さく目を見開く。

 しかしその驚きもすぐに去ったのか、ガルベルトはシンゴから外した視線をアリスに向ける。そして「なるほど」と納得した風に呟き、鬼気を緩めてシンゴに視線を戻すと、


「キサラギ・シンゴ殿。貴殿は、アリス嬢の『従者』となられたのですね?」


「ええ、そうです。だから俺は、『選別の境界』を越えられた」


「……そうでしたか」


 そう呟いて目を閉じると、ガルベルトは椅子の上で身体ごとシンゴに向き直った。そして深く頭を下げると、


「非礼をお詫びいたします、シンゴ殿」


「いや、謝んないで下さいよ。そりゃ、妹のイチゴが人間なんだから、兄である俺も人間だって考えるのが普通なんですから」


「ですが……」


「ほんと構いませんって! あんまり人から頭下げられるとか慣れてないんですよ、俺! だから、こうされる方がむしろ居心地が悪いと言うか……」


「お兄ちゃんの場合、むしろ頭を下げる事の方が多いしね」


「……おい」


 ガルベルトの謝罪に戸惑っていると、イチゴが余計な一言を挟んできて、シンゴは渋面を作る。

 すると、そんなシンゴ達のやり取りを見ていたガルベルトが、ふっと笑みを漏らした。それにシンゴが視線を戻すと、ガルベルトは「いえ」と首を振り、


「申し訳ございません。本当にお二方の仲がよろしくて、つい」


 シンゴとイチゴの兄妹仲について何度目かの言及をしてくるガルベルトに、シンゴはニッと歯を見せて笑った。


「そりゃそうっすよ。イチゴは将来、俺の嫁になるって決まってんですから」


「――なんと。まさか、お二人は本当の兄妹ではなかったのでございますか?」


「何バカな事言ってんの、お兄ちゃん!? ガルベルトさんも騙されないでよ! 私とお兄ちゃんはちゃんと血の繋がった実の兄妹だから!」


 シンゴの軽口に目を見張るガルベルト。そこへイチゴが立ち上がりながら抗議の声を挟む。しかし、シンゴはふっと微笑をこぼすと、


「血の繋がりなんて些細なもの。真の愛があれば、全ての障害は障害たり得ない。――そう思いません?」


「深いですな……」


「深くないよ!? それ以前の問題だから!」


 ぜえぜえと息を荒げ、イチゴが鋭く睨んでくる。からかうのはこのくらいにした方がいいだろう。いつ鉄拳が飛んでくるか分からない。

 それに、前田の受け売りではあったが、先の臭いセリフのおかげで、ガルベルトとの間にあったしこりのようなものは払拭できた感じがする。


 ――それに、意外な発見。


「ガルベルトさんって、案外ノリいいですね」


「――? 何の事ですかな?」


「……いえ、忘れて下さい」


 シンゴは冗談のつもりだったのだが、ガルベルトは素だったらしい。

 ともあれ、ガルベルトの違う一面も知れた所で、シンゴは自分の右目――片側だけ真紅に染まった瞳を指差して、質問を口にする。


「俺の目、片方しか紅くならないんですけど、俺みたいなケースって『従者』には稀にあったりするんですか?」


「……いえ、片目だけ紅くなる、そのような事例は今までに一度も確認されておりません」


 細めた目で、シンゴの片側のみの真紅の瞳をまじまじと見つめ、ガルベルトは眉間に皺を刻みながら否と答えた。


「『従者』の吸血鬼としての能力は、血を注入した吸血鬼――血の親のスペックに依存します。血の親が身体能力に秀でた者であれば、『従者』も同様に身体能力が高く。再生能力に秀でた者ならば、再生能力が高くなります。逆に、血の親以上のスペックを『従者』が得る事は有り得ません」


「……でも俺、再生能力はそれなりにあるんですけど、アリスみたいなかいり……身体能力は一切ないですよ?」


 怪力と口にしかけるが、アリスから無言の圧が膨らんだのを感じ取り、シンゴは途中で言い直して自分の状態を説明する。

 それを受け、ガルベルトは顎に手を当てると、難しげな顔で唸った。そしてシンゴの全身をくまなく観察し、アリスにも視線を投げ、やがて吐息すると、


「目視だけでは判断がつきませんな。……一つ、試してみたい事がございます。場合によっては、それでシンゴ殿のその不可解な状態に答えが出るやもしれません」


「俺は別に構いませんけど、一体何をづぁっ!?」


 言い切る前に、首筋に貫かれるような激痛が走った。

 突然の痛苦で意識に火花が散り、シンゴは限界まで目を押し開く。そして激しい熱と共に、何かが吸い上げられるような不快感が続いた。


「い゛っ……でぇ……ッ」


 やがて皮膚を貫いていた異物が離れ、シンゴは疼く首筋を押さえて上体を折る。

 荒い呼吸を繰り返している内に、吸血鬼の力が痛みを徐々に遠ざけていく。そうして、ようやく現状の把握に意識を割けるレベルにまで回復すると、シンゴは痛みの残滓に顰めた顔を後ろへと向けた。

 そこにいたのは――、


「――美味」


「おま、え……何しやがる……ッ」


 口元に付着した血を舌先で艶めかしく舐め取り、聞いてもいないシンゴの血の味をレポートしたのは、いつの間にかシンゴの背後へ回っていたリノアだった。

 おそらくシンゴは、リノアに噛み付かれた――否、吸血されたのだろう。そんな事をされる意味が分からず、シンゴは謂れのない暴挙に牙を剥く。

 そして思わず立ち上がり、そのままリノアに詰め寄ろうとするが――、


「――急に何やってんの、リノ!」


「あうっ」


 こちらもいつの間に移動したのか、イチゴの鉄拳がリノアの脳天に炸裂した。

 まさか妹が先に手を出すとは予想しておらず、シンゴは踏み出しかけた足を宙に浮かせたまま硬直。咄嗟に、助けを求めるようにアリスを見てしまった。


「――――」


 ――アリスは、目を丸くし、口をぽかんと開けて固まっていた。


「……アリス」


「――ッ」


 その間の抜けた顔に、シンゴは思わずアリスの名を呟いていた。すると、その声でアリスはハッと我に返り、シンゴの視線に気付くと、ふいっと顔を逸らす。

 相変わらず無視は継続中らしいが、背けられた顔はうっすらと赤い。どうやら、今の顔を見られたのが恥ずかしかったようだ。


「ほら、リノ。ごめんなさいは?」


「我、悪くない」


「ご・め・ん・な・さ・い・は!?」


 一方、件のリノアはというと、イチゴによる説教を受けていた。

 その叱られる姿は悪さをした事を咎められる子供のようで、シンゴは毒気を抜かれてしまい、胸の内にあった怒りも空中分解してしまう。

 嘆息し、後ろに振り返ると、シンゴはそこに座る人物に向き合った。そして自分の首筋、先ほどリノアに噛まれた位置を指でトントンと叩き、


「……さっきの、ガルベルトさんの指示ですよね?」


 先ほど、シンゴは見ていた。ガルベルトが試してみたい事があると言った時、その視線がシンゴではなく、一瞬リノアに向いたのを。

 その直後にあの噛み付きだ。遅れて冷静に考えてみれば、リノアにそうするように仕向けたのはガルベルトで間違いない。

 そして当のガルベルトは、シンゴの真意を問う視線に対し、静かに頷くと、


「指示ではなく、リノア様には協力して頂いたのでございます」


「……なんで、こんなこと」


「それは、答えを聞いてみれば分かります」


「答えを聞くって……誰に?」


 眉を寄せるシンゴの言葉に、ガルベルトは「リノア様」と主の名を呼んだ。

 それに答えるように、リノアはイチゴの拘束を振り解き、シンゴの隣まで歩いてくると、その人形めいた無表情で見上げてきた。

 そして、困惑するシンゴをジッと見つめながら、


「イチゴの兄、呪われてない」


「は?」


「でも、呪われてる」


「……は?」


 直前の言葉を否定するリノアの矛盾したセリフに、シンゴは混乱して疑問の声を二度も落とす。

 そんなシンゴの反応にリノアは「?」と首を傾げ、改めてシンゴを見上げると、補足を述べてきた。


「血、呪われてない。魂、呪われてる。断言、難しい」


「断言は難しいって……」


 要領を得ないリノアの言葉に、シンゴは困ったように頬を掻いた。

 助けを求めるようにガルベルトを見ると、ガルベルトは今のリノアの言葉を吟味するように顎鬚を触って俯いており、シンゴの視線に気付くと顔を上げた。


「リノア様がそう仰られる以上、シンゴ殿の血が呪いを受けていないのは確実でしょう。しかし、魂が呪われている“かもしれない”となると……」


「と、なると?」


「完全にお手上げでございます。私ごときでは、全く理解が及びませんな」


 両手を上げ、匙を投げるガルベルト。そう断念する姿はいっそ清々しさすら感じられるが、それで納得できるかと問われれば、無論そんな訳がない。

 その不満が顔に出ていたのか、ガルベルトは「そうですな」と視線を横に逸らすと、顎鬚を撫で付けてしばし黙考。考えをまとめ終えると、シンゴに視線を戻した。


「これは私個人の推測ですが、血が呪われていないとなれば、おそらくシンゴ殿は、呪いによる浸食の心配はないかと思われます。過去、吸血鬼となってから、アリス嬢に似た症状に見舞われたご経験は?」


「えっと……」


 シンゴが吸血鬼となってから、今でだいたい二か月くらいか。その二か月は、次なる目的地への移動時間が大半を占めている。

 さすがに長旅には慣れてきたとはいえ、基本的には野営する事がほとんどだった。そうなると必然、飢えた獣や魔物、そして野盗などに警戒しなければならない。集落や村に立ち寄り、柔らかいベッドで横になれた機会など指で数えるほどだ。


 そう、生きるのに必死だった。そして頭にあったのは、常にイチゴの事だ。

 その所為か、この世界に来てからどれくらいの時間が経っているかなど、考えた事もなかった。


「……じゃなくて」


 かぶりを振り、脱線する思考を引き戻す。そして、シンゴはこのおよそ二か月の間に、自分が風邪の一つも引かなかった事を思い返すと、現実へと焦点を戻し、


「呪いっぽい症状が出た事は、ここ二か月くらいでは一度もないですね」


「そうですか。シンゴ殿の血の親であるアリス嬢がつい最近呪いを発症された事から、まだ警戒を怠るべきではありません。が、それも一週間を超えれば――」


「俺が呪いに蝕まれる心配はない、と」


「おそらくは」


 それを聞いて、シンゴは内心ほっとした。正直、呪いの鎮め方を聞いた時から怖かったのだ。いつか自分も、誰かから血を吸わねばならない時がくるのでは、と。

 しかしそれが杞憂だと判明した瞬間、胸の中に満ちた安堵感は自分で思っていたよりも大きかった。


「ま、俺の場合、牙もねえから噛み付けねえけどな」


 自嘲気味に笑って、シンゴは肩を竦めた。

 実のところ、まだ一つ明かしていない事がある。それは、シンゴの吸血鬼化が一度失敗しているという事実だ。


 吸血鬼化に失敗した者は、灰となって消える。かつてアリスはそう言った。

 しかしシンゴは、こうして不完全な状態で生き永らえている。当時は原因の分からなかったそれも、この世界で過ごす内に一つの仮説に行き当たった。


 ――その仮説は、シンゴに宿る『怠惰』の権威が元となっている。


 『怠惰』の権威、その権能は単純明快。不死の力だ。

 そしてここからはシンゴの勝手な推測だが、おそらく『怠惰』がシンゴに宿ったタイミングは、アリスによって吸血鬼化させられた時だろう。


 吸血鬼化に失敗し、本来なら灰となる運命にあったシンゴを、『怠惰』の不死の力が救った。その結果、キサラギ・シンゴは不完全な吸血鬼となったのだと、シンゴは自身の身に起こった事をそう分析している。


 推理と呼ぶには証拠は不十分で、はっきり言って杜撰の一言だ。しかしシンゴは、この考察が間違っていないと確信している。

 何故ならば、吸血鬼化の失敗とはイコールで死だ。ならばシンゴは、吸血鬼化の際に一度死んでいる事になる。それでも今、シンゴはこうして生きている。原因は、『怠惰』の権威以外に考えられない。


「まあ、絶対にそうだと言え切れねえ事に変わりはねえんだけどな」


「お兄ちゃん?」


「独り言独り言、気にすんな」


 ぼそりと呟いて思考に区切りを付けるシンゴに、イチゴが不審げな眼差しを向けてきた。シンゴはそれに手を振って誤魔化すと、他の面々に目を向ける。

 リノアは、中央に置かれていたはずの菓子皿を自分の前にまで持ってきて、一人もくもくと菓子を頬張っている。

 ガルベルトは姿勢正しく黙したまま、目を瞑って何か考え事をしている様子だ。

 そして最後にアリスだが、彼女もまた前者の二人同様に沈黙していた。


 誰も言葉を発しようとはしない。それが意味するところは、これ以上互いに重ねるべき問いは出尽くしたという事だ。

 正直に言えば、アリスの件については消化不良が否めない。次元を超えてまでやって来たにも拘わらず、彼女の目的は未達成のままだ。


 しかし、これ以上はどうする事も出来ない。ガルベルトから得られたアリス個人の情報は、はっきり言って非常に少ない。

 アリスが『混血』である事、その両親が『真祖』と『従者』である事、アリス・リーベについて判明したのはこれくらいだ。それ以外は依然として謎に包まれている。否、むしろ謎は深まったと言っていいだろう。


 ともあれ、同族である吸血鬼から得られる情報はこれが限界だ。そして、シンゴの方は既に目的を達した。イチゴを探し出す、という大願を。

 シンゴの次なる目的は、元の世界に帰る方法を探す事だ。ならばもう、ここにこれ以上居座る理由もない。


 アリスに関しても、まだ諦めるのは早計だろう。思いもよらぬ場所で、考えもしなかった形で、答えが見つかる可能性だって十分にあるはずだから。

 シンゴはアリスに、あの神社で、リジオンの村で、合わせて二度も命を救われている。その、恩返しをしたい。

 少しくらい遠回りになってもいい。手伝おう。アリス・リーベの謎を解き明かす、その手助けを。


「……頃合い、か」


 己の中で今後の方針と決意を固めると、シンゴは呟いて立ち上がった。

 まずは集落にまで戻り、カズとイレナの二人と合流だ。そして今後について話し合わなければならない。


 加え、アリスの怒りの原因解明、カズの悩みの解消と、やるべき事も山積みだ。

 イチゴの事も二人に紹介しなければならないだろう。もちろん、ここまで付き合って貰った事に対して、三人には改めて感謝の言葉も伝えなければ――


「――どこへ、行かれるので?」


 それは、静かな問いかけだった。

 思考に向けていた意識を現実へ引き戻すと、シンゴは質問者――ガルベルトを見て、苦笑を浮かべた。


「どこって、もう質問も互いに出尽くしたみたいですし、そろそろ帰ろうかなと」


「――帰る?」


 ゆっくりと、ガルベルトの顔がシンゴに向けられる。瞬間、シンゴは背筋に言いようのない悪寒が這い上がるのを感じた。

 それは、越えてはならない一線を越えてしまい、見てはならないもの見てしまったような、そんな戦慄に似ていて――。


「帰るなど、何を仰いますか。貴方をこの城から出すつもりはございませぬ」


「……は?」


 ガルベルトの言っている意味が、すぐには理解出来なかった。

 目を丸くし、たっぷり五秒は沈黙して、そうして今のガルベルトの言葉の意味が正しく脳に浸透した瞬間、シンゴは激しい困惑と混乱に見舞われた。


「帰すつもりはないって……どういう?」


「言葉通りの意味でございます。シンゴ殿には今後、この城で暮らして頂きます」


 狼狽して立ち尽くすシンゴに、ガルベルトは今後のシンゴの生活、それがこの城で送られるという予定を告げた。

 それはあまりに突然で、到底受け入れる事の出来ない申し出だった。


「この城で暮らす……それは、いつまで?」


「無論、一生でございます」


「――ふ、ふざけんなッ!!」


 動揺を落ち着かせる為に、敢えて答えの出ている質問を投げかけたシンゴだったが、結果それは逆効果だった。

 かっと頭に血が上り、大声を張り上げると、シンゴは目の前の男に荒々しく詰め寄った。


「おに――」

「黙ってろ!」


 憤る兄にイチゴが声を掛けようとするが、それは他ならぬシンゴの怒鳴り声によって遮られた。

 兄のその怒声に、イチゴは息を詰めて傷付いたような顔になる。しかしそれには目もくれず、シンゴはガルベルトの胸ぐらを掴み上げると、


「おい……もっぺん言ってみろよ? 俺は、どうなるって?」


 絞り出すように、低い声音で問うシンゴ。それに対し、ガルベルトは抵抗すらせず、ただ冷ややかな視線を返しながら、


「ここで暮らして頂きます。どうしても城の外へ出られたいと言うならば、止めはしません。――死んだ方がマシだと思える地獄、それを見る覚悟がおありならば」


「――ッ」


 ガルベルトの挑発的な返しに、シンゴの顔が怒りで歪んだ。

 今にして思えば、違和感はあった。こちらの質問に、ガルベルトは正直かつ誠意に応じていた。メリットはなく、むしろデメリットの方が多いにも拘わらず、だ。

 しかし、今の話を聞けば納得だ。この城から出すつもりが最初からなかったのであれば、いくら情報を開示しても外に漏れる心配はない。


「クソが……ッ」


 嵌められたのだと、そう理解すると同時に、より一層強い怒りが込み上げてきた。そして、その怒りは留まる事無く膨れ上がり、意識を赤黒く塗り潰していく。

 これに似た現象を、シンゴは過去に経験した事があった。


 ――そう、あの校舎で、だ。


 そもそも、最初にキレた時点で既に何かがおかしかった。

 怒りよりも先に、動揺と混乱があったはずなのだ。それを押し退けるようにして、突如として怒りが込み上げてきた。

 まるで第三者の手によって、怒りの感情を無理やり差し込まれたかのように。


「だいたい――ッ!」


 突き飛ばすようにして、ガルベルトを乱暴に解放したシンゴは、怒りで醜く歪んだ顔を振り向かせた。

 煮え滾るような赫怒の炎を瞳に揺らし、シンゴが睨み付けるのは、こちらに見向きもせず菓子を貪り続けるリノアだ。


 その我関せずの態度に、渦巻く怒りの炎が勢いを上げる。

 乱暴に舌を打ち、シンゴはずかずかと大股で移動すると、リノアをすぐ間近で睨み下ろした。


「てめえも、人の妹を勝手に連れ去ってんじゃねえよ……ぶっ殺すぞッ!」


「――――」


「おい、てめえに言ってんだよ! こっち向け! おいッ!!」


 ――これじゃ、ただのチンピラだな。


 頭の片隅では、今の自分をそう冷静に分析できていた。しかし、感情の制御が利かない。まるで、もう一人の自分を後ろから眺めているような感覚だ。


「お兄ちゃん! どうしちゃったの? それじゃまるで、昔とおんなじ……」


「うるせえっつってんだろぉッ!!」


 立ち上がり、机を回り込んで駆け寄ってきたイチゴが、シンゴの袖を引いてきた。しかしシンゴはその手を乱暴に振り払うと、怒鳴り声と共に机を思い切り蹴り上げた。

 蹴られた机が大きな音を立てて揺れる。その音にイチゴがびくりと肩を跳ねさせ、驚愕に目を見開いたまま後ずさった。


「はぁっ……はぁ……ッ」


「……っ」


 息を弾ませるシンゴ。そのすぐ傍で、きゅっと唇を引き結んだイチゴが目尻にうっすらと涙を滲ませた。

 その涙を見て、シンゴは胸が引き裂かれるような痛みを感じて顔を顰める。


 そんな悲しげな顔を、そんな無為な涙を流させるつもりはなかった。しかし、この誰も望まぬ結果を招いたのは、他ならぬシンゴ自身だ。その事実が、深い自責の念をシンゴの心に刻み付ける。


 ――なのに、その自責の想いさえ、激しい怒りに変わる。


「ちがう……これは、俺じゃねえ……っ!」


 頭を抱え、シンゴは首を横に振り、偽りの自分を否定する。

 そんなシンゴの前に、不意に誰かが立った。

 顔を上げる。そこには、人形めいた無表情でシンゴを見上げるリノアがいた。ただしその瞳には、シンゴに対して明確な敵意を宿しており――、


「イチゴ、泣かした。我、お前、許さない」


「……許さねえ、だと?」


 リノアのその言葉を聞いた瞬間、シンゴの意識は完全に赤く塗り潰された。

 低く、暗く、悍ましい声音で問い返す。こんな声を自分が出せた事に驚くが、その驚愕も一瞬で灼熱の激情に呑み込まれて消え失せる。


 ――ドグン、と。


 荒れ狂う憤怒の炎、その奥で何かが脈打った。それに手を伸ばすか否か、シンゴが決断を下す前に、それはシンゴの心音と勝手に同調――全身に力が巡る。

 何でも出来る、そんな全能感が真っ赤な意識を支配した。その心地よい感覚と狂いそうなほど熱い激情に身と心を焼かれながら、シンゴは――、


「――お前、俺をいじめる気か?」


 躊躇なく、リノアの顔面を目がけ、『激情』で強化された拳を振り抜いた。

 常人なら反応すら不可能な速度だ。そしてその威力は生物の肉体など容易く粉砕する。ましてや、狙った箇所が箇所だ。たとえ相手が『真祖』といえど、頭部を破壊されて無事で済むはずがなかった。


 ――拳が、届きさえすればだが。


「な――」


 シンゴの瞳が驚愕に見開かれる。突き出した拳は、片手で受け止められていた。

 そしてそれを成したリノアは、その無機質な目でじっとシンゴの事を見据えており――、


「――あ?」


 一瞬の意識の停滞、そのすぐ直後に世界が回転した。


「く――ぁっ!?」


 背中に衝撃を受け、肺から空気が無理やり絞り出される。

 投げられたのだと気付くのに、そう時間は掛からなかった。問題は、それをリノアは片手でやってのけたという事実だ。

 体格差を物ともしない吸血鬼の異常な腕力、それをまざまざと見せ付けられる形となった。当然、その実力差も。


 しかし、追撃はこなかった。そしてその好機を見逃すほど――否、退くという選択肢すら見えないほど、今のシンゴは頭に血が上っていた。

 腕を極められ、床に転がされながら、シンゴは自分を見下ろすリノアの紅い双眸を左目の紫紺の瞳で鋭く射抜いた。


「――!」


 紫紺の瞳による威圧、それによりリノアの身体がビクンと震え、硬直する。

 その硬直により緩んだ拘束を振り払い、シンゴは背中を支点に身体を捻じると片膝を着いて起き上がる。そしてそのまま拳を引き絞ると、動けないリノアの顎先に真下から拳を振り上げた。


「――よもや、私の存在をお忘れで?」


「――ッ!?」


 腕が伸びる半ばで、シンゴの拳が止まる。そっと添えるように、ガルベルトの手がシンゴの拳を上から押さえつけていた。

 いくら力を込めようとも、ガルベルトの手はびくともしない。そしてそれは、先ほどのリノアと同様に、片手のみで行われている。


 しかし、次に起こった事は先ほどの流れをなぞらなかった。

 攻撃を止められたシンゴが再び床に転がったのは先と同じだ。違っているのは、それが転がされたのではなく、シンゴが自分から転がったという点だ。


「ぃぎ、ぁぁあああああああああああッ!?」


 絶叫を上げ、床の上でのた打ち回るシンゴの右腕は、肘から先が存在していない。肘から先は、おびただしい量の血を床にこぼしながら、ガルベルトの手に握られていた。


 ――腕を、腕力に物を言わせて捩じ切られたのだ。


「おに――」

「シンゴ――っ!!」


 シンゴの突然の暴挙、それに目を丸くして硬直していたイチゴだったが、目の前で起こった惨状を前に、思わず兄の名を呼んで駆け出そうとした。

 しかしそれよりも早く、名前を叫んでシンゴに駆け寄る人物がいた。

 この城に来てから、ずっとシンゴの事を無視していたはずのアリスだった。


「あ、ぃぎ……いぃ……ッ」


「シンゴ! ああ……シンゴ!」


「お兄ちゃん……!」


 右腕を押さえ、大量の脂汗が浮かぶ顔を盛大に歪めるシンゴ。そのシンゴの傍に膝を着き、アリスとイチゴが心配そうな声を掛けてくる。

 そんな三人の前で、ガルベルトはシンゴからもぎ取った右腕、その手首から先を覆う黒い手袋を剥ぎ取る。そして顕になった手の甲、そこに刻まれた痣に目を細めた。


「なるほど。もしや、とは思っておりましたが、まさか本当に『罪人』でしたとは」


「う゛っ……づぅ……ッ」


 シンゴが『罪人』であると看破したガルベルトが、冷酷な眼差しを苦しむシンゴに向けながら、剥ぎ取った黒い手袋を放ってきた。

 痛みを噛み殺すように唇を噛み、口の端から流血させて蹲るシンゴの目の前、そこに黒い手袋が落ちる。

 が、それには目もくれず、シンゴは紫紺と真紅の瞳でガルベルトを睨み返した。


「――なに?」


「……っ?」


 突如、ガルベルトが目を見開いた。

 ガルベルトが見ているのは、シンゴから奪った右腕だ。その右腕は、煙を上げて徐々に灰となり始めている。同時に、シンゴの引き千切れた右腕、そこから先が湿った音を立てて再生を開始した。


 その再生を瞠目した眼差しで見つめ、ガルベルトは信じられないものを見た、とでも言いたげな顔でぽつりと呟く。


「……ありえない」


「そんな、驚くような事……かよ? 吸血鬼なら、これくらい……日常茶飯事、だろ」


 痛みが和らぐにつれ、ようやくまともに口が利けるようになってきたシンゴは、苦痛に顔を顰めながらも挑発的に笑った。

 しかし、ガルベルトはそれに首を振ると、


「シンゴ殿。貴殿は理解できていない。その再生速度の異常性に」


「異常……? 俺の、再生が?」


 手の中にあった腕が完全に灰となり、入れ替わるように元通りとなったシンゴの右腕、その様子を眺めながら「ええ」とガルベルトは首肯した。


「はっきり申し上げますと、シンゴ殿の再生速度は、『真祖』であるリノア様を凌いでおります」


「リノアを……?」


 ガルベルトの告げた事実に、シンゴは見張った目をリノアへと向けた。

 その視線を受け、リノアはこくりと頷くと、


「我、もう少しかかる」


 この世界に来てから、吸血鬼の再生を目にした機会などほとんどない。だから、シンゴはこれが吸血鬼の再生速度として普通だと認識していたのだ。

 そして異常と称されたシンゴの再生能力だが、この場合、目を向けるべきはシンゴではない。


「『従者』のスペックは、血の親に依存します」


「――!」


 シンゴの危惧した事が、ガルベルトの口から語られた。

 顔を上げれば、ガルベルトはジッとアリスの事を見つめていた。


「――っ」


 その無言の視線にアリスは息を詰め、僅かに身を引く。が、その引いた分を詰めるように、ガルベルトがアリスに向けて歩みを進めた。

 びくりと肩を震わせ、アリスが不安げにちらりをシンゴに視線を送るが、すぐにぐっと何かを堪えるようにその視線を逸らした。


 おそらく、衝動的にシンゴに助けを求めようとして、自分がずっとそのシンゴを無視していた事を思い出し、虫のいい話だとでも思ったのだろう。

 だが、それは考え過ぎだ。今は落ちつき、感情の制御も取り戻して正常な思考が出来る。そんなシンゴが感じたのは、嬉しさだった。


 あれだけシンゴを徹底的に無視していたのに、いざシンゴが怪我をすれば、アリスは真っ先に心配してくれた。それがたまらなく嬉しくて、同時に心底安心した。

 全身に巡っていた『激情』の力が、どこか透明感を帯びていくのを感じる。それを胸に、シンゴは立ち上がってアリスを庇う立ち位置に。


「――!」


「安心しろ、アリス。絶対に、指一本触れさせ」

「――邪魔だ、若造」


「――!?」


 息を呑むアリスに、シンゴが声を掛けようとした瞬間、底冷えするような声が真横から聞こえた。

 悪意を読み取れる今の状態で、その機微は事前に察知できていた。だが、身体が追いつかない。

 慌てて剥き出しの右腕を横に払うが、ガルベルトは首を傾けるだけでそれを回避。カウンターで、同じような裏拳が放たれ――、


「がっ……!?」


「シンゴ!?」

「お兄ちゃん!?」


 こめかみを打たれ、シンゴの身体が地面に叩き付けられる。

 それにアリスとイチゴが声を上げ、同時に駆け寄ろうとするが、駆け寄れたのはイチゴだけだった。


「は、放して……!」


 アリスは顔を不快げに顰め、自分の腕を捕まえるガルベルトを睨み付ける。

 そして勢いよく腕を引くと、驚く事に呆気なく解放された。

 まさか放されるとは予想しておらず、アリスがよろける。そして彼女は疑問げな眼差しをガルベルトに送り、ハッと自分の右手を見た。


「なるほど。アリス嬢も……いや、その痣は」


 アリスはシンゴと同様に、その右手の痣を隠す為に黒い手袋を着けている。

 しかし現在、その右手の白い肌は顕となり、そこに刻まれた右三つ巴のような痣が晒されていた。


 それをまじまじと見つめ、ふと含めるように目を細めるガルベルト。しかし、すぐに瞑目すると、アリスに近寄って手袋を差し出した。

 目の前に差し出された手袋、それを受け取るかどうか逡巡するアリスだったが、警戒しながらも最後には大人しく受け取った。


「俺の、時と……随分、対応が違うな?」


「――淑女に対して無礼を働くほど、私は礼節を欠いてはおりませぬ故」


「どの口が……ッ」


 のうのうとのたまうガルベルトに、イチゴに支えられて起き上がったシンゴは牙を剥く。それをガルベルトは涼しげな顔で受け流すと、改めて振り返った。


「『罪人』であるならば、益々以てシンゴ殿を城の外へ出す訳には参りませぬ。どうかこの城で、その生涯を終えていただきたい」


「はい、了解しました……なんて、大人しく頷くとでも?」


 劣勢は承知で、シンゴは抗う選択をする。

 今の自分は、冷静ではないのかもしれない。しかし現状、ガルベルトの提案を呑むのはもっと違う。それだけは、理解できていた。


 故にシンゴは、抗う為の力を求め、自分の中に呼びかける。

 図々しく居座るあの亡霊に、力を貸せと、そう念を飛ばす。


 ――しかし、その呼び掛けが実を結ぶ前に、事態は予期せぬ動きを見せた。


「――分かった。ボクは、ガルベルトさんの申し出を受けるよ」


「な――!?」


 信じられない事を告げるアリスに、シンゴは驚愕に見開いた目を向けた。

 しかしアリスは、ちらりとシンゴを一瞥するだけですぐに視線を外し、それ以上は何も語ろうとしない。


「ここにきて、なんで……!」


 アリスの裏切り、それを受け、シンゴは嘆くように呻いた。

 この場を切り抜けるには、アリスの力が欠かせない。それが得られないとなると、シンゴの詰みは確実なものとなる。慌てるなと言う方が、無理な話だった。


「感謝いたします、アリス嬢。こちらも、アリス嬢には不自由なく過ごしていただけるよう、全力を尽くす所存でございます」


「勝手に進めてんじゃ――」

「ありがとうございます」


「あ、アリスぅ……っ!」


 アリスに向け恭しい礼をするガルベルト、シンゴはそこへ反論を挟み込もうとするが、それはアリスの感謝を告げる言葉に遮られた。

 それを受け、シンゴは訴えるようにアリスの名を呼ぶ。返答は――なかった。


 ――限界、だった。


「ふざ、けんな……!」


「お兄ちゃん……」


 心配げな声を漏らすイチゴの手をそっと離し、シンゴはよろめきながら立ち上がった。その肩は震え、目元には情けなく涙が滲む。

 それでもシンゴは、その涙を拭う事はせず、睨みつけた。ガルベルトではなく、こちらを見てすらいないアリスを。


「なんなんだよ……俺が何をした!? なんで無視すんだ!? どうして怒ってんだよ! 意味分かんねえんだよ、お前っ!」


「……意味が、分からないだって?」


 追い詰められ、感情を爆発させたシンゴの言葉、それにアリスが反応した。

 じろりと、分からず屋を見るような目で見てくるアリスに、シンゴは元の色に戻った目を血走らせて吠える。


「そうだよ! 意味分かんねえよ! 俺の何が気に食わねえってんだ!?」


「キミは……自分が何をしたのか理解できていないのかい!?」


「ああ、さっぱり理解できねえし、見当も付いてねえよ! それがどうした!?」


「――ッ!」


 もはや理論すら捨て、ただ相手を煽るようなシンゴの言葉。それを受け、アリスの目尻が吊り上がる。

 可愛らしい顔が、初めて見る怒りの形相に歪んでいく。その華奢な身体が堪えきれない感情に震える様は、少なくない動揺をシンゴの心にもたらした。


 吐き出し、動揺が生まれた事で、シンゴは幾分かの冷静さを取り戻していた。しかしアリスは、そんなシンゴとは真逆だ。

 その淡い色合いの唇が震え、次にはどんな罵倒が浴びせられるのか。それを思うだけで、恐怖で血の気が引きそうになった。


 ――しかし、アリスの口から罵倒の言葉を聞く機会は訪れなかった。


「――オイ、なんだ、この状況は?」


「あたしが聞きたいわよ。……で、ほんとにどういう状況よ、これ?」


「――!」


 不意に開かれた扉、そこから部屋に入ってきたのは、集落にいるはずの二人――カルド・フレイズとイレナ・バレンシールだった。


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